作品ID:1694
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人魚姫のお伽話
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 完結
前書き・紹介
「たかはるくんの不安とゆうちゃんの秘密」
前の話 | 目次 | 次の話 |
「……彼女、もう、僕の方を見てくれてるって、ほんとに思ってていいのかな」
溜め息と共に零れ落ちた小さな呟き。貴悠のその小さな声に、隣で緑茶を啜っていた病棟看護師長が、盛大に口の中からお茶を噴き出した。
「わ、小牧さん!! 何やってんですか!?」
慌てた貴悠の声を無視して、コンコンと咳き込みながら咽返っていた小牧信子看護師長は、キリリと貴悠を睨み付けてくる。
「だ、誰の所為だと思ってらっしゃるんです!! センセ、場所、解ってます? 休憩時間と言えば休憩時間ですけれど、病棟の詰所でいきなり何を言い出されますっ!」
小児科病棟看護師長の尤もな言葉に、貴悠は自分が口にしたつもりではなかったはずの言葉をしっかりと口にしてしまっていた事実を知る。
休憩時間とは言えど、職場でやらかしてしまった……と、反省しながらデスクの上の書類に向き直った貴悠は、何故か最近いきなりぶら下げだしたカメラを片手に、ヒョコリと現れた人影を見て、眉を顰めた。
「あ、いたいた、仁科先生。休憩時間でいらっしゃいますよね? 少し……」
相手の言葉を遮って、貴悠はガタンと派手な音を響かせて席を立ち上がった。詰所内のドクターや看護師たちが一様に驚いて、貴悠を見つめているが、そこは無視。
「……キュウケイジカンナノデ、タバコスッテキマス」
「は? ちょ、仁科……」
相手の言葉をガン無視して、貴悠は詰め所を飛び出した。
「……仁科先生って、煙草なんか吸われてました?」
騒然と取り残された詰所で小牧が発した言葉に、内科勤務の貴悠の友人看護師は首を振る。
「……僕の覚えてる限りでは、煙草を吸う嗜好はなかったと思いますけど…………。というか、あのセンセ、何をあんなに不機嫌顕わにしてたんですか?」
弱っているなぁ、と、病棟の屋上の休憩スペース。貴悠はフェンスにもたれて盛大な溜息を吐いていた。先程の詰所での失態といい、友人相手の物言いといい、いつもの自分のペースではない。
けれど……。貴悠だって、万能人間なわけではないのだ。落ち込むには十分な出来事が、二度も三度も重なれば、嫌気だってさしてくるし、とことん自信をなくしたりもする。
フェンスに寄りかかりながら頭に浮かべたのは、美しいピアノを奏でる年下の可愛い恋人。その恋人の言動が、今の貴悠の頭を悩ませている主な原因である。
それは、先々週のこと。いつもと同じように病棟内を歩いていた貴悠は、連なる診察室の待合の片隅で、リボンを結んだ黒髪姿を見つけ、声をかけようとしたのだが……。
そこにいた、もう一人の人間に、そしてその人間に対する彼女の反応に、思わず声をかけそびれた。リボンを結んだ彼女の姿の前で優しい笑みを浮かべていたのは、同い年の友人看護師。
貴悠の友人看護師の柔らかな笑みと、何かしら囁かれていた言葉に。うっすらと頬を染めながら、嬉しそうに、幸せそうに笑っていたのは、貴悠の可愛い恋人。
その光景だけでも貴悠には十分に落ち込む事の出来るシロモノだったのだが……。生憎、イヤなことというのは、こちらの思惑関係なしに重なってくれるものなのである。
その日のことを尋ねた後日、恋人は顔を真っ赤にして固まってしまい、思い切り取り乱した揚句に、バサバサと荷物を喫茶店の床に降り落として散らかした。
その一つ。恋人が床に散らからせた荷物の一つには、出逢った当時と同じシリーズで買い替えたと思しき可愛らしいシステム手帳。その中から、一枚の写真が零れ落ちた。
何の気なしに荷物の収集を手伝おうと写真に伸ばした貴悠の手は、恋人によって思い切り振り払われた。呆気に取られた貴悠に、彼女は慌てて謝罪の言葉を述べていたけれど……。
正直、少しだけ傷付いた。写真の中身を知っているだけ、少しだけ傷付いた。恋人が手帳に挟んで持ち歩いているのは、幼い頃のピアノの発表会の写真だと、それくらいなら知っている。
そこに写されているのが、幼い恋人と恋人の初恋の相手で、貴悠の後輩であることも、彼女の妹の伴侶であることも。
本音を言えば、いつまでも同じ写真を持ち歩かれて面白いわけはないのだが、その写真が彼女にとってどれだけ特別なものであるかぐらいは、出逢った当初に知ってしまったから。
貴悠だって、別にそれ自体を咎めようとは思わない。恋人が大切に持ち歩く一枚の写真は、恋人の初恋相手との写真であると同時に、彼女の亡くなった大切な祖父の形見とも言えるものである。だから、そこを咎めようとは出来ない。
けれど、伸ばした手を勢いよく振り払われたのは、流石に貴悠にも少しキツかった。それだけ大事な写真であるとは知っているけれど、手伝おうとして写真を拾おうと伸ばした手。
それを思い切り振り払われてしまえば、貴悠は彼女自身から拒絶された感覚に陥った。彼女にとって大切で神聖な宝物、それに触れる資格、それを彼女は貴悠には与えてはいないと言われたようで……。
真っ青な顔をして何度も何度も必死に謝罪の言葉を並べる姿に、気にしてはいないと振る舞ってはみせたけれど……。
その、翌日。定期の通院で病院にやって来ていた恋人が、いつかと同じように友人看護師と嬉しそうに会話していた姿の中に、その手の平に。
彼女が店で散らかした手帳と手帳に挟まれていた写真、それをみつけて、貴悠の心は急速に冷えていく感覚を覚えた。貴悠には許されなかったその写真が、友人の手に有れば…………。
「……子ども達の憧れの優しい『はるちゃんせんせ』が、こんなとこで大ウソ吐いて項垂れてていらしてもよろしいんですか?」
突如と背後からかけられた声に、貴悠はフェンスに寄りかかりながら内心で息を吐く。
「……別に、ウソ吐いてる覚えはないけど?」
「吐いてらっしゃるじゃないですか。貴悠さん、煙草なんて吸われないくせに」
弱っている自覚があるところに突然現れられたので、普段と同じを心掛ける自信と余裕がない。と、内心で息を吐いていた貴悠は、聞き慣れない言葉に思わず振り向いた。
「……今、『貴悠さん』って言った?」
「言いましたけど?」
流れる黒髪をサイドでハーフアップにしてリボンで結んだ彼女は澄まし返っている。けれど、貴悠は本気で驚いた。驚きで声の出ない貴悠を、彼女は少しだけ拗ねたように睨み付けてきた。
「そこ、そんなに驚かれると複雑です。私、恋人として名前を呼んじゃいけないんですか? 『仁科さん』ってお呼びするべきでしたら、そうさせて頂きますけれど?」
「や、だって、今迄に普通に名前で呼ばれた覚えないから……。貴悠センセとぐらいしか呼んでくれなかったのに、突然さらっと名前を呼ばれたら驚くと思うけど……」
貴悠の尤もなはずの疑問に、彼女は頬を染めて返してくる。
「…………いきなり馴染んだ呼び方を変えられるほど、私は器用ではないんです。でも、仕方ないじゃないですか。誰かさん、何か誤解して落ち込んでらっしゃるみたいなんですもの。
病棟にお弁当持って行くお約束、忘れられてましたでしょう? 小牧看護師長さんと武原さんがご心配なさってましたよ? 貴悠センセが何か凄く弱気になってらしたって……。
武原さんにも険悪な態度取ってらしたってお聴きしましたけれど? 貴悠さん、何か言いたいことお有りじゃないんですか、私に」
的確過ぎる読みに、貴悠が再び言葉を失うと、彼女は手持ちのバッグから、いつかの手帳を取り出した。バッグの中から取り出した手帳を、おもむろに押し付けられて、貴悠は困惑する。
「一を聞いて十を理解するのが得意分野なのは、貴悠さんだけじゃないんですよ? ご自分の恋人が察しの良い優等生だってお忘れになられては困ります。
状況と前後の文脈から考えるに、どうせ、貴悠センセが誤解なさってるのは『これ』でしょう? ……ほんとは凄く不本意なんですけれど…………。
貴悠さんのその早トチリを解こうと思えば、これが一番手っ取り早いでしょうから、どうぞ? 中身、ご覧になって、その誤解、解いて頂けません? その誤解は私も流石に困りますから」
彼女の意図が酌めず、右手に押し付けられた手帳を持て余して、貴悠が困惑していると、しびれを切らしたように、恋人が手帳の中から一枚の写真を取り出した。
裏向けにして手渡された一枚の写真、そこで貴悠は疑問を覚える。知り合った当初、彼女が手帳に挟んで持ち歩いていた写真は、綺麗に折り畳まれて大切にはされていたものの、それなりの年月を経たものであることをはっきりと語るようにやや黄ばんでいた。
けれど、今、貴悠が押し付けられるように手渡された写真。裏を向けて手渡されたその写真は、どう見ても真新しいモノにしか見えない。
疑問を覚えたままに写真を表に返して……そこに有った光景に、貴悠は三度言葉を失った。手渡された手帳の写真、そこに写っていたのは幼い恋人と貴悠の後輩などではない。
いつの間に、というよりは、どうやって? 彼女から渡された写真に写されていたのは、真剣な面持ちで病棟でカンファレンス中の白衣の貴悠の姿だったのである……。
「……へ?」
「だから見られたくなかったのに……」
「な、なにこれ?」
「見ての通り、貴悠さんのお写真ですけど? 貴悠さん、先々週に私が武原さんとお話させて頂いてたところ、知ってましたよね? 以前にお願いしてあって、そのときに頂いてたんです」
いよいよ呆気に取られた貴悠に、貴悠の恋人は口を尖らせた。
「巧君の……義弟の写真なんて、とっくにアルバムの中なんですけれど? 私、そこまで信用されてないんですか? なんか、もう、馬鹿みたいじゃないですか、私。
指環を頂いたあの時点で、とうに貴悠さんのことしか見てませんけど? もっと言わせて頂けるんでしたら、クリスマスの頃には貴悠さんを見ていたつもりでしたけど。
何処かの誰かさんがお見合いなんてしてくださるものだから、貴悠さんが結婚なさると思い込んで、巧君のときと同じことやらかして、どれだけ周囲に心配かけてたか……。
愛ちゃんが乗り込んでくれて、武原さんと貴悠さんの病棟の看護師長さんが誤解だと教えてくださって、もう優等生失格もいいとこな落ち込みぶりだったんだと、お解りになっては頂けませんか?」
呆けたままに浮かんだ疑問を口にする。
「……て、なんで、仕事中の僕? それも、カンファレンス中の写真?」
「…………放っといてください。『仕事中はあれで中々しっかりしてるし、やり手だよ、アイツ』なんて、御友人から聞いちゃったら、欲しくなるじゃないですか。その場面の貴悠さんのお写真……」
些か膨れ気味に、うっすらと頬を染めて返されて、貴悠の方は面喰った。
「その言い草からするに、武原か……。で、こないだは『これ』を隠そうとしてたの? というか、仕事中はってどういう意味だよ、アイツ…………。
武原がいきなりカメラ持ち歩いてたの、ひょっとして、これのため? っていうか、こんなもん、後生大事に持ち歩かないでも……」
「だから!! 放っといてください!! …………普段は見れない、真剣な顔した恋人の仕事場面、持ってたいなっていう乙女心を解してくれない貴悠センセは嫌いです!!」
思わず言葉を失くした貴悠を、彼女はじろりと睨みつけてきた。
「で、お弁当、持って帰らなきゃいけないんでしょうか、私」
「え、あ、ええと……」
「いきなり時間の無くなる体力資本の貴悠さんに合わせて、食べやすさにこだわって、栄養面も凄く考えて作ってきたつもりなんですけれど……。無駄にされるくらいでしたら……」
「待った!! 優卵のお弁当待ってたから、僕、今日はまだ昼抜き!!」
慌てて叫んだ貴悠の言葉に、恋人は一瞬瞳を見開いて、小さく笑う。
「……貴悠さんだって、今迄は私のこと、『優卵ちゃん』と呼ばれてたような気がするんですけれど?」
「…………構わないでしょ。仕事中の僕の写真を欲しがるようなお姫さま相手に、遠慮する必要、無いみたいだし」
「……放っといてくださいってば」
――そんな、ちいさなエピソード。
『たかはるくんの不安とゆうちゃんの秘密』
溜め息と共に零れ落ちた小さな呟き。貴悠のその小さな声に、隣で緑茶を啜っていた病棟看護師長が、盛大に口の中からお茶を噴き出した。
「わ、小牧さん!! 何やってんですか!?」
慌てた貴悠の声を無視して、コンコンと咳き込みながら咽返っていた小牧信子看護師長は、キリリと貴悠を睨み付けてくる。
「だ、誰の所為だと思ってらっしゃるんです!! センセ、場所、解ってます? 休憩時間と言えば休憩時間ですけれど、病棟の詰所でいきなり何を言い出されますっ!」
小児科病棟看護師長の尤もな言葉に、貴悠は自分が口にしたつもりではなかったはずの言葉をしっかりと口にしてしまっていた事実を知る。
休憩時間とは言えど、職場でやらかしてしまった……と、反省しながらデスクの上の書類に向き直った貴悠は、何故か最近いきなりぶら下げだしたカメラを片手に、ヒョコリと現れた人影を見て、眉を顰めた。
「あ、いたいた、仁科先生。休憩時間でいらっしゃいますよね? 少し……」
相手の言葉を遮って、貴悠はガタンと派手な音を響かせて席を立ち上がった。詰所内のドクターや看護師たちが一様に驚いて、貴悠を見つめているが、そこは無視。
「……キュウケイジカンナノデ、タバコスッテキマス」
「は? ちょ、仁科……」
相手の言葉をガン無視して、貴悠は詰め所を飛び出した。
「……仁科先生って、煙草なんか吸われてました?」
騒然と取り残された詰所で小牧が発した言葉に、内科勤務の貴悠の友人看護師は首を振る。
「……僕の覚えてる限りでは、煙草を吸う嗜好はなかったと思いますけど…………。というか、あのセンセ、何をあんなに不機嫌顕わにしてたんですか?」
弱っているなぁ、と、病棟の屋上の休憩スペース。貴悠はフェンスにもたれて盛大な溜息を吐いていた。先程の詰所での失態といい、友人相手の物言いといい、いつもの自分のペースではない。
けれど……。貴悠だって、万能人間なわけではないのだ。落ち込むには十分な出来事が、二度も三度も重なれば、嫌気だってさしてくるし、とことん自信をなくしたりもする。
フェンスに寄りかかりながら頭に浮かべたのは、美しいピアノを奏でる年下の可愛い恋人。その恋人の言動が、今の貴悠の頭を悩ませている主な原因である。
それは、先々週のこと。いつもと同じように病棟内を歩いていた貴悠は、連なる診察室の待合の片隅で、リボンを結んだ黒髪姿を見つけ、声をかけようとしたのだが……。
そこにいた、もう一人の人間に、そしてその人間に対する彼女の反応に、思わず声をかけそびれた。リボンを結んだ彼女の姿の前で優しい笑みを浮かべていたのは、同い年の友人看護師。
貴悠の友人看護師の柔らかな笑みと、何かしら囁かれていた言葉に。うっすらと頬を染めながら、嬉しそうに、幸せそうに笑っていたのは、貴悠の可愛い恋人。
その光景だけでも貴悠には十分に落ち込む事の出来るシロモノだったのだが……。生憎、イヤなことというのは、こちらの思惑関係なしに重なってくれるものなのである。
その日のことを尋ねた後日、恋人は顔を真っ赤にして固まってしまい、思い切り取り乱した揚句に、バサバサと荷物を喫茶店の床に降り落として散らかした。
その一つ。恋人が床に散らからせた荷物の一つには、出逢った当時と同じシリーズで買い替えたと思しき可愛らしいシステム手帳。その中から、一枚の写真が零れ落ちた。
何の気なしに荷物の収集を手伝おうと写真に伸ばした貴悠の手は、恋人によって思い切り振り払われた。呆気に取られた貴悠に、彼女は慌てて謝罪の言葉を述べていたけれど……。
正直、少しだけ傷付いた。写真の中身を知っているだけ、少しだけ傷付いた。恋人が手帳に挟んで持ち歩いているのは、幼い頃のピアノの発表会の写真だと、それくらいなら知っている。
そこに写されているのが、幼い恋人と恋人の初恋の相手で、貴悠の後輩であることも、彼女の妹の伴侶であることも。
本音を言えば、いつまでも同じ写真を持ち歩かれて面白いわけはないのだが、その写真が彼女にとってどれだけ特別なものであるかぐらいは、出逢った当初に知ってしまったから。
貴悠だって、別にそれ自体を咎めようとは思わない。恋人が大切に持ち歩く一枚の写真は、恋人の初恋相手との写真であると同時に、彼女の亡くなった大切な祖父の形見とも言えるものである。だから、そこを咎めようとは出来ない。
けれど、伸ばした手を勢いよく振り払われたのは、流石に貴悠にも少しキツかった。それだけ大事な写真であるとは知っているけれど、手伝おうとして写真を拾おうと伸ばした手。
それを思い切り振り払われてしまえば、貴悠は彼女自身から拒絶された感覚に陥った。彼女にとって大切で神聖な宝物、それに触れる資格、それを彼女は貴悠には与えてはいないと言われたようで……。
真っ青な顔をして何度も何度も必死に謝罪の言葉を並べる姿に、気にしてはいないと振る舞ってはみせたけれど……。
その、翌日。定期の通院で病院にやって来ていた恋人が、いつかと同じように友人看護師と嬉しそうに会話していた姿の中に、その手の平に。
彼女が店で散らかした手帳と手帳に挟まれていた写真、それをみつけて、貴悠の心は急速に冷えていく感覚を覚えた。貴悠には許されなかったその写真が、友人の手に有れば…………。
「……子ども達の憧れの優しい『はるちゃんせんせ』が、こんなとこで大ウソ吐いて項垂れてていらしてもよろしいんですか?」
突如と背後からかけられた声に、貴悠はフェンスに寄りかかりながら内心で息を吐く。
「……別に、ウソ吐いてる覚えはないけど?」
「吐いてらっしゃるじゃないですか。貴悠さん、煙草なんて吸われないくせに」
弱っている自覚があるところに突然現れられたので、普段と同じを心掛ける自信と余裕がない。と、内心で息を吐いていた貴悠は、聞き慣れない言葉に思わず振り向いた。
「……今、『貴悠さん』って言った?」
「言いましたけど?」
流れる黒髪をサイドでハーフアップにしてリボンで結んだ彼女は澄まし返っている。けれど、貴悠は本気で驚いた。驚きで声の出ない貴悠を、彼女は少しだけ拗ねたように睨み付けてきた。
「そこ、そんなに驚かれると複雑です。私、恋人として名前を呼んじゃいけないんですか? 『仁科さん』ってお呼びするべきでしたら、そうさせて頂きますけれど?」
「や、だって、今迄に普通に名前で呼ばれた覚えないから……。貴悠センセとぐらいしか呼んでくれなかったのに、突然さらっと名前を呼ばれたら驚くと思うけど……」
貴悠の尤もなはずの疑問に、彼女は頬を染めて返してくる。
「…………いきなり馴染んだ呼び方を変えられるほど、私は器用ではないんです。でも、仕方ないじゃないですか。誰かさん、何か誤解して落ち込んでらっしゃるみたいなんですもの。
病棟にお弁当持って行くお約束、忘れられてましたでしょう? 小牧看護師長さんと武原さんがご心配なさってましたよ? 貴悠センセが何か凄く弱気になってらしたって……。
武原さんにも険悪な態度取ってらしたってお聴きしましたけれど? 貴悠さん、何か言いたいことお有りじゃないんですか、私に」
的確過ぎる読みに、貴悠が再び言葉を失うと、彼女は手持ちのバッグから、いつかの手帳を取り出した。バッグの中から取り出した手帳を、おもむろに押し付けられて、貴悠は困惑する。
「一を聞いて十を理解するのが得意分野なのは、貴悠さんだけじゃないんですよ? ご自分の恋人が察しの良い優等生だってお忘れになられては困ります。
状況と前後の文脈から考えるに、どうせ、貴悠センセが誤解なさってるのは『これ』でしょう? ……ほんとは凄く不本意なんですけれど…………。
貴悠さんのその早トチリを解こうと思えば、これが一番手っ取り早いでしょうから、どうぞ? 中身、ご覧になって、その誤解、解いて頂けません? その誤解は私も流石に困りますから」
彼女の意図が酌めず、右手に押し付けられた手帳を持て余して、貴悠が困惑していると、しびれを切らしたように、恋人が手帳の中から一枚の写真を取り出した。
裏向けにして手渡された一枚の写真、そこで貴悠は疑問を覚える。知り合った当初、彼女が手帳に挟んで持ち歩いていた写真は、綺麗に折り畳まれて大切にはされていたものの、それなりの年月を経たものであることをはっきりと語るようにやや黄ばんでいた。
けれど、今、貴悠が押し付けられるように手渡された写真。裏を向けて手渡されたその写真は、どう見ても真新しいモノにしか見えない。
疑問を覚えたままに写真を表に返して……そこに有った光景に、貴悠は三度言葉を失った。手渡された手帳の写真、そこに写っていたのは幼い恋人と貴悠の後輩などではない。
いつの間に、というよりは、どうやって? 彼女から渡された写真に写されていたのは、真剣な面持ちで病棟でカンファレンス中の白衣の貴悠の姿だったのである……。
「……へ?」
「だから見られたくなかったのに……」
「な、なにこれ?」
「見ての通り、貴悠さんのお写真ですけど? 貴悠さん、先々週に私が武原さんとお話させて頂いてたところ、知ってましたよね? 以前にお願いしてあって、そのときに頂いてたんです」
いよいよ呆気に取られた貴悠に、貴悠の恋人は口を尖らせた。
「巧君の……義弟の写真なんて、とっくにアルバムの中なんですけれど? 私、そこまで信用されてないんですか? なんか、もう、馬鹿みたいじゃないですか、私。
指環を頂いたあの時点で、とうに貴悠さんのことしか見てませんけど? もっと言わせて頂けるんでしたら、クリスマスの頃には貴悠さんを見ていたつもりでしたけど。
何処かの誰かさんがお見合いなんてしてくださるものだから、貴悠さんが結婚なさると思い込んで、巧君のときと同じことやらかして、どれだけ周囲に心配かけてたか……。
愛ちゃんが乗り込んでくれて、武原さんと貴悠さんの病棟の看護師長さんが誤解だと教えてくださって、もう優等生失格もいいとこな落ち込みぶりだったんだと、お解りになっては頂けませんか?」
呆けたままに浮かんだ疑問を口にする。
「……て、なんで、仕事中の僕? それも、カンファレンス中の写真?」
「…………放っといてください。『仕事中はあれで中々しっかりしてるし、やり手だよ、アイツ』なんて、御友人から聞いちゃったら、欲しくなるじゃないですか。その場面の貴悠さんのお写真……」
些か膨れ気味に、うっすらと頬を染めて返されて、貴悠の方は面喰った。
「その言い草からするに、武原か……。で、こないだは『これ』を隠そうとしてたの? というか、仕事中はってどういう意味だよ、アイツ…………。
武原がいきなりカメラ持ち歩いてたの、ひょっとして、これのため? っていうか、こんなもん、後生大事に持ち歩かないでも……」
「だから!! 放っといてください!! …………普段は見れない、真剣な顔した恋人の仕事場面、持ってたいなっていう乙女心を解してくれない貴悠センセは嫌いです!!」
思わず言葉を失くした貴悠を、彼女はじろりと睨みつけてきた。
「で、お弁当、持って帰らなきゃいけないんでしょうか、私」
「え、あ、ええと……」
「いきなり時間の無くなる体力資本の貴悠さんに合わせて、食べやすさにこだわって、栄養面も凄く考えて作ってきたつもりなんですけれど……。無駄にされるくらいでしたら……」
「待った!! 優卵のお弁当待ってたから、僕、今日はまだ昼抜き!!」
慌てて叫んだ貴悠の言葉に、恋人は一瞬瞳を見開いて、小さく笑う。
「……貴悠さんだって、今迄は私のこと、『優卵ちゃん』と呼ばれてたような気がするんですけれど?」
「…………構わないでしょ。仕事中の僕の写真を欲しがるようなお姫さま相手に、遠慮する必要、無いみたいだし」
「……放っといてくださいってば」
――そんな、ちいさなエピソード。
『たかはるくんの不安とゆうちゃんの秘密』
後書き
作者:未彩 |
投稿日:2016/01/19 12:50 更新日:2016/01/19 12:50 『人魚姫のお伽話』の著作権は、すべて作者 未彩様に属します。 |
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