『えー、ほな次のお便りです。ラジオネーム「菜に虫いない」さん』
『待って待ってめちゃくちゃ噛みそうな名前やねんけど!』
『新鮮な菜っ葉に虫は付きもんやからな』
『まあせやなあ、こないだスーパーで買うたキャベツに青虫さんがコンニチハ~しとってな、久々ちびりそうになったもん!』
『いやお前何歳やねん』
『こないだ二十歳になりましてん』
『良かったな』
『ええやろ~! な~盧笙、一緒に成人式行こなあ』
『俺ら地元ちゃうから無理や。はい、お便り読むで。「躑躅森さん、白膠木さん、こんばんは」』
『こんばんは~』
『こんばんは。「お二人は深夜の突然の空腹にどのように抗ってらっしゃいますか? お腹が空いて寝付けないとことを言い訳に、ついつい何か食べてしまいます。良い打開策があれば是非参考に教えてください」やて』
『あ~それめちゃくちゃ分かるわ~! 俺らもネタ合わせしとって夜中とかなると、何やかんや食べてまうよなあ』
『せやなあ。夜中のポテチて何であんな美味いんやろな』
『ほんまな! でもまあ、もう寝るだけやのに高カロリーなもん食べんの身体によおないし、ほんまはおにぎりぐらいにしとくんがええんやろな』
『お前こないだ、夜中に厚切りピザトースト作ってはしゃいどったやんけ』
『しー! ちょい何暴露してくれとんの!?』
『俺の冷蔵庫からピザ用チーズ駆逐しといてよお言うわ』
『盧笙かてトースト二枚も食べとったやんか! 人のこと棚に上げられへんやろ!』
『…………夜中に食べるんやったら、消化のええもんにした方がええな』
『おお、まあせやな』
『その分、朝ご飯を豪華にするんはどないやろ? 朝やったら卵かけご飯に、バター醤油、たらこ、牛しぐれもトッピングしたかて、日中にカロリー消費するから許される思うし、朝の楽しみが増えたら、よお寝られるんちゃうか?』
『ヒャー! 強欲のたまかけやんけ……! お腹空いてきてもたァ!』
『えー、現在二十六時十五分。我慢しぃ』
『あかんお腹鳴りそう!』
『ほな皆さん、よお耳すませて聞いてください』
『盧笙の容赦ない公開処刑、嫌いやないで』
『ウワ……』
『ガチで引くん止めてくれる!?』
熱いココアをひとくち、レポート執筆に勤しむわたしの鼓膜の上をふたりの笑い声が駆けていく。
『ほなお便り紹介いこか。ラジオネーム「菜に虫いない」さん、今回もありがとお』
『やっぱ噛みそうやわ菜に虫ないないさん……』
『「な」一個多いで。「躑躅森さん、白膠木さんこんばんは」』
『こんばんはァ』
『こんばんは。「すっかり朝も冷え込む季節になり、毎朝布団から出るのが大変苦痛です。どうすれば快適に目覚められますか? お二人が日頃実践している対策があれば教えてください」』
『あ~めちゃくちゃ分かるわァ! 寒いとぜーんぶ嫌になるよな!』
『でも俺ら、ロケで早朝出やなあかんこと多いやろ。簓はどないしてんの?』
『んー、前日から布団の中に明日の服入れといてな、朝はそのまんま布団の中でもぞもぞ着替えるねん! 要は寒い空気を身体で感じるのが嫌なんよな。ぬくいまま服着替えたら、目覚めは言うほど苦痛やなくなったかも?』
『それ、皺にならん服ならええかもしれんけど、もし翌日カッターシャツとか着なあかんかったらどないすんねん』
『カッターは暖房ガンガンの部屋で着替える!』
『なるほどな……』
『盧笙は?』
『俺かて寒いのは嫌やけどな、朝てただでさえ時間ないやろ? 布団全身で撥ね除けてすぐスクワットしたらええねん、身体一瞬であったまるで』
『脳筋の解答どーもお……これちゃんと答えになっとるんやろか?』
布団の中で転がって、珍しく少し不安げなぬるさらの声と、顔が見えてないのにドヤッてるのがわかる躑躅森の声に、頬を緩めた。
『はいはい次のお便り行くで。ラジオネーム「菜に虫ないない」さん……か、改名してもうとる……!』
『えっ盧笙いまの噛んでもうたんちゃうん?』
『ちゃうわ見てみぃ! お前のせいで菜に虫さん改名してもうたやんけ!』
『えー? わ、ほんまや。でも「ないない」さんの方が言いやすいからええんちゃう?』
『お前ほんっま、板の上ちゃうと適当過ぎんねん……ごめんなあないないさん』
『いや盧笙もそっちで呼ぶんかい!』
『確かに言いやすいしな。俺別に早口言葉得意てわけでもないし』
『ま、俺の方が得意よな』
『簓は普段から喋るスピードおかしいしな』
『いや盧笙も大概や思うで? 関西おるとみんなスピードバグりがちよなァ』
『まァ……そうかもしれんな』
全然お便りの本題に入る様子のないふたりに、まさかここまで盛り上げてくれるとは思わず、椅子の上から引っ繰り返りそうになった。
『ほな次のお便りな。ラジオネーム「菜に虫いない改めルート七」さん』
『えっ? 名前、ルートの語呂合わせやったん?』
『簓、お前今気付いたんか……』
『いやいやいや、そもそもルート七て覚えやなあかんやつやっけ?』
『覚えとったら楽になるやつや』
『ほへー……そうなんや』
『「躑躅森さん、白膠木さんこんばんは。躑躅森さんが噛み噛みになるのを楽しみにしていたのですが、いつまで経っても希望の階が見えないので、普通の名前にすることにしました」』
『おいおい、見限られとるやんけ』
『噛み噛みになるのを見守られる芸人て何なん?』
躑躅森の声が格別に柔らかくて爆発四散する、午前二十六時。
アラーム音が部屋中に響き渡っている。近所迷惑になるので早く止めなければ。タオルケットから腕をにょんと伸ばして、重い目蓋を持ち上げられないままにベッドの端っこを手で掻き混ぜると、指先にかつんとぶつかる感覚。
画面を適当にスワイプして、何とか鳴き声を止めることに成功したが、まだ肉体が本格的な覚醒へと移行しない。しかし朝の時間は無情に過ぎていく。慢性的な寝不足を何とかしたい。残業が全て悪い。
ベッドの上、芋虫みたいな体勢で固まっていると、再び刺激的な警告音で飛び上がる羽目になった。自分で設定したスヌーズであるが、記憶に定着するのは難しい。躑躅森のように寝起きでいきなりスクワットが出来るような身体ではないので、嫌々ながらタオルケットを剥ぎ取る。
一応六時間睡眠を確保したはずなのに、脳味噌が妙な感じだ。間違いなく昨夜の出来事が影響しているよなと思いながら、足首をぐりぐり回し、背筋をぐいぐい伸ばし、ようやくしっかりと上半身を起こすことに成功した。
社畜の一日が始まってしまう。始業前に仕事のことなんて考えたくないが、抱えている案件が容赦なく脳内を漂流する。何も考えない、というのは逆に難しいものだ。
とりあえず画像フォルダに眠る、どついたれ本舗の写真を拝んでおく。ただの日課である。
はー、躑躅森の顔が良すぎるので今日も頑張れそう。嫌なことを言ってくる上司も、脳内の躑躅森が全力パンチで撃退してくれるので何とかなる。やったね。物理は正義。
時計代わりのテレビを起動させ、見慣れたニュース番組にチャンネルを切り替え、食パンをトースターにぶち込んでから、ひとまず寝惚け眼のまま顔を洗う。
やはり夢だったのでは、とふと思う。
足繁く通っているバーで、ずっと追っ掛けていたお笑いコンビの片割れに出会う確率を求めよ。いや知らんがな。
昨日の夜、確かにわたしは白膠木簓と酒を飲み交わした。そして泣かせた。天下のお笑い芸人の傷を一点集中に抉る形で。
地獄に落ちるのではないか。心から応援していたひとを、悪い意味で泣かせてどうする。積んでいた徳が裸足で駆け出してしまっているのだが。胃痛が凄まじい。
『今日の東京の天気は晴れ、熱中症に十分ご注意ください』
お天気キャスターの柔らかな声を聞きながら身支度を済ませる。昨日産んだ申し訳なさで肩が自然と丸まった。五十キロの重石を背負っている心地である。
学生に紛れて徒歩十分、折り畳みの日傘を閉じて、湿度と不快指数が天井値を指し示す寿司詰めの電車に身体を滑り込ませ、職場への最短距離をなぞる。
昨晩のぬるさらの笑顔は、網膜にはっきりと焼き付いていた。肌、すべっすべだった。メンソール系の煙草のにおいがした。
静かにクリームソーダを飲んでいる姿は、ちょっと声を掛けるのを躊躇うぐらいで、まさかあの陽気な白膠木簓だとは思わなかった。青のスーツ姿は初めて見たが、彼によく似合っていた。
テレビ画面越しに見ていたお笑い芸人の雰囲気は、喋ってから姿を現した。
大阪の大学に通っていた頃は、残念ながら町中でエンカウントすることはなかった。それが、まさか東の土地で出会すとは。奇妙な現実である。
あの躑躅森の横でずっとお笑いをしていた人と、酒を飲み交わした現実とは?
思考がふわふわしたまま職場に辿り着くと、デスクの上には八センチのドッチファイルが我が物顔で鎮座していた。担当業務が増え続けていて普通に鬱である。
ここ暫くの間、周辺はきな臭い動きに満ち満ちて、嫌な予感と共に業務量も比例して膨れ上がっていた。分刻みとまでは行かないが、レクに向けて複数案件を同時進行で進めるスケジュールを強いられている。マルチタスクは逆に効率性が落ちるんだぞと言いたくても言えない気持ちを抱えたまま、ひっそり溜息を吐く。
すみません、と背後から声が掛かった。民間企業から転職してきた、隣のグループの年上の後輩だ。
「十時からの部長レクなんですが」
「資料なら共有サーバに格納してますが、何か不備がありましたか?」
もう背筋に悪寒がスタンバイしているが、平然を装って椅子に座ったまま後輩を見上げた。彼は残念ながら、ものすんごい申し訳なさそうな顔をしている。
「あの、追加でお願いしたい案件がありまして……」
ほれ見ろ。この後輩はきちんと仕事をするタイプの人なので、尻拭いをしてやるのは吝かではないが、わたしとてギリギリで業務を回している身なので、何でもかんでもほいほい承ることはできない。
でも無下にするのも可哀相なので、お互い大変ですねという顔を作っておく。同情は社会人の大事な武器だ。
「部長は後ろに別件の会議が入ってますので、レクは三十分しかできないですよ」
「そ、そこを何とか……!」
「お気持ちは分かりますが」
「議員絡みなんです!」
「それは先に言ってくださいよ!」
頭を抱えそうになるのを思い留まって、悲痛な声で訴える彼の手にあったレク資料をもぎ取った。
議員案件であれば何としてもねじ込むしかない。三十分のレクを半分に短縮するか? こちらとしてもややこしい案件で、レクなしには進められないのが現状だ。
議員関連の資料の中身は、残念ながら過激な文言で埋まっている。わあいハズレだ。速やかに裁断してよろしいか。
「ちなみにどの党派ですか」
事実確認は何よりも重要だ。資料の文字列を目で追っ掛け続けるも、彼からの返答はない。不審に思って視線を上げると、彼は苦虫を大量に噛み潰した顔で明後日の方角を向いていた。
「…………言の葉党です」
「もっと早く言ってくださいよ!」
朝から胃痛を加速させる事態である。いつ穴が開いても可笑しくない。
党員の中でも話の通じるひとが来てくれればよいが、こればかりは運次第だ。
後輩も可哀想に、すっかり背中を丸めてしまっている。今日のレクは荒れるぞォと茶化したら、彼は海の底の物言わぬ貝になってしまった。
またしても定時は一瞬で過ぎた。寧ろ電話が鳴り止む定時を過ぎてからが本番である。
レクの根回しをしようにも幹部達もあちこちを飛び回っていて、良い打開策が見当たらないのが現状だった。後輩もデスクで撃沈していた。南無。
残業前の休憩時間にお手洗いでスマホをタップし、こっそり躑躅森の写真を拝む。やはり顔が良い。これでお笑いも最高なのだからすごい。躑躅森は最強。
いや、順番が逆だ。躑躅森は最強でお笑いは最高で、そして顔が良い。
麗しき躑躅森から気力をチャージし、再度机に向かう。最近は起案文書よりレク資料を作成することが多く、単純作業で済む業務がそろそろ恋しい。ずっと脳味噌がフル稼働状態って、健康には良くないと思う。
結局、数時間掛かってレク資料を完成させた。今日も早く帰れなかったと嘆きながら、今度は冷房が効きすぎている電車に乗り込み、蒸し暑い帰路をよぼよぼ辿る。べた付く肌をハンカチで拭っても、不快指数は全く変化がない。
自宅でゆっくりと晩ご飯が食べられる部署に戻りたいな、と望み薄の期待をパンプスの先っぽで蹴っ飛ばして、玄関の鍵をカバンから取り出した。
総務課にいた頃が一番マシだったが、あの課はあらゆる雑用を押し付けられる立場なので、やっぱり微妙ではある。今よりは幾分かマシだろうというだけで。
とにかく気絶する前にさっさと入浴して、最近スーパーで買ったお気に入りのアイスでも食べよう。自分のご機嫌は自分で何とかするしかないのだ。
無意識に溢れ出そうになる溜め息を肺に押し戻し、銀色のそれを穴へ差し込む。
「えっ?」
他人の声だ。オートロックマンションなので、引っ越してきてから全くエンカウントしない隣人のものだろう。何気なく視線を音源の、左隣の扉へ滑らせる。
「えっ?」
自分の喉からも全く同じ音が出た。
シンプルな青と白のギンガムチェックのシャツに、ネイビーの細身のスラックス。緩められたネクタイはオレンジ。モノクロのウィングチップシューズ。劇場とテレビで何度も拝んだ、浅葱色の髪。
白膠木簓がいる。
あらら、と言いながら彼は口元を手で押さえて、ひょこひょことこちらに近付いてくる。なっちゃんやんな? 彼の中ですっかり定着したらしきあだ名を口にして、白膠木さんは破顔した。
何これ。現実?
「お隣さんやったんや! ビックリしたあ!」
「ほ、本当に隣ですか?」
五〇七号室を指さして、彼は平然と「俺ここ住んどるもん」と主張した。
鍵穴に本体をぶっ刺したまんま訝しむ五〇八号室のわたしを見やって、彼は肘でこちらをうりうり突いてくる。的確に脇腹を刺してくる高等技術だ。わたしは呻いた。
「ほんまやて! やーでも、こないなことあるんやな! どーりで隣の部屋ぜんっぜん物音せえへん訳やわ……」
わたしが寝るためだけに帰宅していることは明白である。なるほどなあと彼は呟いて、顎に手を当ててうんうん頷いた。このマンションの壁は最薄ではないが、玄関の扉の開閉音はよく響く。
「すみません、朝のアラームとか五月蝿くないですか?」
「や、全然? 俺の方が五月蝿くしてもうてへん? よおバタバタしとるんやけど」
「いえ、全く……」
「そら良かった!」
どの程度の音まで聞こえているのかさっぱりだったが、わたしの意地汚いスヌーズ音は漏れていなかったようだ。心から安堵した。
「ほんまに毎日遅いねんなァ。身体大丈夫なん?」
「栄養ドリンクと休日の寝貯めで何とか」
「はー、そら大変やなあ……」
こちらを労わる声はどこまでも柔らかく、板の上とは別人だなと思う。
それは、芸人である彼の一面だけを切り取って「彼はこういうひとだ」と勝手に認識しているからに過ぎないのだが。
彼は手の甲で額に浮かんだ汗を拭って、今日も暑いなあと呟いた。白膠木簓も汗かくんだ、と妙な感慨がある。いやまあ、彼も人間だし。
「白膠木さんも今お帰りだったんですか?」
「ん、今日はちょっとゴタゴタしとってん。いつもはもっと早いで。あ、てか疲れとるとこ長話してもうてごめんな!」
「いえいえ、とんでもないです」
真夏の湿度を吹き飛ばしそうな笑顔を拝んで、何だか癒される。ラッキーだったなと思いながら、今度こそ鍵を回そうと手をドアノブに向けた瞬間、ア! と彼が声を上げた。
「……てことは、つまり……!」
「?」
各々自分の部屋に帰る流れだったはずなのに、妙な言い回しだったのでつい足を止めてしまった。残業明けで回らない頭のせいだ。
白膠木さんの周りにお花が飛んでいる幻覚が見える。バラエティ番組で躑躅森さんとセットでいじられている時の姿に似ているな、と思った矢先、わたしの両肩は大きな手に掴まれて、両足は地面に縫い付けられた。
満面の笑み。指パッチンのおまけ付き。
「『盧笙の会』できるやん!」
「何て?」
長時間労働で痛めつけられた脳味噌が、言語処理を拒否している。
そんなこちらの事情などつゆ知らず、白膠木さんは当然みたいな顔をして「盧笙のことを語り合う会や!」と解説をくれた。
「いや相方さんとファンが同等に語り合う会って何ですか?」
「やって、周りに盧笙のこと知ってる人おらんねんもん」
急に叱られた子犬みたいな顔をして、彼は視線を落とした。いじけ方が小学生である。今にもランドセルを背負って小石を蹴り出しそうだ。
「どつ本のファンなら、こっちでも探せばそれなりの数いますよ。知らんけど」
きちんと真実を述べたのに、ちゃうもん、と彼は頬を膨らませた。可愛らしさアピールが凄まじくて慄くも、両肩を掴まれたままなのでまともに身動きできない。
細身だが背はわたしより高いし、きちんと男の人だ。板の上で散々見た彼がこうして己の目の前にいると思うと、何やら不思議な心地である。
「……俺な、自分と語り合いたいねん」
いよいよ思考が停止した。
ラジオでよく聴いていた、はしゃぎ倒した声じゃない。随分と凪いだ、静かな感情の色。寝入り端に聞くのが相応しいような、宥めるような声。
固まるわたしの背を大きな手がぽんぽん撫でて、わたしは呼吸を止めていたことを知る。こちらが挙動不審を発動するよりも早く、彼は続きの言葉を紡ぎ始めた。
「そらな、今までファンの人らとはいっぱい喋ってきたけどやな、なっちゃんが一番解像度高いねん」
「解像度」
「何ビックリした顔してんねん! 盧笙のことに決まってるやん!」
まさかファンの言動が公式から太鼓判を押されることがあるのか。あったわ。いまこの瞬間。そんなことある?
仕事漬けの毎日で、休日に見るどつ本のお笑いライブが癒しであるわたしにとって、彼の申し出はただただ新規供給でしかない。そりゃ喜ぶに決まっている。何せ躑躅森盧笙の新情報は途絶えて久しく、砂漠の中のオアシスのようなものである。
嬉しい言葉は額面通りに受け取って、でも勘違いしたファンにはならないように、程々な感じで受け流す方が良いだろう。そう思って返す言葉を探すわたしの顔を、彼がしっかり覗き込んでくる。
「なあ、ご飯もう食べた?」
「職場で残業前に……」
コンビニのおにぎりを、とは言わない方が賢明だと思ったので、途中で口を噤んだ。彼は顎に手をやって、ふむふむと納得した様子である。
「そらそうか、もうこんな時間やもんな」
「白膠木さんは?」
「俺は事務所でちょっと摘んでんけどな。せや! 晩酌付き合うてくれへん? ベランダでええから!」
……事務所。まあお笑い関係ではないだろう。あれだけ稼いでいたのだからバイトをしているとも思えないが、深く突っ込めるほどの関係性ではないので指摘は控える。
妥協点を見付けるのが上手なひとだ。流石によく知らないファンの女を自宅に招くような、甘っちょろい危機管理意識ではないようで安心した。
「ベランダやと暑いかな、でも今日はまだマシな方やんな? 別に俺の部屋でも全然ええけど!」
「いや流石にそれは……」
なんてことを提案するんだこの芸人は。きちんと培った危機管理意識を早速ゴミ箱に捨てようとするんじゃない。
硬直するわたしを見て何を思ったのか、彼は一歩こちらに踏み込んでくる。何故だ。訝しむこちらを他所に、両手でさり気なく手首まで掴んできた。何故だ。
「あ、もしやお酒ない? コンビニ行くか?」
「在庫、アリマス」
「どないしたん、片言やで?」
「芸人とコンビニなんか行ったら週刊誌デビューしてしまいませんか?」
「大阪ちゃうから問題ないわな……」
「すごい悲しそうに言うのやめてください、こっちでもすぐ有名になるでしょ」
「んー、相方見付かってからの話かなあ……」
あ、本当に相方を探しているんだ。
少なからず衝撃を受けた。わたしの中では、どついたれ本舗は躑躅森盧笙と白膠木簓の二人で構成されている。きっと、永遠にそうだ。
解散した時点で、どつ本にはもう二度と会えないのだろうと悟ってはいたのだが。本人から改めて言葉にされると胸が痛んだ。
ピン芸人としてグランプリ優勝までもぎ取った男が、本当に相方を探すために休業して東京まで来ているなんて。いや、本気だからこそ大阪を出てきたのだろう。それを一ファンがやいのやいの言えるわけがない。
「ほな一旦ベランダに集合な! 時間どうしよ、十五分後くらいでええ?」
こちらの動揺に気付かなかったのか、知らない振りをしてくれたのかは分からないが、彼は放課後の遊びに誘う小学生の佇まいでこちらの顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫ですよ」
「へへ、楽しみやわ!」
無邪気に笑う白膠木簓は、推しには負けるが十分殺傷能力が高い。
あれだけ疲れていたのに、躑躅森の話ができると思うと不思議と身体が軽く感じた。現金なものだなあと思いながら、わたしはやっと己の家の玄関に足を踏み入れる。
ぴったり十五分後、ベランダに続く窓を開け、サンダルを足先に引っ掛ける。白膠木さんは既にスタンバイしており、静かに煙草を吸っていた。少し丸まった背中が見える。
「おっ、来た来た! お疲れさん!」
「お待たせしました」
「全然待ってへんで~! ほな乾杯しよ……て、ワンカップかい! 強いな!」
ガラスの灰皿に煙草を押し付けて、彼はにこにことご機嫌だった。躑躅森と一緒にロケをしている時と同じ表情だ。ファンサービスが旺盛なことで。
ストッキングを洗濯カゴに脱ぎ捨て、よれよれのブラウスを気遣う余裕もなくワンカップを掲げている社畜の姿を客観的に捉えると頭痛がするが、アルコールを摂取すればそんなものどうでもよくなるだろう。そういうことにしておく。
とりあえず酒だ。わたしは小さなガラス瓶から蓋を取り除き、言い訳を零す。
「在庫はこれだけでした。紀州南高梅酒です」
「しかも百円ちゃう奴やん! それ美味しいよなあ」
「そうです。これで優勝します」
「んふふ、ほい、お疲れ~!」
あくまでも小声ではあるが、随分と楽しそうにしてくれるので、こっちも気分が高揚する。雰囲気作りのプロの仕事振りは流石だ。
「今日もこない遅いってことは、お仕事大変やったんやんな?」
彼は僅か首を傾げて、ベランダの柵に上半身を預けている。
あの人気芸人にメンタルケアされている現実は、自分でもまだ上手く飲み込めていない。別途費用が発生するのではないか? 果たしてわたしに払えるだろうか?
「まあ……突発案件が複数出ましたけど、今日はマシな方ですね」
「いやーでも、疲れた顔しとるで。毎日偉いなあ」
「芸人さんほど肉体労働ではないので……いや、白膠木さんはどっちかって言うと頭脳を使う方が多そうですけど」
「まあ頭は使うかなあ……今はそれほどでもないけどな。お休み中やし」
缶ビールをくぴっと飲んで、彼は道路の向こう側に聳え立つ高層マンションへ視線を向けた。アレのせいでうちのマンションの日当たりはあまり芳しくない。
彼の横顔は、熱帯夜にも関わらず涼しげ────何処か寂しそうだった。
「こっちにいる間はメディアには一切出ないんですか?」
「んー、いっぺん考えてんけどな。中途半端なことしたら後に引いてまうからなァ」
「じゃあSNSも完全にお休みですか?」
「うん。戻ったら復活するから、またよろしくやで!」
「まずはちゃんと復活してくださいよ」
「当たり前やん! ま、当然みたいに席が残っとる世界ちゃうから、頑張るしかないねんけどな!」
胸を張る彼は自信に溢れた笑みを浮かべているけど、きっと見えないところで努力をしている人なんだろうなと思う。
そうだ、どつ本のふたりの直向きなところを、わたしは応援していたのだ。
「白膠木さん、ちょっと待っててください」
「んお?」
己の部屋に蜻蛉返り、目的物は冷凍庫の中。小袋ふたつの端っこを指先で摘んで、大股でベランダへと戻る。
小首を傾げて待っていた白膠木さんの目前に、白色の直方体を掲げた。
「暑い時はやっぱりこれ食べないと」
「わ、アイスや! いただいてええのん?」
「どうぞ。早く食べないと溶けちゃいますよ」
「えへ、ほないただきます!」
薄い包装を剥いで、ミルク味のそれに嬉しそうに齧り付く。夏休みの小学生みたいにあどけない姿にちょっとほっこりして、わたしもビニールを破いた。
「ふふ、これ、盧笙とよお食べたわ」
「そうなんです?」
「うん。定番の安いソーダのアイスもさっぱりして美味しいけどな、盧笙の好みはこっちやねん。ほんでな、あいつ家では滅多にアイス食べられへんかったみたいで、このアイス見付けたら、しょっちゅう買うとったわ」
躑躅森家が結構厳しい家庭だったというのは、ラジオで本人も言及していた。
『お上品なお菓子はよお出してもろたけど、駄菓子とかは簓に教えてもろたんです』
お菓子が出てきた、じゃなくて出してもらった、と表現するところに育ちの良さが見えるよね、とファンの間では話題になった一幕である。
「そういやなっちゃん、あの前説知ってくれとったから、結構初期から俺らのこと応援してくれとってんな」
「まあ、そうかもしれませんね」
どついたれ本舗と出会いは、大学に入学してすぐの頃だった。
サークルの友人と難波で遊んでいた時に、花月の前を通りかかった。その時の客引きが、たまたまどつ本のふたりだったのだ。
『おねーさんたち! このあと十五分後にな、俺ら漫才やらしてもらいますねん! チケット代タダなんで、お時間あったら是非観てってください!』
『お願いします!』
にこにこの緑髪と、オールバックのキツめの美人と。温度差の大きい二人組だなと思っていたら、友人が乗り気になった。暇潰しに丁度ええやん、と彼女がこちらの腕を引っ張るので、わたしも軽い気持ちで劇場に足を踏み入れた。
お笑いに詳しいわけでもない、関西の人間でもないわたしが楽しめるのか、という不安は、一瞬で杞憂に変わった。
それは間違いなく、人生の分岐点だった。
『はいどーもー! どついたれ本舗言います! 本日はよろしゅうに!』
彼らは前説だった。デビューしたての若手やな、と友人が事前に解説してくれていたので、なるほどなあと思う。
その当時はボケを躑躅森が、ツッコミをぬるさらが担っていた。お笑いに詳しくないわたしでも飲まれたが、既に片鱗は見えていた。
その日のネタの最後、彼らのボケツッコミが逆転した。あちゃあ、という顔をした躑躅森と、全力で楽しそうなぬるさらと。
この二人、立ち位置を交代しても面白そう。
友人も同じ感想を抱いていたらしい。気付けばSNSで彼らの情報を集めまくり、翌週からは劇場に通い続けた。
若手の舞台俳優を見守るのとよく似ているのだろう。我々は彼らの成長を心から喜び、影から応援し続けた。
サークルよりも劇場に通う方が楽しかった。大学の講義でへとへとになっても、彼らのお笑いを見れば疲労感は吹っ飛んだ。体力だけはあったから、たくさんバイトを掛け持ちして、あちこちのライブに足を運んだ。
彼らの快進撃は続いた。劇場だけじゃなく、朝のニュース番組でコーナーを担当するようになった。深夜のバラエティだけじゃなく、ゴールデンタイムのトーク番組でも顔を出すようになった。深夜ラジオのパーソナリティーになった時は、たくさんハガキを送ろうと心に決めた。
漫才グランプリも、彼らは難なく予選突破した。
最後の漫才も、劇場で見た。
躑躅森の辛そうな顔を見て、彼らの旅が終わったことを知った。
わたしも彼らと一緒に旅をしていたのだろう。
相方を失ったぬるさらをテレビで見るのは辛かった。でも、もう板の上にいない躑躅森を応援することもできない。わたしはどこか惰性に近い感情でぬるさらを応援していた。
『すんません、ちょいとパワーをチャージしてきますわ』
動画配信サイトのチャンネルでそう告げて、白膠木簓は表舞台から消えた。
その白膠木簓が、今はわたしの目の前にいる。
「こうして白膠木さんと一緒にお酒を飲んでるの、変な感じですね」
「言うてくれるやん、ま、未来なんてどうなるか全然分からんよなあ」
「そうですね」
本当に不思議だ。じっとり額に浮かんできた汗を拭いながら、アイスの棒きれを片手に、ガラス瓶に口を付ける。
もう中身は空っぽだった。それに気付いた白膠木さんがむふふと笑って「ええ夜やなあ」と煙草の煙を燻らせる。二十四時の足音が聞こえる。