パパラッチに怯えながら過ごす毎日である。別にわたしはただの一般人で張り込みを受けるような価値など何ひとつないねんけど、何故かご理解いただけないので悲しい限りや。胃はとっくに悲鳴を上げていた。胃薬常飲である。
今日も今日とて自宅の前に一台のバンが停車中である。治安面から考えても非力な女にとっては恐怖心を煽るだけなので一刻も早く辞めていただきたい。
てか車のナンバー覚えてもたし。パパラッチ名乗ってるくせに(名乗ってへんけど)堂々とし過ぎちゃうんか。それでええのんか。そこの運転席の推定四十代の髭面の記者さんよ、あんたに言うてるねんで。
吐息は鉛色を超えて黒に近付き、鬱々とした気分を腹の中で掻き混ぜながらの出勤である。弊社の事務所で出迎えてくれたコールセンター嬢の屈託のない笑みが救いや。今日も八重歯が可愛くて何より。
「まあまあ先輩、マスコミに追い掛けられるなんて一般人やったらほぼない経験なんですし、とりあえずぬるさらのネタにでもならへんですか?」
きゃるんとした声でえらいことを言う娘である。何でわたしがぬるちゃんのネタ作りに全面協力せなあかんのか。
後輩は事務仕事用のデスクで頬杖をついて、ぱちぱちと瞬きをした。
「同級生で友達やて言うてはったやないですかあ。ええやないですか、記者もこれ以上妙なことしよったら、うちの社長が直々にご挨拶してくれはるみたいなんで。今は泳がしときましょーよ」
「ウワ、もう社長まで話上がってんの……」
ずっと立っとるのもしんどいので、時短勤務中の事務の姉さんの椅子に腰掛け、手持ち無沙汰に地図などを手に取ってみる。ナンバか。大体頭入ってるから見てもおもんないな。
「そら、お客さんはあのぬるさらですよ? 先輩のお仕事もぜーんぶ上にちゃんと報告してます! 優良顧客は逃がさへんのがうちの社訓やないですか」
別に間違ったことは言うてへんねんけど、言い方が直接的すぎる。八つ橋て知っとるかな? いっぺん包んでみ?
「別にまた事務所寄ってくれはらへんかなあとかナマ親父ギャグ聞いたり写真撮ったりできひんかなあとか思ってませんよ」
ダダ漏れどころの話やない。咳払いして誤魔化そうとしても無駄やぞ、と小さい頭を鷲掴みにすると、後輩はヒンヒンと嘘泣きを披露してくれた。ぬるちゃんと並んで肝の据わり方が尋常ではない。
乱れた髪を整えながら、すんっとしたすまし顔で後輩は話を続ける。
「あとね、本チャン言うと、ぬるさらのストーカー? 不審者案件あるやないですか。そんことで警察に協力してほしいとも言われてまして」
「いやそっち本題やろ、先に言うて」
「先輩、カルシウム足りてへんでしょ。チーズどうぞ、さけるやつ」
「腹立つけど貰うわ、ありがとう。……ほんで、警察の人は何て?」
貰ったチーズをむしゃむしゃと齧り付きながら尋ねると、いまここで食べるんすか、しかも千切らへんのですかと後輩がドン引きの眼差しでこちらを見てくる。
喧しい、こっちの情緒はとっくの昔にぐちゃぐちゃなんや。正常な行動ができる思うたら大間違いやぞ。
「パパラッチに紛れて尾行とかパトロールしてくれはるみたいです。丁度ええカモフラージュや言うてはりましたよ」
「ほうか……」
ということは、今も警察官が近くで見守ってくれてはるんか。大変有り難い。それだけで胃痛がかなりマシになった気がする。
「はよぬるさらが仕事に集中できる環境を整えてもらわんと! スタッフさんもやっぱしんどいんやと思うんです、ほら告知アカウントの動きがこんなにも鈍い……」
彼女がスマホの画面をぺちぺち叩いて主張するが、告知アカウントの最新投稿は昨日の日付である。それで鈍いん、と思わず突っ込むと、やれやれ先輩はなーんも分かってへんですなあ、という顔で後輩が肩を竦めて見せた。腹立たしいジェスチャーめちゃくちゃ上手いなこの子。わたしが育てました。
「もー、先輩もSNSやった方がええですよ、情報は己を助けるんですからね!」
「そうかもしらんけど、いまは遠慮しとくわ……」
嫌な情報ばっか見ることになるのは明確や。滅入って仕事どころやない。後輩は怯えるわたしを指先でやいやい突いて笑う。
「でもま、先輩も十分気ぃ付けてくださいね、最近ぬるさらファンの中でも荒れとる輩も確かにおって……多分、出待ちのプロの人やと思うんですけど」
「出待ちにプロとかあんの」
「しつこいっちゅー嫌味ですよ。出待ちの対応て、芸人さんの無償サービスですからねえ、あくまでも。一仕事終えて疲れて帰ろとしてはるとこを長時間拘束するようなん、ほんまのファンやったらせえへんと私は思うてますよ」
彼女は顔をしわくちゃにして嫌悪感を表現しとった。後輩にしては史上最強に刺々しい声や。本心から言うとるらしい。
珍しく真っ当なこと言うとるなあと思って褒めると、嬢は得意のペン回しを披露しながら踏ん反り返った。
「ま、そんな女より私の方が絶対ぬるさらといっぱい喋ってますけどね! 仕事の話ですけど!」
「そんなマウントの取り方ある?」
「ふふ、ほんま、先輩がぬるさらと同級生で良かった……」
「しみじみ言いよるわこの子……」
額に手を当てて項垂れると、キャスター付の椅子に座ったまま、後輩が床を滑って突撃してくる。嬢は衝撃を逃がし損ねて呻くわたしの顔を覗き込んで、次いつぬるさら事務所に寄ってくれはるんですかねえねえねえと喧しい。知りません。
「ところで先輩、ぬるさらと何かありました?」
「ん? 特に言伝とか要望は貰てないはずやけど」
「ハァ?」
「突然キレなや、あんたもチーズ食べ」
さける奴はふたつでひとつのパッキングである。残りのひとつを差し出すと、後輩は豪快に包装を破いてから、ちまちまとチーズを千切り始めた。さっき丸かじりしたわたしが言うのもアレやけど、このさける奴は確かに細かく裂いた方が美味しい。
「仕事の話やないですよ、時々晩ご飯一緒に食べてはるでしょ? 何か進展は?」
「どんな詰め方すんねん、一応わたし先輩なんやけど」
嬢は盛大に舌打ちした挙句「そないしょーもないこと聞いてませーん」と反抗期の小学生の様相である。
「ドキドキワクワクの展開ないんですか? サバイバルでもええですけど」
「ちょい待ち、あんた昨日ちゃんと寝たか? 口数多過ぎん?」
「三時間」
「コラ」
「しゃーないんです! ソシャゲのイベ走らなあかんかったんで!」
「あんたはもう……」
呆れて二の句も告げられへんわたしは、椅子の背もたれでぐいぐい背中を伸ばし、簡単な現実逃避を試みた。
「お、そろそろ出勤時間ですねえ! 先輩ガンバ~!」
ひらひら手を振る後輩に事務所を追い出され、わたしは暖房が効く前の冷え切った車内に乗り込んだ。また一日が始まる絶望に溜め息を吐く。
わたしが運転を開始するとパパラッチさんの車が堂々と後続車に進化するのにも、数日あれば慣れてしもうた。悲しいことである。
ぬるちゃんの仕事のペースは一定の高圧縮率を維持したまま、十二月もいよいよ残りの日数の方が少なくなり、目前にはクリスマスを控えていた。
何でこないなことを言い出すのかと言うと、ロケや収録がクリスマスとお正月の反復横跳びで頭バグりそう、とぬるちゃんが散々主張していたためである。
午前七時五分、白膠木簓宅の前に到着。エントランスからわたしのストールをぐるぐる巻きにしたぬるちゃんが登場した。パパラッチさんが撮影に励んでいるかは謎やけど、わたしはわたしの仕事を淡々と進めるまでである。
彼は本日も車に乗り込むなり「午前中は年明けの番組で、昼のラジオは今日の夜放送やから十二月の話題でーて言われて、夕方の収録はクリスマス当日のんで……もーイヤ、間違えそうで怖いわあ」眉毛も口元もへにょへにょにして、車内の暖房に手を翳していた。
「それにしても今回のパパラッチさん、めっちゃ根性あるなあ。もう二週間超えとるで」
「……ん?」
「アッ」
口を滑らせたことに気付いたらしく、彼はわたわたと視線を彷徨わせて、結局助手席で俯いて固まった。悪戯が見付かって親に叱られる子どもの図である。
ストールに顔を埋めるようにして気まずさを誤魔化す作戦らしいが、そんなんに騙されてやるほどわたしは優しくない。
「……二週間?」
「え、えへ?」
「あんた、ずっと前から気付いて放ったらかしとったん」
「えあ……ハイ、ソウデス」
や、でもな、と夏休みの宿題を忘れた小学生みたいに彼は頬を赤くして反論を始めた。ストールが暑いんやろう。剥ぎ取ってやるわたしの手を享受したまま、彼の言葉は続く。
「向こうも仕事や。あることないこと書かれるんは困るけど、他の人に矛先向く数が少しでも減るんやったら、俺が上手いことやったろかなあ思て」
絶句した。
「この業界で仕事しとったらな、やっぱ嫌でもそーゆーのと付き合うていかなあかんねん。業界が変わらん限り、悲しい思いする人も減らんからやな、今踏ん張って、……なんや、心配してくれとったん」
わたしの表情が強張ったことに、意外そうな顔するんやない。興味津々にこっちを覗き込むんも止めなはれ。
「当たり前やろ」
自分のことを蔑ろにする天才の白膠木簓は、こちらの棘五割増しの声を聞いてぽかんと口を開いた。
「……自分、素直になる時は事前に言うといてくれへん?」
「また意味の分からんことを……」
「心臓に負担掛かるのよおないやん、プールかてまずはシャワー浴びるとこからやろ、おんなじや!」
主旨はさっぱり分からんが、やいやい言い出したぬるちゃんを簡単に宥められるわけもなく、わたしは諦めるのばっか上手くなる。
今日の収録のスタジオはそれほど遠くないので、さっさと送り届けて楽になるしかない。溜め息を我慢していた瞬間、アッと彼が悲鳴を上げた。
「ヤバッ忘れもんした!」
車内で急に吠えたぬるちゃんに目を白黒させた。忘れもんなんてこの冬、送迎を任されている中で初めてである。
「言うてる間に現場着いてまうけど……」
「あー、これの次の収録で使う小道具やねんけど……紙袋に入れて準備までしてたんに、わ、忘れた……自分が信じられん……」
超絶落ち込んどる。アアーと助手席で頭を抱えて呻くぬるちゃんを責める気にもなれず、次の収録までの時間を確認する。まあ、間に合うやろ。
「しゃーないなあ」
地獄の底で神さまの顔でも見たかのような表情で、ぬるちゃんが「取りに行ってくれるん! ありがと~~~~!」全力でくっ付いてくる。慌てて引き剥がした。
「どんな紙袋?」
「百貨店の奴! コントの小道具なんやけど、そない重いもんでもないから! 机の上に置きっぱや思うねん!」
鍵渡しとくわ、とキーホルダーも付いてない剥き出しの銀色を手のひらに握り込まされる。頼むわあと拝み倒され、まあこれも仕事やし、と手で制す。
「季節ネタやから、小道具あった方が視覚的に分かりやすいなあ思て作っててん……ほんま自分おってくれて良かった! ありがとお!」
「はいはい。まあ任せとき」
「ぎゅってしてええ?」
きゃるんとした声で何を言い始めんねんこの男は。
「意味が分からん。はよスタジオ行け」
「手強いなあ……ほな、ごめんけど頼むな! 行ってきます!」
休み時間になった瞬間の小学生みたいに駆け出したぬるちゃんの背を見送り、とりあえず違反にならへんギリギリの速度で車を飛ばした。
難なく彼の自宅に蜻蛉返りし、マンションの駐車場に車を置いてエントランスに突入する。集合キーを差し込んでエレベーターに乗り込んだ。今日も随分と冷える。太陽が出とっても風は肌を刺すような冷たさや。
しんと静かな廊下に足を踏み入れ、さっさと荷物取って車に戻ろ、と足早に扉に向かう。
ぬるちゃんの家のドアノブが、てらりと光を反射した。
何やろと思って近付いてよく観察してみれば、どろっとした粘性がある液体が付着しているように見えた。扉の足元には白濁した水溜まりができている。つんと鼻腔を刺激する生臭さは、塩素系漂白剤のそれに似ていた。
血の気は急降下、頭の中で警鐘が鳴り響く。
いや、これどない見ても精液やん。どちらさんの? この寒空の下でシコッたん? 正気か? ホワイトクリスマスのお届けモンてか? 阿呆ちゃうか?
ぬるちゃん、変な人に好かれる確率高すぎて最早笑てまう。とりあえず大混乱の渦の中、兎に角このハイパークレイジー野郎の確保が最重要である。お前に寄越すハッピー要素なんか一ミリもあらへんぞ。
躊躇うことなくその場で交番に電話をかけて、いつぞや相談に乗ってもろた若い警察官に見えているものを全て話す。彼は素っ頓狂な声を上げて、すぐ向かいます、と回線の向こうでバタバタと準備を始めた。
目の前の惨劇を改めて視認すると臓腑は荒れ狂うが、現場維持が捜査でめちゃくちゃ大事やて警察漫画を読んで学んでいたので、見たくもないが扉から目を離さないようにする。
はよおまわりさん来てくれ、わたしのSAN値がゴンゴン音を立てて減っとる。
ていうか、いま気付いたけど、これ小道具取りに家の中に入られへんのちゃう? 先にぬるちゃんに電話しとくか、いやでもおまわりさんに事情説明して荷物取れるか聞くのが一番やな、そうしよ。
よしぬるちゃん、コントは最悪小道具なしで頑張れ。あんたならできる。知らんけど。
数分後、血相変えて駆け付けてくれはった警官の兄ちゃんは、ギリギリ奥歯を鳴らしながら「絶対捕まえたるからな、覚悟せえよ……」と血走った目で鑑識の人や他の警察官にあれやこれやと指示を出していた。流石どつ本ファンの警察官、本気度が違う。
「あの、こないな状況で申し訳ないんですけど、白膠木が自宅に忘れモンした言うてて、中て入れますか? わたしやなくてもええんですけど……」
「うーん、できれば捜査のために現場は触りたくないんですが……忘れもんて何ですか?」
「コントの小道「あかん! 時間との勝負や! 上司に連絡取ります!」
こちらの発言に被せてきた彼の、目はマジである。
爆速で上司からコントの小道具奪還任務の許可を得たおまわりさんは、鑑識の人にめちゃくちゃ頭を下げ、証拠隠滅せんように細心の注意を払いながらぬるちゃんの部屋に入っていった。数十秒で戻ってきた彼の手には、百貨店の紙袋がひとつ。無事に回収できた事実におまわりさんがいっちゃん嬉しそうな顔をしとった。
「犯人逮捕するまでの間、白膠木さんに危害が加えられでもしたら元も子もないんで、お荷物と一緒に警官一名も追加で送り届けてもろてええですか」
小道具を預かるわたしに「ほんまは僕のこと送り届けてほしいですけど!」とおまわりさんは本音に塗れた言葉を続けたが、彼は現場指揮を取らなあかんため、追加の一名は鑑識の人の隣におった、背の高い男性らしかった。目が合ってぺこりと頭を下げられる。
「今回の件は、こちらから白膠木さんの事務所に連絡さしてもらいます。仕事中の白膠木さんを動揺させてまうんは嫌なんで……運転手さんも十分気ぃ付けてくださいね。こいつ、うちの交番でいっちゃん腕っ節ええんで、頼ったってください」
「ありがとうございます」
ほな、安全運転爆速で白膠木さんに届けてくださいねと何度も念押しされ、わたしとおまわりさん一名はセキュリティガバガバのマンションから退場した。
車内は異様な緊張感に包まれていた。同乗してくれはった警官の兄さんは、交番で担当してくれはったどつ本推しの兄さんよりも年下とのことやったが、屈強な肉体と寡黙な雰囲気で威圧感が既にすごい。まあこの人がおってくれたら犯人も強硬手段に出る可能性はかなり低くなるんやないか。
おまわりさんの横で運転するのはちょっと緊張するが、法定速度は守りつつ、ぬるちゃんの待つスタジオへと急ぐ。
「……犯人の行動、もう結構エスカレートしとるものと思われます。白膠木さん、我々にも相談されていない被害がいくつか、いやかなりあるのではないかと……」
後部座席にどっしり座った彼が、静かに吐露した。否定はできひんかった。
「昔から、都合の悪いことはぜーんぶなかったことにしよるタイプなんで……尋問よろしくお願いします」
「承知しました」
自分で言うておきながら、おまわりさんの尋問とか最強やな。流石のぬるちゃんも口割るやろ。めでたしめでたし。
しかし、全然表情の変わらん強面の兄ちゃんである。ほんまにわたしより年下なんやろか。
「……ひとつええですか」
「はい?」
「自分、どついたれ本舗時代からのファンでして……」
おまわりさんが口角を一ミリだけ上げたのが、フロントミラー越しに見えた。
もしや警察学校で流行っとったんか? という疑問は何とか飲み込んで、本人に言うたらめっちゃ喜ぶ思いますよ、とだけ返した。ほんのちびっとだけ和んだ。
「いやービックリしたわ、俺なんか悪いことしたっけ? て素で思たもん。おまわりさんも忙しいやろに、おおきにな」
次の収録スタジオの楽屋の中、パイプ椅子に座る白膠木簓と警官とわたしの図である。
ぬるちゃんが「まあお茶でも飲んでき」とミニサイズのペットボトルを差し出した。おまわりさんは表情こそ変わらんものの、恭しくそれを受け取って「これが仕事ですんで、いつでも頼ってください。あと差し出がましいんですがサインなどいただけませんか、コンビ組んではった時からのファンでして……」ちゃんと自分の要望は通しとった。強いやん。
「えっほんま? 兄さん俺らの漫才で笑てくれとったん? 嬉しいなあサインなんていくらでも書くで! ところでほんまに自分笑うん?」
「表情筋が硬いもので……」
「ふ、せやったんか。表情に出えへんのは、おまわりさんとして最高の資質やもんな! 胸張っとったらええねん!」
警官の兄ちゃんの背中を勢い良く叩いて、さらっと人を褒めるぬるちゃんである。マネさんから一通りの事情は聞いとるはずやのに、彼は全然いつもと変わらん様子で、割愛するがしょーもない親父ギャグを連発しとった。おまわりさんは白膠木簓のファンなので判定がガバガバ過ぎて当てにならん。
いつもと変わらんからこそ、怖い。
「……ぬるちゃん」
「ん?」
食べ終わったらしいロケ弁当を片付けながら首を傾げる彼は、わたしが人前で彼のあだ名を呼んだことにすら言及せえへん。普段やったら必要以上にによによしてからかってくるやろに。
顔に全く出えへんのはどっちやと舌打ちしたいのを押さえ込んで、「他にも被害あるやろ」わたしはなるべく淡々と告げる。
「ンエ?」
「この際やから全部洗い浚い吐いてまい」
「何で俺が犯人みたいな扱いされとんの?」
「わたしは席外すから、言いにくいことも全部ちゃんと言うんやで」
「ま、待って行かんとって!」
パイプ椅子から立ち上がったわたしの袖を引っ張って、ぬるちゃんが吠えた。警官さんの眉がぴくりと動く。残念ながらぬるちゃんの腕力は本気で、解放は困難を極めるらしかった。
おまわりさんの視線がわたしに刺さって「同席お願いできますか」半分以上強制されているようなもんである。しゃーないので再び腰を下ろす。
「……そんで白膠木さん、全部話してくれはりますね?」
「やっぱ俺犯人扱いやん! 何でや!」
もう、とちょけるぬるちゃんが、真面目に口火を切るのを待つ。
「いやでもほんま、別に俺なんか全然大したことあらへんよ?」
眉尻を下げて笑う彼の姿に、一瞬で頭に血が上った。
「……大したことないとか二度と言わんとってくれる」
底冷えするような声は、確かに自分の喉から出とった。ぬるちゃんの肩が強張ったのが見えたけど、今更止めてやる気なんか全くない。
「不要な嫌な思いさせられてんねん、他人と比べてどうのこうのやないわ」
「いや、めちゃくちゃ怒るやん」
「あんたが怒らへんからやろ」
棘の生えた声音に自分で驚く暇もない。彼のことを思いやるならもっと冷静な言葉運びをすることが一番やと理解はしているが、もう遅い。
ぬるちゃんの自己肯定感は時折姿を眩ませてまうから厄介である。普段は自信満々に振る舞っとるくせに、同じ口で「別に俺なんか」とか平気で言いよる。当然みたいな顔して口にすることやない。
学生の頃よりは確かにマシになっとるとは思うものの、まだまだ改善の余地が残されていることが判明して頭が痛い。ほんまに冗談ではない。有名税なんて体の良い言葉で誤魔化すような小狡い真似しよって、とわたしが声を荒げるのは簡単やけど、それでは何も解決せえへん。
「ええから全部吐け。ちょっとでも隠したら今すぐうちの社長に電話して運転手変更してもらうからな」
言うとくけど本気やからな、と念押しするとぬるちゃんがバタバタと慌て始めた。
「お、おまわりさん! これ恐喝ちゃうの!?」
「刑法第二百四十九条の恐喝罪は、脅迫行為と財産交付の要求が必要な要素ですんで」
「そ、そか……」
警察官の真面目な解答に、ぬるちゃんは叱られた子犬みたいな顔で縮こまっている。長い指を曲げては伸ばして、落ち着かへん様子や。
「……犯人てあれかな、マンションの周り徘徊しとった黒ずくめの人?」
「まだ特定には至ってませんが……」
ほおか、とようやっとぬるちゃんは真面目な声を出してから、長い溜め息を吐いた。被害状況を口に出すのはしんどいことや。でも、ずっと隠しとっても何も解決せえへん。
数十秒の葛藤の果て、彼はもごもごと唇を動かし始めた。
「……パンツ全滅してん」
「アァ?」
「待って、自分チンピラの経験あったっけ?」
「ない。ごめん、何? パンツ?」
「いま履いてる奴以外、全部盗まれてもうてな……」
すっかりぶち切れてしもてるわたしの横で、おまわりさんは言葉を失っていた。
男のパンツなんか盗んでも何も楽しないやろになあ、世の中には色んな人おるよな、と笑うぬるちゃんやったが、おまわりさんの表情はどん底である。わたしの頬も永遠に引き攣っとった。
「……とりあえず、引っ越し先探しや」
「あー、せやな……年明けになりそうやけど」
警官の兄ちゃんは額を手で押さえて、自分の好きな芸人が辛い目に遭っている現実を受け止めるのに苦労しているらしい。楽屋の空気は凄まじく冷え込んでいた。
「……最初は盗撮された写真やってん。まあそんなこともあるかあ思うてたら、手紙とか盗聴器仕掛けられたプレゼントとか……」
ぽつぽつと、ぬるちゃんが語り始めた。おまわりさんはひとつひとつに丁寧に頷いて、傷付いた顔で仕事をしている。
「せやせや、使用済みナプキンがポストに入っとった日は流石に気ぃ失いそうになったで」
ぬるちゃんは俯いたまんま、負った傷を数えている。語調だけが明るくて、より酷い。
「……ちょっと待ってください。犯人、複数やないですか」
おまわりさんの声は震えとった。「まあ、そうなるよなあ」平然と答えとる白膠木簓の空元気に打ちのめされ、楽屋は完全に沈黙した。
「お、そろそろリハ始まるから行くわ! 捜査、お手数かけるけど頼むわな!」
「……犯人、絶対に捕まえます」
「うん」
おまわりさんの真剣な眼差しに、ぬるちゃんは素の笑顔で答えて、楽屋を飛び出していった。こんな状況でも笑って立って仕事に行くぬるちゃんの、胸の内はとうの昔に限界を超えとるはずやのに。
ぬるちゃんの姿が完全に見えへんくなってから、おまわりさんが悔しそうに頭を振る。想像しとったより被害は多く、大きく、胸糞悪い現実だけが立ちはだかっていた。