「俺、芸人の養成所行くわ」
「……そか、本気で目指すんやな」
「うん」

 ぬるちゃんの表情は晴れやかで「おとんの説得も無事済んだし、あとは先生だけや!」と胸を張っていた。
 もうじき部活の引退時期も迫っている。二人きりの美術室はそろそろお別れやなと思いながら、弁当箱の中の冷凍の一口ハンバーグに齧り付く。
 進路希望調査の時期に差し掛かり、一応進学校に分類されとるうちの高校は、受験に向けて学年の空気が一気に切り替わる。教室内には早くも少し緊張感が漂っとった。

「ほな、大学は一切受験せんの?」
「や、一応受けとくつもりや。勉強せんくて後悔することはあっても、勉強し過ぎて後悔した人てそうそう聞かへんしな。ま、俺が養成所落ちるわけないけど!」
「自信満々で何よりや」
「自分はどないすんの?」

 コロッケの挟んであるコッペパンを食んで、ぬるちゃんが首を傾げた。

「予備校行くお金はないし、現役で行けるとこかな……奨学金考えたら国公立になるから、頑張らなあかんわ」
「学部は?」
「物理できひんから理系以外」
「お? 全然決まってへんねや」
「自分の興味て日々変わるやん。受験直前に決めることになりそうやわ」
「ま、せやなあ、人間毎日成長するからな! お互い、一生懸命頑張るしかないなあ」
「せやな」

 そうやって笑いながら、結局部活を引退しても昼休みの美術室を占拠し続け、瞬く間に時間は過ぎていった。
 勉強の合間に近場に二人で遊びに行ったり、マクドのちっこいテーブル席でしなしなのポテト食べながら課題をこなし、平凡な受験生活を送って、季節は二月。
 底冷えのきつい、雪交じりの雨の日やった。
 その年のセンター試験の数ⅡBは凶悪で、受験会場で泣き出す人がちらほらおった。わたしは泣かんかったものの、自己採点は全く芳しくなかった。センター試験で稼いどかんと二次試験がかなり厳しいのは分かっとったから、前期日程の大学はそのまま突っ込んだけど、後期のランクは一つ下げた。
 第一志望の合否発表の日が来るのは早かった。傘を持つ手は完全に冷え切ってもうて、手袋忘れた自分を呪いながら大学の正門から遠ざかって、携帯電話に指を掛ける。
 もしもし。ぬるちゃんの明るい声に耳を傾けて、わたしは目蓋を落とした。

「……志望校、落ちた」
『……そか』

 彼が下手な慰めの言葉の類をいっこも言わへんかったのは、今でもよお覚えとる。
 回線の向こう、彼は小さく息を吸った。ほんの少しだけトーンを落として、柔らかい声でお疲れやで、と。

『次は後期やっけ? 今日はあったかいもん食べて、ゆっくり休みや』
「うん、ありがと。……ぬるちゃんは養成所どないやった?」
『NOCと竹梅の一次選考、通ったで。来週はNOCのグループ面接やねん』
「……そか。お互い頑張ろな」
『おう!』

 彼の声を聞くと、めちゃくちゃ落ち込んどったはずやのに、また頑張ろと思えるから不思議や。
 高校の授業は最小限の時間しかなくて、わたしは暖房の効いた図書室に籠もってひたすら赤本を解いて、後期の大学は何とか受かった。地元やなくて関西圏の別の大学やったけど、浪人できひんかったし、そのまま進学を決めた。
 ぬるちゃんも無事養成所には合格したらしく、その日はまたしても美術室を占拠して、細やかなお祝いをした。コンビニのケーキと、普段あんまし飲まん炭酸飲料を並べて。

「そっかあ、下宿すんねや。俺も実家出るんやけど、距離遠なるなあ」
「今年のセンター、結構キツかったやろ。オオサカの大学よりもっと上のランク受けてた人らが安全圏狙って降りてきとったから、しゃーないわ」
「せやなあ、試験は運勝負もあるもんなあ」

 マ、とりあえず我々お疲れ! ぬるちゃんは景気よく紙コップにペットボトルのメロンソーダを注いで、屈託のない笑みを浮かべている。

「バイトでお金入ったら、旅行しよな!」
「せやな」
「遠距離言うても、まあ何とか会える距離やしな。大学で浮気したらあかんで!」
「するかいな」

 彼は「これからもよろしくなあ」わたしの手を握ってぶんぶん振って「腕取れる言うに」「えっ、まさか……鉄腕やったん?」「ぬるちゃんどついて粉々にしたろか?」「いやー自分が人間でほんま良かったわ!」しょーもない会話を繰り広げて、笑って、高校卒業までの少ない日常を大事に過ごした。
 季節は巡る。
 大学生活は思った以上に忙しく、なかなかぬるちゃんに会いに行けてへんかった。

〔聞いて! あの氷筋さんと喋ってもた!〕
〔おんなじクラスにおもろい奴がおってな、コンビ組むこと決まってん!〕
〔今日はコンビ組んで初めて舞台で漫才したで!〕

 メールからメッセージアプリに切り替えて、彼は毎日のように連絡をくれとった。時々混じる相方さんとの写真や、〔今日のお昼ご飯シリーズ〕と銘打って延々とコンビニのご飯の写真を送り続けてくる週もあった。元気そうで良かったなあと思いながら、なかなか会えんくてごめんな、と返す。

〔大学て夏休み早いんやっけ? バイト代も貯まってきとるし、また旅行先決めよな!〕

 ぬるちゃんと一緒やったらどこでも楽しいやろから、正直決め切れんわ、と思っていた矢先やった。

『はいどーもー! どついたれ本舗言います!』

 バイトから帰宅して、晩ご飯を食べながら何となく流していたバラエティ番組で、彼らの姿を見た。
 ぬるちゃんや。ほんまに芸人として、お揃いのスーツに身を包んで真ん中にマイク立てて、コンビでテレビに出とる。
 二人はお客さんを楽しませる以上に、自分ら自身も楽しそうに漫才しとった。
 芸人として芽吹いた白膠木簓は、水を得た魚のように板の上を自由自在に動き回っとって、それが自分のことのように嬉しかった。

〔テレビ見たで、すごいやん、おめでとう〕
〔ありがとお! こっからドンドン売れてくからな!〕

 自信満々な文字列に思わず笑ったけど、コンビ「どついたれ本舗」は、ぬるちゃんの宣言通り、ほんまにテレビにガンガン出るようになって、知名度を上げていった。

〔毎日目ェ回りそう! でもめちゃくちゃ楽しい!〕
〔ちゃんと栄養あるもん食べや〕
〔食べてるで! 自分も大学忙しいんやろ? 体調崩さんようにな!〕
〔うん、ありがとう〕

 大学の夏休みに向けてバイトの日程を工面して、ぬるちゃんに内緒でオオサカの劇場に行くことを決めた。別に驚かそうとか言うんやないけど、観に行きたい言うたらぬるちゃんが秒で〔チケット用意したで~〕とか言うてきそうやったから、敢えて言わんかった。こういうんは自力で取ってこそや。
 チケットの申込開始時刻までの暇潰しに、スマホで何となくネサフして。
 そんで、呼吸を忘れた。
 トレンドに上がっとった熱愛疑惑の速報は、白膠木簓と、バラエティ番組で共演しとった若手俳優の女の子の顔写真が並んどる。
 頭ん中、真っ白やった。
 ぬるちゃんはテレビに出るような有名人になった。わたしは一般人で、俳優の女の子みたいにめちゃくちゃ可愛いわけでもない、そこら辺に転がっとる普通の大学生や。
 ぬるちゃんからの連絡は、ない。これ速報やもんな。まだ気付いてへんかもしれん。
 いやでも、そもそも高校を卒業してから全然会えてへんかった。電話とメッセージのやり取りはしとったけど、そんだけや。
 いますぐぬるちゃんに電話したらええ。ガセネタやで、そんなん信じたん? て爆笑する彼の姿を思い描いて、一件落着にしたらええ。
 でも、これがほんまやったら?
 ぽきんと何かが折れた。いっこも会えへん恋人より、近くに可愛い子とか綺麗な子がおったら靡いてまうかもしれへん。そんなん、普通のことやんか。
 確認するのがほんまに怖くて、指がずっと震えとった。電話の一本で済む話やと理解しとったけど、一歩が踏み出せずにただ足踏みだけしとる。無理や。一言でも喋ろうもんなら涙腺が決壊する予感があったし、まともに喋れる気がせんかった。
 ────どうせあかんねやったら、はよ終わりにした方が楽になれる。
 呼吸は引き攣れ、頬を塩辛い液体が流れ落ちていく。一人暮らしのワンルームで、フローリングに座り込んで、ぐしゃぐしゃの顔でスマホをタップしとる女の姿。滑稽や。
 疑った時点でわたしの負けや。せやから降参します。どうもありがとうございました。

『別れよう。今までありがとうな。遠くから応援してます』

 そんだけ送って、今までのぬるちゃんとのメールも、アプリのメッセージも、連絡先も、全部消した。
 親指ひとつで、ぜーんぶ終わった。終わらせてもた。




 最近の夢見は最悪を更新し続けている。今朝も古傷を抉られて重傷である。戦線崩壊がデフォルトになりつつあるわたしは、今日も今日とて白膠木簓の専属運転手としての勤めを果たすしかなかった。

「なあんで年末進行のクソ忙しい時にこうもいらんことばっか重なるんやろ。俺呪われてるんかな? いま流行っとるやん、キョート校なら比較的近場やし助けてもらえへんかな?」
「京都弁の糸目や思たらそれほどでもなかった人にいてこまされそうよな」
「あなたはどうして僕の希望を折りにくるのですか?」
「標準語ヘッタクソ」
「自分かて喋れんやろがい! ……はー、またビジホ暮らしやで。結局家戻れたん何日?」

 助手席で暖房を浴びて液状化しつつ、ぶいぶい不満をぶちまける白膠木簓である。自宅は警察の捜査が続いており、彼はまたしてもビジホと収録現場を往復する日々が始まった。確かに可哀想やけども。
 複数名からストーカーされとる事実が発覚したにも関わらず、心の大事な部分がすっかり摩耗したぬるちゃんは今日も干涸らびながら年末進行を泳いでいる。

「我慢しいよ、命のが大事やろ」
「やー、それなあ、流石にタマまで狙ってくるかァ?」
「不審者の思考に寄り添えるんやったら犯罪係数三百オーバーやと思うけど」
「俺、絶対サイコパスカラーはペールグリーンやから! 透明感あるやつ!」
「髪の毛だけやろグリーンなん……」

 真面目な話しとんのにすぐ茶化しよる。でもそれがぬるちゃんなりの精神防御の術やと分かってしもうたので、昨日ほど強い言葉を投げるのは躊躇われた。
 今日はラジオ収録、雑誌インタビュー、年末特番の打合せ、それから、と行程を脳内で辿っていると、なあなあと助手席から手が伸びてきた。

「あんな、クリスマスケーキ一緒に食べたいねんけど!」

 そう、本日は十二月二十四日。こんな日でも普通に仕事しとる我々の、一日の終わりのご褒美のケーキやで。ぬるちゃんがふんすと鼻を鳴らす。

「番組で嫌ほど食べてんちゃうの?」
「嫌ほどではない」
「ほんで?」
「ほーれ、天下のきるふぇぼんさんやで? 予約済みやで?」

 スマホの画面には、煌びやかなフルーツタルトの写真、しかもホールがででんと顔を出していた。
 ……読めた。

「それ、彼女さんと別れる前に予約しとったんやろ」
「ひとりで食べられる量やないんやって!」

 な~頼むわ~と両手を合わせて懇願される。当日ケーキ屋まで取りに行ってほしいという魂胆と言葉通りの意味が含まれているらしかった。クリスマス前に別れるからそんなんなるねん。
 そんでわたしは一瞬で諦めて口車に乗るん止めた方がええ。結局傷を負うのはこっちやて分かってんのに、学習した振りで誤魔化そうとする己に溜め息を吐く。

「……で、どの店舗? 何時に予約してんの」
「ウメダんとこ! 十九時! その日は比較的はよ収録終わるし!」

 最早定番の文句となった「友達やろ?」という刃物のような台詞すら登場せえへん。舐められたもんである。




 拒絶もできずに掠り傷を負った内臓を肉の上から撫でて誤魔化し、ぬるちゃんの指定したケーキ屋さんへ向かう健気なわたしである。
 タルトがめちゃくちゃ美味しくて有名なケーキ屋さんなので、別に嫌ではない。そもそもクリスマスにタルトを食べるのは久し振りで、元カレのオーダーで冬は定番の苺ショートばっかやったな、とぬるちゃんに聞かせたらまた暴れそうな回想を消し去って、従順にアクセルを踏んでいく。
 フルーツがいっぱい乗っとって、甘さそのものは控え目なタルトは素直に楽しみである。普段は高くてなかなか手出えへんし。
 ────そう、何やかんやわたしは浮かれとった。
 暖かな店舗でにこやかな店員さんから予約物を受け取って、大きな紙袋をそっと持ち上げる。中身が傾かへんよう慎重に駐車場まで戻ろうとしたところで「あの」女性の声に呼び止められた。
 周囲の人が立ち止まる様子はなく、もしやわたしが話し掛けられとるんか、と気付くまで二秒。
 振り返ると、オフホワイトのロングのコクーンコートを纏った女性が、行儀の良いお人形さんみたいに笑って立っていた。どっかで見かけたような、とわたしの脳内の検索結果が弾き出されるよりも早く、彼女はサーモンピンクの小さな唇を動かし始める。

「ただの運転手のくせに、調子乗りすぎじゃないですか?」

 ん? シンプルに悪口?
 くるりと上を向いた睫毛を瞬かせて小さく首を傾げる彼女の笑顔と対照的に、随分と棘のある声やった。

「簓くんの私生活にどれだけ割り込めば気が済むんですか? 冗談キツイんですけど」

 彼女、笑ってはいるが冷静ではない。
 ぬるちゃんの出待ちのプロ────後輩のコールセンター嬢が言うとった単語が脳裏に急に浮かんで、納得した。成る程、心配しとった過激派の人として数えて良さそうである。

「あんな匂わせの写真流して、自己顕示欲が強いんですね。優越感には浸れました?」

 いや、わたしが流したんちゃうし。あれ仕事やし。そもそも喧しいねん何が自己顕示欲や、こちとら劣等感しかないわ。
 喉元まで出掛かった言葉を必死に飲み込み、タルトの入った紙袋を片手にわたしは一歩後退る。一方的に暴言を投げ付けてくる彼女は、一歩踏み込んでくる。
 ああ、この笑顔、ぶち切れる寸前の人のそれや。

「何であなたみたいな人が邪魔してくるの? 私の方がずっと、お金も落として、簓くんのこと応援してるのに!」

 途中まで笑っとった出待ちの姉ちゃんは、遂にぽろりと涙を一粒零した。こちらを強く糾弾する瞳は、確かな憎悪の色で染まって見える。
 クリスマスの外灯のイルミネーションを浴びて、彼女の手元がきらりと光った。
 ────いや、それどう見ても、ナイフよな。果物とか切る用の。

「……お姉さん、手元のそれ、危ないですよ。こん人混みで」

 丁度彼女の横を通ろうとしたカップルが、ぎょっとした顔付きになって一目散に逃げていく。わたしも全速力で逃げるべきだが、彼女の足の速さが分からんので迂闊に動くのも怖い。背中見せて刺されるの嫌や。
 彼女の足元は五センチくらいのヒールブーツ、対してこちらは革靴や。こっちのが有利に見えるけど、クリスマスのウメダなんか様々な年齢層のカップルの巣窟である。こないごちゃごちゃしたとこで逃げ切る自信はなかった。周りを巻き込むのもヤバいし、折角のケーキも崩したないし。通行人は気付いたり気付かんかったり、良い意味でも悪い意味でも浮かれたクリスマスのせいや。
 わたしの背中は汗でびっしょり濡れていた。生唾を飲み込んでじりじりと後退し続けるも、どっかで限界が来る。出待ちの姉ちゃんが激昂して刃物を振り下ろすなり突き出すなりしてくるのも、時間の問題や。
 こうしてる間に誰か通報してくれへんかな。それとも誰かが通報した気になって、結局誰もしてくれへん奴か。

「……お姉さん、こないなことして何かメリットでもあるんですか?」

 わたしの悪いとこや。それいま聞かんでもええやろに、素直な疑問をぶつけてどないすんねん。相手はぬるちゃんちゃうねんぞ、と後悔したところで時間は巻き戻らん。

「ふ、ざけないでよ! ないの! もう何もないの! 分かってるの!」

 怒号、血走った目、涙で溶けたコンシーラーの下から真っ黒な隈が覗いている。
 彼女の叫びに、周辺のカップル達がようやく異変に気付いたらしい。甲高い悲鳴と共に爆速で逃げていくカップルを尻目に、コートのポケットに入れたまんまのスタンガンに手を伸ばす。

「最近の簓くん、全然お話してくれないし、私があげたプレゼントも使ってくれてないし、それどころか────……」
「待って、お姉さん過呼吸なりそうやで、深呼吸して」

 彼女は大粒の涙をぼろぼろと零しながら、ヒッヒッと喉を震わせてしゃくり上げている。意思疎通は難しそうやった。

「……何で、あなたなの?」

 いやでも、スタンガンよりあっちのがリーチ長いもん。てか立ち向かおうとしとる時点で多分わたしは間違っとる。華奢な女の人やから足払いするのは難しくなさそうやけど、もうわたしがどんなことを言うても神経を逆撫でしそうやし、どない考えても二手目でわたし刺されるし。絶対痛いし嫌や。

「……私、見たの。簓くんの家に、あなたの写真、ねえ何で? いつまで大事にされてるの?」
「は?」

 突然の彼女の告白に、素で返事をしてしもうた。

「いや、家ん中? お姉さん何でそんなこと分かるん、」
「全然、釣り合ってないくせに!」

 それだけは、確かに正論やった。
 遂に、ぎらっと光った刃がこちらの顔面に向かって突き出される。咄嗟に大きく一歩引いて避け、上擦った呼吸のまま、その切っ先に視線を向けた。喉からひゅうひゅうと嫌な音が出る。
 次、避けられるか分からん。土壇場の人間ほど怖いもんはない。揉みくちゃになって、全然名前も知らん人に刺されて人生終わるんか。
 クソッタレ、と胸中で悪態を吐いた、その時やった。
 出待ちの姉ちゃんが急に地面に崩れ落ちて、白い手からナイフが零れる。アスファルトに跳ね返って、かろんと金属音が鳴った。

「大人しくせえ!」
「十二月二十四日、十九時二十七分! 殺人未遂罪で現行犯逮捕する!」

 見慣れた制服姿の警察官二名の鋭い声音が、鼓膜を叩く。何で、何で。出待ちの姉ちゃんは泣き叫んでいる。刑事ドラマみたい、と思って、いや、これは現実で。
 別の警察官の兄ちゃんが、すっかり腰の抜けたわたしの背を支えてくれとった。周囲はスマホを片手に持った大量の野次馬が湧いて、容赦ないシャッター音とフラッシュに思わず顔を顰める。
 ────あ、そおか、パパラッチに紛れておまわりさん達パトロールしてくれてはったんやっけ。完全に頭から飛んどった。 
 おまわりさんに誘導されるまま、意外と近くにあった交番にへろへろの足を踏み入れる。奥から女性の警官が出てきて、ブランケットで身体を包まれた。
 怖かったですよね、あたたかいお茶飲めますか、と柔らかい声で尋ねられて、わたしはやっと息を吐くことに成功する。紙袋を持ってた拳は開かんくて、全身が震えとった。パイプ椅子に座るのだけで精一杯で、何とか机の上にタルトの紙袋を置いて、婦警さんの力も借りて拳を解く。
 建物の入り口で、ガタンと大きな音がして肩が跳ねる。傍にいてくれとった婦警さんが腰を上げると同時、部屋の扉の傍、ぬるちゃんが顔をくしゃくしゃにして立っていた。

「ぬ、るちゃん」
!」

 声は掠れた。鼻の奥が痛かった。みるみる歪んでいく視界の中で、ダッフルコートに身を包んだぬるちゃんがわたしの名前を呼んで、勢い良くこちらに飛び込んでくる。背中に回された腕が、ぎゅうぎゅうとこちらを締め上げた。

「い、生きた心地せんかった……! ほんま、無事で、ぶ、無事やんな!?」

 苦しいねんけどとか、涙が零れやんように我慢してんのにとか、人前やぞとか、思考はぐちゃぐちゃで全然まとまらへん。
 とりあえず、生きてはいる。
 抱擁を解くのがどうにも惜しくて、わたしはぬるちゃんの肩に顎を乗せて天井を見上げた。あと三十秒だけ、と陳腐な言い訳をする自分が可笑しかった。

18|エメラルドでもいばらでも

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