目蓋を押し上げて薄ら笑った白膠木さんの顔が、何故か忘れられない。
 彼が俳優じゃなくてお笑い芸人で良かったと思う。今だって引退したわけでなく、復帰を見据えた一時的なお休みだと言っていたので、現時点でも彼がお笑い芸人であることは揺るぎない事実である。
 その現実を差し置いても、白膠木さんのふざけていない時の真顔は、躑躅森と並ぶ位の破壊力があるんだな。
 別にそんなの、知らなくて良かった。その経験の有無が今後の何かを揺り動かすようなことはないはずで、わたしは躑躅森推しの女だ。だから、白膠木担さんは大変ですねって横で笑っていれば良かったはずなのに。
 それは、衝撃の夜だった。
 自宅の前で、暗がりでも判別できるくらいに頬と耳を真っ赤にさせた白膠木さんを発見した際は、一刻も早く救急車を呼ぶべきだろうかと不安になった。
 でもその症状を観察するうちに、わたしの背筋はどんどん冷えていった。
 事前に指示のあった「違法ヒプノシスマイクの効力確認」の仕事の一環だと、すぐに分かってしまったからだ。

「風邪引いたっぽいねんよな」
「阿呆なんですか?」

 覇気のない声に、いつもどおりの返答を被せるので精一杯だった。彼は一切の余裕がないから、こちらの違和感に気付くことはないだろう。そういうことにして、時間稼ぎの応酬を続ける。
 現在、出回っている違法マイクは片手で数えられる種類だけだ。症状からすぐに察することができた。効力の発現は問題ない、あとは持続時間の測量────元々思っていたが、正気か? この状態の白膠木さんと暫く一緒に過ごすなんて、ただ不幸な事故を誘発するだけではないか?
 が、そう思い至ったところで中王区から足蹴にされるのは目に見えている。つくづく碌でもない仕事だ。依頼人を恨んで気分を誤魔化すしかない。
 幸いにも部屋の壁はそれ程厚くないので、夜な夜な聞き耳を立てていればまあ何となく持続時間は分かるだろう。ひとりで処理するか、プロを呼ぶか、彼女さんがいるならまあ……と思ったが、特定の彼女さんがいるのだろうか。盧笙の会は結構な頻度で開催されていたと記憶している。
 とにかく酷い話ではあるが、仕事のひとつとして割り切るしかない。
 そもそも無駄口を叩いている場合ではない。他人のわたしが深入りするのは違うよなと思って「お大事に」と丸まった背をそっと押すと、彼は途端にたたらを踏む。

「…………」
「アレレ?」
「アレレじゃないんですよ本当にもう……」

 彼はわたしの身体にぎゅっとしがみついて、背を丸めて首を傾げている。足元が覚束ないことすら、よく分かっていないのか。
 前髪をこちらの肩に擦り付ける様子は、幼稚園に行きたくないと駄々を捏ねる幼子にも似ていた。いや、成人男性に抱く感想ではないことは理解している。
 果たしてその可愛らしい反応は、どこまでが計算なのか。彼の荷物を一時的に預かって、よたよた鍵を回すのを見守る。不安だ。結構キツめに反応が出ている気がする。

「スポドリとか諸々あります?」
「んー……」

 多分、と呟いてから、彼はドアノブに手をかけたまま立ち止まった。全然動く気配がない。立ったまま気絶するほどの効果が強いのかもしれないし、気が急いて彼の顔を覗き込んだ。

「白膠木さん?」
「……えっと、なァ、あの」

 彼は気絶こそしていなかったが、ごくんと唾を飲み込む様子が見えてしまった。普段はそれほど目立たない喉仏の動きが、妙に生々しい。

「これな、多分、違法マイクのせいでな……」

 それは泣き出す一歩手前みたいに、ふにゃふにゃの声だった。
 はい知っていますと馬鹿正直に返せたら、どんなに楽だっただろう。夢物語には蓋をして、わたしは曖昧な表情で受け流す選択をした。

「……あかん?」

 目許が赤く染まっていて、普段はにこにこと細められている瞳を半分ほど覗かせて。いつの間にかこちらの手を握り込んでいた力は弱弱しく、その吐息は熱を帯びている。
 ウワ、悪い男だァ!
 慄くこちらをぼんやり見上げる構図が、また良くない。普段は男女の身長差で見下ろされることが多く、見慣れない状況下が更に心臓に悪い。

「……ファンには手を出さないと聞いてましたが」

 震えそうになる己の喉を叱咤して、平常時と変わらぬ声を出せたことに安堵する。
 白膠木さんは自分のファンに手を出さない、というのは有名な話だ。ガチ恋勢は大変だと思うが、彼のお笑いへ向けるスタンスを知ってしまえば仕方ないことだと思う。
 が、彼は頬っぺたをぷくっと膨らませて、お得意のあざとさ極振りモードに移行してしまった。

「自分、俺のファンちゃうもん。盧笙のファンやもん」
「凄まじい言い訳をどうも……」

 何とか浮かべた笑顔は多分引き攣っているだろうが、この際やむを得ない。
 躑躅森のファンを何人か食った噂は聞いていたが、やはり本当だったか。火のないところに煙は以下略。
 こんなことになるんなら、出会った時に嘘でも白膠木さん推しと明言しておけば良かった。いや、己に嘘を吐くのはよくないという躑躅森の教えに背くことは如何なものか。いやいやいや、そもそもこんな事態を誰が予期できたと?
 悪い男のレーザービームに懇切丁寧に焼かれ、わたしの脳幹は強すぎる刺激にぐらぐらと揺れていた。
 白膠木さんの破壊力は、わたしの想像なんて容易く超えてきた。
 躑躅森と並ぶとか聞いていない。いや、躑躅森がこんな表情で迫ったとしたら、世界中の人類が召されるが。
 このままでは大変よろしくない。しかし仕事を放棄するわけにもいかない。何処かに転がっているはずの最善策を脳内で必死に検索し、一番マシそうなそれを鷲掴みにする。
 最低限、白膠木さんのペースに呑まれてはいけない。つまり先手必勝である。
 彼に勝つためには、わたしの攻撃力を上げるしかない。上手くできるかなんて全く分からないが、こうなれば物理ゴリ押し戦法である。
 共用部の酸素を肺に押し込んでから、口の端っこを吊り上げる。さっきの白膠木さんの足元にも及ばないのは承知の上だが、なるべく悪そうな顔が良い。
 攻撃力は度外視で、とりあえず囁いておくか。

「…………それじゃ、悪いことしましょうか」

 一歩引いていた足を逆に白膠木さんの方に向けて、彼のファンの人に見られたら殺されるなあと思いながらも、シャープな曲線を描く彼の頬に手を伸ばす。
 指先に触れた滑らかな皮膚は、わたしより全然潤っている。女に比べれば硬いけれど、すべすべだ。吹き出物のひとつもない。羨ましいことである。

「ヒエ」

 白膠木さんの鳴き声が、か細く漏れた。
 よし行け、考える隙を与えるな。これは仕事だ、迅速かつ的確に終わらせてなんぼの世界である。

「各々お風呂上がったら合流しましょうか。白膠木さんの部屋で良いですか? 呼び鈴鳴らすので」

 立て続けに投げたわたしの言葉を聞いて、彼はちょっとぽやんとした顔になったあと、大人しく頷いた。
 え、可愛いが?
 成人男性に向かって可愛いって何だろうなと思う自分と、いや可愛いという感情に嘘はないだろと両腕を組んで唸るわたしが殴り合う。
 脳内審議の結果、顔を真っ赤にして女に良い様にされてしまっている白膠木簓は可愛いという結論に達した。この場にツッコミはいない。
 躑躅森も女に迫られたら挙動不審になって顔真っ赤にして固まるんだろうなという予想も付随したが、それはまあ置いておく。言及しなくとも躑躅森推しはみな容易く想像できるに違いないので。
 さて、啖呵も切ったことだし、もう後戻りはできない。わたしは自分の部屋の中に入った後、迫りくる戦の準備を急いで始めた。泣き出したいのは無視して、とりあえず風呂に入ろう。心拍数は既に加速を始めていたが、今は構っていられない。
 仕事だ。これは仕事なんだ。彼が可笑しくなっていても、全ては違法マイクが原因だ。そこに私情をねじ込む必要性は皆無である。わたしは指示のとおりに動くだけだ。
 無意識のうち、気持ち念入りに身体を洗う自分を後ろから嘲笑いつつ、髪を乾かしながら邪念を焼き払っておく。しかし一度覚えた緊張は簡単に拭えず、風呂上りなのに手汗がべとべとしていて気分はよろしくない。ドライヤーを持つ手は何度も滑った。
 いや、そもそも妙なことにはならない。ならないようにするのだ。己の力量に依拠すると分かっているから、一切の手は抜けない。
 今着ずにいつ着るのか、と戦装束(どついたれ本舗ライブTシャツ)を身に纏い、円盤をリュックに突っ込む。雑誌も持って行っておくか。武器は多いに越したことはない。
 躑躅森、あなただけが頼りだ。白膠木さんに勝つためには最高のカードだろう。遺憾なく威力を発揮してくれたまえ。頼んだぞ。
 全力で祈るわたしに対し、内なるロショーは顰めっ面で両腕を汲んで仁王立ちだ。

『俺からは頑張れよとしか言えへんわ』

 溜息と共に幻想の彼は視線を落とした。
 いや、もっと全力で応援してほしい。白膠木さんの背中をバチンと叩く時みたいな、もっと前向きな叱咤がほしい。不安を煽らないで躑躅森。頼む。
 結局、内なるロショーの協力は得られず仕舞いで、白膠木さん宅の呼び鈴を押すわたしの指は勝手に震えた。ぐいとボタンを押してしまってから、もう逃げられないのだと分かってしまって、折角の風呂上りなのに全身が汗ばんでしまっている。
 九月になってもずっと熱帯夜が続いているせいだ。だから、これは緊張の汗ではない。
 しかし、待てども白膠木さんは姿を現さない。チャイム音が聞こえていない可能性もあるだろうからと、再度呼び鈴を鳴らす。
 部屋の中から慌てたような足音が響いてきて、ようやっと扉が開いた。

「お、待たせ、しましたァ」

 上擦った彼の声に、わたしの喉が絞まって間抜けにきゅっと鳴った。

「……お邪魔します」

 恋人でもない一人暮らしの男の家に上がろうとしている現状に眩暈を覚えても、これはただの仕事であるので緊張する方が可笑しいのである。そう言い聞かせていたのに。
 玄関でサンダルを脱いで、向きを揃えようと振り返ったその時だった。
 急に視界が塞がって何も見えない。ひやりと冷たい指がわたしの腕を掴んでいた。

「ん、」

 反射的に零れた声は、わたしのものだった。
 なんで。疑問符が浮かぶと同時に、何かに唇を柔く食まれる。ちう、と小さく音が鳴って、わたしは飛び上がりそうになった。
 目の前にいるのは、白膠木簓だ。近すぎてよく分からないけれど。
 反射的にリュックのフロントポケットに入っているヒプノシスマイクに手を伸ばそうとして、結果的に白膠木さんの腕に拘束されて終わった。勘が良すぎる。あの顔を真っ赤にしてチワワみたいに震えていた白膠木さんは何処に行った?
 仕事で必要になるだろうからと中王区からマイクを与えられてはいるが、わたしは所詮素人だ。彼は既に何度もラップバトルを経験しているし、通常時の彼にはきっと勝てないだろう。今だってそれっぽい言葉を並べて、上手く昏倒させて逃げるしかない。
 まあ物理的に口が塞がっている以上、どうにもならないのだが。酷いオチである。

「……ふ、」

 わたしの鼓膜は無情にも白膠木さんの吐息を拾った。視界が暗いのは、彼が目前に立ち塞がって光源を遮断しているからであって、目蓋を落とすのも忘れて、ただ立ち尽くす。
 白膠木さんの前髪がわたしの額をくすぐった。
 男の手が二の腕に上ってくる。ちょっと汗ばんでいるのは、わたしか彼か。それすらも分からず、くっついた口が解放される素振りもない。
 ばくん、と心臓が大きく鳴った。脳味噌がようやく現実を認識し始めたらしい。
 いつの間にか壁に追い込まれていたわたしは、背負ったリュックが壁とわたしの身体の間で押し潰されているのも分かっているのに、まともな抵抗ひとつできず、ただ彼の体温を享受している。
 手遅れの現実は、体温に混じって皮膚を這う。
 ゆるゆると唇を擦り合わせて彼は満足したのか、ようやく顔を離した。戻ってきた光の下、彼が真剣な表情でこちらを覗き込んでくる。
 暗闇に紛れてしまうような、小さな声。

「……なあ、ほんまに、あかん?」

 白膠木さん、それは口吸ったあとに言う台詞じゃないんですよ。
 やっぱり手馴れているなあという感想は即座に土の中へ埋めて、わたしはやっとの思いで両腕を突っ張った。
 早鐘に成り果てた心臓を片手で押さえつつ、逃げ道を探る。まさかこんなにあっさりと一打撃目を食らうことになるとは思っていなかった。違法マイクやっぱり怖いな。

「あ、あかんです。お楽しみが減っちゃうでしょう」
「……そらそうかァ」

 声は震えた。無茶苦茶なこちらの言い分に、彼は奇跡的に納得したらしかった。本当に奇跡である。よく頷いてくれたものだ。
 風呂上りなのにもう汗だくだった。いきなり幸先不安である。きちんと仕事を終わらせなければ今後に支障が出ると理解しているのに、わたしの脳味噌は先程の彼の柔らかな口許ばかりを反芻してまともな仕事をしない。
 だって、いや、まさか、そんな。
 油断していたつもりはなかった。相手が上手だっただけだ。それだけ場数を踏んでいることの証左である。流石だ白膠木簓。とりあえず拍手でも送ろうか。
 犬に噛まれたと思いたかったが、あれだけの熱を浴びてしまうと思考が茹だってしまって、全く上手くいかない。
 これは、違う。彼の意思ではない。
 別に、はじめてというわけではなかった。ここまで大袈裟に動揺してしまった自分が少し恥ずかしい。いやでも仕方なくないか? そこら辺の男じゃないんだぞ。
 とにかく切り替えるしかない。躑躅森に負けぬ色気駄々漏れモードを搭載した白膠木さんの背中を押して、部屋の中へ必死に誘導する。こちらの作戦は玄関では展開できない。
 違法マイクの効力は、脳内の電気信号にちょびっと影響を与えるものだと言う。白膠木さんが今回食らってしまったのは、無理矢理に興奮状態を引き起こされてしまうものだと思われる。
 だから、あんなもの、何の意味もない。
 胸が少し軋むのに気付かない振りをして、わたしはリュックを床に下ろした。彼が不思議そうにこちらを見やる。不思議なことなんて何もない。あなたの正気を取り戻すために必要な道具ですよ。
 テレビの電源を入れ、すぐ傍に置いてあった再生機も起動させる。彼は頬を桃色にしたまま小首を傾げている。
 躑躅森、頼む、力を貸してくれ。
 全力で祈りながら円盤を起動させる。ぽやぽやしていた白膠木さんは、わたしの横で自分達のコントをふたつみっつと見るうちに、少しずつ正気を取り戻していった。
 ほっと胸を撫で下ろす。興奮状態にはそれを上回るほどの刺激を更に与えれば良い、と聞いてはいたが、本当だったようだ。
 いや、彼が躑躅森厨の白膠木さんだったからこそ、対処できたのだろう。運が良かったとしか言えない。

「んっふ、もー、これズルいわァ!」

 彼はどうにかいつもの調子に戻って、画面の向こうの躑躅森の挙動ひとつで爆笑している。一ファンが選別したどついたれ本舗傑作集であるが、本人にウケて本当に良かった。
 しかし、ひとつ問題があった。まだマイクの効力が完全に切れていないのだ。
 画面を見やる白膠木さんはわたしの真横に隙間なく座っている。それだけなら盧笙の会で慣れてしまって騒ぐ程の支障はないが、こちらの太ももに置かれた彼の手のひらは燃えるように熱く、時折わたしの剥き出しの膝の上で指先が踊っていた。
 何故わたしは薄手のハーフパンツを選択してしまったのだろう。正解は洗濯機の中である。己の迂闊さを只管呪うしかなかった。
 確かに、彼のアルコールへの耐性はわたしよりも低いだろうとは思っていた。劇場やテレビ画面越しで見るのとは少し異なる、ふわふわと隙だらけな姿を居酒屋で何度も見た。違法マイクの効力が効き過ぎてても、何ら不思議ではないのだ。脳味噌の問題なので。
 だからこれは彼の意思ではなくて、違法マイクが引き起こした、ただの悲劇だ。

「あっかん、笑いすぎて涙出てきた!」
「ティッシュどうぞ」
「アレ、今日は紙ナプキンちゃうねや?」
「引き摺らないでくださいよ、もう」

 果たしてわたしは、上手く笑えているのだろうか。




 時間は掛かったが、躑躅森耐久レースのおかげで白膠木さんも何とか正気に戻った。半日も消費するとは想定外だったが。仕事以外の徹夜は久々、と思ってから、いやこれは仕事だったと思い直す。
 やはり白膠木には躑躅森が一番効く。どの番組でも言っていたし何より本人が豪語していたが、それが真実だ。
 しかし、とにかく気まずくて顔を合わせ難い。仕事量が減る見込みがないので、そう容易く躑躅森の会が復活するとは考えにくいのが唯一の救いだった。
 そう思っていた矢先、何故か左馬刻くんの妹さん────合歓ちゃんの監視まで仕事内容に加えられてしまい、胃痛は標準装備である。本当にろくでもない仕事ばっかり回しやがる。
 現状はあくまでも監視だけだが、彼女の場合は白膠木さんと違って、いずれ言の葉党への勧誘に移行していくのが目に見えている。言の葉党そのものが悪とまでは言わないが、あちらの過激な人間に近付かない方が良いのは明らかだ。邪答院仄仄さんとか。真面目に危険である。
 日中は情報収集のためにデスクを離れ、定時を過ぎてから事務仕事である。それは中王区が結成される前のルーチンと大して変わらないはずなのに、本職以外の情報収集も混じっているから、後ろめたさは桁違いだった。
 言の葉党に対する世論の声の収集の傍ら、合歓ちゃんの友達らしき女学生のSNSアカウントを発見し、個人情報駄々漏れだなあと思いながら分析を進める。まずは外堀を埋めてからだ。
 通常業務の傍らでそのような暗躍を続けていると、白膠木さん違法マイク事件から早二週間が経った。熱帯夜が姿をすっかり消して数日、一年で最も過ごしやすくて短い季節の始まりだ。
 今週は休日出勤もなく、比較的穏やかだった。比較対象がすっかり狂ってしまった現実には目を瞑る。
 自宅の冷蔵庫がすっからかんだったので、買い出しに出向くことにした。ちゃんとスーパーに行くのいつ振りだろう。考えない方が良さそうだ。

「あ、七さん! こんにちは!」

 それが、まさか対象者から接触してくるとは思うまい。
 休日のスーパーで、買い物かごを片手に愛くるしい笑みを浮かべた合歓ちゃんがこちらに駆け寄ってくる。
 確かに一度、白膠木さんとわたしは揃って碧棺家の晩ご飯にお呼ばれした。こんなボロボロの社畜をあの時の女だと瞬時に判別して、親しげに近寄ってきてくれる合歓ちゃんは間違いなく天使である。
 ちなみにラジオネームから派生したあだ名「なっちゃん」は、年上の女をちゃん付で呼ぶことに抵抗があるとの理由で「ルート七」に立ち戻り「七さん」と呼んでくれている。

「こんにちは。合歓ちゃん覚えててくれたんだね、嬉しい」
「当然です! お兄ちゃんの数少ないお友達ですから!」

 妹さんに満面の笑みでこんなことを言われていて良いのだろうか、左馬刻くん。
 買い物かごを持つ立ち姿が主婦のそれだ。彼女は左馬刻くんと二人暮らしと聞いている。若いけど色々な苦労をしているのだろう。かと言って、それを積極的に表に出すような子ではない。本当に真面目で良い子だ。
 だからこそ特段、胸が痛むのだろう。いい加減わたしも善人の振りをしていないで、割り切ってしまえば良いのに。中途半端だから苦しむのだ。己の心なのにままならない。
 彼女はバレエシューズで軽やかに地面を蹴って、こちらのかごの中をひょいと覗いた。彼女も睫毛が長いな。瞬きの度に風が巻き起こりそうだ。

「七さん、随分いっぱい買うんですね」
「全部冷凍の作り置きにするけどね。常温の作り置きは、仕事が忙しくなると消費し切れなくて」

 冷蔵庫の中で悲しい姿になったお惣菜達の姿を思い出すと涙が出てくる。総務課時代はまだきちんと食べ切れていたが、ここ最近はそうもいかない。

「お仕事大変なんですね……! お疲れさまです」
「合歓ちゃんも、今の時期は定期テストじゃないの?」
「昨日までだったので、今日から自由の身なんです! 我慢してたお菓子作りも再開しようと思って」

 かごの中には果物がいくつかと、小麦粉やベーキングパウダーなども鎮座している。彼女が作ったお菓子なら、左馬刻くんも喜んで食べるのだろう。彼がにこにこしているところは想像するのが難しいが。
 お菓子作れるなんてすごいね、と返したところで、彼女が何か閃いた、という顔でこちらを凝視してくる。目力が強い。十代のきらきらと眩しい視線で焼け焦げそうだ。

「そうだ! 今日の晩ご飯、ご一緒にどうですか? デザートにフルーツタルトも作る予定なんですけど」
「いやいやそんな、兄妹水入らずのところに……」
「遠慮しないでください、七さんが来てくださったらお兄ちゃんも喜びます!」
「いやそれはどうだろう……」

 左馬刻くんが喜ぶところを上手く想像できない。白膠木さんと取っ組み合いの喧嘩をした後は、彼は晴れやかに笑っていたけど。

「そうだ! 簓さんも呼びましょう! 簓さんが来てくださるなら、七さんも大丈夫ですよね?」

 何一つ大丈夫ではないのだが。
 こちらの事情を全く知らない彼女は両手をぱんっと叩いて、閃いた良案を提示してくる。無邪気な笑みが逆に心苦しい。

「ご都合どうかなあ……お兄ちゃん経由で聞いてもらおう!」

 早速、彼女の指は端末の画面上で淀みなく動いている。現役の女子高生のスピードには敵うまい。重たいかごを持ったまま、わたしは途方に暮れるしかなかった。




「呼ばれて飛び出て!」
「パクリはダメですよ白膠木さん」
「自分、手厳しいな……」

 合歓ちゃんに指定された西口公園の入り口で佇んでいると、背後から両肩を掴まれて先程の台詞を浴びた。
 小学生みたいな登場の仕方だ。彼らしいと言えばそうなのかもしれない。
 そう、あまりにもいつもどおりだった。

「七さん!」

 数分も待たずに合歓ちゃんが迎えに来てくれた。こちらに向かって大きく手を振ってくれる彼女がただ眩しい。
 住宅地の広い歩道の中を、白膠木さんと合歓ちゃんと並んで歩く。彼は何も言わないけれど、女性陣の歩幅にきちんと合わせて歩いてくれている。多分躑躅森もそうなんだろうなと思って、見えないハンカチを噛み締めておいた。
 碧棺家は公園から徒歩十分の距離にあった。
 お邪魔します、と言って玄関を潜ると、平常運転の気怠げな左馬刻くんが姿を現した。彼、上着の下は年中半袖なんだな。若いな。均等の取れた筋肉を纏う二の腕は真っ白だ。白膠木さんより色白のように見える。
 部屋の奥から良い匂いが漂ってきて、鼻腔をくすぐる。ビーフシチューだろうか。左馬刻くんが客人用のスリッパを勧めてくれたので、有難く足を通す。
 そうして歓迎の体制を整えてくれているのに、天邪鬼を地で行く左馬刻くんは、納得いかないという顔でぽつんと言葉を零した。

「ンでこいつらまで……」
「もうお兄ちゃん、冷たいこと言わないの! わたしが七さんとお喋りしたかったんだから良いでしょ!?」
「別に怒ってねェだろうが」

 噛み付く合歓ちゃん、慌てて宥める左馬刻くん。他所の家の兄妹喧嘩を拝むのなんてレアな経験だ。

「左馬刻ン家来るんも久々やな~! いつ来ても綺麗にしとるよなァ」
「そうですねえ」

 朗らかな白膠木さんに、わたしも同程度の温度で返す。何の違和感もない。
 客人だからという理由で、わたしと白膠木さんはリビングのソファーで待機を命じられた。せめて配膳くらいはお手伝いをと申し出たが、合歓ちゃんは頑なに首を縦に振ってくれず、わたしはソファーに撃沈することとなった。

「あ、せやせや! なっちゃん、こないだ忘れモンしたやろ?」

 ほいと渡された紙袋の中には、不織布ケースに包まれ円盤が入っていた。躑躅森セレクションその五の文字がちらりと見える。まさか白膠木さんの家に忘れていたとは。
 あの夜は二人ともより正気ではなかったから、このようなミスもあるだろう。そういうことにしておこう。

「わざわざすみません」
「気にせんとって! あの日凄かったなあ、夜通し盧笙の会やったもんな!」
「学生じゃないのにオールなんてするもんじゃないですね」
「やーでも、たまにはあーゆーのもええやん! またやろな!」

 彼の笑顔に偽りはない。
 あの熱帯夜の躑躅森耐久レースの日に起きた玄関先でのハプニングは、どうやら彼の脳味噌の中ではなかったことになっているらしい。
 白膠木さんの演技力を侮っているわけではない。違法マイクを浴びた後、記憶の混濁はよくあると言う。紙袋を抱えながら、ほっと胸を撫で下ろす。
 ソファーの背もたれの向こう側から、合歓ちゃんがひょこりと顔を出した。

「七さん、白膠木さん! 準備できたのでこちらにどうぞ!」
「待ってましたァ! 簓さんお腹ぺこぺこやで!」

 あんなの、忘れてくれている方が良い。

06|賢くはない孤独

250808
prevnext