熱々のコーヒー淹れたマグカップを盛大に割ってもて、朝から掃除でてんやわんや。そのあと、仕事で乗った電車が人身事故の影響を受けて、二時間も車両に閉じ込められた。色々間に合わんくて左馬刻に電話でどやされとったら、傘持ってへんのにザザ降りの雨に遭遇。しゃーないからコンビニで立ち読みしながら雨宿りしとったら、コンビニ強盗が出現。店舗の隅っこに逃げ込んでめっちゃひそひそ声で警察に通報しとったら強盗逆上、レジ店員の女子高生が人質になってしもて大騒ぎ。何とかお巡りさん間に合って現行犯逮捕で一件落着と思いきや、更に雨脚強まってもて、結局日付変わる位までコンビニのイートインスペースで待機する羽目になってもた。はー、腰痛いわァ。
 何やねん、この不幸を煮詰めたような一日は。どっと疲れたわ。こんな日はぱーっと飲んで、さくっと寝るんが一番や。
 なっちゃんと盧笙の話ができたら、こない鬱々とした気分なんて遥か彼方へどっかーんて吹っ飛ぶんやけどなあ。生憎と彼女は職場に延々と拘束されとって、数か月は盧笙の会もお預けやて言われてもうた。酷い話やでほんまに。俺の精神衛生上よおないやん。
 憤っても彼女の職場の労働環境が改善するわけでもないし、しゃーないねんけど。俺と同等のレベルで盧笙のこと話してくれる人はほんまに貴重なんよな、と身に染みた。
 てか、ぶっちゃけ他におらんわ。
 ポケットの中におったスマホが産声を上げたので、取り出して画面を見やる。知った名前が表示されとった。新顔のひとりや。

『簓さん、お疲れさまです』
「一郎、どないしたん」
『今日は事務所戻られますか? ピザ取るんスけど』
「そうなん! ほな行くわ!」
『ついでに左馬刻さんがタバコって言ってるッス』
「自分で買えて言うといたって!」

 つるむ仲間は増えた。刺激に溢れた毎日ではある。
 それで満足したらええやん、と内なるロショーが言う。そない簡単な話ちゃう、と内なるササラが盛大にむくれる。現実の俺は溜息の代わりにニコチンで誤魔化して、渋々コンビニ前のアスファルトを蹴った。




 でもまあピザパーティーは毎夜開催されるわけやないから、ひとりで食べる晩ご飯は必然的に増えた。よお行っとったバーに顔出したらニヤニヤしとるマスターはおるけど、当然彼女の姿はない。
 ほんまに忙しいんやろなとちゃんと分かってんねんけど、どないしようもない。
 隣の部屋は物音ひとつせんから、多分彼女は職場から全然帰れてへんと思われる。俺がオオサカでコンビ組んどった時かて、流石に家には帰れてたで。まあ睡眠時間はアレやったけど。
 もしかしたら、職場近くのビジホとかで暮らしとるんかもしれん。彼女の気配、全くないもん。
 力なく玄関の鍵を差し込んだ。自然と二酸化炭素が零れ出るのを止めきれへんけど、まあこんな程度で足早に逃げてまう幸せなんて最初っから認識できひんやろし、と投げ槍にドアノブを回す。
 今日も風呂入ってさっさと寝てまお。あーあ、盧笙の会はよ復活させたいなあ。

「……白膠木さん?」

 背後から声を掛けられて、全身の動きが止まった。
 いつ振りかを数えるのも最早嫌になってもたけど、それは心から待ち望んだ、なっちゃんの姿やった。

「わー! なっちゃん!」
「お疲れさまです」

 思わず盧笙にするみたいに抱擁を求めたら「『いやハグはええねんハグは』」と声真似付きの応対で俺はめちゃくちゃ喜んでもうた。ポメラニアンみたいに彼女の周辺ぐるぐる回って感情を発露しとったら、流石に盧笙みたいに顔面鷲掴みにはされへんかったけど、彼女の頼りない腕が俺の両肩を押してくる。
 いやでも、冷静に考えたら一か月振りくらいやろか。おっきいバックパックを背負っとる彼女は思ったより窶れてなかったけど、暗がりでも分かるくらいに顔色は悪かった。

「大丈夫なん? ちゃんとご飯食べてんの?」
「お母さんみたいですね」
「あんた! しょーもないこと言うてへんで! おかずタッパーに入れたるからはよ持って帰り!」
「お母さん、夜なので音量控えめでお願いします」
「ああ言えばこう言うねんから、もう!」

 俯いて笑いを堪える彼女を見て、俺の中でも何かが満たされているのが分かる。
 ああせや、この感じ。なっちゃんや。
 て、久々の再会に感動しとる場合やないねん。彼女の体調が心配やった。

「いや、ほんまちゃんと食べて寝とるん? 顔色よおないで」
「そんなにですか? ちゃんと食べてますよ。ただ、国会対応に当たってまして……あ、これ一般の人には通じないか。限定的爆裂繁忙期です」
「すんごい語感やな。墾田永年私財法と並んで口にしたい日本語ちゃう?」
「流石にそこまででは……六波羅探題と同じくらい?」
「いやどのレベル? 平等院鳳凰堂?」
「部分分数分解?」
「それ結構上位とちゃうの?」
「高濃度茶カテキン?」
「あ、それくらいか? いや自分ほんまに疲れとるな?」

 やっぱ忙しいんやな。ほんで俺のこと一般人なんて言うてくれんの、自分ぐらいのもんやで。いや、こっちにおる人間は大体そうかもやけど。
 アー! なんや上手いこと言えんけど! 本人の意図せんとこで勝手に胸がときめいとんねんこっちは!
 今にも頭掻き毟ってワー! て叫び出したい俺の葛藤なんか露知らず、彼女は汗で首筋に張り付いた髪を剥がしながら、こっちをただ静かに見上げている。

「白膠木さんこそ、ちゃんと寝てますか?」
「バッチリやで! 最近は左馬刻意外にもつるんどる奴増えてな、毎日大変やから、帰ったらすぐ爆睡やねんよな~。てか、やっぱなっちゃんと盧笙の話できひんの辛いわァ」

 いつぐらいに通常運転に戻りそう? と尋ねようとして、彼女の瞳がさっと陰ったのが見えた。

「ん?」
「……いえ。わたしも白膠木さんと躑躅森談義ができないのは寂しいですよ。早く仕事、やっつけてきますね」

 指摘するほどではないが、幾分か違和感があった。でも、彼女はもう既に営業用の装甲を身に纏い始めとったから、俺は渋々疑問を突き詰めたいのを我慢する。
 誰でも触られたくないことのひとつやふたつ、みっつやよっつ、あるもんやんか。ま、しゃーない、切り替えてこ。

「待っとるで! でも無理したらあかんからな!」
「はい。それではまた。おやすみなさい」
「おやすみ!」

 隣の扉に吸い込まれていく後ろ姿は頼りなく、でもその部屋に俺が乗り込んでも何にもならんし。結局ぴらぴら手ェ振って大人しく見送るしかなかった。




 結局その日以降、またしてもなっちゃんと全然顔を合わさん日々が続いた。
 左馬刻を慕う奴らがどんどん増えて勢力拡大したせいで、俺は事務所で寝泊まりすることも増えてもて、あんましちゃんと家に帰らんようになってもた。
 こうして人は疎遠になってってまうんやろか。折角見つけた盧笙の会の会員やのに、失くすには惜しい。めちゃくちゃ惜しい。歯軋りしてまうわ。
 そんな気持ちは一旦横に置いといて、世の中に新たに普及したヒプノシスマイクを手に、あっちゃこっちゃでラップバトルを繰り広げる日々が続いた。
 想像しとったとおり、違法マイクと呼ばれる魔改造されたマイクで勝負を挑んでくる阿呆な奴らもおって、結構骨折れるなあと思うてた矢先やった。

「簓ァ、お前大丈夫かよ……」
「やー、多分、寝とったら治るし! 今日はさっさと帰るわァ! 左馬刻もほんま帰り道気ィ付けやァ!」
「ッるせーわダァホ」

 通常運転で憎まれ口を叩くものの、夕焼けで真っ赤っかに染まった左馬刻の顔には、珍しく素直に「心配」の文字が浮かんどって、こらほんまにヤバイんかもしれんと薄ら思っとってんけど。
 気付いたら自宅前で、道中の記憶が全くあらへんかった。やー、何処行ってもうたんやろな俺の記憶。散歩中? 頭全体ぼんやりしとるし、全身も熱を帯びとる感じや。
 しかもこの熱、何かアレやん。あかん奴やん。主に下半身のん。
 はー、ほんま碌でもない違法マイクやな。違法やからか。ラップの実力の底上げ限定にしといてくれたら、別にどーとでもなるけどやな。ほんま要らん効果付与すなや。
 さくっと抜いて治るんやろか。いやーどないやろな、分からんな。えっどないしよ。オネーチャン呼んだ方がええんかな。プロに任せた方が治り早い?
 ぐるぐる悪い思考が回って、視界も回りそうやった。自宅の金属の扉に片手を当てて項垂れとると、少しマシになってくる。
 いや、はよ家ん中入った方がええのは理解してんねんけど、身体が上手く動かん言うか。左馬刻がこれ浴びんでほんまに良かったわ。一人暮らしの俺は身軽やし。
 そう思うて現実逃避しとった時やった。

「白膠木さん?」

 ────なあ、何で今なん?
 久々に聞いた彼女の声に、耳元の血管がどくどく言うとるのが分かる。

「……なっちゃん?」

 己の声は頼りなくコンクリートに反射した。まだ二本足できちんと立っとるから大丈夫やと思うけど、なっちゃんは慌ててこっちに近寄ってくる。ヒールの硬質な足音。
 あ、あかん、なんかええにおいするもん。女の子のにおいや。
 待って、て静止の声を上げよう思たのに、全然言葉にならんくて、俺はただそのええにおいを堪能しとるばかりである。
 いやあかんやろ、これ絶対マイクのせいやん! なっちゃんは確かに日頃からええにおいしとったけど、こんな下半身ダイレクトアタックは初めてなんよ。何コレ!
 ばくばくと心臓があかん音を立てとる。確実に寿命縮まっとるやん。生涯における心拍数て限りあるて盧笙が言うとったもん。別に長生きしたい願望とかは特段ないけど、この速度はあかんやろ。

「……風邪引いたっぽいねんよな」

 しかもなんか勝手なこと口走り始めよるし。俺の口やぞ、どないなっとんねん脳内の電気信号は。

「阿呆なんですか?」
「馬鹿言わんかっただけ褒めたるわ」
「夏風邪は……」
「盧笙と同じこと言うやん」

 あーあ、冗談半分の憎まれ口叩くくせに、ほんま心配そうにこっち見るやろ。なっちゃんも俺の姿見て、放っといた方がええの何で分からへんのかな。明らかに狼がおるやろて。ああもう。
 お大事にーて言うて、なっちゃんの手が俺の背を擦ってくれる。えらいこっちゃ。ばくんと大袈裟に跳ねた心臓が口から飛び出たかと思たけど、気のせいやった。
 いやもう、一刻もはよこの場を離れた方がええ。そう思て一歩踏み出したら、全然体幹が安定せんくて、いやいやいや。
 たたらを踏んだ俺の先に待ち受けとったのは、女のひとのやわこい身体やった。

「アレレ?」
「アレレじゃないんですよ本当にもう……」

 なっちゃん、俺の口なんか信用したらあかんて。何できちんと俺のこと支えてくれとんの? 危ないて、ほんまに。
 おでこを彼女の肩に押し付けて、辛うじて倒れてへんだけの俺。しかも彼女の首筋に無意識に鼻先擦り付けそうやった。通報されてまう。あかんあかん!
 彼女の肩から己の手を引き剥がすのにもめちゃくちゃ苦労した。名残惜しいとか思とる場合ちゃうからな、分かっとんのか俺の手は! 言うこと聞かんかい!

「スポドリとか諸々あります?」
「んー……多分」

 あーあかん、ほんまに頭ン中のぼんやり度、増してきてもうてんねんけど。やっと握ったドアノブだけが冷たくて現実で、彼女の声はどこまでも優しいし、アアア。

「白膠木さん?」
「……えっと、なァ、あの」

 唾飲み込んだら喉めっちゃ鳴ってんけど。ごくんて。めちゃくちゃ恥ずかしいねんけど。どないしてくれるん違法マイク。誰や改造しよった奴。今度会うたらけちょんけちょんにしたるからな!
 と、吠えることすらままならん。ほんまにえげつない効力や。市場にどんだけ出回っとんのやろ、事件になってからやと遅いで。てか、もうこの場で事件起きそうやし。
 いやいや負けるな俺、流石に芸人復帰が危ぶまれるのはナシや。最低限のラインは何とかして守らんと。

「これな、多分、違法マイクのせいでな……」

 ほんでほんま勝手に喋り始めるん何なん。俺の身体やねんけど? 誰に許可取って彼女に迫っとんねん!
 ちゃうやろ、やってなっちゃんは盧笙推しやんか。俺のことはコンビの片割れとして応援してくれとるんやん。それをこないな形で裏切るとかある?
 ────それとも、俺のファンちゃうから、手ェ出してもええんか?
 脳内はもう大渋滞の大運動会、全力桃色、歌合戦どころか正常な判断なんか全く期待できひん。金属の扉にぺとっと頬をくっ付けて、薄ら目蓋を持ち上げる。
 やー俺、いまめちゃくちゃ悪い顔しとるやろ。自分でも分かるもん。月九の撮影ちゃうねんで。カメラ回ってへんやんか今。

「……あかん?」

 いや囁いたらあかんよ俺、イエローカード顔面にべちーて貼られてまうやんか。
 内なるササラはいつになく冷静やのに、外の簓は欲望丸出しの不審者や。しかも気ィ付いたら彼女の手を握り込んどる。アウト。これはレッドカード。お巡りさん俺です。
 なっちゃんも俺の手ェなんか振り払って、はよ隣の部屋に逃げ帰ってくれたらええのに。別に俺そんなんで傷付いたりせえへんもん。自分の安全を自分で守ってくれとる方が全然ええねんけど。
 でもなあ、ぶっちゃけ彼女、俺のタイプやしなあ。
 内なるササラが遂に黙り込んだ。その心の声は残念ながら真実やった。てか、いまの内と外、どっちの声やったんやろ。もうなーんも分からんな。
 扉にぺとっと張り付いたまんま、彼女の指をにぎにぎしとる不審者を止めてくれる人は現れへん。いっそお巡りさんでも左馬刻でもええから、俺んこと殴って今すぐ気絶さしてくれへんかな。そしたら多分ぜーんぶ丸く収まる思うねんけど、どない?

「……ファンには手を出さないと聞いてましたが」

 彼女の硬い声が鼓膜を打つ。緊張は伝わってくるけど、俺の身体は今バグっとるから全部興奮に変換されてもうとる。これほんまあかんくない?
 ほんでやっぱそれ広まっとるんか、そうかあ。そうよな。俺オオサカでネタ交じりにそう言うとったもん。てか手ェ出しとったん、後腐れのない子ばっかやったし。こっち来てもそうやし。いやほんまに。性病には気ィ付けとったし検査もしとるから大丈夫やけど。
 いやそんな情報、今は重要ちゃうねん。現状打破が最優先やねん。この勝手に喋って反応する己の身体をどないかせなあかんねん。お分かりか?

「自分、俺のファンちゃうもん。盧笙のファンやもん」

 俺、本気で自分の口縫おとか思うたの、はじめてやわ。

「凄まじい言い訳をどうも……」

 ほれみい、なっちゃん引いとるやんけ! しらーっとした目で一歩距離取ってくれたから、意識して酸素を吸い込むようにする。冷静どっかに落ちてへん?
 違法マイクほんま怖い。全然大丈夫やないねんけど。こんなん絶対、盧笙に顔向けできひんやんか! いや、今まで盧笙のファンの子に手ェ出したことないんか言われたら口噤むしかないんやけどな。そんなんほんまに数え切れる程度しかないもん。盧笙に誓って言えるわ。
 が、即座に内なるロショーにボコボコにされて内なるササラは再起不能になった。
 ちゃう、そっちちゃう、外の簓を何とかしてくれんか。ただの暴走機関車やんけ!
 心臓いまにも吐き出しそう、手汗もヤバイ、内なるササラは沈黙してもうて、もう万事休す。なっちゃんが俺のことぶん殴って逃亡してくれるルートしか残ってへん。
 のに。暫くの沈黙を噛んで、彼女は。

「…………それじゃ、悪いことしましょうか」

 なんて?
 囁き声でにっこり笑って、彼女の手がこっちに伸びてくる。そのまんま、多分林檎みたいになってもうとる俺の頬を、彼女は指の腹でふにっと撫で上げた。

「ヒエ」

 何コレ? ドッキリか?
 俺がドッキリの対応あんまし得意やないことを踏まえての布石なんか? いやこんなドキュメンタリー誰が見るねん。全年齢から程遠いやろがい。俺、今まで割とクリーンな感じで売ってたんやけど。こっち来てからの振る舞いは以下略やねんけどな。
 てか素でヒエーとか言うてもた。思春期の女子中学生ちゃうねんぞ。
 絶対いま脈拍ヤバイ。いっこも走ってへんのに全力疾走後みたいになっとるもん。いっそ息苦しいまである。
 固まる俺に対して、彼女は瞳を細めて、俺とどっこいどっこいの悪い顔をした。

「各々お風呂上がったら合流しましょうか。白膠木さんの部屋で良いですか? 呼び鈴鳴らすので」

 あ、悪魔がおるゥ……。
 いま多分、不整脈や。体温も煮え滾っとる。思考も全くまとまらん。ぽやぽややで。やってな、え? と自問自答して、え? としか結論出えへんもん。そもそもそれは結論やない、ただの感想や。何やこれ。

「では後ほど」

 彼女はにこやかにそう述べて、隣の部屋の扉ん中にするするーて吸い込まれてった。
 とにかく俺自身がまともやないことはわかる。ふらふらの足で靴脱ぎ捨てて、よたよたと服脱いで自宅の風呂場に突撃する。
 彼女、悪いことしましょか、て言うたよな?
 間違えて二回もシャンプーしてもた。めちゃくちゃ泡立つなあて思て、やっと気付いた次第である。ずっと脳内をピンク色の疑問符が埋め尽くしとるんやけど。
 悪いことて何? 世の中にいっぱいあるやんか悪いことなんて!
 風呂上りの身体に薄手のTシャツが張り付いてもうて気持ち悪い。冷房ガンガンにしとこ。え? もう九月終わるて? 十月の最初の方までは、まだ夏の範疇や。地球温暖化は見事に進んでもうとるわけやな。南極と北極の氷もどんどん溶けてるんやて?
 ア~! あかんよ~! 思考全然まともやないもん!
 ぴんぽんとチャイムが鳴って心臓吐き出してまいそうやった。もう体内ぐらぐらで、何が正しくて何が間違っとるかなんて、いっこも分からへん。
 自分で誘っといてアレやけど、彼女も全然断らへんねんもん。同罪でええやんな? 同意の上やんな? これ、俺だけが悪いんやないよな? そもそも悪いのは違法マイクで、食らってもた俺も悪いっちゃ悪いけど、悪乗りしてきた彼女は、ええと?
 俺が全然ドア開けへんから、何度かぴんぽんが繰り返される。もう逃げられへんわ。
 盧笙、すまん、俺の棺桶にコンビ組んどった時のネタ帳とか台本とか入れてほしいねんな。あの世で盧笙のこと先に待っとかなあかんし。頼んだで。
 観念して鍵開けて、果たして扉の向こうから姿を現したなっちゃんは、どつ本のライブTシャツにハーフパンツやった。なまあしみわくのまーめいど。
 俺、やっぱ死んだかもしれん。

「お邪魔します」

 普段の彼女の服装は殆ど露出なんてないビジネスカジュアルやから、ノーストッキングの足はちょい刺激が強かったんやと思う、と言い訳をひとつ。
 次に俺の意識がまともに戻った時には、彼女は背負っとった黒のキャンバス地のリュックを床に下ろして────リュック? 着替え? 泊まってく? 混乱する俺を他所に、彼女はひんやりするラグの上で豪快に胡坐をかいた。膝小僧が眩しいねんけど大丈夫?
 俺の心配なんか全然伝わらへんのか、彼女は思い立ったようにおっきいテレビの前に移動して、デッキを徐に操作し始める。
 えっ何、観ながらってことなん? 無音は寂しいて?
 自分の部屋やのに立ち尽くす俺の手を彼女が引っ張って、俺は床にぺたんと座り込む。もう全身心臓みたいなもんなんやけど。誰か助けてくれ。まだ死にたないねん。
 湯上りの彼女から更にええにおいがしてもう気絶そう。あーあ、ほんま男て単純な、憐れな生き物やな!
 彼女の顔が近付いてくる。ただ受け身なだけの俺。耳朶にそっと吐息が吹き掛けられて、今にも叫び出しそうやった。

「躑躅森耐久レース、しましょうか」

 それ、俺の太ももに手ェ置いて言う必要あったん?




 奇跡的に俺は生還した。
 盧笙のおかげで(正確にはどつ本ライブツアーに加えて彼女が撮り溜めとったらしいバラエティ番組の切り抜きやら特番やらのおかげで)、全年齢対象的展開に留まることに成功した。いやほんまに途中まで危なかったけど。彼女のハーフパンツの中に何度か手ェ突っ込みそうになったけどやな。
 俺、耐えましたわ! ありがとうな盧笙!
 生殺しかと思たけど、円盤見とる間に体調は不思議と元に戻った。盧笙の力はすごいな。もしや世界も救えるんちゃう?
 それにしても、あのグラグラと熱の籠る感じ、二度は食らったらあかん代物や。違法マイク、はよ何とかせんとな。正規のヒプノシスマイクの攻撃で破壊できるっぽいから、左馬刻と協力して地道に潰してくしかないんやろか。

「興奮には興奮をぶつければ良いんですよ」

 めちゃくちゃ眩しい笑顔で、彼女はさくっとそう言うて、朝日と一緒に自分の部屋に帰ってった。
 そうして躑躅森耐久レースは、オールで幕閉めとなった。




「き、緊張したァ…………」

 薄い壁に阻まれて、彼女の声音はなかったことになった。

05|暗やみのマスターキー

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