ハンジ・ゾエ 02
その人の事を目で追うようになったのはいつからだろう
所属兵科は同じだが、部隊が違う為に毎日会える訳ではない
時折見かけるその姿をさりげなく見つめ、挨拶を交わす程度の関係だった
明るく人懐っこい性格のとても元気な人
眼鏡の奥の瞳は綺麗なブラウンで、縁どるまつ毛は長い
一つに束ねられた髪は動きに合わせて弾むように揺れ動いていた
誰に対しても優しい人なのだが、友人はあの人の事が少し苦手だと言う
確かに巨人の研究に対しての熱意は凄まじく、捕獲任務に参加させようとする事はあった
班長であり兵士長である上官にすげなく断られて一度もその任務は行われてはいないけれど
自分としては手伝いたいが、上官の命令には従わなければならない
しょんぼりとしたあの人の表情を見ると胸が痛むが、仕方がない事だった
他の事で力になれたら良いのだが、自分に何が出来るのだろう
窓の向こう、広場を横切って行くその人の姿を見送ると硝子を拭いていた手を止め、ふうと息をはいた
すると自分の背後で床を掃いていた友人が動きを止めてこちらに顔を向けるのが硝子の反射で見える


「ん?」
「どうした、溜息なんてついて」
「……考え事してた」
「まぁたハンジさんか」

呆れたようにそう言われ、雑巾を片手に振り返った
箒を右手に持った彼――オルオが口元を覆う布を左手の指先で下ろして口を開く

「今のままで良いのか」
「今のまま、って?」
「見てるだけで良いのかって、言ってるんだよ」
「うん」
「……そうか」

他に何か言いたそうに口が動きかけたが結局はその言葉だけを返された
それから困ったように笑うと口布を戻して掃除を再開する
自分も作業に戻ろうと、乾いた雑巾に持ち替えて硝子を拭き始めた
調査兵団所属の兵士であり、特別作戦班に入っている自分たち
直属の上官が潔癖症である為に兵舎の掃除は欠かせなった
硝子に水の跡が残らないように縁までしっかりと拭き取る
全ての窓を内側と外側から拭き終えると掃除道具を片付けた
だいぶ手慣れてきたからそう時間も掛からずに終える事が出来る
まだまだ本気を出した兵長には敵わないけれど
午後からは訓練施設でフォーメーションの練習か
どの相手と組んでもタイミングを合わせる事が出来るようにしなければならない
まぁ、今まで合わせられなかったという事はないのだが
呼吸を合わせて、動作を合わせて――
自分はそれが上手い方らしく失敗をした事はなかった
間に挟まれる十分程度の休憩はオルオとペトラが喧嘩するのを眺めるか、宥める事で時間が過ぎるだろう
はそう思いながら手を洗うとポケットから取り出したハンカチで水滴を拭った


◆ --- ◆ --- ◆ --- ◆ --- ◆


モブリットの肩に掴まり、左足で飛び跳ねながら移動する

「分隊長、大丈夫ですか?跳ねていては足首に響くのでは……」
「鎮痛剤のおかげで今は大丈夫だよ」

あの時、彼が手渡してくれた鎮痛剤
あれが利いてくれて痛みはほぼ感じない状態だった
効果が切れてしまえばまた痛み始めるだろうけど
今はに言われた通り、足首を診てもらう為に診療所へと移動している途中だった
先ほどは出払っていた駐屯兵が居れば良いのだが
欲を言えば医師が居てくれたら嬉しい
そう思いぴょんぴょんと移動しながら兵士が行き交う広場へと視線を向けた
今日もこの場所は兵士が多く、歩けない自分は少し邪魔になってしまう
さっさと通り抜けてしまおうと思ったところで動きのおかしい兵士に気が付いた
どうしたのだろうと彼に目を向ける

「っ……!」

同時にその兵士がこちらへ顔を向け、血走った眼と視線がぶつかりぞくりと背筋が寒くなった
なんだか、様子がおかしい
そう思ったのと同時に突進するようにこちらへと駆けてくる兵士
何故か動く事も、声を上げる事も出来ずにその動きを目で追ってしまう
兵士は両手を腰の位置に構え、握るようにして何かを持っているようだ
それをこちらに突き出すようにして動くのが見えて――その兵士と自分の間に横から何かが入り込む
ぽつ、と頬に水滴が当たるのと同時に視界が暗くなり、はっとして身を引くと外套を身に着けた兵士の背中が見えた
鈍い音と、くぐもった声が聞こえて複数の兵士がこちらへと駆け寄ってくる
何が起きたのか――と思ったところで前に立つ兵士の背に誰かの手が触れた


「……大丈夫だよ」
「馬鹿、行くぞ」

、というのはの愛称で親しい人は彼をそう呼んでいる
がオルオと共に側を離れ、数歩進んだところで彼らの上官であるリヴァイに声を掛けられて
何やら言葉を交わすとオルオがを支えるようにして診療所へと入って行った
どこか怪我をしたのだろうか
そう思い、何気なく先ほど水滴が付着した頬に指先を触れて手を離して見えたのは鮮やかな赤だった

「え、血……?」

誰の血だと思っているとリヴァイが地面に組み伏された兵士へと目を向ける
その目つきは普段よりも険がある――と思っているとその目でこちらを見た

「ハンジ」
「っ……」
「てめぇがぼんやりしているから俺の部下が怪我をしただろうが」
、が?」
「暫くは……いや、下手したら一生使い物にならねぇ」

言い終えるとくるりと背を向けて二人の部下が向かった診療所へと入って行く
リヴァイの言葉を何度も頭の中で繰り返し、それからモブリットの方へと顔を向けた

「モブリット。今、何が起きたのか……」
「……分隊長からは、見えなかったんですね。この男が、ナイフを持っていて」
「ナイフ?」
「それで、あなたを襲おうとして……が、手で、受け止めたんです」
「っ、手で……!?」
「はい。同時にこの男の腹部を膝で蹴り上げて。その血は、の血です」
それを聞いて彼の肩から手を離すと診療所へと向かった
固定された足首が動かず、いつものように走る事はできない
慌てて後を付いて来るモブリットの声を聞きながら午前とは違って兵士の数の多いその兵舎へと駆けこんだ
処置室の扉を開けて、簡易な衝立で遮られる場所へと近付いて
見えたのは椅子に座り処置を受けている
彼の外套を持って側に立つオルオと、傷の状態を見ているリヴァイの姿だった
机の上にはの手から引き抜かれたであろうナイフが布に半ば包まれるようにして置かれている
刃渡りは15センチ程だろうか
その刃の部分は先端から根元まで血に染まっていた
側には血を拭ったのか赤く染まったガーゼが多数あり、止血の為かの腕は手首の上で紐で縛られている
神経の集中する手の縫合は痛むだろうに彼は医師の手元を見ながら呻き声も漏らさず、表情すら変えずに静かに座っていた
手のひら、甲を縫合し、止血の為の紐が解かれたところでリヴァイが医師に声を掛ける

「指は動くのか」
「恐らく、神経は無事だと思います」

その言葉にが上官を見上げ、軽く手を上げると滑らかに指を握って見せた
リヴァイがそれを見て安堵の息をはくのが分かる
指を動かした本人は抜糸まで動かしては駄目だと医者に怒られているが
だが、どうやら神経に損傷はなかったようだ
神経も骨も無事だとは
運が良かったのだろうと思っていると医師が念入りに縫合した部分を確認してからガーゼが当てられ、包帯が巻かれる

「毎日消毒とガーゼ交換をしてください。ご自分では難しいでしょうから誰かにやってもらうと良いでしょう」
「はい。……丁度良いところにオルオが居た。君に任せて良いかな」
「あぁ。ペトラがそんな傷見たら気絶しそうだからな」

そう言いながら彼が持っていた外套をの肩に掛ける
もぞもぞとそれを身に着けると立ち上がり、医師に礼を言ってこちらに顔を向けて
視線が合うと目を瞬いてから心配するように眉が寄せられた
怪我をしたのは自身だろうに、なぜそんな顔をするのか

「駄目ですよ、ハンジ分隊長。捻挫しているのに」
「え?あ、あぁ、そうだった」

そう言えば、なんだか足首が痛くなってきたような気がする
隣に来たモブリットの肩に手を触れて今更ながら右足を床から離した
包帯を汚してしまったなと思っているとが外套の中へ右手を隠すようにして肘を曲げる

「先程はすみませんでした。驚かせてしまいましたね」
「あ……いや、ありがとう。助けてくれて」
「いいえ。あの人、なんかおかしい動きをしていて……もっと早く止めていれば良かったです」
「私も気付いていたのに動けなくて。……治るまで時間が掛かるだろうね」
「痛みがなくなれば任務に……駄目ですか?」

言葉の途中で上官の視線に気付いたのか、彼がリヴァイの方へ目を向けた
そんな部下を見て彼がふうと溜息をもらす

「当たり前だ。てめぇ、鎮痛剤を使って討伐する気か」
「……お見通しで」
「チッ。傷が塞がらねぇのに出せるか。、てめぇは二週間待機だ」
「二週間……兵長、長いです」
「内務をしていろ。エルヴィンに話をしてくる」

そう言い置いて処置室を出て行くリヴァイ
駐屯兵から替えのガーゼや消毒薬が入った紙袋を受け取ったオルオがの肩に手を触れた

「ほら、戻るぞ」
「うん。ハンジ分隊長、お大事に」
「……君も、ね」

こちらの言葉に彼が微笑んで頷き、オルオと共に廊下へと出て行く
その姿を見送っているとモブリットの手が遠慮がちに腕に触れた

「さぁ、分隊長も処置を受けてください」
「……あの子は」
「あの子?ですか?」
「凄いね。私は、少しも動けなかったのに」
「……はい、自分も動けなくて。彼は兵団の主力の一人なのに……復帰するまで大規模な討伐が無ければ良いのですが」
「そうだね」

怪我をする事を承知の上であのように守ってくれるなんて
痛みは相当あっただろうに彼は呻き声一つ上げる事はなかった
それどころか微笑んでいて、こちらを気遣う言葉まで掛けられて
あんな風に接されては勘違いをしてしまいそうになる
彼は若く、女性に絶大な人気のある美青年
片や自分は三十を超えた分隊長
どこからどう見ても自分たちは所属兵科が同じだけの顔見知りだろう
でも、を見るたびに、声を聞くたびに胸は高鳴って、そわそわと落ち着かなくなって
こんなにも感情を揺さぶられる現象を知らない訳ではない
今までは無縁で生きてきただけで、恋愛感情だと分かっていた
でも十歳以上年下の青年に対してそんな感情を抱くとは思わなかっただけで
初めて顔を合わせた時から彼はあのように優しく、穏やかに接してくれた
真っ直ぐに自分を見つめる綺麗な瞳と、優しい微笑み
身を挺してまで守られて、こちらを責める事なく気遣ってくれて
あんな風に微笑まれては――彼も自分に好意を、なんて馬鹿な事を考えてしまう
あれだけ人気があれば、年の近い女性と付き合うだろうに
ハンジはそう思いながら巻かれた包帯を解かれていく足首へと視線を落とした