真夜中のクリームソーダは背徳の味がする。
細身のグラスの中、炭酸キツめの緑色にこってりと甘いバニラアイスが溶け込んどるのを、細っこいストローでそっと吸い上げる。人工的な甘さが、一仕事終えた俺の胃袋にやさしく染み渡っていく。
まあ言うて二十代前半の胃袋やから過信しても全然ええねん、とひとり納得して、アイスの土台になっとった氷を突っついた。半回転した立方体がかろんと軽い音を立てる。
「……はー、ぜんっぜん電話出えへんし」
相棒は熱帯夜の街中へ鉄砲玉みたいにぽーんと飛び出してったまんま、いっこも戻ってこおへん。ほんまいつまで暴れとんのやろなァ元気やなァと半ば感心しながら、汗をかいたグラスの表面を指でなぞる。室内の空調はよお効いとるけど、待たされてる時間が長いもんで、水滴に触れた指先はすっかり潤ってもた。ひたひたやで、もう。
薄暗いバーでクリームソーダを注文するのは俺くらいのもんなんかなて思てたけど、意外と他の客にもウケがええらしく、今やマスターはSNS映えを狙ってソーダの色のバリエーションまで増やしよる始末である。売上よおなってんの俺のおかげやろ~て、硬いほっぺた突いて言うたったけど、強かなマスターは「今後ともご贔屓に」定型文しか吐きよらへん。頑なやわ。
ほんで、左馬刻からは未だ折り返しの着信の足音すらなく、カウンターテーブルに置いた端末は沈黙を継続中。手持ち無沙汰に画面ロックを外しても、物静かなアプリが並んどるだけでなーんも変わらへん。
と、手のひらに振動を感じて、おっと思って通知バーをよお見たら、メルマガの通知やったから肩を盛大に落とした。しっかしまあ、こないな時間に配信て大変やな。送信時刻て予約できんのやろか。もしリアタイで作業しとんのやったら合掌モンやな。南無~。
グラスの中身を勢いよお吸い上げたら、おっきい氷がストローの先っぽにくっ付いてもて、ずここと間抜けな音が上がった。
なあ、もうじき日付超えるんやけど? あのやんちゃ銀髪坊主の辞書に門限の文字は────唯一、合歓ちゃんに対する言葉としては辛うじて認識しとるか。多分。
あいつ、意外と言うか、まめまめしいくらいにちゃんとお兄ちゃんしとるねんよなァ。偉いわ。一人っ子の俺はそこらへんの機微がイマイチよおわからんのよな。
や、何やかんや言うて左馬刻て部下の面倒見めっちゃええし、特段不思議な話でもないんかもしれん。
しっかし全然戻ってくる気配ないやん。肺がそわそわと落ち着かんので煙草を咥えた。ジャケットのポケットから手に馴染んで久しいライターを取り出す。俺の肺は順調に黒色に近付いてしもとるけど、今更禁煙を始める気分やない。
回転式のヤスリに親指を引っ掛けたところで、ドアベルがチリンと鳴った。慌ただしく床を叩くヒールの音を両の鼓膜が拾う。
店内を流れるジャズの間を縫うように、空気が揺れた。
煙草を口元でぷらぷらさせたまんま聞き耳を立てとったら、新しい足音は俺の隣の席で立ち止まった。グレーのボトムスに三センチヒールのネイビーのパンプス。企業戦士の装いの、若い女のひとや。背負っとった合皮のちっこいカバンを椅子の背もたれに引っ掛けて、マスターからおしぼりを受け取っとる。
椅子からぶら下がったカバンのファスナーには、何やらアクキーがくっ付いとる。所々印刷が剥げてもうとるけど、それはオレンジと白のツートンカラーのスーツを模しとる、ように見える。
待って、それ、どついたれ本舗の単独ライブツアーん時のグッズとちゃう?
まさか東の土地で目撃するとは思わんかった。なんや胸が勝手にじんわり熱くなる。俺らのファン、関西以外にもちゃんとおったんや……!
彼女は当然、こっちなんか全然見ぃひん。メニューを確認する素振りもないけど、大丈夫なんかな。テーブルの木目ぐらいしか視界に入ってへんのちゃうか。限界の社畜サンやな。
いやでも、喋りたいやん! こないな機会、滅多にあらへんもん。俺と同年代と思わしき彼女のことをじいっと見とったら、その唇が僅か開いた。
「すみません、何か軽く摘めるものお願いできますか……」
うっわ、声、可哀想なくらいカッスカスやん。
仕事終わってほんまにくたくたなんやろな。彼女はあったかいおしぼりを握り締めて、アーと唸った。最早濁点付いとんで。疲れとる時に熱いおしぼり握ると否が応でもそうなるん、よお分かるけどな。
屍みたいにくたびれた彼女を認めて、マスターがニヤニヤと目許を緩めとる。いやらしいおっさんみたいやから止めた方がええと思う。訴えられたら負ける奴やぞ、それは。
「ミックスナッツでいいか?」
「流石にもうちょいお腹を満たしてくれる奴ないですか」
「注文の多いお姫さまだな」
「うちの
上司
はこんなに可愛らしいものじゃないですよ」
「へえへえ」
マスターが俺にするみたいに軽くあしらっとるから、彼女も常連さんなんやろう。俺はここまで遅い時間にならんように食べて飲んだらさくっと帰っとるから、今まで遭遇せんかったんかな。
お冷のジョッキをちびちび飲む姿には、疲労困憊の文字がでかでかとこびり付いとる。ネイビーのブラウスに包まれた肩は丸まっとって、長時間のデスクワークで猫背が染み付いてしもとるんやろう。見守っとったら彼女が腕をぐるぐる回し始めて、バキバキと大袈裟なくらい骨が鳴っとった。ワア。
俺も仕事でスーツ着るようになってから肩バキバキなんやけど、この人ほど酷くはない。多分。労働者にもっと優しい世の中になってほしいもんやな、ほんまに。
彼女が徐ろに髪を耳に掛けた。ちょっとアイラインの滲んだその目の下には、はっきりと隈が浮かんどる。お隣さんはお冷をぐいぐい半分程度飲み干して、そのまんまどデカい溜め息を吐いた。上司への呪詛やな。
マスターがラップを掛けとった大皿から、ちっこいホールサイズのタルト生地を引っ張り出した。このおっさん、なんや最近可愛らしい食べもんばっか作っとるな。
「ほれ、キッシュ」
「美味しそう! 生き返った!」
「まだ食ってねェだろ」
「苦情対応してたら昼休憩逃しちゃったんですよその後も他所の課の騒動に巻き込まれて労働基準法は永久に闇に葬られてるんですこの際言動が滅茶苦茶でも許してください」
「いつも滅茶苦茶のくせにな」
おお、一息でこれでもかと怨念を吐露した彼女、肺活量えぐいな。マスターの苦笑いなんか全然耳に入らへんのか、彼女はトマトとほうれん草とベーコンのキッシュにフォークを差し入れて、黙々と咀嚼している。
「美味しいです」
「そりゃ良かったな」
「すたばと違ってトマトが入ってるの良いですね。もっとカフェ全力のメニューにしてはいかがですか」
「ここはそもそもハンバーガー屋だっつってんだろうに」
えっ、そうなん?
衝撃の事実に口をあんぐり開けて固まっていると、マスターに容赦なく頭を叩かれた。暴力反対! と主張すると、日頃の行いを顧みてから言えと打ち返された。俺のはいつでも正当防衛の範囲やって。いやほんまに。てか一応客やぞ俺。
「メニューにハンバーガーないくせに何言ってるんですか」
「言われたら出すさ」
「ふふ、どんな店ですか」
おっ、笑った。
疲労困憊ながらも彼女のくしゃっとした笑みが眩しい。横顔やけど。
そういや煙草、火ぃつけるタイミング逃してもうた。隣におるんにバカスカ吸うたら、疲れとる彼女に悪いかもしれん。まあここ別に禁煙席なんかあらへんから、気にせんと吸うたかて咎められる謂れはないねんけど、こーゆー場こそ気遣いは大事やしなあ。
暇やからとぼんやり視線を飛ばしてもうたのが悪かったのか、そこでようやっと、初めて、彼女がちらりと俺を見た。
カウンターに肘ついたまんま、ぼけーっとしとる俺の顔を認識した途端、さっきまで濁っとった彼女のおめめが真ん丸になった。天井のオレンジライトを浴びてつやりと光る。
「えっ、ぬ、ぬるさら!?」
わァ、声引っ繰り返ってもうてるやん! 期待を裏切らん反応に気分が良くなる。
「お? 俺のこと知ってくれてんねや! おおきに~」
煙草を手元でいじりながら、今の返し方はわざとらしかったやろかと思案する。嬉しいのんが勝手に滲み出てもて、誤魔化すのんに必死やったからしゃーないわ。な。
俺の返答が鼓膜を打ったからか、彼女の手がフォークを取り零した。銀色のカラトリーが皿の上でタップダンスを踊って、その音で更に彼女は慌ててもたようで。
残業続きでロクなもん食べてへんと思われる彼女の身体が、丸いスツールからつるっと横に傾いていく。
スローモーション。
脳の処理速度が爆上がりしとるんがよお分かる。学術的根拠があるんか知らんけど、己の感覚を疑ったことはない。
いやいや何で背もたれの方に倒れへんねん! 声を荒らげる余裕すらあらへん!
咄嗟に手を伸ばして、何とか彼女の腕を掴んだ。どくどくと脈拍が跳ねている。目を白黒させとる彼女が我に返って、一秒。
「あ、え、す、すみません!」
「やー、怪我してへん? 急に腕引っ張ってごめんな!」
「いや、とんでもないです! じゃ、じゃなくて、白膠木簓さん、ですよね……!」
「イカにもタコにも~!」
こっち
に来て、最初っから俺んことを芸人として認識してくれとる人と初めて出会うた気がする。
俺のファンか、盧笙のファンか。どっちでも有り難い話なんやけど、俺はいまお笑いの仕事を休んでる訳で、よお考えたら下手な言動は将来の自分の首を絞めることになってまう。
どないしたもんかなあと思った矢先、彼女が突然、その両肩にどっかり乗っかってた疲労を吹き飛ばすような笑顔を浮かべた。
こ、このきらきらした笑顔! 俺のファンに間違いないやん!
「わたし、どつ本の……躑躅森さんのファンで!」
「いや俺のファンちゃうんか~い!」
脊髄反射でスツールからずっこける鉄板の対応をすると、彼女が感極まったような顔でこちらを見やった。俺のツッコミは貴重やからな! マスターがウワーて顔して俺んこと観察しとんのは無視する。芸人は身体張ってなんぼや言うとるやろがい。
「コンビで推してますが、どっちかと言うと躑躅森派です!」
「そこはお世辞でも俺て言うてや~!」
「躑躅森さんが自分に正直に生きろって言ってたので!」
「まあそら大事なことなんやけどな!?」
盧笙がいらんこと言うたせいで俺は盛大に傷付く羽目になった。割とよくある事象なんが悲しいところや。涙出るわ。
しょんぼり肩を落とした俺を見てか、急に彼女がはっとした表情になって、椅子の上で佇まいを直した。ごほんと咳払いまで付いてくる。
「いえ、失礼しました。そもそもオフのところにすみません。今からわたしは今週の労働を己で労うただの社畜に戻りますので、どうぞお気になさらずご飲食を続けてください」
とか言うくせに、彼女は俺のグラスを認めて「本当にクリームソーダ飲んでる……」とか言い始めるもんやから、なんや可笑しゅうて。
思わず吹き出した俺を、妙なものを見る目付きで彼女は見守ってくれている。いや何なんその反応、ほんまに俺らのファンなん?
────いや、「俺ら」て主語はもう相応しくないねんけどな。
いつもの好奇心、ほんで不思議と予感めいたもんがあった。
やって、ここは一歩、踏み込んどった方が絶対におもろいやんか?
「……なあなあ、俺な、いま人を待っとるとこやねんけどな、すっぽかされてもうて暇やねん。ちょい話相手になってくれへん?」
残りの一欠片になっとったキッシュでほっぺたモゴモゴさせとる彼女は、口の中のもんを飲み込んでから首を傾げた。お行儀ええのは構わんのやけど、いまゴキッて骨か間接か鳴っとったんとちゃう?
「こんな夜中に人を待ってるんですか?」
「せやねん、薄情な男がやな……」
よよよ、と泣き真似を披露すると、ワーと棒読みの感嘆詞が返ってきた。
アレ、これ俺冗談やて思われとる? 嘘ちゃうで、何なら写真見せたるわとスマホの画面に指を滑らせたところで、疲労困憊で濁っとった彼女の瞳が、ふっと和らいだ。
「まあ、良いですよ。いまのわたしは労働のせいで脳味噌から直結で言葉を吐く状態ですけど」
「ほんまに! え~めっちゃ嬉しいわあ、疲れとる時こそ笑い飛ばしてかんとな~! てか自分、全然物怖じせえへんねな!」
「えーと、いま正気じゃないんで?」
「なるほどヤバいな」
「でしょ」
彼女はへらっと笑って、グラスを傾ける。正気に戻ってもうたら、一体どないなってまうんやろな。
とりあえず空腹には抗えへんかったらしく、彼女は追加注文した牛すじこんにゃくの煮込みを嬉しそうに口に運んでいる。
いや何それめちゃくちゃ美味しそうやん。てか牛すじあるとか聞いてへんで! と駄々を捏ねたら、マスターが俺にも小鉢を出してくれた。いっぺん言うてみるもんやな。そもそもこれメニューに書いてたやろか。
ほんでざっとお品書きに目を通してみたけど、書いてへんやんけ。何なんやこの店は。裏メニューしかないんかい!
やたらと味のしゅんでる牛すじとこんにゃくを噛み締める。日本酒の出汁割りが恋しくなる美味しさや。間違ってもクリームソーダと一緒に味わうもんではないので、緑色の好物はしばらくお預けや。
「ほれ、ポン酒出汁割り」
「いつの間に俺の心読んでんねん……」
「あ、それわたしもください!」
マスターは、俺には銘柄の説明なんかいっこもせえへんのに、彼女には親切に一升瓶のラベルまで見せとる。彼女は嬉しそうに耐熱グラスの中身をちびちび飲んどった。
へえ、出汁割りには純米酒がええんや。七味の浮いたそれを一口啜ると、喉が程ええ感じにあったまる。うん、美味いな。
さて、ひとまずこれも何かの縁やし、お隣の席の彼女と会話を広げるための定石を踏んどくことにする。
「なあなあ、もしかして大阪の劇場とか来てくれとったん?」
「結構通ってましたよ。当時学生だったので、バイト代で遣り繰りして」
素直に返事があって、もう何や嬉しゅうて。俺は自分のテンションがちょいおかしいのを自覚しながら、ただ出汁割りを啜る。
「ほへー、そうなんや! ありがとうなあ」
「こちらこそ! どつ本のお笑いに元気貰ってましたので!」
「へへ、そう言うてもらえたら嬉しなあ」
マスターが気を利かせてチーズの盛り合わせも出してくれた。「今日お仕事頑張ったお姉さんに簓さんが奢ったるわ」と宣言すると、彼女の指先は嬉々としてキューブ状のそれをピックで刺して攫っていく。有り難く頂戴します、という返しが社会人のそれ。左馬刻とおっても聞かれへん言葉やな。
「おふたりのラジオもよく聴いてましたよ」
「え、ほんまに! もしやハガキ職人さんやったりする?」
俺と盧笙のふたりで、割と長いこと真夜中のパーソナリティーをやっとった。一枚くらいハガキ出しとってくれたんちゃうやろかと思って、彼女の顔を覗き込む。
「いやー、まあ……それなりに送ってましたね……」
歯切れ悪ゥ。応援してくれとったんやったら、もっと堂々としたらええのに。
「嬉しいわあ! ラジオネーム何やった? 教えてえや!」
「ええー?」
彼女は少し視線を躊躇わせて、口を真一文字に結んでしもうた。恥ずかしがり屋さんなんかもしれん。照れ隠しみたいにぐいっとグラスを傾ける彼女の、手の中の出汁割りはもう残り半分もない。なんやペース速ない?
まあ酒の飲み方は人それぞれや。口出しするにはまだ距離感が掴めへんし、とりあえずお喋りを楽しむんが一番やな。
「ほな折角やし、簓さんが当てたるわ! ハガキ結構送ってくれとったんやとしたら、せやなあ……『不眠アラモード』さんとか?」
彼女の表情はいっこも変わらへん。喋ったらボロが出てまうからだんまり作戦を遂行するつもりか。酒は気にせんとぐいぐい飲んどるけど。
うーん、社会人から安直に想像してもたんは失敗やったかな。でも、なんや俄然燃えてきたわ。
「ちゃうんかあ、ほな『長女N』さん? 『トマト撲滅委員長』さん? ちゃう? んーと、ほな『みりんレモネード』さん? ハズレかァ! ほな『出勤プリン』さんは? ええっ、これもちゃうの?」
なかなか手強いな。他の常連のハガキ職人さんで残ってるのて、下ネタのキツイのん……は、多分ちゃうやろし。あれやこれやと挙げてみるが、彼女の顔色に変化はない。
むむむと唸りながら、頭ん中の抽斗をゴソゴソしてみる。折角やし当てたいやん。ええと、他に特徴的なハガキ職人さんは……。
「あ! ほな『ルート七』さん?」
抽斗の隅っこにおった名前を挙げると、彼女の瞳が大きく揺れた。確定や! 当たった~! はしゃぐ俺を認めて、彼女は苦笑いと共に、恐れ入りましたと頬を掻いている。
「そおかあ~! いっぱいハガキ送ってくれとったから、よお覚えとるよ! 実在するて分かったら何か感慨深いなあ!」
こっちの台詞だと思いますよ、と彼女はまたしてもいつの間にか注文しとったアラスカで唇を湿らせた。出汁割りはもう一滴も残っとらん。
仕事終わってへとへとのはずやのに、アルコールでは全然顔色が変わらんらしい。そのお酒も、そないくいっと飲むもんちゃう思うけど。
「というか本当に、覚えてるんですね……」
「ま、流石に全部は無理やけどな。番組で紹介できひんかったハガキも、ちゃんと読んどったで?」
「ふふ、ありがたいことです」
ショートカクテル片手に、幼稚園児を見守る若いおかーさんみたいな表情で言うやん。そのギャップは何なん。
末恐ろしいお姉さんの片鱗を見た気がする。俺の方は少し酔いが回って、ふわふわと楽しなってきた。酔っ払うと俺は殊更ゴキゲンになってまうタイプやから、どっかでセーブせなあかんなとは思う。ま、実行に移すかは別やけど。
「そういやおねーちゃん、今更やけどこない遅い時間まで何のお仕事してはるの?」
「何で急にヘタクソなナンパ師みたいになるんですか?」
「えっ俺ナンパ師みたいやった!? 以後気ィ付けるわ!」
全く自覚ないことを指摘されてギョッとする。
ナンパなんかせんでもテレビ出るようになったら女の子の方から勝手に寄ってきてくれるもんやけど、いまの、こっちにおる俺の知名度は地べたを這いずり回っとるから、残念ながら昔取った杵柄になってしもとるんよな。
ルート七さんはうんうん頷いてから、カクテルグラスを布製のコースターの上にそっと戻した。
「労働時間がアレな、しがない事務員ですよ」
「ほへー、お疲れさんやで……」
「本当ですよ、弊社のおじさん達はわたしに心から感謝してほしいですね」
「曇りなき眼で言うやん」
「もう心は既に曇ってますんでね」
「そないしっかり胸張るとこちゃう思うで」
「新人の目がこれ以上濁らないようにするのがわたしの役割なので」
「社会はあらゆる犠牲で成り立っとんのやなあ……」
「どこの会社も程度の差はあれ、そう大きく変わらないと思いますよ」
達観した口振りからは闇しか見えんやけど。どこの業界もそうなんやなとひとつ勉強になった。悲しい現実やな。
やからこそ、ここはルート七さんをしっかり笑かして帰したるんが俺の役割やな!
「しっかしまあ、よお働いてて偉いなあ! 俺と同年代やろ? ほんましっかりしてはるわ!」
「あー、同い年だと思います」
彼女の視線が少し逸れて、なんや言いにくそうに吐露しよる。
「え、そうなん? そんなんはよ言うてや! ほな今更やけど敬語要らんで?」
彼女はぎょっとした顔になって、背を反らした。今度は椅子にちゃんと座っとったから大丈夫そうやったけど、何や不安になるな。
俺の心配を他所に、彼女はハの字眉毛で両手を胸の前でぶんぶん振った。
「いやいや、芸人さんに向かって恐れ多いんですが」
「え~! そない距離取らんでええやん! 折角友達増えた~て思たんになあ」
よっしゃ、喰らえ、雨の中段ボールに捨てられた子犬モード! これ盧笙は耐性ついてしもて、乱用はできんよう、やねんよな。ぷくく。
が、彼女はジト目で俺を見やるばかりである。いや盧笙か?
「友達判定ガバガバすぎません? 悪い人に騙されたり悪徳商法に引っ掛かったりしてませんよね?」
「いや、それは盧笙に言うたってくれ」
「ワア…………」
俺が真面目に返答すると、ルート七さんは遠い目になった。お買い得や言うておっきい壺抱えて俺ん家に登場した盧笙の思い出は、流石に胸に仕舞っといたろ。
彼女は再びチーズを摘まんで咀嚼してから、そわっと視線を彷徨わせた。なになに? と首を傾げると、数秒の沈黙を噛んでからルート七さんが口を開く。
「わたし、イヌモノガタリの前説の、どつ本の三本立てショートコントの最後の『ギャップの鬼店員』がめちゃくちゃ好きで……」
俺の肌に衝撃が走るのを他所に、彼女は残量少ないカクテルグラスを揺らした。
俺らの単独ツアーやなくて、別のお笑い芸人のライブの、それも前説でやったコントを覚えてくれとるやと?
「おま……ほんまもんやんけ……」
「ほんまもんのファンですよ」
「そら失礼しました!」
少し膨れっ面で俺を見やるルート七さんに慌てて頭を下げると「いやいや冗談です顔上げて!」あわあわした声が上がった。
ええ、どないしよめっちゃ嬉しいなあ! お笑いの腕前を純粋に褒めてもらえるのなんて、めちゃくちゃに嬉しいもんや。
「あと、躑躅森さんが時々使う『地面と同化しとけ!』ってツッコミなんて日常生活における汎用性の高さがエレベスト級で、」
世界が、止まった。
いや、錯覚である。情報を処理仕切れんかった言うか、まあそう言うて差し支えないくらいの衝撃やった。俺の動揺を他所に、そのまま言葉を続けようとする彼女の肩を慌てて掴む。
「ま、待って!?」
「はい?」
「ちょ、いや、あの、もっかい、」
「『地面と同化しとけ!』?」
喉から盧笙や。
え、目の前におるの女の人よな? 何で盧笙の声帯を模して喋れるん? どゆこと?
あまりの出来事に挙動不審になる俺と、呆気からんとした彼女の温度差がえげつないねんけど。
「似てました?」
「いやいやいや! 似てるどころか本人登場したか思うたわ!」
「え、ほんとですか?」
ほんまけろっとして言うやん!
「ファン同士で盛り上がってたら、いつの間にか習得してたんですけど、本家に褒めていただけるとは思いませんでした」
朗らかに彼女は言う。
そんなんやから、むくむくと、俺の中で封じ込めとった希望が育ち始めてもうた。
「……あのー、ほんなら、もしや、通しでネタ覚えてくれとったり、する……?」
だいぶ気持ち悪い質問をしとる自覚はあったが、こないな機会そうそう巡ってこおへん。逃してたまるかという本音一点のみで、一応恐る恐るといった体で疑問符を掲げた。
彼女はぱちぱち瞬きをしてから、口を開いた。
「できますよ」
「ンワ…………」
覚えとるじゃなくて「できる」て。ほんまに?
「『ショートコント、ギャップの鬼店員』」
「待ってもう始まっとんの!?」
急に始まってもうた。このネタはまだ俺と盧笙の立ち位置が逆やった頃に、初めて二人で協力して書き上げた奴やった。何度かお披露目と改善を繰り返したネタやったけど、彼女がすらすら唱えてくれる台詞は丁度中盤の、盧笙がツッコミとして開花した頃の奴や。
ああ、盧笙との掛け合いのリズム、これやったな。
左馬刻の会話のテンポもおもろいねんけど、やっぱ慣れ親しんだ盧笙との漫才の空気は、自分の身体がよお覚えとった。
────でも、彼女は盧笙やないねん。別の人間や。同じ相方には二度と出会えへん。
「うわ、わわわ!」
突然彼女が狼狽えた声を投げ付けてくる。どないしたん、と言いかけた俺は、唐突に視界を奪われた。
顔面にカサカサした何かが勢い良く押し当てられとる。目許を覆ったそれは急に湿り気を帯びてって、えっと、何?
両手を挙げたまんま固まってもた俺に、これまた硬い声が向けられた。
「ごめんなさい、軽率でした。あとハンカチは手を拭いた後で、清潔な拭ける物ってカウンターに置いてある紙ナプキンしかなくて」
「あ、これ紙ナプキンなん? ほな何でこんな濡れ、て……?」
彼女が息を呑んだのが、はっきりと鼓膜に刻まれる。
────あ、俺、泣いとるわ。
盧笙に解散してくれ言われた時かて、涙は堪えたんやけどな。や、俺に泣く資格なんかあらへんかったわ、そもそもの話。
いや、泣いとるわ~やないねん。ここは外、公共の場や。突然泣き始める成人男性の絵面ヤバすぎやろ! しかもファンの前で!
「あ、ご、ごめんな! 急にこんなん、えと、気にせんとって! ちょい事故っただけやし! 自分全然悪ないからな!」
鼻声で盛大に上擦って、みっともない。カメラの前でもこんな風になってもたことなんか、一度もあらへんのに。いや、激辛ラーメンで死んだ時は流石に泣いたけど、アレはノーカンや。
ぐしゃぐしゃになってもた紙ナプキンを引き剥がして、いつも通りの白膠木簓の面を入念に被り直す。ファンの前でこないな失態て、いやあ、ないわあ。
彼女は真剣な表情で、フォークを片手にこちらをじっと見据えていた。
「……ごめんなさい」
いま現実に殴られた気持ちです、と彼女は苦く笑った。コンビを解散したひとに、こんな仕打ちを。すっかりしょげてしもうた彼女に向かって、俺はぶんぶん手を振った。
「いやほんま気にせんとってって! ま、そんだけ謝ってくれるんやったら、いっこお願いあるねんけど」
お? 俺の口、彼女の罪悪感に付け込んで欲望のままに喋っとるな? と気付きはしたけど、これってすんごいチャンスやんか。みすみす手放すんは惜しいよな。
彼女は真剣な表情で膝ごと身体をこっちに向き直して「可能な範囲で対応しましょう」と述べた。
「いや仕事か?」
「こちらの失態とは言え、条件提示は大事ですよ」
「まあ、それはそやな……」
流石社会人、しっかりしてはるわ。彼女は物怖じせずに俺の目を真っ直ぐ見据えてくる。盧笙と似とる。嘘偽りのない、飾り気のない本音だけを乗せた瞳や。
気付いたら、率直な本音を吐いとった。
「また俺と、盧笙の話してほしいねん」
「お安い御用ですよ」
俺、菩薩と喋っとったんやっけ?
彼女の快諾で俺のテンションは鰻上り、「ほんまにええの?」「もうあかん言うてもまた呼び出して盧笙の話するからな?」「ウウッ、誰かと盧笙の話できるん久々過ぎて嬉しくて頭バグりそう!」と立て続けに彼女へ言葉を投げ続ける。彼女はグラスの中身をくぴくぴ飲みながら首を傾げた。
「本当に他に喋れる人いなかったんですか?」
「それがおらんのよ……そもそもお笑いに興味ある人が少なすぎるねんこっちは……」
「まあ関西の壌土と比べると、そうでしょうね」
適切な言葉で慰めてくれる彼女を、毎朝拝むべきやろか。
真剣に悩んでいたその時、カウンターに置きっぱにしとったスマホが産声を上げた。ディスプレイに表示された素っ気ないメッセージに、やっとやんちゃ坊主が帰り道を見付けたことが分かってほっとする。
「待ち人ですか?」
「ほんっま、どんだけ待たすんやこの男は!」
「でも、良かったですね」
このまま朝日が昇るよりは、と彼女は肩を竦めた。そらそうや。別に暴れるのが悪やとか言うとるわけやなくて、人体の構造的に一日の活動時間はどないしても限られてまうからやな、その辺を分かってほしいだけで。
左馬刻と俺て一歳しか変わらんのに、この体力の差は何なんやろな。あーやめやめ、考えたら悲しなってまうわ!
彼女がマスターを呼び付けて、お会計の準備がてら、俺に向かってぺこりと頭を下げた。
「では、わたしはそろそろお暇しますね。明日も仕事なので」
「もうとっくに電車ないけど、大丈夫なん? タクシー呼んどる?」
「ここ、近所なので」
「そおなん? や、知らん男にそんなん言うたらあかんで! 危ないで!」
「さっき知り合いになったじゃないですか」
「急に図太なるやん」
「いま正気じゃないんで?」
「自分怖いな」
そんなんで事件とか巻き込まれてへんか? 自分、盧笙と違ってどない見ても普通の婦女子やし。かと言って俺が送るんも逆によおないやろし、てか左馬刻放っとかれへんし。
勝手に最善策どれや~て悩み始めた俺を認めて、彼女は眉尻を下げた。
「冗談ですよ。芸人さんに向かってそんな恐れ多い」
「えっ、冗談なん?」
「いやどっちなんですか?」
「そもそも知り合いなんて寂しい言い方せんでええやん! 友達や! 明朗やろ!」
「そこで言い切るのがぬるさららしいですね」
「解釈合うとった?」
「本人が解釈とか言わないでください」
初対面とは思えへんくらい、彼女との会話はテンポがええ。波長が合う言うか。こんなん、盧笙以来の逸材や。
彼女はマスターからお釣りを受け取って、リュックを背負い直しとるとこやった。あかんあかん、返ってまう前に一言、ちゃんと伝えておかな。
「ほな、なっちゃん」
「なっちゃん?」
わたしのことですか、と自分を指さして固まった彼女に向かって、大きく頷く。そお、今決めてん。
「ルート七さんやから、なっちゃん!」
「はあ」
「またなあ、なっちゃん!」
納得したんかよお分からんけど、彼女は曖昧に頷いてから、バーの扉付近で控えめに手ェ振ってくれる。俺の頬は自然と緩んだ。
「ニヤニヤしやがって」
「商売道具なんで!」
マスターから笑い交じりにちくちく言われたかて、何も思わんもん。
なんや、ええ出会いもあるもんやな。明日も頑張ろ!