新幹線から降り立って、久々のオオサカの空気を肺に押し込める。お好み焼きのソースのにおい、おばちゃん達の笑い声、右寄りに立つエスカレーター。やっと帰ってきたなあ、と思う。
 傷を負って、帰ってきた。
 何で自分が左馬刻にあんなこと言うたんか、今でも分からへんかった。
 結局、向こうでも相方は見付けられへんかった。オオサカでも組みたい言うてくれる奴はいっぱいおったけど、首を縦には振れへんかった。やっぱ、俺は死ぬまでピン芸人なんやろな。
 やって、盧笙と組まれへんのやったら、俺のお笑いはひとりでするしかないやん。
 事務所に先輩芸人たち、テレビ局、ラジオ局にとあちこちに挨拶回りして、今まですんませんでした、また芸人として頑張っていきますとしっかり頭を下げた。甘い世界やないと分かっとったけど、そこはまあ、実力勝負や。
 ピン芸人でグランプリ賞を貰うような立場になっても、やっぱコンビの「どついたれ本舗」の記憶が風化してへん人からは、どうにも同情の眼差しが薄ら滲み出とった。
 ほんで、俺は大事な何かをぽっかり忘れとるような気がしとったけど、結局、頭ん中がずーっともやもやしとって、どうにもならへん。まあ何とかなるやろと未来の自分を信じて、深く考えるんは止めた。
 毎日は慌ただしい方がええ。賑やかな方がええ。余計なこと考えやんで済む方が、多分ええ。




 中王区から自宅にヒプノシスマイクが届いて、ディビジョンラップバトルに参加することが決まってもうた。バトルはチーム戦。かと言うて、今お笑いやっとる人間で一緒に組みたい奴はおらんし、どないしたもんかなあと悩んでまう。
 ぐるぐる考えて思い至るのは、結局のところ元相方やった。
 そんで紆余曲折を経て、どついたれ本舗はトリオとして生まれ変わった。また盧笙と組める喜びで、俺のテンションは鰻登りに等しかった。若干鬱陶しいて言われて凹んだけど、それすら懐かしい。涙腺弱なったかな。そんだけ歳取ったってことやろか。二十六歳てもうちょい大人やと思ってたんやけど、いざ自分がなってみると妙な感じやな。
 ラップバトルに正式に参加するには、まずチーム登録の申請書類を提出しやなあかんくて、平日に休みをもぎ取れる俺が役所まで出向くことになった。盧笙は平日長いこと仕事やし、零はよお分からんし。まあこれもチームリーダーの勤めなんかな。
 駅近やったのが幸いして、迷わずにオオサカ庁舎へ足を踏み入れることに成功した。役所の手続きは電子申請が結構進んできとるけど、ディビジョンラップバトル関連は他に事情でもあるんか、結局窓口まで行かなあかんからぶっちゃけ面倒くさい。はよ改善されへんかなあ。
 そーいや、芽が出んくて養成所辞めてもた奴の中で、こん役所で勤務しとる奴おったな。名前なんやっけ、いやそもそも部署知らんし会われへんか。折角の機会やけどしゃーないなあ。
 政治機能は中王区にほぼ集約されて、地方分権は実質瓦解してもうとった。この旧オオサカ府庁は、今や中王区の出先機関みたいな扱いらしい。現代社会の教科書は掲載内容を急に大幅改定せなあかんくなって大変らしいわ、と盧笙がぼやいとったのを思い出す。盧笙は数学担当やからそない影響受けてへんみたいで良かったけど。
 総合窓口の看板をつらつら視線で追って、目的地が四階にあることが分かった。エレベーター乗っても全然ええねんけど、運動不足が気になるから階段で行くことにした。いやー俺偉いわァ。喫煙しとったせいでちょい息切れすんのは置いといて。
 今は禁煙頑張っとるもん。運動不足かて頑張って解消するもん。
 目深に被ったキャップとマスクで変装しとるから、一応擦れ違う人らに俺の正体はバレてなさそうやった。髪色でバレるて盧笙には散々言われたけど、役所に来る人らてみんな忙しそうで、来訪者をジロジロ見るような輩はおらんくてほっとする。
 今日は久し振りに一日丸ごと休みやから、晩ご飯の買い出ししてから盧笙ん家に突撃するSランク級任務が待ち受けとる。何せ今日はタコパや。用事はスムーズに終わらせやなあかんのや。
 ゴシック体で掲げられたディビジョンラップバトル受付窓口の文字を見付けて、俺は歩を進める。周囲におったガラの悪そうな兄ちゃん達は、どうやら受付を終えて帰るとこらしい。チンピラみたいな見た目の奴は置いといて、ファイナルバトルにまで上り詰めよう思うたら、結構な数を勝たなあかんのやろな。

「すんません、ラップバトルの書類出しに来たんですけど」
「はい、こちらでお預かりします」

 作業着の職員さんがにこやかに応対してくれて、椅子を勧められる。パイプ椅子に手を掛ける際、目前の職員さんの顔を何となく見る。
 なんか、どっかで見たことあるひとやな、というのが第一印象。

「……なっちゃん?」

 口からするりと出た言葉は、完全に俺の意識の外側やった。

「ッ!」

 突然締め付けるような、揺さ振るような、打ち抜くような痛みが頭に走って、思わず床に蹲る。手に持っとったチーム結成の申請書類が床にひらりと舞い落ちてまう。はよ拾わなあかんのに、思ったより頭の痛みの波が大きくて、手が伸びひん。

「だ、大丈夫ですか? パイプ椅子で申し訳ございませんが、どうぞお掛けになってください。こちら、失礼しますね」

 職員さんの声はほんの少し、震えとった。
 受付ブースからささっと出てきてくれはった職員さんが、俺の代わりに紙きれを手際よお拾い上げてくれて、俺が椅子に座るのを手伝ってくれた。そのまんま、手早くブースの向こうに戻ってまう。
 机の上で白い指が記入済みの欄を順になぞって、不備の有無を確認しとるのを、ぼんやり眺める。
 時々こーゆー頭痛が発生するねんけど、原因がよお分からんのよな。病院で検査もしてもろたけど、特に異常なして言われたし。痛みの持続時間が短いから、今は多分問題ないんやろけど。

「……記入内容に問題はございませんでしたので、こちらの書類で受付しておきます。ご足労をおかけしました」
「おおきに」

 会話はそこで終わるかと思った。けど、職員さんの視線が俺の顔にじっと突き刺さるもんやから、俺も客商売の反射で首を傾げてもうた。

「……体調は、大丈夫ですか?」
「へ? あ、ハイ、すんません大丈夫です!」

 純粋に俺んこと心配してくれてはるだけやった。なんや俺、自意識過剰みたいやん。
 大丈夫やて返事した後、彼女の表情は少しだけ緩んだ。
 やっぱ俺、彼女とどっかで会うたことあるんちゃうか。そないナンパ師みたいなこと言えへんし、まだちょいずきずき痛む米神を片手で押さえながら無難な「ほな失礼します」を返すしかなかった。




 盧笙ん家で開催したタコパは大盛り上がりで、盧笙が盛大に酔い潰れて爆睡を開始した頃、零のおっさんが妙なことを口走り始めた。

「ラップバトルで支障がないように聞いておきたいんだが……簓は時々、頭が痛むような仕草をするだろ。持病か?」

 このおっさん、ほんま人んことよお見とるわ。弱味見せたらぜーんぶ後から利用されそうよな。今はまあ、チームメンバーやからええねんけど。残念ながら素性が怪しすぎるし、まだ全面的に信用できひんのよな。

「んや、俺自身は至って健康的や思うけど……」

 はあ、とおっきい溜息がテーブルに零される。あのなあ簓、とおとんが子どもに言って聞かせるみたいな口振りで。

「蹲りそうになるくらいの頭痛ってーのは、どう考えたって結構酷い方だと思うぜ。検査はしてんのか?」
「おっきい病院でしてもろたけど、異常なして言われたわ」
「ふうん……頭痛、どんな時に起きることが多いんだ?」
「ん? えっと……」

 しばし思案する。どんな時て。言われてみたら、確かにいつやろ。朝とか晩とか、時間帯は特に決まってへん気がするし、天候に左右されとるわけでもない。ああ、でも。

「何か、忘れとるんかもしれん。そんで、思い出そうとしたら急に頭痛なんねん」
「ほォ……」

 顎に手ェ当てて、目ェ細めた胡散臭い顔をしとる。そんで俺んこと頭から足の先までじーっくり見てくるもんやから、なんや気色悪いわ。

「何やねんな、その視線」
「いーや?」

 痛み止めは常備しといた方がいーんじゃねェか、と当たり障りのない助言を添えられ、俺は口籠った。その痛み止めを飲もうにも、痛みが予測できひんから困っとるんやん。

「……おっさん、妙な動きしとるからな。俺がちゃんと見張っといたらんと」
「そいつは結構」

 俺が話を逸らしたことを敢えて言及することもなく、零は豪快に笑うて、缶ビールの残りを飲み干した。盧笙の鼾だけが暢気に響いとる。




 ディビジョンバトルに備えて、盧笙の特訓にも力を入れて。当然お笑いの仕事もバリバリ頑張って。毎日がおもろくて、これ以上はないてくらいの日々を過ごして。季節は秋の始まりやった。
 バトル関係の申請書類、なんぼほどあんねんと文句垂れながら、俺はまたしてもオオサカ庁舎に向かっとった。しかも一部書き方難しくてよお分からんし、直接教えてもろた方が間違わんでええやろという理屈である。役所の文書て目ェ滑るんよなァ。
 盧笙は今日、学校の体育祭出とって、零はまた謎の仕事でオオサカおらんくて。結局俺が提出する羽目になるんよな。なんやちょいと損な役回りな気ィしてきたわ。
 アレや、学校行事は全部おかんが出てくれて、おとんはなーんもしてくれへんーて奴。俺おかんか。てか俺の実家まんまやんけ。なはは。
 建物の入り口に入って、総合掲示板を見る。前と違って受付ブースが縮小されてもうたんか、なかなか目当ての文字列が見付からへん。
 こら職員さんに聞いた方が早いな、と周囲を見渡して、アッと小さく声を上げた。
 こないだ受付におった、あのひとや。たまたま廊下を歩いてはる。ラッキーや、とりあえず声掛けよ。今日も目深キャップにマスクの不審者やけど、もしかしたら俺のこと覚えてくれとるかもしれんしな。
 仕事のトーンほど高すぎず、でも明るい声がベストやな。ゆっくりと彼女へ向かって歩を進める。

「こんにちはあ」
「はい、何かお困りですか?」

 彼女は先日と同様に、にこやかに答えてくれはる。公務員も最早サービス業の一種やもんな。クレーマー対応とか大変そうやし、笑顔は標準装備やと思われる。お疲れさん。
 彼女は両腕で抱えとった紙ファイルを片手で持ち直して、俺の手元の書類を見やって瞬きした。

「やー、ちょいこれ、書き方教えてほしいんですけど」
「ああ、中王区へ提出する書類ですね。ご案内します。こちらへどうぞ」
「ほな失礼します~」

 案内されるがまま、建物の奥の方にあるちっこいブースへとことこ進む。
 やっぱ、直感が告げとる。彼女、過去に喋ったことあるひとや。
 彼女の首からぶら下がっとる名札を何となく見て、でも名前は見覚えないなあと思う。うーん、俺、人の名前覚えんの割と得意な方なんやけどな。
 パイプ椅子に腰を下ろし、提出が必要や言われてる書類を数枚、机の上に出した。

「これは全部書けたんですけど、こっちはイマイチ書き方合っとんのか自信なくて、確認もお願いしたいんですけど、ええですか?」
「承知しました、順番に確認しますので少々お待ちくださいね」

 彼女はボールペンのお尻で、俺の筆跡をひとつひとつ素早く辿っていく。

「……必要な書類が一枚抜けているようですので、急ぎ準備いたします。恐れ入りますが、少々お待ちいただけますか」
「全然ええですよ、こちらこそすんません。大人しゅう待っときます!」
「ありがとうございます」

 足早に職員さんの机の島へ彼女は戻っていき、自席らしきデスクでごそごそし始めた。
 彼女の後ろ姿を何となく眺めていると、引き出しから何やらクリアファイルを取り出しとった。あ、複写式の書類なんやな。そもそも中王区からあんなん送られてきとったっけ? ないな、俺の不備やなくて中王区の不備っぽいな。こそっと胸を撫で下ろす。
 ん? お姉さんが持っとるあのクリアファイル、どついたれ本舗の────盧笙と組んどった時のツアーグッズちゃう?
 うわ、お姉さん涼しい顔して接客してくれとったけど、実は俺らのファンやったん!? え、どないしよ、嬉しいなあ。
 三センチヒールのパンプスで、彼女は小走りでこちらに戻ってくる。そない急がんでも全然ええのに、気ィ遣わせてもうたわ。いや、ぶっちゃけそれどころやないねんけど。

「大変お待たせいたしました。こちらの……」
「あの、すんません!」
「はい?」

 前のめりに訊ねる俺に、彼女はぱちくりと瞬きした。すまんな、折角書類の説明しよ~て気合い入れてくれたとこやのに。

「昔のどついたれ本舗、応援してくれてはった方ですか? あの、躑躅森と白膠木のコンビの!」

 あの、クリアファイル見えたんで、もしかして、て思うたんですけど。
 お姉さんの目がさっき以上に真ん丸になって、ほんで、みるみるその瞳が涙の膜で覆われてってまう。数秒で決壊寸前やった。
 え、ええ! 嘘やん、泣かしてもうた! 慌てる俺を手で制止して、お姉さんは顔を伏せてしもうた。

「も、申し訳ございません、感極まってしまって」
「あやー泣かんとって! こっちこそ応援してくれてはったん、めっちゃ嬉しいです! おおきに!」

 職員さんは作業着のポケットから自分でハンカチを取り出して、手早く涙を拭ってから、ほどけるようにはにかんだ。
 ……待って、いま心臓から変な音してんけど。
 え、何なん今の。俺の身体大丈夫か? 冷や汗かきながら心配しとる俺を他所に、彼女はもう涙腺を閉め終わったんか、着々と仕事を進めてってまう。
 いや、俺ぼーっとしとる場合やない。書類ちゃんと書かんとバトル出られへんくなってまうもん。急ぎボールペンを動かして、設問に詰まると彼女の指が丁寧に教えてくれて、何とか無事に書類は完成した。

「それではチーム『どついたれ本舗』、確かに拝受いたしました。後日、中王区からチームリーダーあてにトーナメント戦の連絡がありますので、よろしくお願いいたします」
「おおきに、お手数おかけしました」
「とんでもございません」

 会話はそこで終わってもた。俺も、これ以上会話を広げる糸口を見付ける時間と余裕がなくて、しゃーなしで席を立った。
 涙を零した後、彼女の瞳が僅か寂しそうに揺れとったのが、なんや忘れられへん。




 今日は零がご飯食べよ~て提案して、盧笙ン家の近所の居酒屋の前で待ち合わせやった。数学教師殿は、職員会議が長引きそうやて連絡あったから途中合流や。学校のセンセていっつも大変そうやわ。
 待ち合わせの十五分前。零はしょっちゅう遅刻しよるやろから、俺は先に店ん中入って優雅に待っといたろて思うたのに。意外にも長身のおっさんが、隣のお好み焼き屋のすぐ傍で誰かと喋っとった。
 零の隣におるんは、後ろ姿やけど若い女性や。声までは聞こえへん。
 おっさん、ナンパしとるんちゃうやろな。忍び寄って驚かせたろ、と気配を消して近付いたんやけど、零より先に女性の方が俺んこと気付いてしもうたらしい。声こそ出さへんかったものの、目を真ん丸にして硬直しとる。
 零もそんな彼女の様子にすぐピンときたんか、「早かったな」とこっちも見んと言うてくる。はー、全く可愛げのない反応やで。まあ、おっさんに可愛げあってもしゃーないかもしれへんけど。
 彼女、なんか見覚えあるひとやなあ。思ってから、脳内のピースがぴたりと嵌まった。

「あ! あン時の受付のおねーさんやん! 零と知り合いやったんや!」

 お姉さんはどうもこんにちは、と俺に丁寧に会釈した後、零を見上げてちょっと嫌そうな顔をしとった。

「腐れ縁です」
「全く、酷ェ言い様だな」

 零が即座に言葉を跳ね返したかと思うたら、彼女の視線は気まずそうに逸らされる。零はずーっとニヤニヤしとって、彼女の言う腐れ縁て単語は、多分間違ってないんやろなあと思う。
 しっかし零て何や、あっちゃこっちゃに知り合いおるんよな。

「ん? ほな俺もう変装要らんな? マスク取っといてええよな?」
「今更だな。ほれ、芸人の白膠木簓だぜ」
「わ、分かってますよ。お目にかかれて光栄です」

 彼女は受付におった時と全然雰囲気ちゃうくて、一目見て緊張しとるんが分かった。仕事とプライベートできっちりオンオフのスイッチ切り替えするタイプの人なんやろなァ。

「やーそない固ァならんでええよォ、零の腐れ縁なんやろ?」
「そーそー、気楽にしてろって」

 ……。おっさんがやけに親しげなんが、なーんか気になるな。
 彼女、どない見ても俺と同年代やし。役所の人やろ? こない怪しいおっさんと取引しとるとも考えにくいし、うーん。ま、酒飲みながら零に色々話聞いてみたらええか。

「そうだ、お前盧笙のファンだったろ、会わせてやろうか」

 名案だぜ、とか言いながら指を鳴らした零に対し、彼女は口をぽかんと開けて固まっとった。
 なるほど、盧笙のファンね。俺のファンかなて思うたら盧笙のファンやったなんて、何百回もあるもん。ええもん別に、慣れとるもん俺。ちょっと寂しいのもほんまやけど。
 まあそないな私情を剥き出しにする必要は皆無やから、俺はいつもどおりにこにこしとったらええねん。見慣れた白膠木簓像の方が安心するやろて。

「おっ、そやったん? ほな今日の晩ご飯、一緒に食べよや!」

 ついでに俺は彼女と喋ってみたい。なんや面白そうやんか。ファンの人と腰据えて喋る機会て、イベントぐらいしかないし。たまにはええやろ、こーゆーのかて。

「いえ、あの」
「遠慮せんと! な!」

 躊躇う彼女の背中を軽く叩くと、彼女は目を白黒させる。そんで数十秒の沈黙を噛んでから、消え入りそうな声で「よろしくお願いします」言うて頭をぺこっと下げた。




 盧笙が到着するまでに、彼女は結構なハイスピードでアルコールを摂取しとった。せやけど全然顔色変わらへんから、相当強いんやろなと思われる。零が驚く様子もないから、これが彼女の普段どおりなんやろう。
 でも、彼女の口数はそれほど増えへんくて、俺と零だけがずっと喋っとった。や、ちゃんと話振ったら答えてくれるけど、まだ余所余所しい言うか。なんやろ、彼女もっと喋るタイプやと思うねんけど。
 でも俺、何でそう思うんやろな?
 自分でもよお分からんけど、直感がそない言うとる。まるで彼女のこと、よお知っとるみたいな。まあでも多分、初対面やと思うねんけど。うーん。

「すまん、遅れたわ」

 もやもやしとる間に主役が遅れて登場した。彼女も心待ちにしとったやろう、躑躅森盧笙そのひとである。

「おー盧笙、今日は客人がいてなァ。俺の腐れ縁なんだが」

 零の前振りに盧笙はそうなん、と素直に返事しとる。彼女の様子はどないや、いきなり推し拝んで失神してへんか? と心配になって、俺は隣に座っとる彼女へ視線を向けた。

「突然すみません、お邪魔しています。やま……天谷奴とは古い付き合いでして」
「そうなんや、まあ男ばっかのムサい飲み会やけど、楽しんでくれたら嬉しいです」
「とんでもないです、ありがとうございます」

 仕事はディビジョンラップバトルの受付関係等諸々を担当しておりまして。運営側の人間なので表立って応援はできないのですが、いつも影から、心から応援していますので。あと、躑躅森さんと白膠木さんがコンビを組んでらっしゃった頃からのファンでして、今日は何だか夢のようです。本当にありがとうございます。
 みたいな感じのことを彼女はすらすら言うて、盧笙も嬉しそうに相槌を打っとる。や、嬉しいのめちゃくちゃ分かるけどやな。ビジネス猫被り全力百パーセントのファンを目の前にして、情けなくも俺は数秒言葉を失っとった。

「めちゃくちゃ淀みなく喋るやん自分」
「仕事用の自分便利ですよ」

 彼女にこそっと耳打ちしたら、そんな返答や。彼女は微笑んで日本酒をくいーと飲んどる。窓口で接客してくれとった時と全く同じ温度感。さっきまでの大人しい感じはどこ行ったんやろな。不思議やわァ。
 とりあえず盧笙が頼んだビールが届いたところで、宴会は始まった。
 ファンの前やと多少は緊張すんのか、盧笙もいつもみたいにすぐ潰れることはなく、彼女と雑談を繰り広げとる。今日は随分平和な飲み会や。
 零はそれを眺めながら枝豆を摘まんどった。もしや二人を肴に飲んどんのか、このおっさんは。

「いやー、いつか会わせてやりたいとは思ってたんだがよ、こんなに早く実現するとは思ってなくてな、おいちゃんは感動で前が見えねェぜアッハッハ」
「よく言う……」

 彼女が呆れたように呟いて、梅酒の入ったグラスを傾けた。

「このおっさんほんま適当やもんな。自分も大概苦労しとるんとちゃうか?」
「いえ、躑躅森さん達ほどでは……!」

 彼女はどっか照れたように視線を彷徨わせる。はー、ほんまに盧笙のファンなんや。誰が見たって一発で分かるわ。
 ちょっと胸がもやもやする。ん? 何で?

「……白膠木さん、ドリンク何か頼みますか?」
「ほえ? あ、んと、ほなビールで!」

 盧笙とずーっと楽しそうに喋っとったはずやのに、俺のジョッキの残量に気付く彼女すごいな。周りがよお見えてはるわ。

「白膠木さん、あんまりお箸が進んでないみたいですけど、大丈夫ですか? 空きっ腹にアルコールは良くないですよ」
「はえ? や、食べてるで! 自分も言うてそない食べてへんのちゃう? 遠慮せんといっぱい食べや!」
「ありがとうございます」

 彼女はにこやかにお礼言うてから、まだ熱い唐揚げに齧り付いとった。
 いくらファンが目の前におって格好つけたかて、盧笙のアルコール耐性はそれ程強ない。開始から二時間程度で、盧笙は結局机に突っ伏して寝てもうた。鼾だけが奇跡的に控え目や。良かったなあ盧笙。
 零はなんや完全に見守り体勢、っちゅーか動物園に来とる客みたいな感じや。俺らが檻ん中におるパンダてか。見せもんちゃうぞ。
 彼女はいっこも変わらんペースで酒を飲み干し続けとる。零とどっちが強いんやろと思いつつ、ふと彼女の顔に貼り付いとった愛想笑いがどっか行ったのに気付いてしもた。

「ちょいちょい、大丈夫か? いま魂抜けてへんか?」
「白膠木さんの前ならまあ良いかって……」

 彼女は俺の問い掛けで、ようやくへらっと笑った。
 え、盧笙と俺とで態度違いすぎひん? これが最推しとの差なんか?
 シシャモ冷めちゃいますよ、と彼女が淡々と言う。熱い方がそら美味しいわな、と俺は箸を伸ばした。零は俺らを眺めてニヤニヤしとるだけや。
 ……なんで俺を推してくれへんのやろ?

「え? 普通に応援してますよ」

 彼女がきょとんとした顔でそないなことを言うから、俺は飛び上がった。声に出とったとか、いや恥ずかしいわ! 誤魔化すみたいにシシャモを飲み込む。

「……普通とかおもんないやん!」
「ファンの前でなんてこと言うんですか。あと、昔関西にいた人間に向かって吐いて良い暴言じゃないですよ」

 へえ自分、関西おったんや。そらすまんな。
 ────いや、何やろ、それ、俺知ってる気がすんねん。
 まあ確かに盧笙てな、まず人として尊敬できるポイントが多いからな、ファンが多いのも分かるねん。むしょーに応援したくなるロショーやから……ここ笑うとこやで!
 つまりアレや、人に愛されるために生まれてきた男やからな、アイツは。

「分かる」
「分かるんかい」
「当然です」

 どや~て感じで胸を張る彼女は可愛らしい。ほんまに盧笙推し一筋なんやろな。
 盧笙推しの気持ちやったら俺かて全然負けへん! て息巻いとったけど、ぶっちゃけアレやん。俺のことだけ見とってくれたらそれでええんちゃうの?
 え?

「ヒュッ」
「過呼吸ですか?」
「いやそない平然と聞かれても! もうちょい慌ててくれへんの!?」
「紙袋がなくて口で塞ぐ漫画版渚でもやれば良いですか?」
「ヒュッ」
「いや冗談です怯えないで」

 折角彼女がネタ振りしてくれたんに俺はただのマジレスで、しかも無自覚の独占欲みたいなんがまろび出て、本気で慌てた。付き合ってもないのに! そもそもまだ彼女のことよお知らんのに! ウワッ重ッ怖ッ! 自分が怖い!
 え、そもそも何? 俺、彼女と付き合いたいん?
 いや今の俺酔っ払いやから、まともな思考ちゃうから。危ない危ない、一旦リセットしよ。まずは彼女のことを知ることからやんか。順番飛ばすのよおないわ。

「……なあ自分、俺らのラジオて聞いてくれとった?」
「はい、勿論」
「ほなハガキも出してくれとった?」
「……まあ、はい」

 気ィ付いたら、俺の口はすらすらと言葉を紡ぎ始めとった。まるで一回リハーサルでも挟んだみたいに、淀みなく。

「そうなん、嬉しいわァ! ほなラジオネームは?」
「…………当ててみてください」

 彼女が何故か、少しだけ真剣な表情で俺を見やる。緊張の色が透けて見えた。

「……『不眠アラモード』さん?」

 一番に思い付いた名前を挙げるも、彼女の顔色は変わらへん。手強そうや。でもまあ、おもろいハガキ書いてくれとった人のことは今でもよお覚えとるもん、絶対に当てたい。

「ちゃうんかあ、ほな『長女N』さん? 『トマト撲滅委員長』さん? ちゃう? んーと、ほな『みりんレモネード』さん? ハズレかァ! ほな『出勤プリン』さんは? ええっ、これもちゃうの?」

 いや、普通に手強いぞ。他の常連のハガキ職人さんで残ってるのて、下ネタのキツイのん……は、多分ちゃうやろし。あれやこれやと挙げてみるが、彼女の顔色に変化はない。
 むむむと唸りながら、頭ん中の抽斗をゴソゴソしてみる。折角やし当てたいやん。ええと、他に特徴的なハガキ職人さんは……。
 後から気付いたんやけど、俺がうんうん唸っとる間に、ぺろんぺろんの盧笙を送り届けるため、零は盧笙を背負って席を立っとった。俺、全然気付かんかったけど。

「あ! ほな『ルート七』さん?」

 抽斗の隅っこにおった名前を挙げると、彼女の瞳が大きく揺れた。確定や! 当たった~! はしゃぐ俺を認めて、彼女は苦笑いと共に、恐れ入りましたと頬を掻いている。

「そおかあ~! いっぱいハガキ送ってくれとったから、よお覚えとるよ! 実在するて分かったら何か感慨深い、なあ、」

 言い切って、俺は固まった。

「……待って、これ、前もおんなじやり取りしとる、よな?」

 喉からするんと言葉がでてきた。彼女はグラスを両手に、口を一文字に結んで俺を見上げとる。俺にまで、その緊張が伝わってきた。
 周囲は酔っ払いの声でかなり喧しかったはずやのに、音が止んだ。錯覚かもしらん。けど、彼女の瞳の温度は本物で、俺は。

09|燃える星もひとつの影なら

251031
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