作品ID:1608
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人魚姫のお伽話
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 完結
前書き・紹介
にんぎょひめ ――中篇
前の話 | 目次 | 次の話 |
「せんせっ!! せぇ~んせっ!!」
「はるちゃんせんせっ!!」
わらわらと集まった子ども達に足を止めるのは、白衣の貴悠。近隣地域の救急医療の一端を担う総合病院。貴悠が呼び止められたのは、その一角、小児病棟の遊戯室の手前。
廊下に向かって開け放たれている大きな窓から、病棟を歩いていた貴悠は呼び止められた。貴悠の姿を見つけて明るい声を出したのは、貴悠が受け持つ子ども達。
「あんまり大きな声出したら駄目だろ? 看護婦さんもびっくりして飛んで来ちゃうから、な?」
窘める貴悠の言葉、けれど、雰囲気は柔らかい。それでも、貴悠の言葉はちゃんと伝わったらしい。子ども達はお行儀よく返事した。
「はぁい。はるちゃんせんせのお約束なら守るからね!」
「看護婦さん、怖いからヤダ!!」
……若干、お行儀とは関係ない返事も混ざっていたかもしれない。だけど、貴悠が視線を合わせて、しゃがみ込み、覗き込めば。子どもらはちゃんと指を差し出した。貴悠も自分の指を差し出す。
「ん、じゃぁ、指きりな?」
「ゆ~びき~りげ~んまん、う~っそついたらっ~……」
指切りを交わした子ども達が遊戯室の中へと戻って行くのを見送って。貴悠は苦笑した。子ども達が懐いてくれるのは嬉しいのだけれど……。
貴悠の心中を酌んだかのように。通りすがりの看護師に声を掛けられる。
「いつもながら、子ども達にモテますよねぇ。仁科先生だと、子ども達の反応が他の先生方と明らかに違いますもんね」
「……勘弁して下さい。それ、暗に、僕に『威厳が無い』って言ってます?」
不貞腐れたような貴悠の返しに。看護師は慌てて否定する。
「え、違いますって! 子どもから親しまれやすいお医者さん、いいじゃないですか!! 子ども達からの人望が厚いってことです」
「……その台詞、あんまり他の先生方に言わないで下さいね? 子ども達から懐いてもらえるのは嬉しいですけど、他の先生方には畏怖の眼差しを送る子が、僕にはじゃれついて大丈夫だと判断されるんですから……。流石に立場ないです」
貴悠の言葉に、看護師は小さく笑う。この春、研修期間を終え、一人立ちしたばかりの貴悠は、この病院に勤める医師の中でもダントツに若い。貴悠が勤務する小児病棟では、医師として一番の新米だ。
貴悠は面立ちが優しい。と、いうか、下手すれば童顔の部類に入ってしまいそうな顔立ちをしている。そんな貴悠に、おじさんと言って差し支えない年齢の医師達に囲まれて来た子ども達が興味を惹かれるのも無理はなく。
年若いお兄さん先生、と、子ども達に位置づけられた貴悠は、難なく子ども達に気に入られ、懐かれてしまった。おまけに、面倒見のいい貴悠は、しょっちゅう子どもらにじゃれつかれている。他の医師には怯える子ども達が、貴悠には率先して自分達から近づいて来て、遊びをねだる。
治療や診療に害を及ぼさないなら……と。周囲の医師達は微笑ましく見守っているばかり。先輩医師や看護師達に至っては、状況を面白がっている雰囲気すら存在する。
己の外見と年齢が多分に影響していることも、先輩達の楽しげな眼差しも知っている貴悠としては、少々複雑な気分だ。ところで……、と、看護師が続ける。
「先日、仁科先生の同乗で救急搬送されて来られた患者さんですけど……」
その言葉に、貴悠は反射的にポケットを押さえた。ポケットに収められている、綺麗に折りたたまれた古い写真。幼い子どもが二人と女性が二人写されたもの。彼女を搬送する際、連絡先を探して鞄を探った貴悠が、偶然見つけてしまったものだ。
一番暴かれたくはなかったであろうものであれば。直ぐに元の場所に戻して、気付かなかったことにしたかったのだけれど……。事情が重なり、写真は未だ貴悠の手にある。
貴悠が写真を見つけた折、丁度救急車は病院に到着した。車内から救急室へと忙しなく駆ける途中、貴悠はうっかり写真を自分のポケットに片づけてしまった。
救急隊からの連絡を受け、待機していた救急室の当番医師が下した診断は、重度の急性胃潰瘍。貴悠の診立て通り、胃壁に穴をあけており、直ぐに緊急処置を施さねばならない状態で……。緊急処置に要する家族の同意書、入院手続き、なにやらかんやら慌ただしく動かねばならず……。
家族への連絡、それに、元々の自分の交代時間なども重なってしまって、貴悠もバタバタしてしまい、気付いた時には、すっかりと元の場所に返しておくチャンスを失っていた。
貴悠が一段落した頃には、既に家族が病室で荷物を受け取っていて。手帳も返されてしまっていた中、まさか家族にあの写真を渡せるはずもない。
彼女の状態も、まだ安定しておらず、貴悠にも日々の診療業務があるわけで。外来と病棟の診療をこなす中、貴悠に日中の身動きは取れない。
状態の安定していない患者の病室を昨日今日の知人が夜間に押し掛けるわけにもいかず。かといって、まさか日中の業務を放り出すわけにもいかない。そんなこんなで、途方に暮れていたのだが……。
「宮尾先生が、もう大分安定しているからと仰ってましたよ。患者さんとご家族の方からも、お礼を申し上げたいからお伝えして欲しいと言付けられてらっしゃるそうです」
お知り合いの方なんですよね? 彼女の担当医師からの言伝と、看護師の言葉に。貴悠は、少し逡巡したけれど頷いた。覗き見てしまった申し訳なさはあるけれども、このままというわけにもいかない。
大切にされていた写真なら、なおさら持ち主に返されなくてはならない。それに、容体も気になっていたのは事実だ。
「ありがとうございます。丁度良かった。僕、今日はもうこれで交代なのでちょっと顔出してみます」
「そうですね。仁科先生もバタバタされてましたから。お見舞い、きっと喜んで下さると思いますよ」
小児病棟でのやり取りから、約一時間後。その日の勤務時間を終えた貴悠は、私服姿で病院内を歩いていた。小児病棟の設けられた二号棟から、長めの渡り廊下を渡って、階段を上がる。
各科の外来診察室や諸々の検査室、救急室などが設けられる一号棟の上階。各内科の病床が軒を連ねるその片隅に、彼女は入院している。しかし、どう声をかければよいのか……。
歩きながらも迷いは拭えず。ほぼ、苦し紛れの時間稼ぎで。取り合えず、貴悠は、詰め所に顔を出した。が、いきなり部署違いの場に顔を出した貴悠に、看護師達は驚いたようで。
「あれ、仁科先生?」
「どうされました? 何かご用事でも?」
看護師達の声に。そう言えば、それもどう説明したもんか、と。貴悠は目線を彷徨わせる。キョロキョロと室内の天井を見つめたところで模範回答があるはずもなく……。
「あ、え~と、仕事の用事で来たわけじゃないんです……。いや、まぁ、仕事みたいなもんの気もしますけど」
「は?」
間の抜けた貴悠の説明には、やっぱり間抜けな返答が返ったけれども。詰所の中に、恰幅のいい中年医師の姿を見つけて。ようやく貴悠は糸口を見出した。
「宮尾(みやお)先生! すみません、仁科です。伝言頂いてたみたいで……」
貴悠の言葉に、宮尾と貴悠が呼んだ医師が振り返る。人当たりの良さそうな印象を受ける男性医師は、貴悠の姿を認め、穏やかな笑みを浮かべた。
「あぁ、仁科先生。小牧(こまき)さんに頼んだ伝言、ちゃんと伝わったんですね。良かったです」
「はい。丁度、交代前に小牧さんとすれ違ったんで。……伝言頂いてた患者さんですけど、どういう感じですか?」
貴悠の言葉に、彼女の担当医は、手元のカルテをぱらぱらと眺める。個人情報であり、相手の医師にも守秘義務が存在するので、貴悠が意味もなくカルテを覗き込むことは出来ない。
「今のところ、治療は順調だと言えそうですよ。運ばれて来た当初は手術も考えなければならないかと思いましたけど、この分だと内科の領域で済みそうです。只、かなり長く無理をしていたようで……。
身体そのものが、大分衰弱して、悲鳴をあげてますね。幾つか検査もした方がよさそうですし、経過観察その他も含めて考えて、二週間前後の入院といったところでしょうか」
取り合えず経過は良好らしいと聞いて、貴悠もほっと息を吐く。知らず知らず、肩に力が入っていたらしい。二人のやり取りを聞いていた看護師が言葉を繋げた。
「あぁ! そう言えば、救急で来られた長谷川さん、仁科先生のお知り合いでしたっけ? 搬送されて来た時に、仁科先生がいらしたものだから、驚いたって。救急室の子から聞いてます」
「そう言えば、ボクも聞いてますね~。あぁ、じゃ、長谷川さんのお見舞いにいらしたんですね!」
先の言葉は、こちらの主任看護師。後に続けたのは、貴悠と同年代の男性看護師。二人には曖昧に笑って返して……。軽く礼をして、詰め所を出た。
長谷川と掲げられたネームプレートの扉の前。一つ、大きく息を吸い込む。考え込んでいても仕方がない。いつもと同じを心がけよう。そう、考えて。
扉を叩いた貴悠は、いつも通りを気負い過ぎて、逆に失敗を招く羽目になった。叩かれた扉の音に、返って来た声に……。
「先生だけど、入るよ~?」
普段通り、子ども達の部屋に入るのと同じ言葉を返してしまったのだ。狭くはないが広くもない個室のベッドの上、きょとんとしている彼女の姿に。え? と首を傾げて……。自分の言動に気が付いた。
「……あ! ご、ごめん!! つい普段通りに……。あ、えっと!? 調子はどうかな? いや、違う!!」
うっかり下手を踏んだことに気付いて慌てる貴悠の言動は、既に一人ボケツッコミ状態である。何が悲しくてこんなところで一人漫才!?
自らドツボに嵌ってしまった貴悠を救いあげたのは、ベッドの上で長い黒髪を一つの三つ編みに束ね、空色のリボンで結ぶ彼女だった。
「え~と? あの、特に気分害したりもしてませんから、気になさらなくていいですよ?」
本当に気にしているわけでもなさそうな様子と、その言葉に。貴悠も少し落ち着きを取り戻す。うん、こういうのも職業病の内に入るんだろうか……。
「そう言ってもらえると助かります。というか、本当にごめんね。どうですか? 調子の方」
貴悠の言葉に、彼女は微笑んだ。
「目を覚ましたらいきなり病院だったんで驚きましたけど……。おかげさまで、なんとか。両親と主治医の先生から、仁科さんが救急車に付き添って下さったって伺いました。お医者様だったんですか?」
「あ、聞いてるのか。うん、実はそうなんです。といっても、僕は小児科医なんだけど……」
あぁ、それで、と。彼女は微笑んだ。
「子どもさんなら、あの呼びかけの方がいいですもんね」
クスクスと笑う声に、貴悠は少々バツの悪さを味わう。多少気恥ずかしいけれど、やらかしてしまったことを理解しているので、反論の余地もない。そんな貴悠に、ベッドの上でシャンと居住まいを正し、彼女は頭を下げた。
「ご迷惑おかけしてすみません。本当にありがとうございます」
深々と下げられた頭に、貴悠は慌てて両手を振った。
「……え~と、実際のところ、ほとんど僕は何もしてないよ? 偶々倒れるところを見てたから、軽い所見を伝えたぐらいで、後はホントに救急車に一緒に乗り込んだってくらい。こっちに着いてからは、直ぐに宮尾先生とスタッフ達に任せてるしね」
だから、そんなに畏まられると却って恐縮するかな。困ったように笑う貴悠に、釣られたように笑いながら。彼女はもう一度感謝の言葉を紡ぐ。
「でも、救急車で病院まで付き添って下さったのは仁科さんですし、家族への連絡も仁科さんが引き受けて下さったって聞いてます。お世話になったのは事実ですよ?」
その台詞で。貴悠は、忘れていた重要事項を思い出した。
「そうだ!! うん、ご両親へは僕から連絡させてもらったんだけど、その時に鞄いじらせてもらったんだ。悪いとは思ったんだけど、連絡先探したかったし、携帯にはロックかかってたから、手帳の中身、見せてもらった! ごめん!!」
「あ、そうなんですか? 仕方なかったと思いますから、謝らないで下さい」
寧ろ、どうやって両親に連絡取れたんだろうって不思議だったんで、逆に納得です。そう言って笑う彼女に。貴悠は、この数日、ポケットの中で眠っていた写真を差し出した。
「……ごめん!! その時に手帳から落ちたの拾っちゃって……。バタバタしてて、間違えて僕のポケットに入れたままにしてた!
気付いて返そうと思ったんだけど、ご家族が着いて荷物も渡した後だったから、タイミング無くしてて。ご両親に渡すわけにもいかないし……」
一気に紡いだ貴悠の言葉に。差し出された写真に。一瞬、軽く目を見張って。ほんの少し、寂しそうに。彼女は微笑んだ。
「持ってきてもらった荷物の中に見当たらなかったから、ドサクサで失くしたんだと思ってました。……両親に渡すわけにいかないって仰ったとこからして、写真の中身、ご存じなんですね……」
ひょっとして、私の気持ちもお気付きになられてしまいました? 無理におどけて見せるその様子に。そして、彼女の言葉に。自分が一番のミスを犯したことに気付く。
間違えて拾ってしまって、慌ただしさに返すタイミングを失っていたのだと言えば良かったのだ。若しくは、気付かなかったふりをして写真の話題は挙げるべきではなかった。
この写真が両親に渡されてはいけないものだという言葉は、写真の中身を知っていて、それが何を意味するのかを気付いているからこそ出てくる発言だ。
なんと返してよいのか解らず、思わず黙り込んだ貴悠の心を読んだかのか。数日ぶりに己の手元に戻った写真。折り畳まれていたそれを広げて見せながら。彼女は微笑んだ。
「『失敗した!』って、顔に出てますよ? いろいろ重なっちゃってのことですから、仁科さんが気になさることじゃないと思いますし……。
私にとって大事なものなので、こうして戻ってきてくれて助かりました。まさか、妹達にわざわざ吹聴したりもなさらないでしょ?」
お気遣い無用ですよ。彼女は笑みを浮かべたけれど。それでもやっぱり、貴悠の瞳に映る彼女の微笑みは、何処か無理のあるものに見える。
これ以上踏み込んでいいものかどうか少し迷ったけれど……。彼女が倒れたあの日、後輩達が披露したエピソードの一つに指先を濡らしていた場面が思い返されて。気付けば、貴悠は口を開いていた。
「僕は、大学時代に森村(もりむら)のお母さんとも何度か顔を合わせてるから、見覚えがあったんだ。……長谷川さんと妹さんの通ってた教室に森村が現れたわけじゃなかったんだね」
森村というのは、巧の名字だ。貴悠の言葉に、彼女は少し困ったように首を傾げていたけれど……。三つ編みにして流した髪を指先で遊ばせ、少しだけ間を置いてから、頷いた。
「……気付かれちゃってるなら、少しだけ思い出話に付き合って頂いてもいいですか?」
流石にこんな事態起こすなんて想像してませんでしたけど、自分で思ってたよりもちょっとだけ参ってるみたいです。
こんな話されても困ると思うんですけど、他に打ち明けられる人間もいなくって……。弱りきったような表情で続けられた言葉に。貴悠は頷く。
「僕でよければ聞かせてもらえる? というか、踏み込んだのは僕の方だから、気にしないで」
貴悠の言葉に安心したように。彼女は微笑んだ。と、慌てたようにベッド脇の椅子を示す。
「気がまわらなくてごめんなさい!! あの、どうぞお掛けになって下さい! というか、仁科さん、今、お時間大丈夫でした?」
「今日の仕事は終えてきてるから、心配しなくていいよ。じゃぁ、お言葉に甘えて」
気にするなと伝えた貴悠の身振りと、貴悠が腰掛けたのを見て。彼女は安堵の表情を浮かべた。その様子は、打ち合わせの時のイメージよりも、表情が豊かで幼い、年相応の印象に見受けられる。
「長谷川さんも森村も随分小さい時から通ってたの?」
「……私が三つになる年に、教室に通い始めたんです。巧く……森村君は、私と同じくらいに教室に入ったんですけど……」
自分からは話し辛いだろう。そう思って貴悠が切った口火に。手元の写真に瞳を落としながら、彼女はポツポツ語り始めた。
「通い出した時期は同じくらいだし、練習も他の子に負けないくらい頑張ってた方だと思います。
実際、普段はちゃんと先生に褒めてもらえるぐらいだったんです。でも、なんか、緊張すると失敗しちゃうみたいで……。
お友達の前で弾きましょうって言われるの、凄く苦手だったんです。だから、発表会なんかもうボロボロで」
この写真、教室に通い出して最初の発表会のものなんですと、彼女は笑う。
「そんなんだから、写真の発表会も悲惨な出来栄えだったんです。演奏の途中で、もう頭真っ白になってたし、そうなるともうどうしていいかわからなくて固まっちゃうし。
自分の順番が終わって、悔しいのと情けないのとで一杯になっちゃって……。みんなちゃんと出来るのに、なんで自分はこうなんだろう、って」
会場の外で蹲って泣いてたんです。アタシだって、ピアノが好きなのは負けないのにって。そしたら、順番終わって会場を探検してた森村君と鉢合わせちゃったんですよね……。
「人見知りもする方だし、おんなじ教室だったけど、直接話したこと無かったんですけど、泣いてるとこ見られちゃって、どうしたの? って。私もボロボロだったんで、悔しいって言っちゃったんです。アタシだって、ピアノ好きなのに!! って」
森村君、びっくりしてましたけどね。でも、普段のこと覚えてたみたいで。
「『いつもは楽しそうに弾いてるから、きっとみんな解ってるよ? だって、ボクも知ってるもん!!』って森村君の言葉で、こっちがきょとんとしました」
……クスクスと笑う声は明るい。
「そのまんま、手を引っ張られて、グスグス泣いてるままで会場に連れ戻されちゃって。丁度、発表会も終わったところで……。先生も両親達も探してたとこだったんです。
けど、そんなのお構いなしに、森村君、ピアノの方に向かっちゃうんです。何する気? って、周囲が呆気に取られてる内に私も座らされちゃって……。
適当に弾き出しちゃったんですけど、聞いたことない曲なんです。その当時流行ってた曲のメロディーを全部ごちゃまぜにしてみた感じで」
で、言うんですよ。『ほら、好きな歌弾いてみなよ』って。
「何が何だかわかんないけど、自分も鍵盤触ってる内に楽しくなってきちゃって……。いつのまにか適当な曲が出来ちゃってるし、そしたら自分も笑ってて……」
母達が目を丸くしてました。うちの子たち、いつの間に仲良くなってたの? って。先生には、その後随分御説教されましたけど……。
「その時に、祖父が撮ってくれた写真なんです。元々カメラは持参してくれてたんですけど、演奏してる私があんまり酷い顔色してたんで、撮影してやると却って可哀想だって控えてくれてたんですけど……『元気になったみたいだから、一枚撮ろうか』って。
……祖父は昔から私にとって特別な人だったんです。ピアノのきっかけも、音大に進む後押しも、祖父がくれました。両親が気付かないようなくらいにしか思わない【欲しいもの】に気づいてくれる、そういう人だったんです」
特別だったという祖父の話をする彼女は、どこか哀しげで……。貴悠は気付いた。多分、その人は、もうこの世の人ではない。
「お祖父さんは……」
「はい。数年前に亡くなりました。だから、この写真は凄く大事なものなんです。いろんな意味で」
――初めての発表会の写真として。森村巧という男の子と打ち解けたきっかけとして。……特別な祖父が撮影してくれたものとして。
「そのときの曲は、覚えてる間に何度も何度も繰り返して弾いて。必死に五線譜に書き写しました。祖父にも手伝ってもらって……。
妹が何度もねだったのは、もう少し技術が出来たときに、最初の日に作った曲をアレンジして、二人で完成させたものだったんです。選ばれたのは、私ではなかったですけど……」
「うん……」
貴悠の短い言葉に。彼女は写真を綺麗に折り畳んだ。
「……与太話に付き合わせてすみません」
貴悠は首を振って微笑む。
「主治医の先生に聞いたけど、暫くは入院生活だからね。僕も自分の勤務があるし、頻繁にとはいかないかもしれないけど、時間見つけて顔は出すから」
だから、また話なら聞くよ。貴悠の言葉に、彼女は驚いたようで首を振ったけど……。彼女の頭に手を載せて、ポンと弾ませる。
「たまには誰かに頼りなさい。長谷川さんはお姉ちゃんだけど、僕の方がお兄さんなんだから、ね?」
重くなり過ぎない程度に。けれど、伝わるように。あえて子ども達に向けるのと同じ表情と行動を取る。……貴悠の心は伝わったらしい。彼女は、俯き、微かに肩を震わせて……頷いた。
「はるちゃんせんせっ!!」
わらわらと集まった子ども達に足を止めるのは、白衣の貴悠。近隣地域の救急医療の一端を担う総合病院。貴悠が呼び止められたのは、その一角、小児病棟の遊戯室の手前。
廊下に向かって開け放たれている大きな窓から、病棟を歩いていた貴悠は呼び止められた。貴悠の姿を見つけて明るい声を出したのは、貴悠が受け持つ子ども達。
「あんまり大きな声出したら駄目だろ? 看護婦さんもびっくりして飛んで来ちゃうから、な?」
窘める貴悠の言葉、けれど、雰囲気は柔らかい。それでも、貴悠の言葉はちゃんと伝わったらしい。子ども達はお行儀よく返事した。
「はぁい。はるちゃんせんせのお約束なら守るからね!」
「看護婦さん、怖いからヤダ!!」
……若干、お行儀とは関係ない返事も混ざっていたかもしれない。だけど、貴悠が視線を合わせて、しゃがみ込み、覗き込めば。子どもらはちゃんと指を差し出した。貴悠も自分の指を差し出す。
「ん、じゃぁ、指きりな?」
「ゆ~びき~りげ~んまん、う~っそついたらっ~……」
指切りを交わした子ども達が遊戯室の中へと戻って行くのを見送って。貴悠は苦笑した。子ども達が懐いてくれるのは嬉しいのだけれど……。
貴悠の心中を酌んだかのように。通りすがりの看護師に声を掛けられる。
「いつもながら、子ども達にモテますよねぇ。仁科先生だと、子ども達の反応が他の先生方と明らかに違いますもんね」
「……勘弁して下さい。それ、暗に、僕に『威厳が無い』って言ってます?」
不貞腐れたような貴悠の返しに。看護師は慌てて否定する。
「え、違いますって! 子どもから親しまれやすいお医者さん、いいじゃないですか!! 子ども達からの人望が厚いってことです」
「……その台詞、あんまり他の先生方に言わないで下さいね? 子ども達から懐いてもらえるのは嬉しいですけど、他の先生方には畏怖の眼差しを送る子が、僕にはじゃれついて大丈夫だと判断されるんですから……。流石に立場ないです」
貴悠の言葉に、看護師は小さく笑う。この春、研修期間を終え、一人立ちしたばかりの貴悠は、この病院に勤める医師の中でもダントツに若い。貴悠が勤務する小児病棟では、医師として一番の新米だ。
貴悠は面立ちが優しい。と、いうか、下手すれば童顔の部類に入ってしまいそうな顔立ちをしている。そんな貴悠に、おじさんと言って差し支えない年齢の医師達に囲まれて来た子ども達が興味を惹かれるのも無理はなく。
年若いお兄さん先生、と、子ども達に位置づけられた貴悠は、難なく子ども達に気に入られ、懐かれてしまった。おまけに、面倒見のいい貴悠は、しょっちゅう子どもらにじゃれつかれている。他の医師には怯える子ども達が、貴悠には率先して自分達から近づいて来て、遊びをねだる。
治療や診療に害を及ぼさないなら……と。周囲の医師達は微笑ましく見守っているばかり。先輩医師や看護師達に至っては、状況を面白がっている雰囲気すら存在する。
己の外見と年齢が多分に影響していることも、先輩達の楽しげな眼差しも知っている貴悠としては、少々複雑な気分だ。ところで……、と、看護師が続ける。
「先日、仁科先生の同乗で救急搬送されて来られた患者さんですけど……」
その言葉に、貴悠は反射的にポケットを押さえた。ポケットに収められている、綺麗に折りたたまれた古い写真。幼い子どもが二人と女性が二人写されたもの。彼女を搬送する際、連絡先を探して鞄を探った貴悠が、偶然見つけてしまったものだ。
一番暴かれたくはなかったであろうものであれば。直ぐに元の場所に戻して、気付かなかったことにしたかったのだけれど……。事情が重なり、写真は未だ貴悠の手にある。
貴悠が写真を見つけた折、丁度救急車は病院に到着した。車内から救急室へと忙しなく駆ける途中、貴悠はうっかり写真を自分のポケットに片づけてしまった。
救急隊からの連絡を受け、待機していた救急室の当番医師が下した診断は、重度の急性胃潰瘍。貴悠の診立て通り、胃壁に穴をあけており、直ぐに緊急処置を施さねばならない状態で……。緊急処置に要する家族の同意書、入院手続き、なにやらかんやら慌ただしく動かねばならず……。
家族への連絡、それに、元々の自分の交代時間なども重なってしまって、貴悠もバタバタしてしまい、気付いた時には、すっかりと元の場所に返しておくチャンスを失っていた。
貴悠が一段落した頃には、既に家族が病室で荷物を受け取っていて。手帳も返されてしまっていた中、まさか家族にあの写真を渡せるはずもない。
彼女の状態も、まだ安定しておらず、貴悠にも日々の診療業務があるわけで。外来と病棟の診療をこなす中、貴悠に日中の身動きは取れない。
状態の安定していない患者の病室を昨日今日の知人が夜間に押し掛けるわけにもいかず。かといって、まさか日中の業務を放り出すわけにもいかない。そんなこんなで、途方に暮れていたのだが……。
「宮尾先生が、もう大分安定しているからと仰ってましたよ。患者さんとご家族の方からも、お礼を申し上げたいからお伝えして欲しいと言付けられてらっしゃるそうです」
お知り合いの方なんですよね? 彼女の担当医師からの言伝と、看護師の言葉に。貴悠は、少し逡巡したけれど頷いた。覗き見てしまった申し訳なさはあるけれども、このままというわけにもいかない。
大切にされていた写真なら、なおさら持ち主に返されなくてはならない。それに、容体も気になっていたのは事実だ。
「ありがとうございます。丁度良かった。僕、今日はもうこれで交代なのでちょっと顔出してみます」
「そうですね。仁科先生もバタバタされてましたから。お見舞い、きっと喜んで下さると思いますよ」
小児病棟でのやり取りから、約一時間後。その日の勤務時間を終えた貴悠は、私服姿で病院内を歩いていた。小児病棟の設けられた二号棟から、長めの渡り廊下を渡って、階段を上がる。
各科の外来診察室や諸々の検査室、救急室などが設けられる一号棟の上階。各内科の病床が軒を連ねるその片隅に、彼女は入院している。しかし、どう声をかければよいのか……。
歩きながらも迷いは拭えず。ほぼ、苦し紛れの時間稼ぎで。取り合えず、貴悠は、詰め所に顔を出した。が、いきなり部署違いの場に顔を出した貴悠に、看護師達は驚いたようで。
「あれ、仁科先生?」
「どうされました? 何かご用事でも?」
看護師達の声に。そう言えば、それもどう説明したもんか、と。貴悠は目線を彷徨わせる。キョロキョロと室内の天井を見つめたところで模範回答があるはずもなく……。
「あ、え~と、仕事の用事で来たわけじゃないんです……。いや、まぁ、仕事みたいなもんの気もしますけど」
「は?」
間の抜けた貴悠の説明には、やっぱり間抜けな返答が返ったけれども。詰所の中に、恰幅のいい中年医師の姿を見つけて。ようやく貴悠は糸口を見出した。
「宮尾(みやお)先生! すみません、仁科です。伝言頂いてたみたいで……」
貴悠の言葉に、宮尾と貴悠が呼んだ医師が振り返る。人当たりの良さそうな印象を受ける男性医師は、貴悠の姿を認め、穏やかな笑みを浮かべた。
「あぁ、仁科先生。小牧(こまき)さんに頼んだ伝言、ちゃんと伝わったんですね。良かったです」
「はい。丁度、交代前に小牧さんとすれ違ったんで。……伝言頂いてた患者さんですけど、どういう感じですか?」
貴悠の言葉に、彼女の担当医は、手元のカルテをぱらぱらと眺める。個人情報であり、相手の医師にも守秘義務が存在するので、貴悠が意味もなくカルテを覗き込むことは出来ない。
「今のところ、治療は順調だと言えそうですよ。運ばれて来た当初は手術も考えなければならないかと思いましたけど、この分だと内科の領域で済みそうです。只、かなり長く無理をしていたようで……。
身体そのものが、大分衰弱して、悲鳴をあげてますね。幾つか検査もした方がよさそうですし、経過観察その他も含めて考えて、二週間前後の入院といったところでしょうか」
取り合えず経過は良好らしいと聞いて、貴悠もほっと息を吐く。知らず知らず、肩に力が入っていたらしい。二人のやり取りを聞いていた看護師が言葉を繋げた。
「あぁ! そう言えば、救急で来られた長谷川さん、仁科先生のお知り合いでしたっけ? 搬送されて来た時に、仁科先生がいらしたものだから、驚いたって。救急室の子から聞いてます」
「そう言えば、ボクも聞いてますね~。あぁ、じゃ、長谷川さんのお見舞いにいらしたんですね!」
先の言葉は、こちらの主任看護師。後に続けたのは、貴悠と同年代の男性看護師。二人には曖昧に笑って返して……。軽く礼をして、詰め所を出た。
長谷川と掲げられたネームプレートの扉の前。一つ、大きく息を吸い込む。考え込んでいても仕方がない。いつもと同じを心がけよう。そう、考えて。
扉を叩いた貴悠は、いつも通りを気負い過ぎて、逆に失敗を招く羽目になった。叩かれた扉の音に、返って来た声に……。
「先生だけど、入るよ~?」
普段通り、子ども達の部屋に入るのと同じ言葉を返してしまったのだ。狭くはないが広くもない個室のベッドの上、きょとんとしている彼女の姿に。え? と首を傾げて……。自分の言動に気が付いた。
「……あ! ご、ごめん!! つい普段通りに……。あ、えっと!? 調子はどうかな? いや、違う!!」
うっかり下手を踏んだことに気付いて慌てる貴悠の言動は、既に一人ボケツッコミ状態である。何が悲しくてこんなところで一人漫才!?
自らドツボに嵌ってしまった貴悠を救いあげたのは、ベッドの上で長い黒髪を一つの三つ編みに束ね、空色のリボンで結ぶ彼女だった。
「え~と? あの、特に気分害したりもしてませんから、気になさらなくていいですよ?」
本当に気にしているわけでもなさそうな様子と、その言葉に。貴悠も少し落ち着きを取り戻す。うん、こういうのも職業病の内に入るんだろうか……。
「そう言ってもらえると助かります。というか、本当にごめんね。どうですか? 調子の方」
貴悠の言葉に、彼女は微笑んだ。
「目を覚ましたらいきなり病院だったんで驚きましたけど……。おかげさまで、なんとか。両親と主治医の先生から、仁科さんが救急車に付き添って下さったって伺いました。お医者様だったんですか?」
「あ、聞いてるのか。うん、実はそうなんです。といっても、僕は小児科医なんだけど……」
あぁ、それで、と。彼女は微笑んだ。
「子どもさんなら、あの呼びかけの方がいいですもんね」
クスクスと笑う声に、貴悠は少々バツの悪さを味わう。多少気恥ずかしいけれど、やらかしてしまったことを理解しているので、反論の余地もない。そんな貴悠に、ベッドの上でシャンと居住まいを正し、彼女は頭を下げた。
「ご迷惑おかけしてすみません。本当にありがとうございます」
深々と下げられた頭に、貴悠は慌てて両手を振った。
「……え~と、実際のところ、ほとんど僕は何もしてないよ? 偶々倒れるところを見てたから、軽い所見を伝えたぐらいで、後はホントに救急車に一緒に乗り込んだってくらい。こっちに着いてからは、直ぐに宮尾先生とスタッフ達に任せてるしね」
だから、そんなに畏まられると却って恐縮するかな。困ったように笑う貴悠に、釣られたように笑いながら。彼女はもう一度感謝の言葉を紡ぐ。
「でも、救急車で病院まで付き添って下さったのは仁科さんですし、家族への連絡も仁科さんが引き受けて下さったって聞いてます。お世話になったのは事実ですよ?」
その台詞で。貴悠は、忘れていた重要事項を思い出した。
「そうだ!! うん、ご両親へは僕から連絡させてもらったんだけど、その時に鞄いじらせてもらったんだ。悪いとは思ったんだけど、連絡先探したかったし、携帯にはロックかかってたから、手帳の中身、見せてもらった! ごめん!!」
「あ、そうなんですか? 仕方なかったと思いますから、謝らないで下さい」
寧ろ、どうやって両親に連絡取れたんだろうって不思議だったんで、逆に納得です。そう言って笑う彼女に。貴悠は、この数日、ポケットの中で眠っていた写真を差し出した。
「……ごめん!! その時に手帳から落ちたの拾っちゃって……。バタバタしてて、間違えて僕のポケットに入れたままにしてた!
気付いて返そうと思ったんだけど、ご家族が着いて荷物も渡した後だったから、タイミング無くしてて。ご両親に渡すわけにもいかないし……」
一気に紡いだ貴悠の言葉に。差し出された写真に。一瞬、軽く目を見張って。ほんの少し、寂しそうに。彼女は微笑んだ。
「持ってきてもらった荷物の中に見当たらなかったから、ドサクサで失くしたんだと思ってました。……両親に渡すわけにいかないって仰ったとこからして、写真の中身、ご存じなんですね……」
ひょっとして、私の気持ちもお気付きになられてしまいました? 無理におどけて見せるその様子に。そして、彼女の言葉に。自分が一番のミスを犯したことに気付く。
間違えて拾ってしまって、慌ただしさに返すタイミングを失っていたのだと言えば良かったのだ。若しくは、気付かなかったふりをして写真の話題は挙げるべきではなかった。
この写真が両親に渡されてはいけないものだという言葉は、写真の中身を知っていて、それが何を意味するのかを気付いているからこそ出てくる発言だ。
なんと返してよいのか解らず、思わず黙り込んだ貴悠の心を読んだかのか。数日ぶりに己の手元に戻った写真。折り畳まれていたそれを広げて見せながら。彼女は微笑んだ。
「『失敗した!』って、顔に出てますよ? いろいろ重なっちゃってのことですから、仁科さんが気になさることじゃないと思いますし……。
私にとって大事なものなので、こうして戻ってきてくれて助かりました。まさか、妹達にわざわざ吹聴したりもなさらないでしょ?」
お気遣い無用ですよ。彼女は笑みを浮かべたけれど。それでもやっぱり、貴悠の瞳に映る彼女の微笑みは、何処か無理のあるものに見える。
これ以上踏み込んでいいものかどうか少し迷ったけれど……。彼女が倒れたあの日、後輩達が披露したエピソードの一つに指先を濡らしていた場面が思い返されて。気付けば、貴悠は口を開いていた。
「僕は、大学時代に森村(もりむら)のお母さんとも何度か顔を合わせてるから、見覚えがあったんだ。……長谷川さんと妹さんの通ってた教室に森村が現れたわけじゃなかったんだね」
森村というのは、巧の名字だ。貴悠の言葉に、彼女は少し困ったように首を傾げていたけれど……。三つ編みにして流した髪を指先で遊ばせ、少しだけ間を置いてから、頷いた。
「……気付かれちゃってるなら、少しだけ思い出話に付き合って頂いてもいいですか?」
流石にこんな事態起こすなんて想像してませんでしたけど、自分で思ってたよりもちょっとだけ参ってるみたいです。
こんな話されても困ると思うんですけど、他に打ち明けられる人間もいなくって……。弱りきったような表情で続けられた言葉に。貴悠は頷く。
「僕でよければ聞かせてもらえる? というか、踏み込んだのは僕の方だから、気にしないで」
貴悠の言葉に安心したように。彼女は微笑んだ。と、慌てたようにベッド脇の椅子を示す。
「気がまわらなくてごめんなさい!! あの、どうぞお掛けになって下さい! というか、仁科さん、今、お時間大丈夫でした?」
「今日の仕事は終えてきてるから、心配しなくていいよ。じゃぁ、お言葉に甘えて」
気にするなと伝えた貴悠の身振りと、貴悠が腰掛けたのを見て。彼女は安堵の表情を浮かべた。その様子は、打ち合わせの時のイメージよりも、表情が豊かで幼い、年相応の印象に見受けられる。
「長谷川さんも森村も随分小さい時から通ってたの?」
「……私が三つになる年に、教室に通い始めたんです。巧く……森村君は、私と同じくらいに教室に入ったんですけど……」
自分からは話し辛いだろう。そう思って貴悠が切った口火に。手元の写真に瞳を落としながら、彼女はポツポツ語り始めた。
「通い出した時期は同じくらいだし、練習も他の子に負けないくらい頑張ってた方だと思います。
実際、普段はちゃんと先生に褒めてもらえるぐらいだったんです。でも、なんか、緊張すると失敗しちゃうみたいで……。
お友達の前で弾きましょうって言われるの、凄く苦手だったんです。だから、発表会なんかもうボロボロで」
この写真、教室に通い出して最初の発表会のものなんですと、彼女は笑う。
「そんなんだから、写真の発表会も悲惨な出来栄えだったんです。演奏の途中で、もう頭真っ白になってたし、そうなるともうどうしていいかわからなくて固まっちゃうし。
自分の順番が終わって、悔しいのと情けないのとで一杯になっちゃって……。みんなちゃんと出来るのに、なんで自分はこうなんだろう、って」
会場の外で蹲って泣いてたんです。アタシだって、ピアノが好きなのは負けないのにって。そしたら、順番終わって会場を探検してた森村君と鉢合わせちゃったんですよね……。
「人見知りもする方だし、おんなじ教室だったけど、直接話したこと無かったんですけど、泣いてるとこ見られちゃって、どうしたの? って。私もボロボロだったんで、悔しいって言っちゃったんです。アタシだって、ピアノ好きなのに!! って」
森村君、びっくりしてましたけどね。でも、普段のこと覚えてたみたいで。
「『いつもは楽しそうに弾いてるから、きっとみんな解ってるよ? だって、ボクも知ってるもん!!』って森村君の言葉で、こっちがきょとんとしました」
……クスクスと笑う声は明るい。
「そのまんま、手を引っ張られて、グスグス泣いてるままで会場に連れ戻されちゃって。丁度、発表会も終わったところで……。先生も両親達も探してたとこだったんです。
けど、そんなのお構いなしに、森村君、ピアノの方に向かっちゃうんです。何する気? って、周囲が呆気に取られてる内に私も座らされちゃって……。
適当に弾き出しちゃったんですけど、聞いたことない曲なんです。その当時流行ってた曲のメロディーを全部ごちゃまぜにしてみた感じで」
で、言うんですよ。『ほら、好きな歌弾いてみなよ』って。
「何が何だかわかんないけど、自分も鍵盤触ってる内に楽しくなってきちゃって……。いつのまにか適当な曲が出来ちゃってるし、そしたら自分も笑ってて……」
母達が目を丸くしてました。うちの子たち、いつの間に仲良くなってたの? って。先生には、その後随分御説教されましたけど……。
「その時に、祖父が撮ってくれた写真なんです。元々カメラは持参してくれてたんですけど、演奏してる私があんまり酷い顔色してたんで、撮影してやると却って可哀想だって控えてくれてたんですけど……『元気になったみたいだから、一枚撮ろうか』って。
……祖父は昔から私にとって特別な人だったんです。ピアノのきっかけも、音大に進む後押しも、祖父がくれました。両親が気付かないようなくらいにしか思わない【欲しいもの】に気づいてくれる、そういう人だったんです」
特別だったという祖父の話をする彼女は、どこか哀しげで……。貴悠は気付いた。多分、その人は、もうこの世の人ではない。
「お祖父さんは……」
「はい。数年前に亡くなりました。だから、この写真は凄く大事なものなんです。いろんな意味で」
――初めての発表会の写真として。森村巧という男の子と打ち解けたきっかけとして。……特別な祖父が撮影してくれたものとして。
「そのときの曲は、覚えてる間に何度も何度も繰り返して弾いて。必死に五線譜に書き写しました。祖父にも手伝ってもらって……。
妹が何度もねだったのは、もう少し技術が出来たときに、最初の日に作った曲をアレンジして、二人で完成させたものだったんです。選ばれたのは、私ではなかったですけど……」
「うん……」
貴悠の短い言葉に。彼女は写真を綺麗に折り畳んだ。
「……与太話に付き合わせてすみません」
貴悠は首を振って微笑む。
「主治医の先生に聞いたけど、暫くは入院生活だからね。僕も自分の勤務があるし、頻繁にとはいかないかもしれないけど、時間見つけて顔は出すから」
だから、また話なら聞くよ。貴悠の言葉に、彼女は驚いたようで首を振ったけど……。彼女の頭に手を載せて、ポンと弾ませる。
「たまには誰かに頼りなさい。長谷川さんはお姉ちゃんだけど、僕の方がお兄さんなんだから、ね?」
重くなり過ぎない程度に。けれど、伝わるように。あえて子ども達に向けるのと同じ表情と行動を取る。……貴悠の心は伝わったらしい。彼女は、俯き、微かに肩を震わせて……頷いた。
後書き
作者:未彩 |
投稿日:2015/12/22 19:26 更新日:2015/12/22 19:26 『人魚姫のお伽話』の著作権は、すべて作者 未彩様に属します。 |
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