第三次世界大戦の最中、父が亡くなった。今から十年近く前のことである。
主治医から告げられた父の死因は、心臓麻痺ということになっていた。真実は明かされぬまま、その身体はあっさりと焼かれ、白の骨だけが残った。
葬儀の日は、秋の終わりの重たい雨が降っていた。悲しみに暮れる家族を宥めるため、わたしは精一杯の虚勢を張る中で、山田零と名乗る男に出会った。
灰色と緑のオッドアイが印象的な、黒髪の癖毛で長身の男だった。
「少し、外で話せますか」
泣きじゃくる弟を母に任せ、わたしは渋い声に誘導されて、会場の外に出た。
父に買ってもらった、藍色の花柄の傘を広げる。目の前の男はビニール傘を開いた。雨雫が傘の表面を跳ねる。
男の無骨な手が、真白の名刺を滑らかに差し出した。そのまま受け取って、並んだ文字列を目だけでなぞる。軍事開発技術部、山田零。父の部下だと言う。
「このような時に申し訳ありませんが、お嬢さんにお願いがあり、参りました」
まだぶかぶかのセーラー服を着た小娘に随分と腰の低いことだ。思春期真っ只中、捻くれた十代のわたしの態度に気分を害してもおかしくはないのに、男は穏やかに言葉を紡ぎ続ける。
彼の視線はわたしの目玉をしっかり捉えて、少しも逃がそうとしない。
「あなたの父君には本当にお世話になりました。そして彼が行っていた研究は、私が引き継ぐことになりました」
「……そうですか」
いまいち何が言いたいのかよく分からない。研究の内容は家族であっても知らされていない。むしろこの男の方が、わたしよりも父のことを知っているだろう。わざわざそんなことを言うためにわたしを呼び出したとしたら随分と酔狂なものだ。
訝しむこちらを見下ろす男の真意は、遠いところにあるらしい。
「……お前が可能な範囲でいい、僕の家族を頼む、と言われてましてね。ただ、俺も慈善業者じゃァない」
わざと砕かれた態度と同時に、場の空気が一瞬で変わったのを悟る。肌をびりびりと刺激するのは、多分殺気に一番近い気がする。
傘から落ちた水滴が、剥き出しの手の甲に当たる。雨に濡れた玉砂利の上で、スニーカーの裏が少し滑った。本能で後退ったわたしを見やって、彼は喉の奥で笑う。
「君に研究を継いでもらうのが本望らしかったが……中学生のお嬢さんに押し付けたところで、なァ?」
男の眼差しは哀愁を帯びていたが、僅かに侮蔑の色も見え隠れした。
真実を告げられているだけだが、神経を逆撫でするような言葉を選んでくるから腹立たしい。思わず眉間に皺が寄るが、男は肩を揺らすばかりだった。
「ま、精々面白い人生を歩むことだな」
山田零は、時折菓子折りを持って家を訪ねてきた。何らかの義務感に駆られてのことだろうと思っていたが、それにしては頻度が多く、いよいよ彼の目的はよく分からなかった。弟の相手をするのがやたらと上手いので、息子でもいるのかもしれない。
弟に知育ゲームを与えて適当に褒めてやりながら、彼はブラックコーヒーを啜った。格別に苦いやつを出してやったのに、予想外に嬉しそうに飲むものだから腹立たしい。おじさんは毛根じゃなくて味覚から死んでいくのか。
後から知ったが、この男は苦味強めのコーヒーがお好みだったようだ。腹立たしいものである。
「研究は順調なんですか」
「随分切り込んでくるなァ」
嫌味を言ったつもりだが、軽くあしらわれて終わる。彼が圧倒的に大人であることに対して、わたしはやはり小娘に過ぎなかった。
客間である和室で、弟は寝転んだまま数字パズルに熱中している。一応客人の前なので窘めるも、山田零は好きにやらせてやりな、とわたしの頭を乱暴に撫でた。髪がぐしゃぐしゃになるのだが。
「……順調だぜ。で、今度開発チームを立ち上げようと思っている」
「一般人にそんなことを言って大丈夫なんですか?」
「お嬢さんは関係者だからな」
中学生を関係者にしないでください、と言って盆に乗せていた茶菓子を机の上に滑らせる。腹立たしいから小皿にも出さず、小包装のままだ。客人は片眉を挙げて「おっ、最中か。良いねェ」意外にも繊細な手付きで透明なそれを剥がしていく。
「研究者ってのは器用じゃねェとやってけねェのよ」
こちらの感想を見透かすような物言いに反論するのにも飽きていた。自分の倍以上の年月を過ごしている生き物を言い負かせるだけの技巧は、まだない。
まァ座りな、と何故か男に座布団を勧められ、わたしは仕方なく腰を下ろした。いつ来ても態度のでかい客人である。
「……わたしは別に、関係者じゃないです」
「ん? 俺は本気だぜ。お嬢さんには、そうだな……手始めに、国家公務員にでもなってもらおうかな」
くつくつと喉の奥で笑い始める男に、神経を逆撫でされるのが分かる。わたしは即座に立ち上がって、寛ぐ男を見下ろして口を開いた。
「勝手にわたしの将来を決めないでください」
「なんだ、他に夢でもあるって?」
嘲るような声音にかちんときたのは事実だが、素直に表現するのも癪に障るので、結局は仁王立ちのまま、従順な羊の振りをするに留まった。ままならない。立ち向かうための武器も防御のための装甲も、いまは圧倒的に足りない。
「……特にないですけど」
「じゃ、別に良いだろ。金を稼ぐ手段だぜ、仕事なんてな。公務員なら福利厚生バッチリだ。何か不都合があるか?」
「……わたしが国家公務員になったら、逆に何か良いことでもあるんですか」
「研究をスムーズに進められる」
食い気味に言い切られて、わたしは言葉を飲み込んだ。わたし自身には特段のメリットがないということを明言した形になっているのに、男は余裕と自信に溢れているように見える。訳が分からない。
煙草吸って良いか、と山田が尋ねたので、客間から続く縁側にその図体を押しやった。ガラスの灰皿を腰元に滑らせてやり、わたしは今度こそ部屋を出ることに決める。
この男も一服すれば研究室とやらへ帰るだろう。室内禁煙です、と何度目になるか分からない忠告を押し付け、ついでにごろごろしている弟を自室へ下がらせた。
父も喫煙者だった。このふたりは喫煙所で色々と会話を重ねたのだろうか。それこそ。
「……父との約束ですか」
「そこまで約束したわけじゃないが……まァ、研究が道半ばで途絶えるのは、あの人も本望じゃないだろうな」
またしても回りくどい言い方をするものだ。男は早速煙を燻らせて、灰色の空を見上げている。
湿度が高いから、もうじき雨が降るだろう。この男が訪ねてくると、不思議と高確率で天気が崩れるのだ。洗濯物を干している時は会いたくない。
「学校の成績はどんなもんだ」
外の電柱に視線を滑らせて、山田は独り言みたいな音量で零した。
「……まるで父親みたいなことを言いますね」
「お、冗談も言うんだな。で? 言えないほど悪いのか?」
「いつも学年五番以内には入ってます」
ニヤリと男が口の端を吊り上げた。勉強はきちんとしている。勉強のし過ぎで後悔することはない、というのが父の口癖だった。その教えはいま、わたしが弟に説いているところだ。上手く伝わっているかは別として。
「母君も国家公務員なんだろ? 色々聞いてみると良いさ」
そこだけ普通の父親みたいな口振りなのが、またむかつく。
第三次世界大戦の終結と共に、母は異動となった。元々全国転勤が前提の職業であったから、さくさくと引っ越しの準備を進めた。母は目出度くどんどん昇級しているらしく、今回はそれなりに重いポストへ据えられたとのことだった。思えば我が家は、見事な社畜の血筋だったのだろう。
母の新たな勤務地は大阪だったので、我々は母方の祖父の家に身を寄せることとなった。幼少期はよく祖父に面倒を見てもらっていたので、わたしも弟も特別な抵抗はなかった。
母は朝八時から夜二十三時まで働いているような、見事な社畜だった。家のことは祖父ありきで、しかしわたしも弟も、やはりその現状に慣れきっていた。
引っ越しを繰り返していると、自然と手荷物は減っていく。折角仲良くなった友達から手紙をもらっても、文通しようね、また遊ぼうねと約束しても、段々と疎遠になっていく。いつしか、当たり障りのない人間関係の構築が上手くなった。
大学生活を送る中で、山田零はちょくちょく家を訪ねてきた。大阪まで遠路遥々、と嫌味を言うも、彼は動じた様子もなく、いつも身勝手な要求だけを突き付けてくる。
この日もそうだった。
「研究室のバイトをしないか?」
第一声から胡散臭い。実のところ、この男が胡散臭くなかったのは、本当の初対面の一瞬だけだが、今日は格別だ。
「……わたしも忙しいんですが」
「就職にも有利になるぜ? それにお前の父親の研究の一助となる」
「…………」
結論から言うと、わたしはその要求を飲んだ。わたし自身は別に父親の研究がどうなろうと知ったことではないが、不安定な世界情勢の中、自分ができることを増やしておいて損はないだろうと思ったからだ。
データ分析のアルバイト自体は勉強になった。その研究室の教授と、わたしが所属するゼミの教授が知り合いだったことも大きな要因だったと言える。
どついたれ本舗の応援の合間に勉学とバイトを詰め込んで、それなりに充実した大学生活を送った。バイトの内容が軍に利活用されていることを知っても、結局わたしは辞めなかった。
どつ本の解散後は、卒論執筆とバイトに明け暮れた。現実逃避の手段としては優秀だった。
『もうじき完成するぜ』
わざわざ東京の研究所から電話をかけてきたかと思えば、肝心の主語がない。こっちは卒論執筆真っ只中なので、と言って通話を切ろうとすると、おいおい良いのかァ? とこちらを試すような物言いで男が笑った。
『お前の親父さんの悲願でもある────新たな兵器だよ』
父の研究目的が新兵器の開発だったと知っても、やはり軍の所属だからかと大きな驚きはなかった。その言葉の重みも、学生のわたし自身はどこか他人事で、そうですかと返して終わる。
『お前、人の話にもう少し興味持ったらどうだ? 振りだけでも上手になっておいた方が良いぜ』
思ったより真面目に諭すような声だったので、斜に構え過ぎていた自分を少し恥じた。確かに振りはできた方が良いに決まっている。ご忠告どうも、と返した。
『……世界情勢はずっと不安定だろ。俺は今、新たな兵器を開発する部署に所属しているわけだが……ただな、爆弾やら毒物やら、物騒なモンばっか作ってもよォ、ただ歴史を繰り返すだけだろ? だから発想の転換だ』
また今度、見せてやるよ。男は嬉しそうにそう言って、一方的に通話を切った。傍迷惑な男である。
その三日後、山田零はアタッシュケースを片手に、本当に家を訪ねてきた。
「流石に外じゃ見せらんねェからな。邪魔するぜ」
玄関ではきちんと挨拶をした上で大きな靴を揃え直す男だ。わたしの手には負えないと知っていて、結局言いなりになるしかない現実を実感して眩暈がする。
弟は友人の家に遊びに行っており、自宅にはわたしひとりだった。何も言わずとも男は察して、しかし帰ることなく屋内に足を踏み入れる。帰ってほしいが。
山田はやはり勝手に客室に入り、畳の上でアタッシュケースの御開帳と相成った。
銀色のケースの中には、マイクが一本入っていた。一般的にマイクと言われて思い浮かべる形状、五十八型だ。これが新たな兵器だと山田は言うが、とてもそうは見えない。
「手に取ってみな」
「嫌ですよ」
お前、好奇心足りてねェな。やれやれと大げさに肩を竦める男の背中を蹴り飛ばしたいが、体格的にわたしの足が負ける方が圧倒的に早い。悔しい。こんなところで無駄な好奇心を発揮したくはないし、足を痛める必要性も皆無だ。
「ヒプノシスマイク、と名付けた。軍の機密事項の中でも最重要ランクだ」
「は?」
「そりゃそうだろ、なんせお前は関係者だからな。きちんと情報共有をしたまでさ」
ぽかんと間抜けに口を開くわたしを見て、男はニヤニヤと口元を緩めた。
「正式に所属していないのに、情報漏洩では?」
「お前、まさか本気でそう思ってンのか?」
「…………」
「お前の心配は弟のことだけだろ。そこは安心して良い。あいつは軍とは無関係、お前とは違う。俺が保証するぜ」
「……信用に足りません」
「まあそう言うなって。お袋さんを悲しませたくはないだろ?」
いつもの物言いだ。舌打ちでもしてやろうか。
わたしが成人すると、山田は定期的に飲みに誘ってくるようになった。タダ飯を提供してもらえるという点意外に目ぼしい利点はないが、主には仕事の話なので、わたしに断る権利はない。
この男のせいで日本酒を飲むことを覚えてしまったが、まあ美味しいものを食べ飲みできることは、どついたれ本舗を失ったわたしにとっては唯一の楽しみのようなものだ。共に食卓を囲む相手としては最悪だが、時には我慢も必要なのが大人である。
立ち飲みの居酒屋で、これまた美味い創作料理の店に連れて行かれて、話す内容は他人にはわからないようにぼかされてはいるものの、やはり軍の機密事項である。飯が不味くなったらどうしてくれると噛みつくも、男はけらけら笑うばかりで何の解決策も出てこない。
今日とて最悪を更新する日だった。
「こういう役回り、好きだろ?」
「誰が」
二重スパイなんて冗談ではないと吠えるわたしのグラスに、男はなみなみと大吟醸を注いでご機嫌取りだ。トロたくを噛み締めながら山田を睨み付けると、器用だねェと適当に褒められる。全く嬉しくない。
こんなに美味しい料理を出す店なのに、店内にはわたしと山田、それからひょろひょろの男性二人組のみである。山田がぼそりと「あいつらは研究所の」とだけ言ったから、本当に関係者しかこの店には入れないらしい。
「思い出してみろよ、お前は今まで何を信念に踏ん張ってきたんだ?」
「流され続けてきただけですよ」
「はー、今更しょーもねー卑下なんか辞めちまえ!」
グラスを卓上にカツンと音を鳴らして置いて、絶対零度のオッドアイが射抜いてくる。今更そんな脅しで怯むような精神ではないが、一度覚えた恐怖の味はなかなか拭えないのが現実だった。
そもそも長身の男にガン詰められて平気な顔をしていられる女の方が現実的ではないだろう。動物的な本能だ。ただ席を囲んでいるだけなら何とでもなるが、この距離では物理的に敵わない。
「お飾りの脳味噌なんですーとか言いながら、お前は裏できっちり働くだろ。別に誤魔化すこたァない」
「貶すか褒めるかどちらかでお願いします」
「相変わらずジョークの通じない奴だな」
「生憎、お笑いの方が馴染みがあるので」
湯葉を飲み込んでから細身のグラスに手を伸ばす。
どうせ真っ白ではいられない。仕事そのものは誠実に進めてきた。そこに偽りはないし、手を抜いた覚えもない。
だからと言って、恐ろしい役回りを気軽に押し付けられて、はいそうですかと簡単に頷くほど従順ではないつもりだ。
判断ぐらいできる。いま、わたしはこの瞬間、目の前の男からの要求を跳ね除けるべきなのだ。生存のために必要な選択肢はきちんと見えている。
「言っておきますが、父を引き合いに出しても無駄ですよ」
「違うな。俺はお前の信条に訴えかけてるんだぜ」
「悪辣ですね」
「酷ェ言い草だな」
男は口笛をひとつ吹いて、グラスの中身を飲み干した。
「ま、お前はいずれ頷くさ」
「ご馳走さまでした」
交渉は決裂したはずなのに、山田はやたらと楽しそうだった。
飴村乱数のことは、山田零から聞いていたとおりだった。
中王区内にその研究室はあった。白衣を着用した研究員達が、虚ろな眼でせかせかと動き回っている。時々壁に貼り付けられている鏡に映る光景の中、作業着のわたしだけが異質に見えた。
研究員のひとりに案内されるがまま、施設内を奥へ奥へと進んでいく。外の景色は一切が遮断されており、だらりと伸びる廊下は蛍光灯が間引かれていて薄暗く、病院のようなにおいが鼻腔を刺激した。
最奥の部屋、一目見てかなり重厚だと分かる扉の前。研究員はわたしの手に鈍く光る鍵を握らせて、そそくさと踵を返した。扉には窓がなく、中に何がいるのかも分からない。
ヒプノシスマイクの効果検証に、例えば動物が対象とされていたとしたら。この扉の先に猛獣がいても可笑しくはない。噛み殺されて死ぬならそこまでだろうか。少なくとも、弟のことは祖父と母に任せておけば何とかなるだろう。
心はとっくの昔に擦り切れていた。応援していたどついたれ本舗の解散から、わたしの精神は確かに傷付いていて、加えて中王区の発足でただでさえ激務だった担当業務は上限突破。仕事はこなしても、どこか自分のことは投げ槍だった。
もうどうでもいいや、と本気で思った。
鍵を差し込むと、カチリと硬い音が鳴る。少しだけ跳ねた心臓は気のせいにして、わたしは自ら扉を開いた。
「……んー? おねーさん、新しい担当?」
想像もしなかった、少年の声。わたしはドアノブに手をかけたまま、一歩も動けずに固まっていた。
「アレ、違う? 白衣じゃなーい」
真白のベッドの上でごろごろと転がっていた、桃色の髪の少年がぴょこんと飛び上がって、ひょこひょこと小鳥みたいな動作でこちらに近付いてくる。細い手足。飴玉みたいにきらきらとした大きな瞳。ぶかぶかの手術着のような、簡易な服。
「名前は飴村乱数」
背後から低い声が鼓膜を舐めた。飛び上がりそうになるわたしを、目前の少年が不思議そうな目で見やる。
無垢の形容。書面で見た、現実とは思いたくない事象のひとつ。
「……彼が」
思わず零れ出た自分の声は緊張で強張っていた。最近は嫌な予感が的中しすぎるのだ。警戒するのもやむを得ないと言い訳しても、きっと誰にも怒られないだろう。
これはまた随分と、幼気な少年を対象にしたものだ。使えるものは本当に何でも使うんだな。
少年がわたしの正面で立ち止まって、こちらの顔面を見上げてくる。お前は何者だ、と純粋な疑問が虹彩に浮かんでいた。
「資料にきちんと目を通してたらしいな。感心したぜ」
「薄っぺらい誉め言葉をどうも」
「可愛げのある返答も一緒に覚えてほしいもんだな、全くよォ」
後ろからわたしの肩に手を回した山田は、わざわざわたしの耳元で囁いた。
「弟の世話で慣れてるだろ」
「彼は弟ではないですが」
「似たようなもんだっつってんだよ」
「屁理屈ですね」
彼の腕は丸太みたいに重く、振り解こうにもわざと体重を掛けられて抵抗が封じられた。こんなしょーもない戯れで勤務時間を浪費したら、ただ残業が増えるだけである。
帰りますと意思表示するために口を開きかけたところで、少年が正しく幼子のように全身を使って首を傾げた。
「仲良いの? 悪いの?」
「悪いように見えるか?」
「冗談でもやめてください」
「変なのー」
少年の真っ直ぐな言葉は臓腑を抉った。好きでこんなことになっている訳じゃない。山田は遂にゲラゲラと爆笑し始めて、わたしの頭は鈍く痛んだ。
とにかくわたしの役目は一般科目全般の講師────大学教員になった覚えはないし、教員免許の類は皆無だと主張するも「何が必要で何が不要かの判別は、お前なら完璧だからな」とこれまた適当な誉め言葉で打ち返され、部屋の扉は閉められた。
しかも中から鍵を開けられない仕様らしい。時間が来たら開けてやるよ、と山田は軽く言った。監禁以外の何物でもないのだが。明確に犯罪だぞ。まあそれは今更かもしれないけど。
わたしは決められた時間をこの中で過ごし、数日に一度、ここに通うことになるらしい。それがバイトの内容だった。いや、公務員は副業禁止なので、これは残念ながら無給なのだが。
少年は、わたしが同じ空間に閉じ込められたことで喜ぶわけでもなく、ふうんと一言で会話のラリーを終えた。どうしたものか。弟と全然タイプが違うので、どのようにアプローチするのが正解なのか分からない。
「ここに来る人たちは、みーんな、何かの役目があるんだって」
ま、ジッケンが多いみたいだけどねー。彼はそう言ってベッドにダイブした。細い脚がぱたぱたとシーツを蹴る。緑の目がこちらを見詰めて、「おねーさんは?」と疑問符を飛ばしてくる。
わたしの役割なんて。この少年の「使い道」を知っている以上、決まり切っていた。
「……行政文書の悪い読み方でも教えましょうか」
「ギョーセーブンショ?」
寝転んだまま、きゃるきゃるとした大きな瞳が、やはり不思議そうにわたしの顔面を見詰めている。役所の作る書類のことですよ。ふうん。関心の色は薄そうだ。それもそうか。そもそも興味を持てと言う方が難しいだろう。
ひとまず文書のタイトルの「依頼」「通知」の違いからやるか。一番役に立つと思うけど。法律の読み方も知っておいた方が良いだろう。
彼は世の中から「侮られる」容姿だ。隠し武器は多ければ多い方が良い。
それに、彼がこの世界を生きていくために、きっとどこかで必要になるだろうから。
少年は「乱数でいーよ」と言って、棒付きの飴玉を舐めながらベッドに転がって、或いはこちらの膝の上でわたしの言葉を聞いていた。分からないところは素直に分からないと意思表示してくれるので、ぶっちゃけ実弟よりも手が掛からなかった。
何度目かの訪問で、彼も随分こちらに慣れてくれたようだった。やっほー、と小学生みたいな挨拶と共に出迎えてくれて、他愛のない会話をして、嫌がる勉強も何とか取り組んで(こんなの最初からインストールしておいてほしいよね、と彼は頬を膨らませて言った)、今はインスタントコーヒーを揃って飲んでいる。
「今度は煙草の差し入れがいいな~」
見た目にそぐわぬ彼の嗜好にも慣れ、わたしはひとつ頷いてやった。
「おねーさん、マスコミの人かなって思ってたけど」
「半分そんな感じですよ」
政府の評判やら世論やら、マスコミ関係者とはよくよく関わる仕事をやってきているから、その印象はよく言われる。間違っていない。
「もう半分は?」
「碌でもないので秘密です」
「自覚があるだけいーんじゃない?」
「でしょ」
滅菌室で他愛のない会話をするだけの関係は、気楽だった。
でも、彼がいつか処分されることも見据えて、新しいことを次々と教えるのは正直堪える。そんなわたしの本音も、山田にはやはり見透かされていた。
「感情のはじまりを覚えさせるのに丁度いーだろ」
「もう随分と学習した後に見えましたが」
「ま、先は長いぜ。まだまだ『いる』からな」
どういう意味だろうと目だけで問い質すと、男は肩を竦めた。
山田零からの妙な業務委託を引き受けて二週間。嫌気は最骨頂だった。
しかし、めんどくさいなという感情を抱いても、結局逆らうまでに至らない。わたしの人間性を、あの男は必要以上に理解しているらしかった。
違法マイクが巷でどれほど流通しているかを調査しろとか、どんなマッチポンプだ。辟易しながら地道に情報を集め、現場に向かう。マイクの破壊が認められればそれで良し。そもそも違法なので、完全な野放しにするわけではないらしい。
すっかり日の暮れた中、地面にしゃがみ込み、ボロボロに壊れたヒプノシスマイクを懐中電灯で照らし、証拠写真を撮る。今日は飛び切り損壊が大きいので、多分左馬刻くんが壊したのではないだろうか、なんてふと思う。
バトルのあった現場では、白膠木さんと左馬刻くんの姿をよく見かけた。見事な働きぶりに感謝したい一方で、己の中でずんずん育つ後ろめたさに押し潰されそうだった。
しかしまあ、本当に特殊な武器だ。言葉に打ちのめされて本当に目の前が真っ暗になるなんて、なかなかない経験だと思う。
言葉で戦うのは行政職員とて同じことだが、静と動では分が悪い。懐に隠した己のヒプノシスマイクに触れるも、上手く扱える自信は全くなかった。素人がいきなり息を吸うみたいに韻を踏めるものか。
溜息を封印しないとどんどん不運になりそうだ。今日はもうこの程度で調査を切り上げても問題ないだろうと勝手に判断し、帰宅することに決める。
なるべく明るくて人通りの多い道で帰らないと。ぐっと膝を伸ばして、帰路を探すためにスマホの画面をスワイプする。
「おねーさん」
聞き慣れていたはずの少年の声なのに、別人みたいだった。
違和感を覚えてすぐ、山田の声が脳裏に甦る。まだまだ『いる』と。
ああ、なら仕方ない。今目の前にいて、満月を背に、マイクを頭上高く掲げる彼は、わたしがここ暫く一緒にいた彼では、ない。
何で今まで野放しにしてたんだろう?
脅威の排除
は基本中の基本なのに。
そう、彼じゃなくて、わたしを処分するための、
「バイバイ」
暗転。