後悔の味は、いつまでも覚えている。
 そんで所詮、どない頑張ってもわたしのは虚勢なんよな、と思い知る。

「おはようさん!」

 マンションのエントランスから出てきたぬるちゃんは、いつもどおりの声のトーンに、朝から隙のない完璧な笑みを浮かべていた。少し前まで体調崩しとったんが嘘みたいや。流石プロ、根性で治したんやな。
 彼の手から黒のキャリーケースを預かってトランクに詰め込み、そういや今日と明日はトウキョウで仕事やて言うとったな、と思い出す。

「熱下がったん」
「おん、バッチリやで! お粥とかおおきにな! 年明けまでもう一頑張りするで~!」

 ピースサインを突き出してくるのを避けつつ、彼の背を押して助手席へ向かわせる。
 ────ああ、芸人の白膠木簓や。当たり前である。
 こうして思えば、今までの車内の彼は芸人の仮面を膝の上に置いて、限りなく友人として振る舞っていたことがよく分かる。今更やけど。
 今日のぬるちゃんは、顔を合わせた瞬間から仕事モードに切り替わっとった。あの夜のいざこざは幻やったみたいに、妙に緊張しとるのがわたしだけというのが悔しい。
 そう、やっぱ顔を合わせると身体が勝手に強張った。いくら躑躅森さんに勇気付けられたとは言え、結局は付け焼き刃や。まずは一歩、平常心の装備が最重要なので運転席に乗り込む前に深く酸素を吸っておく。

「……シンオオサカで良かったよな?」
「ん、頼むわ。しっかしオダイバで収録らしいんやけどな、こん寒いんに外でスタジオ組んでるんやて。どう思う?」
「可哀想」
「他人ごとやんけ!」

 怖いくらい平常運転である。こっちの記憶が間違っとるんかと訝しみそうになるくらい、いつもの白膠木簓の姿や。彼にアイマスクを手渡すとお休み三秒は健在で、年末進行の過酷さは如実に表れていた。
 ちゃんと向き合わな、と思う一方で、怯えとる自分がおるのも事実やった。
 微塵も身動きせん死体のような男を駅の入り口まで運び、彼の肩を揺すって起こしてやる。もお着いてもた、とぐずる彼の演技力に静かに震えながら、新幹線で爆睡しとき、と返すのが精一杯やった。
 トランクから取り出したキャリーをがろがろ引っ張って、白膠木簓はさっきまでぐだぐだしとったんと真逆の「ほな、行ってきます!」愛想の良い笑みを浮かべて、わたしの返事を待っている。

「行ってらっしゃい。気ぃ付けて」

 わたしも負けじと営業用の笑みで応戦する。
 途端、ぬるちゃんが早朝に似つかわしくない真剣な顔に戻って、ぎょっとした。

「……どないしたん」
「……や、別に。明日の夜二十一時着目指すわ。また連絡するな」

 何を誤魔化されたんかも、いまのわたしでは分からへん。お笑い種やな。




 ぬるちゃんの後ろ姿を見送って、次のお客さんを待つ。一息吐いて両腕を伸ばしていると、駅から出てきた立派な体躯の男と目が合った。いや、向こうはサングラス越しなんやけど、なんや確実に視線が噛み合うてもてる感じである。
 ボリュームがものごっつい黒の毛皮のコートに艶っぽい真っ赤なシャツ、ジャラジャラしとる金のネックレスに白のハイウエストのボトムスというド派手な組合せに、首が痛なるくらいに見上げなあかんほどの高身長。黒のハットの下には癖のある黒髪と、少しずらされたサングラスからは縦傷の走った眦が見える。既に威圧感に負けそうである。
 まあ、堅気ではないわな。
 しかし、ずんずんと長い足でこちらに向かってくる男に「別のタクシーへどうぞ」と言う勇気はなかった。観念して後部座席のドアを開けてやる。

「……おう、オネーチャン。ちょっくら、イタミ空港まで頼むわァ」

 たっぷりとした毛皮のコートは手を突っ込んだら最後、きっと抜け出せないような異次元に繋がっているに違いない。光沢のある深紅のシャツから覗く胸板は厚く、冬やのに寒ないんかな、いやそのための毛皮か、などと無駄な思考を馳せてしまう。
 全ての動作に余白がある。ゆったりした余裕に混じる胡散臭い感じが恐ろしい。
 腐っても客商売なので、わたしは従順にアクセルを踏んだ。堅気やない男を乗せるのは別に珍しい話ではない。よくあるとまでは言いたくないが。

「……運転、随分上手いなア」

 走り出して数分、彼はそんなことを口走ったかと思うと、フロントミラー越しにこちらと目を合わせてくる。お世辞言うんやったらもうちょい柔らかい表情でお願いしたい。一応お客さんやから言わんけど。

「ありがとうございます」
「いやいや、本当だぜ? 若いのに良い腕だ」

 暇なのか。やたらと話し掛けてくるお客さんは一定数いて、相槌だけ打っていれば良いタイプと、こちらの話を具体的に聞きたがるタイプがいる。
 このお客さんをどちらに分類すべきか判断に迷っているうち、彼は座席にぶら下げてあるプレートに彫られたわたしの名前を読み上げると、ふふんと鼻で笑った。
 どっか笑う要素あったか、と首を傾げた瞬間やった。

「んで、オネーチャン……あの芸人・白膠木簓お抱えの運転手なんだって? 今日はお勤めじゃないのかい」

 ハンドルを握る指先に力が入る。動揺は呆気なく内側から滲み出た。

「どこ情報だ、って顔だなァ」

 後部座席から押し殺すような低い笑い声が、這い回るように背筋を撫でる。
 何か嫌な予感がする。直感やった。
 男が組んだ膝の上に頬杖をついて、下から覗き込むようにして運転席を眺めてくる。文字通り観察されとるのを感じ取り、嫌な気分は拭えへん。

「個人情報なんざ、今時辿るのは容易いんだぜ。重々気を付けるこったな」
「……そうですね」
「あんたは今、ネギを背負った鴨だからな」
「ご忠告ありがとうございます」
「ハッハァ、礼を言う表情じゃねェなァ? ……おいちゃんは親切で言ってるだけだってのによ」

 この男、目的は何や。
 噛み潰した苦虫を意識の外に放り出して、少し強めにアクセルを踏む。さっさと送り届けやんと、どんどんこちらが不利になる気がしてならん。

「ところで、元恋人の専属運転手ってのは、どういう気分だ?」

 ほおら、やっぱりな。ほんまにどっから情報手に入れとんねや。

「……聞いてどないするんですか」
「個人的に興味があってな」
「ほな、回答は控えさせていただきますね」

 個人的にとか嘯く割に、ただの野次馬とは思えん。妙な不気味さがねっとりと首筋に巻き付くようやった。

「別に、あんたを攻撃したい訳じゃないさ。利用されたら可哀想だっていう老婆心よ」

 後部座席で優雅に足を組み直して、乗客は喉の奥で笑っている。
 何やかんやこういう口振りの奴が、いっちゃん危険である。経験則である。

「……ま、勘付いてるだろうが、俺は記者だ。手に入れた情報をどう料理するかも俺の腕次第、ってわけだ」

 全然そうは見えんけど、腑に落ちた。そうですかと返した己の声は素っ気なく、半ば諦めの気持ちである。
 いやまあ、いつかこんなことになるんちゃうかて、一ミリくらいは思っとった。もうちょいしょーもなそうな記者やったらなんぼでも言いくるめられたかもしれんけど、この男はそんな格下の輩には見えん。勝算がどんどん遠ざかる。

「金、積んでくれても良いんだぜ?」

 随分楽しそうな声で言うてきよる。ただのタクシードライバーがそないな大金持ってるわけないやろに、性格悪い男やな、と言い出しそうになって、慌てて喉の奥で押し殺す。

「こちらはただ仕事をしているだけですので。事務所に確認していただいても……」
「それはオススメできねェなア」

 オネーチャン。からかうような温度のそれ。

「きちんと向き合った方が良いぜ」

 急降下した低音に、冷や汗が一筋、こめかみを流れ落ちた。
 もうじき高速道路に入ってまうので、暫くは止まることもできん。いや、一刻も早くこの男を送り届ける方がええ。ただアクセルを踏み続けるしかなかった。
 やれやれと彼が肩を竦めて、黒のハットを取った。ふう、と溜め息を零して、男の視線がフロントミラーに突き刺さる。

「……真っ当な記事を書いているライターもいれば、あることないことでっち上げて面白可笑しくプレビュー数を競って稼ぐだけの奴もいる。そういう世界だ」

 サングラスから覗くオッドアイには、茶化すような空気は一切ない。さっきまでとは別人みたいな雰囲気に、流石に眉間に皺が寄った。割かしまともなこと言うとるだけに、全面否定はまだ早いか。

「質の悪いライターの記事が、ウェブでいくらでも読める時代になっちまったからなァ。よくあるだろ? 芸能人が必死に抗議して、ようやっと収まる奴さ」

 高速前の最後の赤信号に向けてブレーキを踏むわたしの顔の横に、彼のスマホがずいと突き出される。

「……運転中ですので」

 脇見は事故の元である。お客さんの命を預かる以上、半端なことはできひん。
 ワッハッハ、と後部座席から盛大な笑い声が上がった。結構結構。流石はタクシーの運ちゃんだ、と男が続ける。

「おいちゃんはめちゃくちゃヤサシーから、音読してやるよ」

 こちらが望んでもないのに、男の口は止まらへん。誰か今すぐ縫い付けてくれへんか。

「えー、〔こないだ水族館で簓君見かけた! ロケかな?〕……だってよ」

 げ、ファンに目撃されとる。泳ぎそうになる視線を真正面に固定していると、次いで、乗客はくつりと喉を鳴らした。

「ああ、これなんか良いな。〔白膠木簓、子連れだった〕」

 ほーれ、写真付きだぜェ。男の茶化すような声に、ブレーキを踏んだままではあるものの、流石に振り向かざるを得なかった。
 男のスマホに表示されとったのは、間違いなくあの時の水族館や。迷子を抱えるわたしと、隣に立つぬるちゃん。しかも無駄に画質が良い。最近のスマホの技術は凄まじい。
 なーんもええことあらへんがな。何やねんこいつ。

「ゲーノージンってのは、プライベートもへったくれもねェなァ」

 しみじみ言ってのけるのもわざとらしい。人を苛立たせて操るのがべらぼうに上手いんやろう。挑発に乗ったら負けなので、わたしは静かに呼吸を繰り返す。

「こんな写真撮られてるってことは、テレビの取材じゃねェだろ。他の同行スタッフが止めてるだろうからな」

 確かに、薄暗い水族館のテレビ取材やったら、カメラさんとかの裏方部隊で大所帯になるのが普通かもしれん。

「はは、いま分かったって顔じゃねえか。えーと、拡散数は……まあ、まだ数百か。これからだな」

 炎上待ったナシである。
 血の気は引いたままやったけど、信号は切り替わってしもうた。しゃーないのでアクセルを踏む。どない頑張っても奥歯がギリギリ鳴ってもうて、男がまた楽しげに笑う。

「こりゃあ、ネットメディアが食い付くのも時間の問題だな?」

 嫌な音を奏でる脈拍を無視できない。手袋の下は汗で湿って、背筋もすっかり冷たい。
 写真の構図にも悪意が詰まっとる。わたしだけでなく迷子の女の子の顔がはっきり写っとるのもそうやし、よりにもよってぬるちゃんが女の子を笑かそうとわたしと距離を詰めてる時を狙ってシャッターが切られとった。
 一度拡散されてもうたら、素人ではどうにもならん。単純に詰んどる。
 車は高速道路に入った。空港に辿り着くまで、わたしは仕事を全うするしかない。

「……なあ、助けてほしいか?」

 おいおっさん、事故りたいんか。運転に集中させろやあほんだら。
 と、吠えられないのは客商売ゆえである。ハンドルが振り回されないように、それなりの速度で走り続ける。
 てっきり嘲笑っとるものと思っていたが、しゃーなしにフロントミラー越しに見た後部座席の男は、意外にも真剣な表情をしていた。いつの間にかサングラスは外されとって、オッドアイがこちらを射貫いてくる。

「弁解の記事、俺が書いてやるぜ。いつでも連絡しな。破格で受けてやるよ」
「……儲けになる話でもない思いますけど、何でです?」
「理由なんざどうだって良い。俺を信じな、結果は保証してやるよ」

 上辺だけの台詞やのに、男は不敵な笑みを絶やさず、こちらを揺さ振り続けてくる。
 いや、騙されたらあかん。そもそもこっちが不利な状態や、いくらでも利用されてボロ雑巾みたいにポイされるのが目に見えとる。
 わたしは沈黙を選んだ。なァんだ、口車には乗ってくれねェんだな。残念そうに男が言う。
 十数分の旅路は、正直生きた心地がせんかった。汗でびちょびちょになった手袋をはよ取り替えたいと思いながら、何とか空港まで辿り着く。

「ほい、あんがとよ」

 諭吉と共に差し出された名刺を、しゃーないので受け取った。天谷奴零。あまやどれい? また随分とけったいな名前や。ライター言うてたんがほんまなんやったら、ペンネームかもしれんけど。
 男の声は随分軽く、舌打ちのひとつでも噛ましてやりたい気分やった。対する自分には、いくつもの漬け物石でもぶら下がっているような有様や。こない疲れる客は久々である。

「忍耐強いなァ、オネーチャン。おいちゃんは感心しちまったぜ」
「……ありがとうございました。どうぞお気を付けて」

 全然思ってへんことよお言うわ、と副音声で流すと、男は察したのか、にやにやと笑みを深めてみせた。

「ま、そう睨むなって。記事の件は前向きに考えてくれよな。損はさせねェからよ」

 じゃあな、連絡待ってるぜ。黒のコートを靡かせて、男は大股で車を降り、やっとのご退場である。
 わたしはよろよろとハンドルにもたれ掛かった。どっと疲れた。もう帰りたい。




 いくら友人であると言えども、白膠木簓がお茶の間に浸透している売れっ子芸人であることは揺らがん事実や。
 何もかも嘘っぱちで出鱈目の記事やとしても、食い付く人はどんだけおるんやろ。彼のファンの人らに不要な心配をさせたくないし、彼の事務所にどんだけ迷惑が掛かるかを考えただけで胃が痛い。本人は、まあ置いとくとして。
 とりあえず空港の駐車場でエンジンを切り、先程の乗客が見せてくれたSNSの検索バーに、怖々と白膠木簓の文字を打ち込む。スタッフさんが運営している宣伝アカウントの投稿に紛れるようにして、見覚えのある写真が流れてきた。しかも複数。全部捨てアカやんけ。
 迷子の女児を抱き上げる女と、それを覗き込むぬるちゃんの姿。その写真の投稿に続々とリプライが増えていてぞっとする。

〔お忍びデート的な?〕〔変装もしてないし堂々とし過ぎでは? 仕事に一票〕〔スタッフだろ〕〔特定班まだー?〕

 口内は砂漠化していた。心臓はずっと嫌な跳ね方をしたまま、血脈はいずれ十六ビートに辿り着く。
 運転席で丸まって、喉を掻き毟りたくなるほどの焦燥に追い立てられ、手にしたスマホも投げ出したい心地である。指先は完全に温度を失っていた。
 兎に角、こういった火消しは早いに越したことはない。勝手に震える指でぬるちゃんのマネージャーに電話を掛けると、三コールで繋がった。名乗ってすぐに謝り倒すと、既に状況を把握してはったマネさんが『まあまあ焦らんで』宥めるような苦笑いを落とす。

『いま事務所の方で対応方針を固めとるとこですんで、全部こちらにお任せください』
「申し訳ございません、お願いします……」
『今にも死にそうな声やないですか』
「そらそうもなりますよ、両腕にスタッフの腕章付けとくべきでした……」
『そんな、そこまで気にせんでも大丈夫ですって。そもそもこちらの人手不足からお願いした仕事なんですし』

 それはそうやけど、そんなん普通の人からしたら知らんし。とりあえずわたしの胃痛は力業で何とかするとして。

「あと今回の写真、迷子の女の子の顔がめちゃくちゃはっきり出てしもてるのが気になってまして……」
『そうですね、それはこちらも思ってました。きちんと対応しておきますんで』

 それでは、とマネさんとの通話はやけにあっさりと終わった。そんだけ炎上案件に慣れとるということなんやろか。追加で胃薬差し入れした方がええんやないか。
 まあ他人のことを心配する以前に、わたし自身が不安定な精神状態の上に溶けない緊張感を乗っけて、安全運転を遂行する自信がなかった。上擦った呼吸のままでは会話も覚束ない。深呼吸。
 次、弊社に連絡入れやな。

『あ、せんぱァいお疲れさまでーす、どないしはりました?』

 丁度良かった、後輩のコールセンター嬢に繋がった。手短に用件を伝えたくて、とりあえずSNSを見てほしいと述べる。

『へ? 待ってくださいよーいま見るんで……うわ! 先輩や! ちょ、バズってんじゃんの奴やないですか! まあまだお昼休みやから言うほど拡散されてへんですけど』
「こないだの仕事がな……」

 自分の声がどんどん干涸らびていくのが分かるが、どないしようもない。

『成る程成る程。まあ多少荒れるんはしゃーないですけど、大丈夫や思いますよ』

 どこに大丈夫な要素あったん? 訝しむわたしに『まあまあ落ち着いてくれはりますか』と後輩が淡々と述べる。

『ぬるさらて今フリーてことになっとるし、結婚報道とか不倫報道とか、どない見てもあかん写真流出とかやないんで、大したことあらへんですよ』
「いやでも誤解生みそうな写真ではあるやん……」
『えー? このちびっこにぬるさらの遺伝子一ミリも入ってないし。あの特徴的な髪色、DNA強すぎるやないですか? ぬるさらのお父さんの写真、昔番組で見たことありますけど、見事なもんでしたよ』
「そ、そうなん……」
『てか一般の幼女の顔はっきり写ってんのに拡散すなやて思いますね。良識ない奴ばっかやこの世の中は。滅!』

 後輩の表情は確認できひんけど、彼女の口振りはあらゆる炎上を見守ってきた猛者のそれなんか、特別凪いで聞こえた。最後は怒っとるけど。

『もー先輩、わたしの言うこと信用できひんです? ほな私のタイムラインでも音読しましょか?』

 こちらの制止の声は届かず、嬢は張り切って読み上げを開始してしもうた。

〔ついにロショ以外の人間に興味持ったんかヌルデ〕〔はいはいスタッフでしょ、落ち着きなはれ〕〔簓が躑躅と氷筋さん以外に靡くとかある?〕〔白膠木、地球には躑躅森以外の人間もいるんだぞ。気付いたか?〕〔アンチが撮ったんじゃないの? 見かけても心のシャッターだけ切りなよ〕〔どうせなら躑躅森とのツーショ撮ってきてくれや〕〔本当にろしょじゃなくて? コンビ復活はいつですか?〕〔流石にろしょーも女体化はせんやろ。いや、昨今の違法マイクなら有り得るか〕〔nrd、ttjと師匠以外の人間に一ミクロンも興味なさそうやし、スタッフやろ。健やかに生きろ〕〔どつ本の復活はまだですか〕〔二人の漫才が見てえんだよこっちは、何年でも待つから情けをくれ〕〔タイムライン全然追えてないんですけど、どつ本復活するんですか? ケーキ予約した方が良い?〕〔ロショが女体化したらもうそれは結婚なのでは〕〔え? どつ本復活でササラとロショ結婚すんの? マ?〕〔二人が劇場に戻ってきてくれる日を永遠に待ってる〕〔復活待ちきれないのでどつ本全国ツアーの円盤見てくる……〕〔そういやぬるで最近痩せたくない?〕

 これいつまで聞かされるねん。全然終わりそうになかったので、必死に彼女を止めた。ええーまだまだあるんですけど、とごねる嬢とそのタイムラインが怖い。昼休みでその賑やかさて何?

「……なんか、めちゃくちゃ偏ってない?」
『そんなことあらへんですよ! てか先輩のことなんて話題の発端にはなったかもですけど、完全にどつ本はよ復活せえへんかなって方向にシフトしとるんで、ぬるさらのファン的には特段のダメージないですね』

 この子、言い切りよった。百均店員の「そこになかったらないですね」と全く同じトーンなんやけど。

「いや、噂だけでも嫌ちゃうの……」
『まあ、確かにショック受けるファンもおるとは思いますけど、ファン全員がそうとは限らんいう話ですよ。ゴシップなんか追っとっても推しには一銭も入らんし、嫌な想像ばっか膨らんでしんどなるだけですもん。そないしょーもないことに時間使うより、推しのコント見てゲラゲラ笑ってた方が遙かに精神衛生上もええし、推しかて人間やし、ファンは経済を動かす歯車のひとつなんで』

 これ以上何か慰めの言葉欲しいですか? と聞かれ、ハンドルにもたれ掛かりながら「もうええです……」カスッカスの声で返すのが精一杯やった。
 得意げな様子の後輩に、何か、毒気を抜かれてもうた。

『……でもまあ、過激派のファンは何しても荒れるもんなんで、今回もお気持ち表明投稿とか出そうではありますねえ。先輩、今日はこれからお休み貰っときはります? てか本題そっちでした? アハハ』

 かっる。
 めちゃくちゃ適当にあしらわれたが、きちんと仕事をこなすコールセンター嬢は早速上司に掛け合ってくれるらしく、声が遠ざかっていった。
 かと思うと、上司を自分の席まで引っ張ってきたらしく、おじさんの声が微かに聞こえる。頼む休ませてくれ、と祈ったのも束の間、上司らしき唸り声を鼓膜が捉えた。

『……え? あかんです? 残念、キビキビ働けとのお達しです! 丁度配車予約も入ってもたんで、先輩が一番近いしお願いします!』
「ああ、うん……」

 希望は潰えた。事故は死んでも起こしたくないので、頑張るしかないようである。




 翌日の二十一時のシンオオサカ駅、くたっと萎びたぬるちゃんが改札から出てくるのを発見する。
 帰りの新幹線は空調があまり効いてない席やったらしく、地味に足冷えたわあとぶいぶい言うとったが、カイロ代わりにホットレモンティーのペットボトルを渡してやると途端に大人しくなった。

「キャリー貸し」
「ありがとお」

 仕事やから当然のことや。黒色の荷物を預かってトランクに入れてやる間、先に車に乗っとったらええのに、わざわざわたしの横で待っているぬるちゃんである。

『きちんと向き合った方が良いぜ』

 脳裏に浮かんだのは、怪しげな記者の男の台詞やった。
 ────今更、何に向き合えばええんや。
 直視したないもんばっかで気分は沈殿しとるけど、仕事は仕事や。寒いからはよ車乗りと彼の背を押すと、嗅ぎ慣れた煙草のにおいがふわりと鼻腔を擽った。

「……禁煙失敗したやろ」
「ンエッ!? いや、これは共演しとった兄さんの、……ハイ、吸いました」
「飴ちゃんどうぞ」
「え、へへ、すんません」

 運転席に着座してコンソールボックスを指し示すと、気まずそうにぬるちゃんがセロファンに包まれた飴玉を拾い上げていく。おっ、今日はコーラ味かァ、と飴を口の中でからころ言わせとった。
 元カレと同じ銘柄のメントールやったことに気付いて頭痛がするが、いまこの瞬間、そこまで指摘する必要はない。墓場まで持ってった方がええ。

「そういや、写真拡散されとったなあ」

 ロケの休憩中に共演者からいじられたわー、とぬるちゃんは平然と言ってのけ、助手席で紙袋を抱えている。軽く笑って世間話の一環みたいにいなす、その肝の据わり方は何なん。これが芸能人なんか。

「あ、これお土産な。定番のばななちゃん買うてきたで~! 後ろのフック掛けといたらええ?」

 怖いくらいいつも通りで意味が分からん。

「ほれ、スタッフが丁度ええわーて宣伝に活用してくれとるで。商売魂様々やなあほんま!」

 むいむいスマホをタップして、スタッフの「勝手に白膠木の写真撮らんとってほしいし、加えて一般人の顔がはっきり写ってしもとる写真拡散すんなやボケナスカス(意)」という注意喚起の投稿に加え、写真が使われる予定の雑誌の宣伝まで鮮やかに綴られとるのを見せられて、確かに強かやなと思うなどした。
 しかし、からっと笑うぬるちゃんの、本音は見えん。

「ま、そない気にせんでええて。仕事やったしなあ」

 わたしのことなんかどーでもええ。こないな炎上でイメージに傷が付くんはぬるちゃんの方や。ハンドルを回しながらもっと自分の心配しいやと呟くと、聞こえんかった振りをされた。ほんまこいつ。

「でもほんま、世間サマっちゅーのはゴシップ好きよなあ。テレビ出とる人間の人権も尊重しましょーて義務教育に入れといてほしいわあ」

 彼が助手席で伸びをしながらしみじみ言うので、それはそうかもな、とだけ返す。

「……んもー! そないずーっと眉間に皺寄せとったら取れへんくなるで!」
「標準装備や」
「や、タクシーの運ちゃんがその表情しとったら、客は腰抜かしてすたこらさっさーて逃げてまうで。それとも何? ほんまにずっと俺専属の運転手でいてくれるん?」
「営業スマイルを搭載しました」
「何でそこでウン言うてくれへんねん! 鬼か!」
「暴れへんの、淀川に流すで」
「そない澄んだ瞳で言うことちゃう……」

 あーあ、いつも通りの茶番や。ぬるちゃんの才能というか努力の証明というか。壊れた関係性の修復が癖になってしもとる。ぬるちゃんも、わたしも。
 表面上は何とでもなってまうんや。それだけ大人になったということである。

「……ところで自分、無かったことにする気満々やろけど、そうはいかへんで」
「え、写真の慰謝料とか……?」
「ドアホ! 何でや!」

 急な脅しみたいな声を出しよるから思い当たる節を解答したんに、盛大に怒られて目を白黒させる。

「俺らが別れた理由に決まっとるやろ!」

 効果音が付きそうな勢いで指さされて、暫し沈黙を噛む。

「……そっち?」
「ハァー!? どっちや思てん! 言うとくけどなァ、今度は逃がさへんで! 言うまで車から降りひんからな!」
「ほな車庫までお届けすることになるけど……凍死したらあかんから、事務所からカイロ持ってきたるわな」
「……死ぬまで言わんつもりか」

 ぎゃいぎゃい騒いどったかと思うと、いきなりめちゃくちゃ低音で喋りよるから温度差で風邪引くとこやった。散々人の表情にいちゃもん付けとったくせに、自分の方が絶対おっかないて。前髪で見えてへんけど青筋浮かんでるやろそれ。
 でもまあ、幾らかの修羅場を潜り抜けた大人のわたしやったら、何とでも対処できる。今日乗せた記者の男に比べたら、ぬるちゃんのそれは随分優しいもんや。ほんまもんの悪意は込められてへんもん。

「簡単に言うたらおもんないやろ」
「ひ、酷いー……簓さんのこと何やと思てんねん」
「友人」
「カー! もうええわ、ありがとうございました!」

 見事な締めの台詞と共に、車体は無事にぬるちゃん宅の前に到着である。やっぱ計算しとったんかなこの男は。こないなとこで無駄な才能使いよって。

「はいはいはよ降りや、車庫で一晩明かすんは嫌やろ」
「自分昔からいらんとこだけ引き摺るよな、そこやないねん……」
「戸締まりしっかりしいや」
「ほんっま、ペース取り戻したら途端に鉄壁になるやん……少しは弱味見せえやもう」

 ほっぺたをフグみたいにして、ぬるちゃんはぷりぷりと怒ってみせた。これもポージングのひとつなので、流すのが正解である。

「……でもな」

 聞き逃しそうになるような音量に、つい顔を上げてしもた。

「完全にいなくなるんだけは、ほんまにもう二度とせんとってな」

 下がった眉尻、疲労感の滲む目許。年末進行で確実に削れてしもてる青年の、そこだけは偽りのあらへん表情やった。
 それはまあ、わたしが悪いんやけど。

「今日はこれだけでも約束してくれへん?」

 頼むわ、と彼は両手を合わせて「このとーり!」深々と頭を下げてくる。ふざけてるように見せかけて、これはマジモンの奴や。

「……期間は?」
「ハァ!? ……俺が死ぬまで」
「えらいこと言うな」
「本気や」

 ぴしゃんと言い切られて、わたしは息を止めた。続いて長い指がこちらに伸びてくる。

「指切りして」

 ほら、はよう。
 口約束なんて、いくらでも破ってまえる。でも、誠実でありたいと思う気持ちをゴミ箱に捨てたわけではない。躊躇うわたしに、曲げられた小指が催促する。
 子ども騙しのそれに、おずおずと手を差し出す。勢い良く小指が絡め取られ、動揺する暇もない。

「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本のーます、指切った!」
「無理矢理やんけ」
「はー、今日はよお寝られそうやわ!」

 ずっと後悔しとってん、と彼は口角を吊り上げたまま続けた。

「……そんな顔せんとってや」

 どんな顔よ、と言い返そうとして、できひんかった。
 ぬるちゃんの頬の滑らかな頬が、わたしの頬に触れていた。シートベルト越しに抱擁されていると理解した頃には、彼の身体は離れていた。

「笑った顔がいっちゃんええもんな」

 彼の指が、わたしの唇の端っこを柔く押し上げる。
 それは一瞬。ぬるちゃんはキャップを目深に被り直して、脱兎の如く車の外に飛び出していった。
 いまの、何。

16|これは滲み、斑ら、欠陥の

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