フロントガラスの向こう側、冬の重たい雨が空から降り注いでいた。街灯を浴びてぼやける粒は曲面を滑り落ち、ワイパーだけが規則正しく動いている。
「雨で思い出してん、俺、折り畳み傘借りっぱやったな」
助手席ですまんすまんと両手を合わせる白膠木簓の送迎も、今年は今日で最後や。言うてぬるちゃんは元旦早々にも仕事が入っとるので、すぐに顔を合わすんやけど。
明日から新年かあ。今月は怒濤の展開過ぎて疲れたなあ。わたしの脳内でも読み上げたんかという台詞が隣から聞こえてきて、せやなと同意を返した。
水族館の写真炎上事件は、出待ちの姉ちゃんによる白膠木簓専属運転手殺人未遂事件の話題で塗り替えられ、無理矢理消火された。わたしはこうして怪我のひとつもなく、ぬるちゃんの周りに蔓延っとった不審者ストーカー諸々のあかん人達はきちんと検挙され、要は結果オーライという奴である。
二週間も粘ったパパラッチのおじさんは、ネタが集まったからか、姿を消した。安寧の日々が戻ってきたことを喜ぶも束の間、年末進行が終わったわけではないので、本日も早朝から送迎業務に励んでいる。
「傘だけやなくて、ストールも返してほしいねんけど」
「ええー、この冬借りときたいねんけど!」
「ストールぐらい買いや……」
本日はキョートでロケらしい。底冷えの凄まじい都市に行かなあかんことに怯えるぬるちゃんは「いやこのストールめちゃくちゃぬくいねんもん」完全に開き直っとった。
「せやせや、ちょいネタ見てほしいねん」
助手席のぬるちゃんが、赤信号に向けてブレーキを踏んだわたしの顔を覗き込んでくる。なあなあ頼むわあ。すっかり耳に馴染んだ彼の声に逆らう気力はなく「……別にええけど」結局わたしが折れる展開である。予定調和。
「ほいじゃあ、始めさしてもらいます! 俺が七年前と変わったところ~」
今日は膝にずっとリュック置いとるなと思ったら、中からスケッチブックが出てきた。学生の頃からぬるちゃんの字は全然上達してへんくて、アンバランスで味わい深いそれが白の紙の上で踊っている。
「いや運転中やからフリップ芸は見られへんのやけど」
「ぺらり」
「自分で言うんかい」
「ポイントカードのポイントめっちゃ溜まってる」
信じられん。学生時代、ポイントカードは作ってもすぐに「どっか行った~」と嘆いとったあのぬるちゃんが。結局わたしがポイントカード出しとったのに。
「ほんまに?」
「ほんまや。見てみ」
「運転中や言うてるやろ」
「……俺が七年前と変わったところ~」
彼は懲りずにわざわざ「ぺらり」と口に出してから紙を捲る。七年前。十八歳のあの頃。
信号は切り替わり、わたしは従順にアクセルを踏んだ。ぬるちゃんの緩い声音が、紙の擦れる音を縫って鼓膜を柔く叩いていく。
「エビフライはしっぽまで食べる。ぺらり。俺が七年前と変わったところ~。足で靴下履ける。ぺらり」
思わずふふ、と笑ってもうて、何か負けた気になる。しょーもないネタやのに、そもそもフロントガラスに反射した癖の強い文字がずっこい。
「俺が七年前と変わったところ~。ピアス開けた。ぺらり。俺が七年前と変わったところ~。禁煙頑張っとる。」
「いや禁煙失敗しとったやろ」
「あれは忘れて!」
「どんな理屈やねん」
ゴホン、とわざとらしい咳払い。こいつ、わたしのツッコミ前提でネタ作ってへんか。ピン芸人やねんから自分で自分の面倒見なあかんやろに。それとも躑躅森さんとのコンビ復活に向けての準備なんか? 知らんけど。
ハンドルを回して、左折。ぬるちゃんの声は雨とおんなじで止みそうにない。
「俺が七年前と変わったところ~。ぺらり」
風呂入ったら左足から洗う。暇な時はちゃんと料理する。クリームソーダは一日三杯まで。辛いガムいける。視力落ちた。こないだぶつけた膝の青たんが治らへん。バク転できるようになった。食べ歩きロケで熱々コロッケ食べて口の中火傷しても平気な顔できる。タピオカもええけどナタデココのことも忘れないでください。
延々と続く七年前と変わったところシリーズは、全然終わりが見えへん。何なん、持ち時間どんだけの想定で練ったんそれは。
「俺が七年前と変わったところ~。ぺらり。駆け引きができる」
まあ、仕事やる上では大事やろな。アクセルを踏み続けるわたしの横顔に、火傷しそうな熱視線が突き刺さって、彼はようやく口を閉じたらしかった。え、何。オチどこ行ったん。
「……なんでいつまで待っても俺のこと好きて言うてくれへんの!?」
早朝にあるまじき不満と悲痛を足して二で割ったような声音に、思考が停止した。何を言われたか分からへん。スケッチブックには「駆け引きができる」の文字がのたうち回っとって、次のページが捲られる様子はない。
運がええのか悪いのか、再び赤信号の登場である。とりあえずわたしは「なん……なんて?」素直に疑問符をぶつけることにした。
「押してあかんなら引いてみろ作戦も失敗するし! 何でなん!」
「え? フリップ芸は?」
眉毛と目尻を吊り上げたぬるちゃんが、とりあえず怒っていることは分かる。それでも言葉はただ鼓膜を素通りし、脳が意味を捉えるまでは至らない。
「自分の顔、鏡で見てみい! 毎日いっつも俺んこと好き~て書いとるくせに何で言うてくれへんねん!」
「ハア?」
突然の指摘に頬がかっと熱くなる。何てこと言うねん。そんなん、思ったとしても本人に言う奴があるか。
この年末進行の中で、散々「友達やから」「友人やろ」という言葉を繰り返してきて、今更何やねん。わたしに望みなんて一ミリも残ってへんかったはずや。せやから、ちゃんと自分の立ち位置確認して、間違えへんように振る舞っとったんに。
「ほんま何なん……結局俺が降参するんやん……」
ウウウと唸って座席で丸まったぬるちゃんである。ほんまに意味が分からへん。流石にこのまま冷静に運転できる気もせんくて、近くのコンビニの駐車場に一旦車を寄せた。
「なあ、俺ら何で別れやなあかんかったん……」
スケッチブックを投げ出して両手で顔を覆った彼は、さめざめとそんなことを言う。まだ諦めてへんかったんかと思いつつ、わたしは車のエンジンを切った。寒くなるまでに切り上げる、と自分に言い聞かして。
「……あの日、若手俳優の女の子と、熱愛報道出たやろ」
己の声はめちゃくちゃか細く、ちゃんと空気を振動させとるかも分からへん。今にも心臓が口から飛び出そうやった。冬やのに額に浮いた妙な汗を白手袋の甲で拭って、視線は窓の外へ投げる。
ぼたぼたと降りしきる雨の中、ラジオも付けてへんかった車内は、互いの呼吸音だけが響いた。
「待って、そのガセネタ信じたん?」
いつかのわたしが想像したのと寸分違わぬ台詞が彼の口から飛び出した。ただ、笑い声でも怒鳴り声でもない。わたしに負けず劣らずの、掠れて聞き取りにくい細さやった。
完全に信じたわけやなくて、そう、自分に自信がなかった。ぬるちゃんを殴り飛ばして振り回すには。
「……人は失敗する生き物や。せやから、一回目は流したる」
静かな声音が流れ込んできたと思った瞬間、わたしは両肩を掴まれて彼と正面から向き合っていた。手の力は強く、いくら細っこいと思っとっても、ぬるちゃんは男やった。
「……なあ、ちゃんと言うて」
強張った声色に反して、彼の眉は見事な八の字を描いていた。目許も頬も林檎色になっとって、彼の緊張が手のひらから痺れるように伝わってくる。
そんなん。何を今更。
「今更ちゃう! 俺らは一回終わってもたかもしれんけど、またこうして隣におるやん!」
なあ、そろそろ素直になりいや。今にも泣き出しそうな震えた声で、彼は上から目線の懇願をぶつけてくる。
「勝手に線引きした自分が悪い言うてんねん!」
それは正論で、わたしは俯いて唇を噛む。ぬるちゃんのことを信用してへんかった訳やないけど、これから先ずっと疑い続けなあかんかもしれへん現実に耐えられる気がせんくて、諦めた。
無敵やったあの頃のわたしは、もうおらへん。
「……俺な、自分の学生時代の元カレ見付けた時な、ぶん殴るん我慢してん。偉いやろ」
「おお、偉いな」
「ちゃうわァ! 自分かて俺の元カノ見てヤキモチ焼いたやろ! 焼いたて言え!」
「囲炉裏で炙ったろか?」
「だァッ、もお! ほんましゃーないな!」
飛び跳ねる脈拍が、動かれへん上半身が、混乱でまともに動かん脳味噌が、震える指先が。
いつの間にかシートベルトを外しとったぬるちゃんが、運転席側に身を乗り出していた。理解した頃には彼の前髪が顔を擦って、長い睫毛しか見えんくて、そんで。
「……好き。降参。はい復唱」
唇を食んで撫でる二酸化炭素は熱く、肩から首をなぞった指は冷水に浸したみたいで、ひたりと汗に濡れとった。
彼のぎゅっと眉間に寄った皺さえかわええなあと思うから、随分昔から手遅れやったことを自覚するわけやけど。
「……それ、ぬるちゃんの方が言いたいやろ?」
負けず嫌いの関西人は結局マウントの取り合いになるて、そこのスケッチブックに書いとかなあかんのちゃう。
「……ずっこい!」
フロントガラスを叩いとった憂鬱はおしまいや。遅い朝焼けやったな。ほら、仕事遅刻したらあかんし、嬉し泣きしてへんではよシートベルトしいや。
いつまでもブレーキ踏んどったらあかんかったわ。やって、アクセル踏むんはわたしの役目やから。
「ディビジョンラップバトル出ることになってん!」
「ふうん」
「反応薄!」
ぬるちゃんの専属運転手も一周年を迎え、年末進行ほどの過密スケジュールではなくなったので、のんびりと帰路を辿る。
彼の喧しさは三百六十五日変わらんくて、その殆どの日を隣で過ごす時間があるというのは、まあ、悪くはない。今日もわいわい元気そうで何よりである。
「またメンバー紹介するわな! 皆でお好み食べに行こ!」
それは、いつか来る未来の話や。
「……おお、久し振りやなあ」
「どうも」
「えっ!?」
「おっ、あの時のオネーチャンじゃねェか」
「……どうも」
「ええっ!?」
朝は来る。何処までも走ってったらええんやて、もう知っとるから。