白膠木さんとの飲み会は定期的に開催されているが、駅前での待ち合わせにきちんと間に合ったのは、残念ながら久し振りだった。そんな社会人にはなりたくなかった。
 今日は大きめの会議を終え、たまには早く帰らないと心が死ぬのでと同僚に対して一方的に告げて、ほぼ定時退社が叶ったため、何とか約束の時間に駅前に到達した次第だ。己を宥めるための人工的な奇跡である。
 時計台の下に白膠木さんの姿はまだなかった。本当に珍しいことである。彼はいつも余裕綽々の佇まいでわたしを待っていてくれるので。
 暇つぶしに、スマホを片手にメールボックス内で沈殿している不要なメルマガを手動削除の刑に処していると、肩にぴっとりとくっつく体温があった。驚いて顔を上げる。

「なっちゃんお疲れ~!」

 夕焼けに負けぬ眩い笑みを浮かべた、白膠木さんだった。
 気配を消すのが異様に上手い。関西にいた頃、その存在感をこれでもかと示していたはずの彼は、こちらでは宵闇に紛れるかのようにして現れるのだ。
 そもそも、彼の距離感も永遠にバグり続けている。こんなもの、一芸人とファンが繰り広げていい内容ではない。なのに、指摘してもふらふら躱されてしまう。
 コンビ時代もファンに対してこんな感じだったんだろうか、とふと思う。
 少し胸がもやついた。
 はて、何か悪いものでも食べただろうか。とりあえず半歩、くっついた分だけ彼から距離を取る。彼の片眉が少し跳ねたのは見ない振りである。

「お疲れさまです」
「今日は牛カツ食べるで!」
「『手ェ引っ張るんやめェやもう』」
「キャー!」

 躑躅森の声真似で第一志望の合格発表ぐらい全力で喜ばれてしまうと、引くに引けない。白膠木さんが躑躅森の一番のファンだというのは本当だなと思う。
 躑躅森担の最後の敵は白膠木簓だが、未だに勝てるイメージが思い浮かばない。多分世界が引っ繰り返っても無理だと思う。ラスボスヌルデ。閑話休題。

「白膠木さん、店通り過ぎてますよ」
「あかんあかん、はしゃぎ過ぎたわ!」

 距離は詰めてくるが、彼はわたしのことをラジオネームで呼ぶ。こちらが本名の提示を必死で拒んだ故である。彼からの追求はようやく落ち着いたところだ。
 躑躅森に関すること以外の会話は、当たり障りのない雑談が大半を占める。そのくせ、物理的に近付いてくる。よく分からない人だ、というのが本音だった。
 白膠木さん主催の盧笙の会は、時々左馬刻くんも参加するようになった。彼は躑躅森盧笙のことをさっぱり知らないので基本は聞き手に徹しているが、時々躑躅森と肩を並べるレベルの鋭いツッコミをしてくるので、油断ならない男である。
 よくよく考えてみれば、わたしが白膠木さんと左馬刻くんの飲み会に混ぜてもらっているのが正しいのだと思う。けど、白膠木さんは盧笙の会であることにやたらと拘っているので、訂正する機会は逃したままだ。
 ────いや、盧笙の会でなければならない。何故なら白膠木さんは相方で、わたしはただのファンだから。
 今回も左馬刻くんが後から合流する形で、本日の会は始まった。牛カツなんて何年振りだろう。やはり美味しいものを食べなければやってられないのが現実である。仕事は延々と膨らみ続けたままなので、しっかりと目を瞑っておく。見てたまるか。
 本日の議題はどつ本の小学校ネタから始まったが、気付けばわたしと左馬刻くんの弟妹の思い出話に花が咲いていた。脱線した話は白膠木さんの力では止められず、どこまでも進んでいってしまう。

「自分が中一の時に弟が小一だったんですよね。あんなちっちゃい身体で大きなランドセル背負ってるのを見たら、『守ってあげなきゃ』って気持ちが強くなって」
「アー……まあ、分かる」

 俺ンとこも六歳差だな、とやたら顔の造形が整った男は煙と一緒にそう吐き出して、目蓋を少し伏せた。睫毛なっがいな。
 肌がやたら綺麗だなと思って左馬刻くんの年齢を確認したら、彼はわたしよりもひとつ年下であることが判明した。しかし一歳差を理由にするには納得のできない美しさであったので、一体どのように手入れしているのか尋問すると「妹にやたら保湿がどうのとか言われンだよ……」とのことである。それは妹さんに感謝した方が良い。

「昔のケータイの写真の画質って今から見ると本当にガビガビですけど、当時は全くそう思わなくて技術の進歩を感じますね」
「おー……」

 生返事に聞こえるが、彼の眼差しはきちんとわたしのスマホの画面に落とされている。生意気そうな坊主だな、と不要な言葉が出てきたが、その眦は意外にも柔らかい。
 既にしっかりとアルコールが入っている白膠木さんは「ほんまにチビちゃんやな。いまはどんな感じなん?」とわたしの肩に頬っぺたをくっ付けて液晶を覗き込んでくる。
 最近の白膠木さんは、大体こんな風にわたしの方へくっ付いてくる。わたしは躑躅森ではないのですが。
 最近の写真なんてあったかな、と思いながらフォルダをスクロールしていると「ちょいちょい待って! フォルダ名『躑躅』てそれ盧笙専用の!?」「それは本筋から外れるのでスルーしてください。はい、これが高校入学式の弟」「んー? 自分とあんま似てへんな」「そうですかね」奇妙な会話を繰り広げることになった。
 パリピ、他人の画像フォルダを勝手に覗き見て漁りがちである。不幸な事故が起こる前に改められたし。
 左馬刻くんは煙草の煙をぷかぷかさせながら傍観者を決め込んでいる。今更他人行儀なんて許されると思うてか。少し机に身を乗り出して、卓上に放り出されている彼のスマホを指先で突いた。

「左馬刻くんの妹さんの小さい頃の写真も見せてくださいよ」
「ンでだよ」
「等価交換です」
「アァ? ウチの合歓の方が可愛げがあるに決まってんだろ」

 はんと鼻で笑いながら、妹さんとのツーショットをドヤ顔で見せてくる左馬刻くんである。ぴかぴかの赤いランドセルを背負った幼女を抱える彼は、砂埃の汚れが目立つ学ラン姿の中学生で、白い頬に貼られたガーゼが痛々しい。

「あっらあ可愛い!」
「当然だろ」

 左馬刻くんも含めて可愛いと言ったのだが、伝わらなかったようだ。ふんと鼻を鳴らした彼は、さっさと端末の画面をオフにしてしまう。
 ま、お前のとこの弟ももうちょい成長したらちったァマシになんじゃねーの、と彼はこちらも見ずに早口で投げ返してくる。白膠木さんがぎょっとした顔になって、左馬刻くんを指さした。

「あ、あの左馬刻が人ンこと褒めとる……!?」
「うっせェわ、何か変なこと言ったかよ」
「まとも過ぎて怖いんや……」
「アァ?」

 仲良しですねえ、と言うと白膠木さんはそおかあ? と首を傾げ、左馬刻くんは誤魔化すようにジョッキを傾けた。二人とも表情が少しぎこちなくて、照れ隠しはあまり得意ではないようだ。かっわいいな。
 ワサビと共に牛カツを味わいながら、コント中に躑躅森が見せた照れ顔を脳裏に思い浮かべる。いや、やっぱり躑躅森が優勝だな。

「躑躅森さんの弟さんも可愛がられてるんだろうなあ」
「どやろな~、結構お笑いのネタにしとったけど……」
「それは話が別ですよ。そもそも家族って、多少はネタの犠牲になるものじゃないんですか? 知らんけど」
「知らんけどの使い方完璧なん何なん? 自分、ほんまは関西弁喋れるんやろ?」
「大学の四年間、大阪にいただけなのでエセですよ」
「よお言うわ」

 関西人に囲まれて数年を過ごすと大体こんな感じになるので、何ら不思議ではない。
 白膠木さんは相変わらずわたしの肩にずっと頬っぺたをくっ付けたまんま、冷酒をくぴくぴ飲んでいる。うーん酔っ払い。
 左馬刻さんもこの光景にツッコミを入れる気力はないのか、ジト目でこちらを見やるばかりだ。いまこの瞬間、あなたのツッコミ能力が試されているのですよ。
 が、こちらのテレパシーなど伝わるわけもない。わたしも色んなものを諦めて、話足りない弟妹の話題をもう少し続けることにする。

「高校生にもなると自我がしっかりしてくるじゃないですか?」
「まァ反抗期だな」
「いや遅ない? 思春期真っ只中やないの?」
「遅ないです」
「普通だろ」
「はー、過保護やな……」

 一人っ子の白膠木さんだけがむくれていて、ぷくっと膨らんでいる頬を指先で突いて遊んでやる。それだけでキャッキャと喜んでくれるから安いものだ。
 いや冷静に考えて、あの芸人・白膠木簓が安いわけはないのだが。わたしもしっかり酔っ払いだった。アアア。

「弟、一緒に住んでんのか」

 緩やかに瞬きをしながら、左馬刻くんが呟くように言った。

「いえ、今は母と一緒に関西です。だから様子は母からの写真でしか分からなくて。電話もメールも、恥ずかしがってしてくれないんですよね」
「アー……」

 そうかよ。彼は食後のコーヒーを啜って、静かに呟く。
 その温度から、彼の家庭事情を何となく察した。

「ほな簓さんと電話しようや!」

 今の会話から何故、白膠木さんと電話する流れになったのか。スマホを両手でにぎにぎして、さあさあと彼は迫ってくる。

「万が一、芸能人の電話番号を流出させてしまったらと考えると夜眠れなくなるので、遠慮しておきます」
「もー、何でいっつもそない遠慮しいなん! 左馬刻も何とか言うたってェな!」
「賢明だな」
「でしょ」
「もう!」

 白膠木簓、もしやわたしの弟だったか? と思わんばかりの距離感であった。




 その日は、来るべくしてやってきた。
 月曜日、昼休みを過ぎて数十分。職場の電話がひとつ鳴り始めたと思ったら、それを皮切りに呼び出し音の大合唱の幕開けである。内線も外線もごったまぜ、通話が終わったら次の通話が始まる有様で、職員はみな目を白黒させていた。普段から電話の多い職場ではあるが、今日は異様と表現して差し支えない。
 早速喉が枯れそうなわたしの内線にかけてきたのは、激務で有名な部署に配属された同期だった。彼女は運動部で培った体力とジム通いで何とか生き延びていると聞く。とにかく、そんな忙しい彼女からの電話は珍しいの一言に尽きた。
 彼女の重苦しい声は、端的に述べた。クーデターが成功してしまった、と。

「本気で言ってる?」
「嘘かどうかなんて、すぐ分かるよ」

 弊社の社長、つまり総理大臣は失脚し、近頃騒がしかった政党から、この国の新たなリーダーが生まれた。女性ならば着目せずにいられない「言の葉党」党首────東方天乙統女が、我々の新たな社長である。
 今晩、緊急生配信で政権交代宣言をするとのことだった。電話の大合唱の原因はそれか。当日、しかも半日を切っている状態で配信を間に合わせろなんて鬼の所業だ。どれだけ迅速に処理したとしても二十時以降になるだろう。
 言の葉党に属する彼女たちは、ヒプノシスマイクなる新たな武器を片手に、早速庁舎の中を練り歩いているという。
 そんな伝聞形式の情報は、すぐに己の目で実際に確認することになった。
 薄暗い廊下で視界を過ぎるショッキングピンクのラインが目に痛い。彼女達の視線は鋭く我々の名札を突き刺し、声音は鼓膜と内臓を強く揺さ振ってくる。
 年度の途中に勘弁していただきたいというのが本音だが、働く職員の疲労度合いを考慮したクーデターなど聞いたことがないので仕方ないのだろう。歯車の一部は悔しがるのも仕事のうちだ。そう思わないとやっていられない。
 ひとまずあちこちで鳴り続ける電話をひとつずつ順に処理して、今度は爆発寸前のメールボックスを片付ける。取引先だった新聞社にテレビ局、フリージャーナリスト等からのメールが七割で、三割は同業だった。
 心配する声、情報は優先して弊社に流してくれとの要望、好奇心、その他諸々。
 この騒ぎを今日中に何とかするのは、本物の奇跡でも起こらない限り無理だ。潔く諦めて、タンブラーからぬるくなったコーヒーを啜る。室長も課長も何処かに呼び出されてしまったので、判断を仰ぐ必要のない案件から順に着手するしかない。
 わたしはマスコミから情報収集する立場ではあるが、マスコミに情報提供するのは業務外なので、配信作業には関わらずに済みそうだ。そこだけが救いだった。
 隣席の上司────男性は、正しく両手で頭を抱えていた。濁った瞳がこちらを捉える。重苦しい二酸化炭素が彼の口元で渦巻いている。

「お前は女で良かったな」
「初めて言われましたよ、そんなの」

 今まで積み上げてきた担当業務が白紙になって、次々と新しい施策が花火みたいに打ち上げられていくのだろう。長く生き残るものもあれば、一瞬にして消え去ってしまうものもある。彼は特に思い入れのあった担当業務を手放すしかなくなった現状を嘆いているようだった。
 結局、働き蟻は淡々と仕事をするだけだ。感情を持ち込むと自分の首を絞める羽目になる。こんな時ばかりは機械人形のように仕事ができれば良いのになと思う。上司もそうだ。そうすれば、ここまで憔悴する必要もなかっただろうに。
 そうして百八十度変わってしまった職場は、己の性別が女であったとしても、お世辞にも居心地がよいとは言えなかった。
 男尊女卑から女尊男卑へ。あまりにも極端な変化に、男性職員の困惑と恨みがましい視線が皮膚を舐めるように這う。実際に文句を言われることもあった。わたしに言ったところで事態は何ひとつ変わらないことを知っているはずなので、ただのストレス発散の道具扱いをされているというわけだ。
 一職員にどうこうする権限はない。幹部職員なら話は別だが、少なくとも言の葉党員の彼女達にただの平職員が歯向かうのは、時期尚早と言えた。
 中王区から希望者に配布されたヒプノシスマイクは、マイクを通した言葉で精神攻撃を仕掛け、何なら謎に爆発も引き起こす代物だ。
 ちゅどーんという効果音と共に街中で吹っ飛ぶ男性陣の姿は、最早日常風景になっていた。いつしかこの世はるーみっくわーるどになっていた訳である。水を被って女になる男の出現も待ったなし。知らんけど。
 日頃から文字を武器にしているのは行政職員とて同じことだが、我々の作り上げる文書は人を傷付けることはあっても、物理的に爆発することはない。物騒な世の中────は、前からそうなので今更だが。
 不可思議な道具が悪用される未来まで見えてしまっているが、それを何とかするのも業務の範囲だと言う。涙が出る。どんなマッチポンプだよ。
 また、わたしは運が悪いことに、入庁時から内閣の補助機関に配属されていた。クーデターが起こる前からH法の内容については情報収集を続けていたが、こんな形で役に立つとは。胃薬が手放せない。大瓶をデスクに常備していて本当に良かった。良くない。
 この法案をオブラートと生八つ橋で二重に包んで、口当たりの良い言葉達に置き換えれば、世間の反応はまた違ったかもしれない。でも、結局のところ本質は誤魔化せない。
 あちこちに設定されたディビジョンという区画は、かつての地名の名残はあるものの、何かが根本的に変わってしまったのだと実感させられる。
 オオサカという文字列は、あの頃の大阪とははっきりと異なるものだ。第二の故郷に思いを馳せても、現実はただ冷徹な温度でそこにある。

「……引き継ぎなんてもう不要か」

 鼻白む隣席の上司の顔を真っ直ぐに見上げることは憚られた。彼はこのまま何もなければ、将来は部長クラスに上がっていたひとだ。クーデターさえなければ。
 目の前でキャリアを手折られたに等しい男性職員たちの落胆ぶりは凄まじく、女性職員は嫌に重苦しい空気に自然と視線が下を向いた。
 フロアカーペットの汚ればかり目に入る。どれも染み抜きするには手遅れだ。

「ま、お前は頑張れよ」

 暗に自分はもう頑張りたくないのだと宣言して、上司は後半休を取得し、本日は退勤となった。こうなると、しばらく職場に出てこない可能性もあるな。わたしが対処できるのは、精々共有フォルダを覗いて勝手に業務を遂行することぐらいだ。
 新社長がクーデターのついでに組織改変まで目論んでくださったおかげで、人事部一同は白目を剥いていた。徹底的に女尊男卑を取り入れる方針のようだ。人事部に男性職員がひとりもいないなんて、現実味がない。
 確かに、今までの世の中は女性が権利を守るための戦いだった。男尊女卑の精神はあちこちに転がっていて、それを日常としていたのも確かだった。
 ただ、十倍の税金に居住区画の制限といった言の葉党の施策は、女の身である己ですら極端だと思うのだから、男性陣の意気消沈具合を揶揄するわけにもいかない。
 手持ち無沙汰に手元のボールペンをカチカチとノックして、後輩女子が泣きそうな顔でパソコンと睨めっこしているのを横目で眺める。後で話を聞いてあげないと。彼女は一年目だから、フォローは手厚いくらいで丁度よい。
 ふと、作業着のポケットに入れていた私用のスマホが静かに鳴った。
 身に馴染んで久しい紺色の作業着も、言の葉党の方針によりピンクのラインが入ったものに差し替えられると聞いた。業者は儲かってよろしいかもしれないが、この財源はどこから捻出したんでしょうね。思考を放棄したい。
 いや放棄を試みている場合ではない。スマホは延々震え続けている。観念して執務室を出て、人気の無い給湯室へ足を運び、端末の画面に指を滑らせた。

『……よお、始まったなァ』

 これが仕事でなければ、わたしがわたしでなければ、ただこの渋い声を無邪気に味わえたのだろう。良い声ですねって。良いのは声だけだ。
 形容するなら、ただの知り合いで、取引先のひとり。ただ、この男の発言に逆らうだけの力は、わたしにはない。

「そうですね」
『何だ? もっと喜ぶかと思ったが』

 電波の向こうの男は楽しげに肩を竦める幻覚まで見えた。いつも飄々とこちらの足元を見てくるひとなので、実に愉快そうな空気を滲ませているのが分かり、胃がちくちくと軋む。

「……単純に疲れているんですよ。それで、ご要件は何ですか?」
『あァ、「白膠木簓」の監視を頼む』
「…………」

 唾も言葉も飲み込んで、わたしは沈黙を選択せざるを得なかった。
 わたしのプライベートなんて全部筒抜けなんだろう。その上でこの注文なのだから、意地が悪いとしか言いようがない。
 背中に嫌な汗が滲み出る。監視。この男がこの単語を選ぶ時、妙な動きがあれば報告しろという意図もセットだ。
 白膠木さんが妙な動きをするって何だ。彼はただのお笑い芸人で、どっちかと言うと妙な動きは芸風のひとつだと思われるが。
 いや、違う。これから発展する可能性があるのか。彼が今つるんでいる、やたらと造形の整った長身の男とふたりなら。
 左馬刻くんを監視しろと言わないのは、また別の狙いがあると見て良さそうだ。どちらにせよ気分の良い話ではないが。

「……以上ですか?」
『おいおい、随分ご機嫌斜めだな。飯でも行くか?』
「暫く帰れないのでご機嫌斜めなんですよ」
『はっはァ、真面目だねェ』

 からかう温度の声音が癪に障る。自然とこちらの喉に苛立ちの色が滲んだ。

「あなたが望んだことでしょうに」
『違いねェな。……んじゃ、今週金曜な。積もる話も多いことだしよ』

 積もる話なんて言いながら、大半は一方的な要望ばかりのくせに。ほぼ確定している未来に辟易とするも、わたしに断る術はない。
 この力関係が逆転する日を思い描けないまま、果たして何年経っただろう。

「……承知しました」
『そう嫌そうにするなってェ、おいちゃんは傷付いちまうぜ?』
「失礼します」

 思ったよりもぐったりとした声が出た。電波の向こうの男がくつくつ笑うのを遮るようにして通話を切った。




 木曜日、二十一時。デスクの上に溢れていた未処理案件の書類の山を半分程度にまで減らして、無理矢理パソコンの電源を落とした。何が何でも退勤するという強い意思の表れである。
 指定は職場の近くの飲み屋街だった。海鮮が売りの店の暖簾を潜ると、一番奥のテーブル席で白膠木さんが待っていた。
 彼はスマホと睨めっこしていたが、わたしに気付くとすぐにそれを机に伏せて、友達みたいに手を振ってくる。盧笙の会の会員は、今や友達認定に等しいと思われる。
 今日もお疲れちゃんやで、と無邪気な笑みで出迎えられると、強ばっていた肩の力が自然と抜けた。
 ふと我に返ると、あの白膠木簓と一緒に酒を飲むという非日常が日常になっている事実に眩暈がする。ので、我に返ってはいけないと自分に必死で言い聞かせる。
 同時に、受けたくなかった命令の内容まで思い出してしまい、顔が引き攣らないように努力する必要があった。
 白膠木さんの監視と言っても、通常業務の合間を縫ってでしか遂行できない。ただ、残念ながらわたしの行動が見透かされていることを考慮すると、白膠木さんと接触する機会を故意に減らすこともできなかった。
 冷たい布おしぼりで手を拭いて、手書きのメニューに目を滑らせる。彼は既にわたしの好みを大体把握してくれていて、あれやこれや候補を提示してくれるので有り難い。
 白膠木さんはオオサカにいた時も、こうして先輩芸人との付き合いを乗り越えてきたのだろう。彼は基本的に、とてもきめ細やかな気配りをしてくれる。
 丁寧にお礼を言うと「盧笙かて、こんくらい普通にやるで」との追加情報があり、わたしの語彙は早速融けた。こういうのは理屈じゃない。

「時間遅いし、軽めの方がええよな? サーモンマリネいるやろ? 揚げ出し豆腐と貝柱塩焼きは頼むよな? エビマヨはどないする?」
「美味しそう……あっ茄子の煮浸し……」
「お造り盛り合わせも頼んどこか! 飲みもんどないする?」

 こちらを優しく気遣ってくれる人を監視するなんて、どうかしている。そう思うのに、わたしには抗う術がない。
 無力のせいで辛酸を舐めるのは、今に始まったことでもないのだが。
 ……それでも、わたしにもやり方がある。何でもかんでも「あの男」の言いなりにはならない。
 へとへとの笑顔は他人を油断させると教わってしまってから、わたしは上手く笑えていない気がする。笑いのプロの前で失態は許されないので、今日も元気に狂っていかねば。
 目に付いた日本酒を注文することに決めると、白膠木さんは滑らかに店員さんを呼んで、さくさくとオーダーを終えた。彼は記憶力が良いから、わたしに内容の再確認をすることもない。
 ひとまず乾杯を済ませて、水みたいに美味しい日本酒で口の中を湿らせる。お酒の勢いは大事だ。べろべろに酔っ払うことはなくても幾らか感覚は麻痺するし、それで逆に動けるようになる。
 言いたくないことも、言えるようになる。
 言えば白膠木さんは落胆するだろうが、こうでもしないと現状が悪化するばかりだ。だから、仕方ない。十分に己に言い聞かせて、口を開いた。

「暫く冗談抜きで忙しくなりそうでして……今後、盧笙の会への参加は難しくなると思います」
「えっ嘘やん、これ以上忙しくなんの!?」

 それほんまに大丈夫なん、と下がりきった眉毛で白膠木さんが問う。両手でビールジョッキを握って、わたしの体調ばかり心配してくれる。
 優しい人だ。知ってしまった。ただ推していたコンビの片割れの認識に留まっていれば、ここまで苦しくなかったのだろうか。
 体裁を整えるのは仕事のうちだ。わたしは害のなさそうな笑みを浮かべて、関西のおばちゃんよろしくひらひらと適当に手を振った。

「生命医療保険にはきちんと入っているので大丈夫ですよ~」
「こらこら、そんな入院前提の仕事て……!」
「まあ、数か月すれば落ち着くと思いますので」
「数か月も!? いやほんまに心配やねんけど……! 俺になんかできることある!?」
「お気遣いありがとうございます。躑躅森の蔵出し情報があればとっても嬉しいですが」

 予期せず本音が飛び出たが、白膠木さんのツボに見事ハマったらしく、爆笑して受け入れられた。良かった、命拾いした。

「はー、そこはブレへんよな自分……や、まあ数か月も頑張らなあかんねやったら、とっておきのん出したるけどやな!」
「わあい」
「今日も早速正気失っとるやん」

 そうだ。ずっと前からそんなもの失っている。そう努めている。

「盧笙も言うとったもんな。『胸張られへん選択肢を選んだらあかん』てな。やっぱあいつ、前世忍者やったんや思うわ」
「真っ直ぐ自分の道は曲げねえですか」
「それそれ! 盧笙、やっぱ眩しい男やわ……」

 しみじみと白膠木さんが言う。
 ────そうだ。そのとおりだ。上手くやれば良いだけの話だ。王道の忍者漫画では銀髪の教師が「裏の裏を読め」と説いていたではないか。愚直だけが手段ではない。
 机の下で拳を握り締める。決意表明しておこう。わたしのために。躑躅森のために。白膠木さんのために。

「白膠木さん、わたし頑張ります」
「んん? もう十分頑張ってんちゃうの?」
「いえ、まだこれからです」
「ほんま自分、よお働くなあ……」

 少しぬるくなったビールを喉に流し込みながら、どこかぼんやりした声で白膠木さんが呟いた。

「諦めたら試合終了やって、躑躅森も言ってました」
「いやそれは漫画の名言パクっただけやからな」




 金曜日の昼休み、職場は延々と慌ただしい空気を纏っていた。わたし自身も複数のレクを終え、既に午前中だけでクタクタになっていた。液状化は秒で可能である。
 食堂でさくっとお昼を終え、腕時計に視線を落とす。昼休みが残り十五分であることを確認してから、折り畳みの日傘を手に庁舎の外に出た。
 少し離れた方が良いかと思って、近くのコインパーキングの入り口まで歩く。人通りはない。日傘がなければ灼熱の太陽光に焦げていたところだ。
 強い意志を持って、覚悟を決めて電話を掛けた。

『……おう、お前から連絡してくるなんて珍しいじゃねェか』
「山田さん、」

 そのわたしの一声だけで、男は察したらしい。わざとらしい口笛まで披露して、彼は豪快な笑い声を上げる。
 そして、足首を掴んで離さないような低音で、わたしの名を呼んだ。

『それ以上言わない方が良いぜ。お前の働き次第では、弟に尻拭いをさせることになる』

 内臓は一瞬で冷えた。肌を焼く紫外線はこんなにも強いのに、体内に氷でも突っ込まれたような心地だった。
 この男が一等真剣な声で淡々と言うと、途端に現実味が増す。わたしの頭は自然と地面の方を向いた。
 じわじわと蝉の鳴き声が反響している。

「……外道を極めたんですか?」
『お前の無力を俺のせいにするなよ。実験台にされていないだけ、俺が頑張ってるのを認めてくれって話だぜ』

 力なき者が泣きを見るのはいつの時代も変わらねェな、と男が言う。
 てっきり馬鹿にするような声色かと思ったのに、それは珍しく平坦な温度だった。

04|悪い夢にはぬるいスプーン

230108
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