窓の外からは、雨で少し湿った春のにおいがした。
肌寒い足先を紺色の靴下越しに擦り合わせて、扉の向こう、昼休みの喧噪に片耳を傾ける。机の上に包みを広げると、赤色の二段弁当箱が顔を出した。ドーナツ屋さんでポイント交換して手に入れた奴やけど、結構丈夫で何やかんや小学生からの付き合いである。
前方からにゅっと腕が伸びてきて、持ち主の許可なく蓋が外される。日増しに遠慮という言葉の意味が薙ぎ払われているのは理解しとったけど、残念なことに未だ対処方法が思い浮かばへん。
「ええなあ弁当」
「昨日の残りモン詰めただけやで」
「卵焼きちょーだい!」
「あっこら」
わたしの昼食の出来栄えは、お世辞を真に受ける程のものでもない。おかずの大半を占める野菜炒めは供述のとおり晩ご飯の余りやし、卵焼きもウインナーも少し焦げていた。
素手で攫われてた卵焼きは、既に同級生の口の中やった。こないな時だけ瞬発力の良さを見せ付けんでええ。
「許可出す前に食べなや」
「卵焼きて、やっぱ家で味ちゃうよなあ」
ほんま、都合の悪いことは鮮やかに聞き流す男である。
ほっぺたぷくぷくさせて感慨深げに言う白膠木簓を、強く責められへんのがまた悔しい。あの卵焼き、殻入ってへんかったよなとか、しょーもない心配だけが降り積もる。
お昼ご飯は少し埃っぽい美術室で食べるのが恒例やった。窓を全開にすれば外の空気は確かに入ってくるけど、テレピン油のにおいは簡単には逃げへんので、わざわざこんな部屋で昼食を取ろうと思うけったいな部員はおらんらしい。
結果的にわたしとぬるちゃんは、在学中の大半の昼休みを美術室で過ごした。
「ぬるちゃんそれで足りるん」
湯がいたブロッコリーを頬張りながら尋ねると、彼は少し眉毛を上げた。手元の焼きそばパンは、もう半分も残ってへん。
「うーん、足りひんな。購買の売れ残り見てこよかな」
「ついでにコーヒー買うてきてや」
「簓さんをパシる気か」
「卵焼き食べたやろ」
「えらいもん食べてもたわ……」
焦げた卵焼きやのに一言も文句も言わんとこは、褒めたってもええけど。
財布から小銭を取り出して、「きびきび働きや大佐殿」「クソォ、いつか指ぱっちんで燃やしたるからなっ!」「今日は雨やから無能やな」「手の甲に描いたらええんやろ!」「はいはい頑張れ」彼の薄い手のひらに乗せてやる。そういや貸してた漫画、まだ返ってきてへんな。言うてもいっつも忘れよる。
黙々とお弁当を平らげて、ペットボトルの麦茶で喉を潤した。学校指定の青色のスリッパを脱いで椅子に体育座りして、ウォークマン片手に折り畳み式のケータイを弄る。この姿勢、妙に落ち着くんよな。
「ただいマンモス!」
謎の掛け声と共に美術室の扉がスパンと開いた。彼のダジャレにはいちいちツッコミせえへんことにしている。永遠に調子に乗りよるので。
「あー! また体育座りしとる! スカート皺になるで?」
「後ろ気ぃ遣って座ったからいける」
「そーゆーもんなん?」
「知らんけど」
「知らんのかい!」
ちょけた返答をしてやると、ぬるちゃんは嬉しそうに応酬を重ねてくる。ぺたぺたとスリッパを鳴らして、彼は椅子へ横向きに着席した。
少し汗のかいた紙パックを机の上に置いてわざわざストローを刺してから「どーぞー」彼は笑う。気ぃ遣ってくれるんを無碍にするつもりは別にないけど、疲れへんのかな。
「ありがとお」
「自分、ほんま味覚大人やなあ」
「ぬるちゃんの子ども舌はいつ治るんやろね」
「せめてカフェオレにしてえや、俺飲めへんやん」
「人の飲みもん勝手に飲むんもやめえや、あんたいくつや」
「ピチピチの十六歳!」
「おつむは六歳やな」
「辛辣過ぎんか……」
分かりやすくしょげてみせるぬるちゃんは可愛いので、ついついからかってしまうのがわたしの悪い癖やった。
今日出た数学の宿題を音楽を聴きながら蹴散らしていくわたしの正面で、ぬるちゃんは左手でくるくると器用にシャーペンを回しては、時折すごい勢いでノートを埋めていく。暫くするとまたペン回しに勤しみ、降りてきたネタがあれば一つも書き漏らさんよう、ひたすら書き続けとった。
左利きやから横書きのノート書いとると手え真っ黒なるんよな、とぼやきながらも、書くのを止めるつもりは更更なさそうである。
お昼ご飯を食べた後、二人して机に伏せて惰眠を貪る日もあれば、今日みたいに比較的体力が有り余っている場合は、各々が目の前のことに集中していた。ご飯食べてる時の方が喧しいくらいかもしれん。
設問をいくつか解き終わって、ふいに腕時計に視線を落とす。問題集を閉じたわたしの手の動きを見て、ぬるちゃんが顔を上げた。
「ん、もう終わらなあかん?」
「五限は化学室行かなあかんやろ」
「せやった! 化学室遠いからめんどくさいよなあ」
さり気なくわたしの荷物も手に取って、彼は美術室の古びた扉を開ける。
「行こ!」
ぬるちゃんの笑みは、いつでも眩しい。
塞がったと思い込んでいた傷口が、何年経っても生乾きのままじゅくじゅくしとったことに気付かされ、気分は滅入る一方やった。
加えてまた学生の頃の夢を見る始末である。ここのところ毎日で、どんだけ過去に帰りたいねんと自分を嘲笑っても、解決の糸口は全く見当たらへん。
寝起きがてら呻いて背筋を伸ばし、少しでも爽快な朝を演じようとしたものの、部屋の空気が寒くて一度布団に舞い戻った。
グラウンドから運動部の声が響いてくる。硬球が跳ね返されるキンとした高い音、外周の走り込みをしているバスケ部、賑やかなんは多分サッカー部と見学の生徒達やろか。
夕焼け色の差し込んだ図書室は、普段やったら本の虫やら予備校の勉強しとる生徒がちらほらおるけど、今日はわたしとぬるちゃんの貸し切りやった。
冷房がきちんと効いてるから、薄手のカーディガンを羽織っとって正解やった。図書室は涼しすぎるくらいやけど、一歩外に出てしもたらぶわっと汗が噴き出すほどの暑さが待っているので、文句は言うまい。
物理の問題集を憂鬱な気分で捲る。隣の席で頬杖をついていたぬるちゃんが、ころんとシャーペンを転がして机に上半身を伏せた。
「何で俺らん高校て、文理選択が三年からなんやろなあ? 文系理系関係なく地理日本史世界史物理化学生物ぜーんぶやれて、鬼の所業ちゃうん?」
「否定はせんわ」
「せめてテストだけでも難易度分けてほしいよなあ」
うちの学校の先生は容赦ないので、学力テストでもないのに某有名大の過去問を定期考査にぶち込んでくるのである。模試のが難易度下がって感じるぐらいで、軒並み理系科目の学年平均点は四十点を切っとった。赤点の存在意義とは。
ぬるちゃんは干涸らびた海藻みたいに机にへばり付いて嫌々と駄々を捏ねとる。正直わたしも真似したい。
「……文系でも数Ⅲやらされるらしいしな。美術部の先輩は、センターちょこっと楽になるからまあええんちゃうとか言うてはったけど」
「いやちょこっとやろ? えっぐいわあ……そういや自分、物理苦手や言うとったのに頑張って解いとって偉いなあ!」
「どうも。無駄口叩いとらんで、はよその世界史のプリントなんとかしいや」
「カタカナの人の名前とか覚えられへんもん!」
「否定はせんけど……」
そうそう、期末考査が迫っとったんやった。明日から部活もなくなって、本格的なテスト勉強期間である。
はよテスト終わらへんかな、もうかりまっか本舗のお笑いライブ十時間耐久レースしたいんに、とぬるちゃんが嘆いた。まだテスト始まってもないのに。
「レンタル?」
「そお。張り切って三本借りた!」
「明日からテスト期間やのに?」
「やってな、店行く度にずーっとレンタル中でな? こないだやっと並んでんの見付けてん! 一本目は去年のライブ映像でな、」
さっきまでの静かな空気を蹴破るように、彼の口は止まらへん。慌てて手をひらひら振って遮った。
「あーはいはい、テスト終わったら聞いたるから」
「もお! でも自分、終わったらいっつもちゃんと聞いてくれるもんな。それに免じて勉強しといたるわ」
「何で上から目線なん」
ほれシャーペン握り、と机で大人しくしとった文房具を救助して、彼の手のひらに押し付ける。学生の本分は勉強や。ぐだぐだ言う前に課題を終わらせやな。
こちらが真面目に机に向かっていると、ぬるちゃんも普段のふざけた態度は改めて、きちんと課題をこなし始める。根っこは真面目やのに、おもろいことを最優先にしよるから時々とんでもない行動に出ることもあるけど、今日は大丈夫そうや。
時計の秒針が奏でる音すら気付かんくらいに集中しとった頃、隣の手が止まった。
「……俺ん家な、片親やねん」
「へえ、うちもや」
「え!」
お口チャックして勉強しいやと促すはずが、彼の突然の吐露に混乱して、思ったことをそのまま言うてしもうた。
机に向かい始めて二時間経って疲れとったし、小休憩ということにしとく。休憩時間に出すような気軽な話題やないけど。
わたしの返答に驚いたんか、彼は石像みたいになっとった。ぬるちゃん目え開くんや、と言ってしまい、どちゃくそ加減された肩パンを食らう。
普段じっくり見ることのない瞳は、綺麗なお月さんみたいな色やった。
「ごめんて、びっくりしてん」
「……俺、目付き悪いやろ」
どこか吐き捨てるような声音に、彼がずっと傷付いてきたことを感じ取ってしもうた。
言われてようよう見てみたら、確かに切れ長ではある。普段の愛想の良さからその目許の鋭さはかなり緩和されとって、言われるまで気付かんかったくらいや。
それが彼の努力の証拠やと言われたら、素直に認めるほかあるまい。
「いや、わたしも他人のこと言われへんで。寝起きとか親に『何人か殺してきたような目ぇしとる』て言われた」
「やっば」
「否定できひんのむかつく」
ぷくく、と彼が屈託なく笑ったのでほっと胸を撫で下ろす。身体のことでやいやい言われるんは、誰でも嫌なもんや。
「……ぬるちゃんはいつもにこにこしとって偉いやん。誰に言われたか知らんけど、そんなん気にせんでええやろ」
本心をそのまま告げると、彼は頬を掻きながら視線を逸らした。俯いた彼の口から、聞き漏らしそうな音量のお礼の言葉が紡がれる。
褒められるん、慣れてないんかな。眉毛は見事な八の字になっとる。眉尻を指先で押し上げてやると擽ったかったんか、身を捩って喜んどった。知らんけど。
見た目は猫ちゃんっぽいけど、行動は犬っぽいよな。
「……自分も、もーちょい表情筋やらかしくてもええと思うで」
「せやなあ。マッサージとか有効なんかな」
「あれやろ、口角ちょい上げとけばええんやって本で読んだ!」
「本読むんや」
「俺を何やと思てんねん、読むわ!」
まあそうか。彼は頭も回るし、割と色んなことを知っとる方や。
すっかり集中力は切れてもうて、お互い勉強に戻る気配は全くない。こんだけ踏み込んだ話題は初めてやけど、ぬるちゃんならまあええか。
「ぬるちゃんて一人っ子っぽいよな」
「何でバレたん?」
「平和主義者やん」
「え、どーゆー意味?」
「兄弟姉妹の争いはな、血で血を洗うもんなんや」
「こっわ」
「そんな経験なさそうに見えた」
「うん、ない」
素直なお返事はやっぱり一人っ子ならではというか、ぬるちゃんは不要な波風は一切立てたないタイプなんやなと思った。
「……妹は母親の方についてって、わたしは父側やねんけど」
「俺も、おとん側や」
「そうなん」
「なーんか親近感あるなあてずっと思っててんけど、そっかあ」
ランドセルを背負っていた頃は、周囲の生徒に家庭の事情を根掘り葉掘り聞かれたもんやけど、高校生にもなると一定の距離感を皆が覚えるので、吐露する機会は格段に減る。
仲良い女子の友達にも軽く言うとったけど、ぬるちゃんの前やと全然抵抗感がない。彼の人柄言うんか、人の懐に入る技術が優れてるんかもしれへん。
「ぬるちゃんは、いつも周りのことよお見とるな」
「そお?」
すっとぼける彼の表情は読みにくい。動揺隠したいんやろなあ。取り繕うのがお上手で。
でも、毎日そんなんやったら絶対に疲れてまう。
踏み込みすぎやろか。躊躇う気持ちは確かにあったけど、わたしはわたしの自己満足で言葉を組み合わせて、押し付けてもうた。
「ひとの顔色窺ってばっかやとしんどいやろ。たまには気ぃ抜きや」
眉間をぐっと指先で押してやる。ここに皺寄せとると取れへんくなるで、と申し添えて。
ぽかんと口を開けて、ぬるちゃんは固まった。
「……何でなん」
「ん?」
「何でそんな、気ぃ付いてくれるん」
僅か、その声は震えとった。いつもと違って視線は噛み合わへんくて、ぬるちゃんは手元のシャーペンを弄びながら、わたしの声を待っとる。
「自分が思てるより分かりやすい思うで、ぬるちゃん」
本心を偽ることなく告げると、彼の肩が揺れた。
「……そんなん、初めて言われたわ」
「そお?」
ぬるちゃんが教室におる時、その周囲は人集りができとって、友達多いんやろなあと勝手に思っとった。昼休みは絶対一緒にご飯食べとるけど、別にわたしだけが友達とも思うてへんかったし。
でも、もしかして、という可能性が脳を過ぎる。愛想はええけど、人との間に無意識に壁を作って、一定の距離で教室の人気者を演じとるとしたら。
「ずっこい、そんなん」
「何がや」
わたしの思考を他所に、俯いたままの彼の手がこちらのカーディガンの袖を握り込んできた。わたしよりも大きい手で、縋るように。
「好き」
顔も上げずに、彼は膝を揃えてそう言うた。
張り詰めた空気に針を刺したような、そんな感覚やった。
「はあ」
「いや、流すんやめてくれる?」
顔は上げへんのではなく上げられへんらしい彼の耳は林檎の色で、口許がずっともにゅもにゅしているのが見える。
こんなん、初めてや。
「……ぬるちゃん、何か騙されて売り飛ばされそうで怖いな」
「何やと!」
素直な感想を述べると、やっと視線がかち合った。いつもは白い頬も薔薇色で、緊張が伝わってくる。一生懸命平静を保とうとしとるのが分かって、こっちの心臓まで喧しくなり始めた。
なるべくいつもの感じで返さなと思って、いつもてどんなんよ、と自問自答する羽目になる。わたしもちゃんと混乱しとるらしかった。
「弱味に付け込まれたらあっさり陥落するやん」
「そんなことあらへんもん! てか返事!」
「強気やなあ」
「え、待ってこれ俺振られる?」
嘘やん、俺めちゃくちゃ勇気出して言うたんやで。あっいや、気付いたら言うてたっちゅーんが正しいけどやな、も、恥ずかしいから一思いに殺してくれへん? もお、何笑てんねん! 見せもんちゃうぞ!
きゃんきゃん吠えるぬるちゃんの、カーディガンを握り込んで離さん手に、自分のそれを重ねる。冷房に当てられてか表面はひんやりしとるんに、その奥は煮えたぎるような熱を感じた。
急に子犬みたくなるんやめえや、と告げたわたしの声音は、知らず明るかった。
「ほなよろしく」
「えっ」
「なに?」
「うん……」
急に弛緩した彼がこちらに雪崩れ込んできて、二人して椅子から引っ繰り返りそうになる。ぎゃっと呻いて「危ないやんか」と慌てるわたしの首に、彼の骨っぽい腕が回った。
格好つかんわ、とぬるちゃんがへにょへにょの笑顔で言うので、釣られてわたしも笑い声を上げた。
現実との落差があまりにも開いとるので、わたしは布団を被ったまま頭を抱えた。二度寝すると睡眠浅いから夢見てまうのなんか、当然やのに。
お天気キャスターのお姉さんがぬるちゃんの元カノやと知って、単純に打ちのめされとって、挙句見た夢は楽しかった学生の頃の、しかも何もかも無敵やった頃のそれである。改めて言葉にすると傷口から血が噴き出しとるのが分かってもうて、笑うしかない。
明日からどんな顔して彼を送迎すりゃええんやろ、と途方に暮れるも、時間は不可逆や。ただ漫然と過ごすだけの毎日なら、学生の頃も今も大して変わらへん。傍にいる人だけが変わって、戻った。わたし自身には何の変化もない。時が流れるのに身を任せとるだけで。
無鉄砲やったあの頃に戻ったとして、それでどないなる言うねん。
吐き出した二酸化炭素には、必要以上の重量が加算されとった。
白膠木簓の専属運転手の権利を手放すには物理的に職場を離れるしかないが、転職活動する勇気と気力と体力は使い果たした。それに運転手という仕事そのものは楽しいし、簡単に嫌いにはなれへんのも本音である。
ほんで、本日は数少ない休日────家の中でだらだらしたいのは山々やけど、気分転換して己の弱った精神を武装する以外に、生き残る道が残されてへんかった。
本来であれば好きなバンドのライブに行くのが一番の気分転換になるが、前売りチケットは当然売り切れ、当日券は夢のまた夢である。スマホで検索して適当なライブハウスに飛び込むことも考えたが、近場のライブハウスは軒並み大学の忘年会ライブなどで貸し切られてしもてたので、部外者が覗くのは実質不可能やった。
『騒がしいとこあんま得意やないねん』
学生の頃、ぬるちゃんをライブハウスに連れて行ったものの、そういった旨の感想を言われたことを思い出す。その割にお笑いの劇場にはぬるちゃんの方から誘ってくるもんやから、彼の中の「騒がしい」の定義の揺らぎに笑ってもうた。それも、何年前の話か。
多分、その記憶は放課後の美術室で。美術部員のくせに絵を描くより宿題ばっかしとったわたしの横で、ぬるちゃんがわたしのウォークマンに興味を示したのが、最初。
『音楽好きなん?』
『うん。通学の時ずっと聴いとる』
聴く? と画面を見せると、学ラン姿のぬるちゃんが興味津々な顔で頷いた。ぽちぽちと小さなボタンを指先で押して、アルバム表示やら曲名表示やらを眺めている。めっちゃ曲いっぱい入っとるなあ、と感心したように彼が呟くので、軽音部の友達に比べたら全然やけど、と返した。
『俺、あんま音楽聴かへんから新鮮や』
『そうなん。まあ色々聴いてみたらええんちゃう』
『うん』
わたしのウォークマンに入っているのは邦楽ロックが多くて、とりあえず流行りのバンドは一通り聴かせたが、彼の琴線にはあまり触れへんかったらしい。
『どっちか言うたら、ヒップホップのが好きかも……?』
首を傾げよるぬるちゃんに、自分の好きな音楽が見付かっただけでもええやんと言うと、彼は珍しく驚いた顔で動作を停止した。
『……どないしたん?』
『え、わ、いや、……自分、めっちゃ素直に受け入れてくれるよな』
彼は語尾をむにゃむにゃさせて、俯いた。髪から覗いた耳が赤く染まっとったので、何か分からんけど照れとるのか、恥ずかしいのか。あんま触れたらん方がええかと思って、適当に流すことにした。
多分、その次の日くらいやったか。二人揃って学校を出て、コンビニで買った棒アイスを食べながら、どっか寄り道でもしよかあ、なんてしょーもない会話をしていた時に、ぬるちゃんがふと道半ばで立ち止まった。
『お笑い、好き?』
突然の問い掛けに、オオサカにおってお笑いが嫌いと断言する人間はかなり珍しい分類では、と思いつつ、『テレビでは見るけど』と無難な返答をする。ぬるちゃんが休み時間に教壇に立って一人でコントをやっとる風景は珍しくもなかったので、いつか聞かれるかもしれんなあとは、薄ら思っとったけど。
『な、次の休みに劇場行こや』
恥ずかしい話、わたしはオオサカに住んでいながら、劇場に行ったことがなかった。あれは毎週土日、家でお昼ご飯を食べながらテレビ放映されとるのを見るのが習慣やったので。
『チケットて今から手に入るん?』
『へへ、こちらに前売りが二枚』
あまりに用意周到なので、珍しくこちらが目を丸くする番やった。
『わたしが断ってたらどないする気やったん』
『説得してた! な、行こ!』
ぬるちゃんの長い指が、わたしの指に絡む。それがあまりに自然な動作で、振り解くことを忘れさせられてしもうた。
……これ、まだ付き合うてへん頃の記憶のはずやけど。
週末の予定は決まったけど、今日の寄り道はどないしよか、と彼は唸った。
『ほな、画材屋行きたい。アクリルガッシュ要るねん』
『え、自分ちゃんと絵描くん?』
『失礼やな。体育祭の応援団旗、古なってきとるから今年新しく描かなあかんねん』
『はっひぇー……あれ美術部員さんが描いとったんや』
『歴代のな』
────タイムスリップも程々にせえや、と自戒せなあかんので、かなり重症である。
思い出は勝手に美しくなりよる。きっとほんまにあの頃の自分に戻れば、嫌なことも腹立つこともしんどいこともいっぱいあったやろに、脳味噌は随分と都合がええもんや。
そうでもせんと止血もできんねやろな、いまのわたしは。
しかしうじうじしててもしゃーないので、適当に朝昼兼用ご飯を食べ、散らかっていた炬燵の上を片付ける。美味しいものでも食べたら元気出るやろし、近所の喫茶店でコーヒー飲みながら読書でもしよかな、と重たい腰を上げた。
どうせ逃げられへんのやし。
コートとストールできちんと防寒対策をした上で、のんびりと徒歩で喫茶店に向かう。今日は風が少なくて日差しもちゃんと出とるから、天気予報で確認したよりも体感温度は寒くなかった。
店に着く頃には少し汗ばんでしもうて、ストールを外して入り口の受付票を見る。どうやら混んでいる日らしく、黒の文字と打ち消し線が踊っている。
別に急いでもないしな、と思いながら白の紙へ素直に名前を書こうとすると、一番最後に「ツツジモリ」の文字があった。
おや、と待機用に設置されている赤のベルベッドの椅子を見やると、すらりとした背筋の男の人が座っとって、丸眼鏡の向こうの瞳と視線がかち合った。
そらそうか。こない珍しい名字の人が溢れとるわけもないわな。
「……こんにちは」
「奇遇やな」
薄く笑みを浮かべた躑躅森さんは手にしていた文庫本を閉じ、わたしの目を真っ直ぐ見てくる。生徒に向き合う先生と全く同じ図である。
彼はわたしの隣や後ろをちらと見やってから「今日休みなん? ひとり?」と小首を傾げた。ひとつ頷く。
「いつもより混んどるみたいやねん」
ガラス戸の向こう側を覗くと、カウンターには見慣れたおじちゃん達、テーブル席にはマダムの群れが広がっている。これはかなり時間かかりそうやな。
そう思った矢先、店員さんがドアベルを鳴らして外に出てきた。申し訳なさそうな空気が滲み出とって、これは別の喫茶店に行く方がええかな、と覚悟した時やった。
「お客さま、相席でも良ければお席ご案内できますが……」
想定外の台詞に二人して顔を見合わせ、わたしが判断するよりも早く、まあええかと彼が適当に頷いた。
ほんまに物怖じせん人や。初対面でこそないけど、友人にカウントするには早いやろに。人見知りとかせえへんのかな。
営業用のぬるちゃんは物怖じせんどころかグイグイ攻めてくけど、素のぬるちゃんは身内認定するまでは大人しいのにな、と思う。
こんな時まで勝手に脳内に侵入してくるぬるちゃんを叩き出すのに苦労する。
四人掛けのテーブル席に案内され、二人してコートをハンガーに掛けて、おしぼりで手を拭いてからお冷やを飲む。偶然にも動作が完璧にシンクロしとったが、ぬるちゃんと違って彼はそれを茶化すような性格ではなさそうやった。
「この店、プリンが美味しいんよな」
メニューを開いた躑躅森さんは、しみじみと呟いた。
「喫茶店の堅めのプリンて、カラメルソースしっかり苦くて美味しいよな」
「めっちゃ分かる。なんや、自分もプリンは堅め派か」
「コンビニのんてやわこい奴ばっかやから、喫茶店入った時は堅めの奴食べとるよ」
昔ながらのプリンええよなあ、と彼は嬉しそうに口の端を吊り上げた。
「……けどあいつ、コンビ組んでた時な、家に遊びに来る時に手土産持ってくるのはええねんけど、柔らかいプリンばっか買うてくるんや」
「構ってちゃんやなほんま」
「まあ、会話作りなんやと思うけどな。何やかんや憎めへんのが簓らしいと言うか」
躑躅森さんは悪態を吐きながらも、柔らかい笑みでメニューの文字をなぞっている。
飲みもんは、と尋ねると、コーヒー、熱いのにしよかな、とのことやったので、わたしは手を上げて店員のお姉さんを呼んだ。
手早く注文を済ませ、まだ少し暑いなあと思いながらお冷やを一口。結構しっかり暖房効いとるけど、じっと座ってたら丁度ええ感じになるんやろう。
そう待たずに二人分のブレンドコーヒーが出てきた。躑躅森さんはミルクを少し、わたしはブラックで。熱い液体が喉を通り抜けていくと、反射で吐息が零れた。緊張がゆっくり解れていく。
さて、メインディッシュが出てくるまで何の話題で繋ぐか。こちらかが足踏みしている間に彼は少し首を傾げて、何度か瞬きをした。
正面から見るとよお分かるけど、睫毛なっがいなあ。
「……なんや、こないだより元気なさそうに見えるけど、何かあったん」
世間話もそっちのけ、間違いなく鋭角の斬り込み方で、ひえっと悲鳴を上げそうになった。このひと、自分の顔の良さ全く自覚してへんタイプや。あざとさ皆無、せやけど殺傷能力は抜群の。
どついたれ本舗て、ほんま恐ろしいコンビやったんやなと思う。言わんけど。
躑躅森さんがあまりにも真剣な表情でこちらを見詰めてくるので、わたしは呆気なく白旗を揚げた。
「先生の観察眼はすごいな」
「簓ほどやないけどな」
ふ、と思わず吐息だけで笑うと、彼は「……簓絡み?」眉を顰めた。勘の良い人なのか、わたしが情報ダダ漏れなんかは判断に迷う。
ブラックコーヒーを啜って、言葉に詰まった。何から説明してええのか、そもそも何を説明してええのかも分からん。こんがらがった脳味噌を穿り返して、わたしは唸る。
「や、別に言いたないんやったら無理に言わんでええで」
気を遣わせてしもて申し訳ない。茶化して喋くり散らかすのがええとは思うものの、わたしの口はいつの間にか縫い付けられてもうたみたいやった。視線ばかりがテーブルを彷徨う。
「……俺は、簓とおると楽しいけど、おんなじだけしんどかった時期もあったわ」
彼はぽつりと零して、薄茶色の液体を啜った。
彼らが解散した理由は、あんましはっきりしてへんかったと記憶している。ぬるちゃんの困ったような笑顔と、ほぼ俯いたままの躑躅森さんと。ふたりが横並びになっとるのをテレビで見たのは、それが最後になった。
「相方さんでもそうなんや」
「……俺がな、簓の足引っ張ってもうて。あいつはほんますごいから、どんどん先に進んでまうけど、俺はそう上手くできひんかった」
「何か、意外やな。躑躅森さんのツッコミて、ほんま全身でバーンて感じやん。毎度ほぼ反射かてくらいのスピードやったし、息ぴったりやったなあて思うけど」
「そおか? ありがとう。……まあ、確かに半分くらい反射やったな。ちゃんとネタ合わせして筋書きも作とったけど、簓はアドリブの鬼やからなあ」
躑躅森さんがふっと微笑んだところで、店員さんが銀色の皿にメインの品を乗せて登場した。我々のテンションは一気に上がり、一時会話を中断してプリンに集中することにする。
早速卵色にスプーンを差し込んで、そうそうこの味、濃くて美味しいよなあと二人して破顔した。
「そういや、自分も簓と漫才しとったん?」
まさかそんなこと言われると思わず、数秒固まった。
「日常会話しとっただけやよ」
「ふうん? ……な、簓が自分と別れた時な、ほんま大変やってんで」
「大変?」
あ、そうか、ぬるちゃんと別れたんは彼らがデビューしてすぐの頃やから、知られとるんか。躑躅森さんは腕を組んで、いやほんまやで、と念押ししてくる。
「割と簓て何でもほいほいこなしよるけどな、自分と連絡取れへんくなった日ぃな、もー全部ぐちゃぐちゃで、養成所の奴らも天変地異の前触れか! みたいな顔しとったわ」
「ぐちゃぐちゃて」
「珍しくネタは飛ばすし、楽屋で急に泣き出しそうになりよるし、声掛けへんかったら真顔で永遠に棒立ちやろ、作ったカップラーメン間違えて流しに捨てよるし。もう二度とないてくらいの落ち込み方やったで」
「ええー……」
でも、ちゃんと立ち直ったんやろ、と聞き返す。躑躅森さんは少し口籠もって、それから静かにコーヒーを啜った。
ぬるちゃんは打たれ弱いだけの人間ではない。傷だらけになっても諦めへん執念の塊のような男や。学生時代のわたしでも知っとったことである。
まあ、その理屈からするといまのぬるちゃんの奇行集も全て説明が付きそうな気がするものの、わたしに拘る理由には足りん。やっぱ意味分からん。
「……いまのぬるちゃんの彼女さん知っとる?」
ぽろりと言葉が零れて、自分でも驚く。躑躅森さんは首を傾げてみせた。
「いや、俺は全然連絡取ってへんから。自分ちゃうん?」
「ちゃうよ、まさか」
「ふうん……」
プリンの最後の一欠片をすくって咀嚼したのち、躑躅森さんは静かに視線を落とした。
「……簓は何でも、全力で向き合うてくるからな」
せやな、と思う。ぬるちゃんの辞書には「効率性を重視した手抜き」は書いてあるけど、それは本番で全力を出すための調整に過ぎん。
躑躅森さんはコーヒーカップの取っ手を長い指でなぞりながら、目蓋を落とした。
「俺はあいつから逃げてもうた。自分とおんなじや」
俺らは似たもん同士なんかもしれんな。彼は苦い笑みを浮かべる。
「でもいつか、向き合わなあかん時が来るんかもしれん。そん時、胸張って顔見せれるようにしとくんが大事なんやと思う」
いっぺん逃げてもうたからこそ、な。
一拍置いて、彼が急に目を見開いて慌て始める。説教臭くなってもた、ごめん偉そうに、自分には自分の事情があるよな、と長い手を宙に彷徨わせて忙しない。
思わず吹き出すと、ようやく躑躅森さんは不思議な踊りを止めた。
「……ありがとお、躑躅森さん。わたしはわたしの今できることをやるしかないな」
退路はない。けど、いつまでも逃げとったら傷が増えるばかりで、癒えることもない。ちゃんと向き合わんと、結局進んだ振りしてその場で足踏みしとるだけや。
空っぽになった銀皿の上、薄く溜まったカラメルソースはスプーンでは掬い切れん。何もかも綺麗に平らげられる人生ばっかやない。
躑躅森さんは教師の顔で、ええ意気込みや、と歯を見せて笑った。
お会計を済ませて外に出ると雲一つない見事な冬晴れで、躑躅森さんが感嘆の声を上げる。喫茶店に入る前よりめちゃくちゃええ天気や。
想定外ではあったけど、貴重な戦友を見付けることができて、わたしの胸も少し雲が晴れたようやった。
お互い頑張ろな。ほな、またどこかで。
ひらりと手を振って、わたしと彼はそれぞれの方向に、一歩を踏み出した。