「なんて顔してるんですか、白膠木さん」

 誰が見ても青白い肌をしていた。彼ははくはくと口を開くものの、全く声にならないようだった。
 躑躅森の、最後の舞台と同じだ。ぼんやりとそう思う。
 わたしが身に纏った中王区のロゴが入ったそれが視界に入ったのか、彼が信じられないようなものを見る目で凝視している。

「あなたは こんなところトーキョー にいるべきじゃない」

 全身の力を抜き、なるべく平常心のままに言葉を吐く。慈愛とはこれだと胸を張って。
 ここが山場だ。国会対応と何ら変わらない。淡々と資料を読み込んで、特に聞いてほしい部分だけ抑揚を付けて。いつもの仕事だ。

「解散してくれって言ったの、躑躅森なんですよね」

 彼の指が跳ねた。それはきっと、できれば二度と思い出したくない記憶だろう。
 だからこそ、掘り返すことが有効なのだ。

「どうして引き止めなかったんですか?」

 どうせなら飛び切り鋭利な刃物がいい。中途半端に傷付けるより、きっと治りは早いだろうから。

「お得意のお喋りで宥めすかして、ずるずる引き延ばして説得すれば良かったじゃないですか。『俺の相方はお前だけや』って」

 悲痛に歪んだ眉、震える唇。わたしの声は空気を伝い、彼の心の柔らかいところへ真っ直ぐ突き刺さって、突き破って。

「ファンのことを考えてくれないお笑いなんて、ただの自己満足ですよね」

 彼の肩がビクッと跳ねた。定番の文句だ。

「どうして躑躅森を手放してしまったんですか?」

 吐き捨てた言葉は白膠木さんの白い肌をザクザクと裂いて、真っ赤な血潮が噴き上げる夢を見る。
 彼の口角はずっと地面を向いて、薄い目蓋がきつく落とされている。

「どつ本のお笑い、本当に好きでしたよ」

 勝手に腕が動く。マイクの電源を入れて、そして。




 目覚めの朝は、絶望の朝だ。
 真正ヒプノシスマイクによる洗脳が解けたとしても、己の行いがなかったことになるわけではない。
 初めに正気に戻ったその日は仕事なんて全く手に付かず、久し振りに有休を消化した。何ならずっとトイレに籠もって吐いていた。一刻も早く気を失いたかったぐらいだ。
 次々と溢れる涙で前は全く見えず、吐き続けたせいで食道がヒリヒリと痛んだ。胃液は苦くて更に辛い。全く立ち上がれる気配がなかった。

「……何様の、つもりだ!」

 怒りで絶命するならいまだろうと、本気で思った。一番傷付いている本人に上から目線で好き勝手にぶつけて、わたしは。
 ただのファンが、最もやってはいけないことだ。彼らを思いやるなら、尚更。
 飴村乱数の本当の使い道────彼を 使い捨て・・・・ にする真正ヒプノシスマイクの計画については、わたしにはあらかじめ知らされていなかった。だから、対応策を練る時間はなかった。だから、仕方なかった。避けられない事象だった。山田零は、最初からこのつもりだった。
 そうやって己を正当化しないと、もう立っていられなかった。
 それでも朝日は昇り、有休には限りがあり、目の前には仕事がある。働かねば飯が食えず、様々な状況が悪化する。わたしは這々の体で出勤し、社会の歯車の使命を全うするしかない。
 出勤してすぐ、私用のスマホに着信が入った。表示された名前を見て、今すぐ端末をビルの外へ放り投げてやろうかと思ったが、何とか思い留まって給湯室まで急ぎ移動し、画面をタップした。
 三日で溶けた洗脳を笑いに電話を掛けてきたのだろうと、そう想像していたのに。

『おーおー、社畜には効果が薄いのかね……』

 言葉の並びと裏腹に、その声は随分と気落ちして聞こえた。
 しかし、わたしの洗脳が解けたことによる失望にしては、随分と湿っぽい。

『……今日は定時で上がりな。詫びに奢ってやる』
「結構です」
『そう言うなって。俺だって責任は感じてんだよ』
「…………」

 電波の向こうの声音に茶化す温度は一切なく、ただ切実にこちらに訴えかけてくる。
 この男がこれほど真剣な声で発言するのを、初めて聞いた。

「……分かりました。十八時には退勤します」
『破るなよ。んじゃ、いつもの店な』

 通話の切れた端末を作業着のポケットに突っ込んで、わたしは壁に背中を預けて宙を仰いだ。起きたことはもう引っ繰り返らない。




 十八時十五分、創作立ち飲み居酒屋の暖簾を潜る。相変わらず怪しげな関係者しか出入りしないこの店で、男は先に飲み始めることもなく、ただカウンターに上半身を軽く預けてわたしを待っていた。

「よォ。お疲れさん」

 カバンをカウンター下のカゴに入れて、山田が勝手に日本酒を注文する。酒に合わせて料理が出てくる。いつもの流れだ。

「……まず、お前には謝らなくちゃならねェ。悪かった」
「は?」

 幻聴かと思って隣の彼を見やると、深すぎるくらいに頭を下げた男がそこにいた。
 長身の男だから、普段その旋毛を見ることはない。新鮮な姿にわたしは固まり、いやそもそも、ここまで潔く謝る男だったのかと、目を白黒させるしかなかった。

「今回は俺の不手際だ。乙統女に裏を掻かれた」
「……この不手際がなければ?」
「お前は白膠木簓に意図せぬ暴言を吐かなくて良かった」
「……ですよね」

 細身のグラスに注がれたスパークリング日本酒は、普段だったら喜んで喉に流すのに、今はとてもそんな気分ではない。
 山田はゆっくりと頭を上げて、グラスを傾けた。

「別に許せとは言ってねェよ。ただ、お前との協力関係を解消する訳にもいかねェ。そこは、割り切って働いてほしい」
「もう、いいですよ別に、どうでも」

 自分でも思った以上に投げ遣りな声が出た。しかし、本心だった。
 心から応援していたお笑いコンビの片割れを、酷い言い方で傷付けて。あんなの、ファンの言動でも何でもない。ただの自己中心的な人間が暴言を撒き散らした、それだけだ。
 突然、山田がわたしの頭を乱暴に撫で回した。爆誕した鳥の巣を認めて彼はふっと笑う。成人女性に対する気配りはどこに。

「……今後の動きを考えると、良くねェんだよな、これがよ」
「それはあなたの仕事では」
「下準備が整ってこそだっつってんだろ。ま、幸いにも白膠木簓には、お前の使ったらしい違法マイクの効力で、お前の記憶は綺麗さっぱり消えてる状態なわけだが」
「…………そうですか」

 少し安堵する。あれだけ酷いことを言われて、彼が傷付かないはずはない。その現実が彼の中でなかったことになっているなら、少しはマシな状況と思って良いのだろうか。

「でも、いつか思い出してしまう日が来るのでは?」
「まあな。それに、お前のことをいつまでも忘れててもらっちゃ困るんだよ」

 不可思議な言い回しだ。カウンターから出てきた銀杏の天ぷらをつまみながら、わたしはその言葉を噛み締めてみる。

「……やっぱり山田は信用できない」
「そこに行き着くのかよ」
「当然では?」

 じとっと男を睨み付けると、わりーわりーとさっきとは違って随分軽い調子で謝ってきて、貝割れ大根とレバーペーストのサラダの皿をこちらにずいずい押してくる。野菜も食え、なんてまるで父親みたいな口振りで。

「ま、信用を取り戻すまでを含めて、俺の仕事だからな。……で、本題だ。ディビジョンラップバトルが本格化したら、第二弾は地方ディビジョンにも焦点が当たるだろ? 白膠木簓の出身は?」

 仕事柄、状況分析が癖になっていたのが良かったのか悪かったのか。レバーペーストをバケットに塗りながら、素直に答えたくないので横道から答えを返す。

「……彼の、今のチームメンバーはどうなるんです」
「あのままじゃ強くなりすぎんだろ。じきに強制的に解散させられるだろうな」
「本当に何から何まで胸糞悪いですね」
「お前、なんか口悪くなったな」

 一体誰のせいだと思っているんだろう。苛立ちながらグラスを呷ると、すぐに次の日本酒が注がれる。

「……自分の尻は自分で拭きます」

 年寄りに聞かせたい言葉だなァと男が茶化す。わたしは鯖寿司を頬張って、ふんと鼻を鳴らした。
 白膠木さんを傷つけたのは、結局はわたしの弱さが原因だ。許されるかどうかじゃない。一生をかけて償うだけだ。

「いや、お前は罰ならもう受けてんだろ。あっちは記憶持って行かれてんだぞ」

 何でわざわざ傷付きに行くんだ、と山田が呆れたように肩を竦める。決まっている。

「わたしはどついたれ本舗のファンなので」
「よく分かんねェな」

 男田は目蓋を落として、アルコールで唇を湿らせる。分かっていただかなくて結構。




 感傷に浸る余裕は全くなく、業務は次から次へと湧いていた。シンプルに本業のものから山田関連のものまで、雑多にごたごたと目の前に現れるので、ひとつひとつ処理するしかない。
 気付けば数年経ち、わたしはオオサカ庁舎への異動が決まっていた。地方ディビジョンの担当だの何だのと枕詞が付いていて、やはり山田の読み通りに事が動いているらしい。
 もやつく内臓を抱えたまま、与えられた業務担当はオオサカディビジョンにおけるラップバトルに関する諸々だったため、更に内臓がキリキリと悲鳴を上げた。
 今更どんな顔で白膠木さんに接しろと言うのか。いや、答えは決まり切っていて、イケブクロでの出来事を全てなかったことにして振舞えば良いというだけのことだった。向こうは綺麗さっぱり忘れてくれているので。
 チーム結成届を提出するために役所の窓口を訪れた白膠木さんは、わたしのことなんて覚えていないはずなのに、透明のパネル越しにわたしを「なっちゃん」と呼んでから、自分でも不思議そうに首を傾げていた。
 わたしの涙腺は勝手に緩んだ。
 本当に取返しのつかないことをした。これはわたしの罪だ。




 山田のせいで、何故か新生どついたれ本舗の飲み会に参加することになってしまった。そんな奇妙な現実があるか?

「いーじゃねーか、お前は推しに会えて、ついでに罪も償えるだろ?」
「ついでに償うものじゃないです」

 ぴしゃんと言い切ったものの、その後のわたしの態度こそ曖昧で酷かった。
 躑躅森家の近所だという海鮮居酒屋は、三人でよく来るらしい。今日、躑躅森は遅れてくるから、とあまり参考にならない情報を得たが、彼がいつ来ても心臓に悪いことに変わりはない。だって推しだぞ。
 しかも山田はわざわざわたしを白膠木さんの隣の席に座らせた。こっちは勝手に胃が痛いんだが。そのおじさんのお茶目な心遣いは逆効果なので全力で控えていただきたい。
 とりあえず躑躅森が来るまでに多少の正気は失っておく方が良いかと思い、それなりにアルコールを摂取したものの、緊張が上回って全然酔わなかった。酒に強い己の体質を初めて恨んだ。
 しかし、推しとの対面は心配した程の失態を披露することにはならなかった。
 それは、過去に生で舞台上の躑躅森を見たことがあり、一ミリ程度の経験値が植わっていたからだった。実際には早口オタク仕草を封印することに一生懸命で、「わたし失敗しないので」ではなく「わたし失敗できないから」と偽ダイモン先生になっていただけなのだが。
 躑躅森と対面で会話をして思ったのは、彼が健やかに人生を過ごしてくれたらそれで良いという、本質的な願望のみで、至って普通のファンの姿でいられたと思う。
 そう、問題は。

「白膠木さん、あんまりお箸が進んでないみたいですけど、大丈夫ですか? 空きっ腹にアルコールは良くないですよ」
「はえ? や、食べてるで! 自分も言うてそない食べてへんのちゃう? 遠慮せんといっぱい食べや!」
「ありがとうございます」

 時折白膠木さんらしくない、上の空な様子が垣間見えた。やはりわたしがこの場にいることで、彼の記憶が不安定になっているのではないかと思う。
 躑躅森はすっかりおねむの時間らしく、山田がよっこいせーとか良いながら運搬していった。なるほど、だから彼の自宅の近所で飲み会をするのか。
 いや、納得している場合ではない。卓に残されたのはわたしと白膠木さんの二人だけ。勝手に気まずいし申し訳ないし、急に料理の味も分からなくなった。
 グレーのパーカーにチェック柄のパンツといった彼のカジュアルな私服も、思えば初めて見る。イケブクロでの彼は、やはりただの一面でしかなかったとやはり今更ながら気付かされた。

「……なあ自分、俺らのラジオて聞いてくれとった?」

 極めつけにこの台詞である。
 不安げにこちらを見やる白膠木さんに、本当は知らない振りで通し切る方が良いのだろうと思う。わざわざ彼を傷付けてまで、わたしの都合を優先する理由はない。
 なのにわたしは、愚かにも彼の言葉を肯定した。

「ほなハガキも出してくれとった?」
「……まあ、はい」
「そうなん、嬉しいわ! ほなラジオネームは?」

 心臓が跳ねる。逃げ道を塞いだ。どうせ、彼にはいつか思い出してもらわなければならない。だったら少しでも早い方が、彼の傷が浅くて済むのではないか。できることなら、他人事みたいな記憶として蘇ればいい。

「…………当ててみてください」

 声が震えないように、彼の顔を真っ直ぐに見詰めて告げた。

「……『不眠アラモード』さん? ちゃうんかあ、ほな『長女N』さん? 『トマト撲滅委員長』さん? ちゃう? んーと、ほな『みりんレモネード』さん? ハズレかァ! ほな『出勤プリン』さんは? ええっ、これもちゃうの?」

 白膠木さんは、出会った日のそのままを繰り返すように、うんうんと唸って候補を投げ上げる。彼にとっては、思い出さない方が良いと分かっているのに、わたしは止めることができない。

「あ! ほな『ルート七』さん?」

 ……降参だ。白膠木さんは何だかんだ、きちんと正解に辿り着いてしまう。
 わたしは嬉しそうにラジオネームを呼ばれて、複雑な気持ちを隠せなかった。はしゃぐ彼の声はどんどん遠ざかって────いや、止まった。

「……待って、これ、前もおんなじやり取りしとる、よな?」
「……はい」

 嘘は、吐きたくなかった。
 素直に返事をしたのち、白膠木さんの表情から、笑みが消えた。

「ッ!」
「白膠木さん!」

 急に彼は頭を抱えて、椅子の上で蹲ってしまう。眉間には深く皺が刻まれ、痛みを堪える声が微かに漏れた。思わずその背を擦るも、いや痛んでいるのは頭の方で、かと言って成人男性の頭を撫でるのはいかがなものか、とわたしの手が勝手に忖度して躊躇った。
 時間にすると、結果的には数十秒も経っていなかったと思う。

「……はー、あたた、ごめんな、急に頭痛なる時あってなァ」

 へらりと笑って顔を上げた彼に、わたしは必死に首を横に振った。

「いえ、お気になさらないでください。躑躅森さんも天谷奴も帰ってしまったので、今日はこの辺りでお開きにしましょう」
「んー、せやな、結構ええ時間やし」

 白膠木さんも同意して、二人で卓の上の皿を片付け始める。
 随分と痛そうだったが、そう簡単に記憶が戻るものでもないだろう。そう自分に言い聞かせて、会計のためにレジへ足を運んだ。




 遅いし駅まで送るわ、と言って聞かない彼の言葉に甘えて、近くのメトロまでの道のりを並んで歩いた。人通りは少なく、秋の虫の鳴き声ばかりがよく聞こえる。
 イケブクロにいた時は、もっとしょーもない話を繰り広げて、けらけら笑っていたものだった。今のわたしの彼の間には子ども一人分ぐらいの距離が開いている。
 途中の自販機で水のペットボトルを買って、ちびちびと飲みながら進む。幸い、終電までまだ十分な時間がある。早めの解散で有り難い限りだ。

「しっかしまあ、なっちゃんも人が悪いなァ」

 白膠木さんは独り言みたいに零して、ペットボトルを口元に傾けてから歩道のど真ん中で立ち止まった。

「……白膠木さん?」

 空耳かと思って、わたしも歩みを止める。小さな星がちかちかと瞬く夜空を見上げていた彼の手が、気付くとこちらの手首に巻き付いていた。
 長い指が皮膚越しに、骨を柔く撫で上げる。

「どーにも俺が思い出さへんように頑張ってくれとったみたいやけど」
「な、」

 握っていたペットボトルが地面に一直線に落ちていく。一気に血の気が引いた。
 彼の視線が、ゆっくり空から降りてくる。とてもじゃないが視線を重ねられなくて、わたしは真っ黒なアスファルトに急いで焦点を合わせた。

「あーちゃうて、分かっとるよ。真正ヒプノシスマイクやろ。あん時のなっちゃん、洗脳状態やったんやろ? 俺もそれ浴びたことあるっぽいし」

 今日の晩ご飯のメニューを諳んじるみたいに、彼は淡々と言葉を紡ぐ。

「自分、俺んこと傷付けた~思うて、合わす顔ないわ~とか、そないしょーもないこと考えとったんちゃうん?」
「しょーもなくなんて、」

 まあまあ、と彼の丸い声が夜風に乗って肌を撫でる。
 躑躅森とはしゃぎ倒している時の声じゃない。寝入り端に聞くのが正しいような、角の取れたやわらかな音だった。

「生きとって一度も他人を傷付けへん人間なんて、おらへんやん」

 彼はよっこいせと言いながら腰を折り曲げて、わたしの足元に転がったペットボトルをもう片方の手で拾い上げる。ほい、と手渡されたそれは、街灯に照らされて白く泡が浮かんでいるのが見えた。
 彼の視線は、握り込んだわたしの手首に落とされている。

「人間て何やかんや言うて頑丈やんか。失敗して傷付いて、そこで終わるんやなくて、次があるやろ。俺かてな、盧笙と解散してめちゃくちゃしんどくて、でも、左馬刻と会えたし、なっちゃんとも会えた」

 んー、独り言多なってきたから自分も喋ってくれへん、なんて勝手な言い分で、彼はわたしの脇腹を肘で突く。

「全部なかったことにすんのなんか、勿体ないやんか」

 やってほら、俺あれやん、自分にちゅーまでしてもたんやで。
 囁くように耳元に声を零されて、わたしは飛び上がりそうだった。さっきまで飲み会で躑躅森さん相手にはしゃいでいたのと、本当に同一人物か疑わしいくらいの、その。

「ぬ、」
「せやからな、ほらアレやって、順番無茶苦茶でごめんなァて話や!」

 思えば最初っからぜーんぶ間違うとってんけど、でも、それも含めて思い出にしといたら、まあいつか笑い話になる日が来るやろて。
 もう片方の自由な手が、わたしの耳柄をくすぐった。彼の額が右肩に落ちてくる。犬のようにぐりぐりと押し付けて、彼がくふ、と笑った。

「自分が盧笙推しなん知っとるけど、ぶっちゃけ盧笙推しやったら負ける気せんねんけど、アレやわ、俺、なっちゃん好きなんよ」

 風が止んだ。遠くで微かにメトロのアナウンスが聞こえる。
 どないしたもんかなあ、と彼が呟く。俺、盧笙に勝てるんやろか、と続く。
 わたしははっとして、ばくばくと五月蠅い心音に更に緊張を煽られて、でも、今言うしかないと掠れた声を彼の鼓膜に流し込む。

「白膠木さん、わたしは推しにガチ恋するタイプではなくて」
「ん?」

 大きな疑問符が彼の背後に見える。そんなものは蹴り飛ばしておく。
 思えばこれが必然で、最善だった。形振り構わずに手に入れても良いのだと、直々に許しが出たのだから。

「……一度しか言いませんけど。こちらこそ、末永くよろしくお願いします」

 彼が顔を上げるよりも速く、彼の首許へ両腕を回す。えっ嘘、ほんまに、ちょい待ってこれ何も見えへんねんけど。慌てる彼の声が小気味良いことを、改めて知る。

「ほなあれやで、まずはお名前からやな」
「本当に最初っから全部間違ってましたね、わたし達」
「ま、おもろいからええやん!」

 二十四時の足音は、すっかり遠くへ去っていた。

10|不可視も積もれば

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