「あの女」
「え?」
「最近見かけねェが、生きてんのか」

 事務所のソファーに腰かけてお行儀悪くもテーブルに足を投げ出しとる左馬刻が、煙草片手に投げ槍に訊ねてくる。
 こいつが他人のこと正面から気ィ掛けるのなんか、ほんまに珍しいことや。明日は空から矢でも降ってくるんかな。物騒やわァ。
 季節はスーツで過ごしやすい、秋の終わり。冬の足音が目の前まで近付いてきとった。
 確かになっちゃんと最後に会うたのは、碧棺家の食卓にお邪魔させてもらった日で、それ以降、彼女はまたぱったりと姿を見せへんくなった。
 俺は左馬刻の代わりに、上質紙の上にボールペンを走らせるお仕事に励んどる最中である。オオサカにおった時はあんまし書類作成したことなかってんけど、こっち来てからは専ら俺の役割みたいになっとった。
 や、嫌いやないけど。ネタ起こしも俺は紙派やったから、何かを書くっちゅーのは別に抵抗ないねん。まあ、債権やの抵当権やの、勉強せなあかんことは山のようにあったけど、こなせへん程やない。

「やー、大丈夫やと思うで。仕事めちゃくちゃ忙しいみたいやけど、また落ち着いたら顔出してくれるて」
「……そーかよ」
「そーやで」

 それは、己にも言い聞かせる言葉に過ぎんかった。
 盧笙の話ができる相手は、今や俺にとってはなっちゃんだけや。今すぐにでも会うて色々お喋りしたいのが本音である。
 誰かと喋らんと、俺の中で盧笙のことが全部風化してってまう気がしてもうて。アレや、俺の盧笙が古くなってまう、て。似たような歌詞の歌あったよな。全然思い出されへんけど。
 彼女の存在は、今やほんまに唯一無二やった。

「辛気臭ェツラしやがって」
「簓さんの顔に何か文句もであるんかい!」
「八つ当たりすンなよ、みっともねェ」

 そないな風に言われると、俺が駄々捏ねの三歳児みたいやんか。左馬刻が鼻を鳴らした。あらら、声に出とったわ。

「自覚なかったのかよ」
「お前かて合歓ちゃん絡みの時は大概酷いで、分かっとんのか?」
「アァ?」

 あーあ、喧嘩になってまう。最近の俺もカッカしとってよおないわ。何でやろなあ。
 ほんまは全部分かってんねん。分からん振りしとく方が都合がええだけで。俺もずっこい大人になってしもたわあ。

「何してんスか」

 未来有望の若者の声が新たに空間を切り裂いて、俺は顰めっ面になりかけとった表情筋を元に戻すことに成功した。
 あかんあかん、俺、ここではニコニコ優男の参謀ポジションやもん。知らんけど。顔に傷もないし、足裏から氷生やされへんけど許したってや。

「おっ一郎! おかえりィ、怪我ないか?」
「ウス」
「拙僧には何もねェのかよ!」
「我慢のきかんやっちゃな、ほれお疲れさん!」

 喧しい空却に個包装のキャラメルを差し出してやるも「現物に釣られるようじゃ修行が足りねェ」はー、文句言うだけやん。もうあげへんぞ!
 当初に比べて、事務所は随分賑やかになった。元来、左馬刻はキレてへん時は物静かやし、下の子ォらもそない五月蠅いのんおらんかったから、余計そない思うんやろうな。
 これはこれで楽しいけど、やっぱ、なっちゃんと喋られへんくなって数か月、心のどっかにぽっかり穴開いたみたいになってもて、ちょっとだけ落ち込んどるのも事実やった。
 ちゃうか。盧笙が抜けて空いてもた穴を、彼女が一時的に塞いでくれとったんや。今となってはそう思う。
 左馬刻は甘えんなて口で言うときながら、身体はちぐはぐな男やけど。隙間を埋めてくれる要員やないし、そーゆーのを求める相手やない。
 こいつらとおるんは楽しい。色々とえらい問題が起きることもあるけど、何とか解決してきとる。無敵の錯覚を身に纏うのは早かった。
 俺の悪いとこや。今度こそ盧笙ん時の二の舞にならんようにしよて、そう思て頑張っとったんにな。




 負傷して戻ってきた一郎が発端やった。左馬刻も頭に血ィ上ってもて、全然言うこと聞く状態やなかった。とりあえず殴り込みに行くと左馬刻が聞かへんから、俺も監督者の名目で同行したんやけど。
 現場のすぐ近く、視界の端っこで動いた人影────アレ、て首傾げる頃には、その姿は消えてもうとったけど、誤魔化されへんもん。俺の観察眼舐めたらあかんで。
 こんな荒くれの現場におるはずやない、なっちゃんの姿やった。
 やっぱ連絡先、交換しといたら良かったわ。確かめる方法がないねんもん。でも、俺の直感はそう告げとる。俺が盧笙の会の会員を見間違えるなんて、絶対あらへんもん。
 妙な胸騒ぎがする。左馬刻にだけでも伝えといたった方がええやろか。しょーもない冗談言うなやって笑われたら、それでええ。
 周りを見渡しても、二本足で立っとるのは俺と左馬刻のふたりだけやった。俺は血のついた鉄パイプ(ただの正当防衛やで)を放り出して、こっちに背中向けとる男の背後へそろそろと歩み寄る。いや待てよ、無言で近付くの危ないな。殴られる前にちゃんと声掛けしとこ。

「左馬刻、」
「……ンだよ」

 拳から血を滴らして、左馬刻は地面にバッタバッタ倒れとる荒くれ共を、ものごっつ冷たい目で見下ろしとった。

「……んや、言いたいこと忘れてもたわァ」

 わざとおちゃらけた温度で言うと、左馬刻が大袈裟に溜息を吐く。ついでに俺を睨んできた。やっぱいつ見てもおっかないわァ。

「能天気な野郎だな」
「この場面やと要るやろ? 能天気」
「…………」

 訝しむ視線は、暫くして俺から外れた。
 結局俺は、いま見た光景を誰かに否定してほしいだけやて気付いてしもた。
 そない他人よがりなことしてどないすんねん。左馬刻かて迷惑やろ。
 言いたい言葉を煙草の煙で肺へ押し込むのも、慣れた。




 合歓ちゃんが今度模試受けるから言うて、左馬刻はさっさと家に帰ってしもて。坊主達は遊び足りんみたいやから野生に放牧して、俺は事務所でひとりやった。
 もう十二月になってもうた。寒いせいで思考も凍えそうであかんわ。そもそもあんまし冬て得意やない。寒いと身体に余計な力入るし、肩こりも酷なるし。まあ、雨よりはマシやけど。
 最近全然顔出してへんかったバーを思い出して、暇潰しがてら足を運ぶことにした。マスターのオチのない話聞いて笑うのも一興、ぐらいにしか思てなかってんけど。
 結果、その選択肢が正解やったらしい。
 ドアを開けていっちゃん最初に目に飛び込んできたのは、バーのスツールに腰かけた、グレーのニットを着た女性の後ろ姿やった。数か月分だけ髪の伸びたなっちゃんが、背中を丸めてチーズにピックをちまちま刺しとる。

「なっちゃん!」

 杞憂が杞憂で終わったことを実感し、俺は全力で手ェ振りながらカウンターへ駆け寄った。彼女ははっと顔を上げてから目を真ん丸にして、椅子から慌てて立ち上がる。目の下には隈。
 ほら、やっぱそうやん! 今日もこない疲れとるやろう彼女が、危ない現場をほっつき歩いとる訳ないやん!

「白膠木さん、」
「元気しとった? 俺な、あんな、話したいこといっぱいあんねん!」

 彼女の声を遮ってまで、喉から勝手に言葉が零れていく。まるで親に今日の学校の出来事聞いて欲しくてしゃーない子どもみたいな。
 はしゃぐ俺を他所に、彼女の視線が、ふいと泳いだ。
 俺はやっと冷静になる。散歩行く寸前の犬の振る舞いは封印して、大人しく彼女の隣のスツールにお座りした。

「……どないしたん? 何かあったん?」

 そのまんま彼女は地面を見つめてもうとって、なんやよくないことが起きたんやなとは分かるけど、真実は推測の域を出えへん。
 マスターは空気を読んでカクテル作りに戻っとって、俺と彼女の間には何やよう分からん洋楽だけが流れとる。
 数秒経って、愛想笑いの彼女は椅子に座り直してから、その重たい口を開き始めた。

「……職場の男性陣が大量退職しまして」
「退職ゥ?」
「言の葉党が政権を握ったことで、弊社もかなりその影響を受けまして」
「あらら……」

 結構深刻やな。ただでさええげつない時間の残業があるみたいやし、前々から人手全然足りてへん会社なんやろなと思とったけど。

「ほんなら仕事もっと大変なんちゃうん?」
「そうなんですよ……」

 悲壮感溢れる声に、思わず彼女の背中を擦った。薄手のニット越し、背骨の硬い感触。あれ、ヤバ、これセクハラて言われるかな。悪気はなかってんけど。
 俺の杞憂は偶然伝わらんかったんか、彼女は力なく笑った。

「あ、背中丸まってました? 気を付けなきゃとは思っているんですが」
「いや、しんどい時はしゃーないやろ。俺も猫背気味やから、板ん上おる時はめっちゃ気ィ付けてたわ」
「確かに、こちらでお会いした時は少し猫背でしたね」
「うわ、バレてもうとる……! 恥ずかしいから忘れてな! その点、盧笙はいっつも背筋ピーン! やからすごいよなあ」
「確か親御さんの躾が厳しかったから、ってラジオでおっしゃってましたね」
「俺も盧笙に猫背なっとるで、てよお言われたわ」
「それで背骨を折られたんですか?」
「教育的指導が強硬すぎるんやあいつは!」
「フフ」

 あー、盧笙の話題なったらすぐほんまもんの笑顔になるやん。
 彼女が声上げて笑うてくれとる反面、なんか内臓がもやもやする。折角会えたんに、何でやろ。
 チーズだけやなくて、栄養あるモンも食べや、と俺が言うのに被せて、マスターが肉じゃがの小鉢を出してくる。いや、どこのバーで肉じゃが出てくんねん!

「俺の晩飯がてら」
「美味しそう! いただきます」
「ほんま無茶苦茶やなこの店……」

 彼女が美味しそうにじゃがいも頬張っとるんだけが救いや。相変わらずメニューにない料理ばっか出してくる店である。しかも美味いし。
 俺もついでに小鉢もろて、さっきよりはちょっと落ち着いた状態で彼女の近況を聞く。聞けば聞くほどその業務量に眩暈がしそうやったけど、彼女は毎日踏ん張っとんのや。偉いわァ。何か元気付けられるもんあるかなァ。
 や、盧笙関連なら一発やて、俺も分かってんねん。でも、そうやなくて。
 ────ん? 何でそないなこと思うんやろ?
 俺、どっかおかしなってもたんやろか。いつもやったら盧笙の話できたら、それだけで嬉しいのに。彼女が笑ってくれたらもっと気分ええのに。
 どっかで俺は、俺自身が彼女を笑わせたいんやて、そう思うとるてことか?
 仮にそうやとしても、そんなん正面切って言えるか? 流石の簓さんにも羞恥心はある。成功率の分からん賭けに乗るには、情報が足りんし。
 しゃーないから判断を見送って、俺は彼女の顔を覗き込んだ。心配しとる気持ちがちゃんと伝わったら、今はそんでええもん。

「……ほんま、仕事で身体壊さんようにな」
「そうですね、欠員の穴埋めは本当に大変なので」
「目ェ笑てへんで」
「エヘ」

 違和感は少しずつ重なっていく。




 やっぱ見掛けるはずのないとこで、何度かなっちゃんを見掛ける日が続いた。俺、正気やないんやろか。いつの間にか変なクスリ打たれたとか? それやと左馬刻がいっちゃん先に気付きそうなもんよな。ほなちゃうか。
 彼女を見掛けるのは、決まって荒れたラップバトルが行われた付近やった。仕事なんやろか? わざわざそない危ないとこを視察するような仕事て何や?
 もしかして、警察官とか? 労働時間のえげつなさを考えてみたら、確かに違和感はない。潜入捜査官て、普段はふつーのひとの振りしてんねやろ。それやったら納得がいく。
 左馬刻とつるんどる以上、そーゆー監視の目に晒される可能性があるとは、思っとったけど。いや、そもそもお巡りさんがあないぎょーさんお酒飲むもんなんやろか? 分からん。俺、全然警察のこと詳しないもん。
 でも本職やったら、こんな素人にあっさり発見されるような雑な仕事はせえへんやろ。彼女が下手くそとは思われへんし、やっぱちゃうんかな。
 ぐるぐる悩んでもしゃーないのに、気になって夜しか寝られへん。はー、どないしたもんかなあ。布団に転がってても全然眠気もやってこおへんし、コンビニに何か買いに行こかな。ちょっと歩いたら気分転換にもなるやろし。
 そう思って、鍵とスマホと財布だけ持って、寒いから寝間着にマウンテンパーカーを羽織る。玄関でスニーカーに足を突っ込んだ、その時やった。

『なあ、ほんまにあかん?』

 俺が囁いた先におったのは、顔真っ赤にして壁にびたーって張り付いとるなっちゃんの姿やった。
 気ィ付いたら、俺は玄関で腰抜かしとった。あんまりにもはっきりとした幻覚で、一瞬現実かと思うたくらいやった。
 やって、手が、口が、彼女の温度を覚えとるねんもん。
 急激に心臓が準備運動始めてもて、俺は冬の冷気を尻から浴びながら固まっとった。
 どつ本のライブTシャツ着た彼女は薄着やから、夏の記憶で。せや、俺の家で盧笙耐久レースした日やん。一晩中、彼女と盧笙の円盤見て楽しく語り合った、あの日の。
 いやいやいや。その冒頭で俺、一体何しでかしてますの?
 俺は頭を抱えて蹲った。何でそない大事なことぽっかーんと忘れとったんやろか。技マシン使われたんか? 代わりに何の技習得したんや? ええ?
 しかも俺、彼女に何した? 俺ン家の玄関でなっちゃんのこと追い詰めて、ほんで? 挙句の果てにちゅーまでして? 「ほんまにあかん?」て?
 あかんに決まっとるやろがい!

「アア~…………」

 思わず情けない声が漏れ出る。玄関から続く廊下に倒れて噎び泣いた。板張りのそれは極悪な温度になっとって、反射的にくしゃみが出た。こんなんで風邪引くの阿呆らしいから、とりあえず靴脱いで布団へ逆戻りする。コンビニなんか行っとる場合やない。
 自己嫌悪も甚だしい。後日会うた彼女が、ほんまに何事もなかったみたいな顔して笑っとんたんも、申し訳なさ過ぎて地面に埋まりたい。
 彼女、盧笙推しやんか。何言うてんねん、盧笙のファンの子達と遊ぶのなんて、別に珍しくもないやんか。いやいやいや、あかんて、彼女はあかんねんて。
 内なるササラは混乱に満ち満ちて、議論は延々と平行線を描いている。
 たった一言、彼女に告げとったら良かったやん。そしたら、もしかしたら、受け入れてもらえとったかもしれへんやん。内なるササラのひとりが平然と言いよる。
 やわこい唇の感触を今頃思い出して、俺はのたうち回るしかなかった。
 後悔しとった。あの時、きちんと言えんかった己の弱さを。
 好きになってもうた。そう言うたら良かっただけやろに、ほんまに俺は。
 己の心臓は誤魔化されへん。冬やのに今多分体温ものすんごいことになっとるし、彼女の笑顔が勝手に思い浮かんで身体ん中のあちこちを掻き回して行ってまう。容赦のない台風みたいや。
 盧笙の会の会員を失いたくはない。でも、この感情を隠して彼女と会い続けられるか言うたら、自信はない。あ~うじうじ悩むんも性に合わんし、思い切るしかないやん!
 次、会うたら。今度こそ嘘偽りなく伝えたらええ。許してもらえるか分からんけど、俺なりの誠意を示すしかないやんか。順番ぐちゃぐちゃでごめんなさい言うて謝って、そんで、よろしくお願いしたいんですて言うて。
 よお考えたら、女の子に告白すんのて初めてや。あかん緊張してきた、やっぱ寝られへんかも。どないしよロショー!

『喧しいわ、羊数えて地面と同化しとけ』

 相方の幻想は、いつもと変わらず手厳しかった。




 暫くバーにも通うようにしたけど、彼女は全然出現せんかった。出現率何パーセントなんやろ。偶然の出会いしか許しませんて? ほんま殺生やわ。
 言うてる間にクリスマスも終わってもて、世間はすっかり年末やった。寒さも一段と増して、コート着ててもぶるぶる震えて仕事する俺を左馬刻が殴ってきたけど、俺の心ここにあらずなんがバレとって、気味悪がられて終わった。殴られ損なんやけど。
 十二月二十八日。仕事納めの人も増えてくるやろから、街はより一層賑やかで。電気街の裏でマイク片手に挑んでくる阿呆らを立て続けに片付けとって、こいつらで今日は終わりかなあて思うた矢先やった。

「白膠木さん、こんばんは」

 チンピラの屍(気絶してるだけ)の山を跨いで突然現れたなっちゃんが、お行儀良くお辞儀してくれる。俺が一生懸命探しとる時は全然姿見せてくれへんのに、油断したらこうや。不思議なもんやな。
 いやいやなっちゃん、そんなん跨いだら危ないで迂回しいや、て言いかけて、ふと彼女の服装に目が行った。
 濃紺のストライプのスーツに、ショッキングピンクのラインの入った黒のマント。風にはためいて何かのロゴが見える。

「……なっちゃん?」

 あれ、彼女の仕事て何やっけ。めちゃくちゃ長時間労働のブラック企業てことしか分かってへんくて、警察かなーと思うたこともあるけど多分ちゃうよなて結論に達して、せや、結局全然分からんくて。

「なんて顔してるんですか、白膠木さん」

 さて、どんな顔やろな。教えてえや。
 はくはくと口を開くものの、声が全然上手く出えへん。言葉が全然まとまらへん。あんだけ色々言いたいことあって、伝えたいことあって、やのになんで。
 彼女のパンプスのヒールがコンクリートを叩く。俺の前で二本足でしゃんと立って、彼女がゆっくりと顔を上げた。
 その双眸の冷たさに、俺は既に内臓を切り裂かれとった。彼女、こない冷たい目ェできたんや、とどっか他人事みたいに思う。そう思わなやってられへんかった。

「言いたいこと、言っておこうと思いまして」

 いつもみたいにのほほんと笑って、俺と盧笙のこと山ほど語り合ってくれる彼女が、初めて見せる表情。冗談でも茶化すことなんかでひきん、真剣な色。
 やっぱ俺、もう嫌われとったんか。

「あなたは こんなところトーキョー にいるべきじゃない」
「そんなん、」

 唐突にそう宣言したなっちゃんの声は、事務的な文書を機械的に読み上げるみたいに温度がなかった。
 そんなん、決めるんは俺自身や。人に言われてイチイチ行動変えとったら、都合悪くなった時に人んこと恨み続けることになるやん。そんなん、できひん。
 彼女のこと、恨みたない。やって、彼女は。
 なっちゃんが一歩踏み出す度に、カツンコツンと硬い音が鳴る。いつもの三センチヒールどないしたん、それ七センチくらいあるやろ、転けたら俺が支えたろか? なんて、今一ミリも言えそうにないねんけど。

「……コンビ解散してくれって言ったの、躑躅森なんですよね」

 俺に考える隙を与えへんように、淡々と彼女が言う。
 それは、公には一切出してへん真実のはずやのに。
 いや、盧笙のことずーっと見てくれとったファンが、気付かんはずないか。俺が彼女をどっか軽んじて見とったいうことなんやろか。
 彼女がまた一歩踏み出す。もう彼女が手ェ伸ばしたら、俺の胸倉なんて簡単に掴める距離やった。
 確かに胸倉掴まれてタコ殴りにされてもおかしないことをやらかしたんは俺やけど。でも、彼女はいつも、もっと言葉を尽くしてくれる人や。盧笙の話の時なんかもっとそう。
 あ、そうか、普段の振る舞いができひんくらいに、彼女は怒ってるんや。

「どうして引き止めなかったんですか?」

 俺は呼吸を失った。

「お得意のお喋りで宥めすかして、ずるずる引き延ばして説得すれば良かったじゃないですか。『俺の相方はお前だけや』って」

 ああ、それは。
 俺かて、考えた。そんなん何遍も考えたんよ。俺は喋くりのプロで、盧笙を説得できるだけの技術はあったはずやった。例え盧笙が最初納得してくれへんくても、時間が解決することやって、あったかもしれん。
 でも、それは出来ひんかった。
 無意識に俯く俺の、ネクタイが強く引っ張られる。息苦しさに顔を上げると、彼女の感情の読まれへん瞳が、こちらを静かに見下ろしとった。

「ファンのことを考えてくれないお笑いなんて、ただの自己満足ですよね」

 養成所で散々言われてきた言葉が、彼女の口を通るだけでこないにも攻撃力増してまうんか。最早乾いた笑いが口から零れる。ほんまやなあ。無意識にそう返すと、彼女の眉がひくりと跳ねた。それを認めて、また俺の視線は地面に逆戻りや。
 彼女、今までほんまに言いたいことずーっと我慢して、俺とお喋りしとってくれたんやろか。俺は大事なファンの気持ちを踏みにじって、俺の都合のええ部分だけ解釈しとったんやろか。お前そんなんでどないすんねんて、見かねてお説教してくれとるんやろか。

「どうして躑躅森を手放してしまったんですか?」

 もう、俺は顔を上げてられへんかった。硬く目を瞑って頭を抱えても、彼女の声がぐるぐると頭ん中を回って、逃げ道が塞がれている。
 逃げとる場合やない。ここで逃げたら、もう彼女には二度と会われへんような気がした。やって、言いたいこと言っとこうと思うて、やで? そんなん最後の別れの挨拶と何が違うん。

「……何で引き止めてくれなかったんですか?」

 震えたそれは、特別鋭利な刃物みたいな声やった。
 ああ、俺らを応援しとってくれたひとの、ほんまの声や。嘘偽りなく、真っ直ぐに感情をぶつけてきてくれとる。分かる。脳で理解するだけやない、五感で理解しとるんや。
 俺が何の言葉も返されへんことを認めて、彼女の手がネクタイから離れていく。物理的な息苦しさから解放されたはずやのに、いっこも楽にならへん。

「わたしね、どつ本のお笑い、本当に好きでしたよ」

 その声が、いつも会うとる時の柔らかい声音に戻っとって。俺は反射的に顔を上げる。

「では、お疲れさまでした」

 彼女が手元のヒプノシスマイクを起動して、そんで、暗転。

07|ここには可燃の種ばかり

250903
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