蜜雨

 そぞろ寒く、冬が隣にやってきた時分。
 禁門の変が勃発し、人々の生活が落ち着く頃には青々とした山も、真っ赤に粧いを変えていた。

 森閑とした廃寺へやって来たは、人知れず朽ち果て続ける葉をぼうっと眺める。
 剣心が京から姿を消した。生死は不明だが、すでに幕府側の一部の刺客から脅威と目されている剣心を斬ったという噂すら流れていないとなると、きっと動乱に紛れてどこかに身を潜めているのだろう――それは、の憶測であり願望でもあった。何の後ろ盾もないが掴める情報など、たかが知れている。今や市中は流血の都と化しており、新選組や見廻り組が競って志士を斬っていた。はただ直向きに、その犠牲者の中に剣心がいないよう願うしか道がなかった。

「まるで血の雨だな」
「……降らせているのはあなたの方ではありませんか」

 幾重にも重なって血だまりと化した葉を容赦なく踏み付け、口を開きながら斎藤はの背後へと近づく。は振り向かずにしゃがみ込み、どこからともなくやって来た黒猫に手を差し出した。人慣れしているのかの手にすり寄り、甘く喉を鳴らしている。

「迷い猫……か」

 似ている――斎藤は気取られぬ様伏し目がちに、黒猫と戯れるの横顔を見遣った。
 どこからともなく現れては消え、愛想を振りまいていたかと思えば、鋭い牙を剥く。譲れぬ正義を胸に刀を握るその手は、ともすれば折れてしまいそうな程か細く頼りない。だが彼女は決して守られる側の人間ではない。紛れもなく人斬りだ。しかしながらその傍らで、人の死を悲しみ簡単に涙を流している。斎藤からすれば、理解し難い女でしかなかった。自分の思考を乱す、なんとも厄介で面倒な存在。

「おい」

 手を伸ばすと、透き通る程の清らかな眼がゆっくりと斎藤の動向を追う。そこに恐怖や疑念、警戒心は微量も含まれていない。そんな無防備なに、斎藤は名状しがたい苛立ちを覚えた。
 その生白く細っこい首をへし折ろうと殺意を漏らせば、彼女はどんな顔をするのだろう。大人しく殺されるのだろうか、それとも斎藤の殺意に殺意で返すのだろうか。いっそその漆黒の髪を乱して引き寄せたら、さぞ愉快な表情を見せてくれるかもしれない――斎藤の冷徹な顔の下に歪んだ愛憎が渦巻いているだなんて、も、そして斎藤自身も気が付いていなかった。
 結局斎藤は彼女の髪に絡みついた葉を取ってやっただけで、それ以上どこも触れはしなかった。真っ赤に燃える葉は、まるで返り血である。

「……なぜ逃げない」

 斎藤は突として荷物を地に落とした。その物音に驚いた黒猫は素早くの手をすり抜け、非難するような目線を投げて逃げてしまった。行き場を失ったの手だけがさびしく残る。

「……斎藤さんはお顔は怖いですが、悪人ではございませんわ。だまし討ちなんて真似しないでしょう?」

 は無邪気に微笑んだ。しかし斎藤の脳裏を過るのは、彼女が詮方無い悲嘆に暮れる姿であった。
 禁門の変で時代が大きく揺れ動き、多くの市民が犠牲となった。斎藤は騒乱の最中、自分が汚れる事も厭わずに焼け焦げた死体を抱き締めて涙を流すを見かけた。その横で、まだ死を理解出来ぬ幼子が呆けた顔をしており、彼女はその子をも抱き締めてしきりに謝っていた。まるで自分が罪を犯したかの様に。
 刀を振るえばいい――己を責め立てる位ならば。至極簡単な事だ。とは言え、彼女はきっと刀を抜きはしないだろう。揺るぎない正義があるから。

「……あら?」

 斎藤の手に渡ってしまっていた荷物の確認をしていたが声を上げた。
 櫛はある。然りとて、母の形見である櫛ではない。静観する斎藤を思わず見上げると、くつくつと珍しく笑い声を漏らした。

「ま、まさか斎藤さんが……?」

 斎藤は試していた。へ荷物を返すという文を出し、その誘いに応じるかどうかを。そうしてはまんまと斎藤の指定した場所へとやって来た。しかも丸腰で。沖田はともかくとして、斎藤はにとって敵か味方か曖昧な存在であるにも関わらず、だ。
 斎藤が仕掛けたのはそれだけではない。
 の荷物の中には金の他、飴色に光沢を帯びた美しい櫛が入っていた。その輝きはがどれだけ手間暇かけて手入れをし、大切にしてきたかを如実に表していた。では、もしその櫛が別の櫛と入れ替わっていたらどうだろう。案の定は櫛がない事に逸早く気づき、酷く狼狽えていた。彼女がどれだけその櫛に執着しているかは明々白々であった。

「……何が目的なのですか? それとも、私を揶揄っているだけですか?」

 訝し気に瞳が歪む。やはり斎藤の行動の真意までは読み取れていない様だ。
 懊悩し、泥沼に沈めばいい。存分に苦悶すればいい。腫物でも、棘でもなんでもいい。消えない傷を負い、延々と身を焦がせばいい――己の様に。
 にわかには信じ難いのだが、斎藤はを忘れられずにいた。
 幕府側にも長州側にも属さず、自由の剣を貫こうとする彼女の存在は確かに看過出来ない。加えて、須藤達を殺した人斬りの情報を得られる可能性を秘めているのならば猶更。すぐに捕縛して拷問にかけ、何もかも強制的に白状させるべきだ。それなのに斎藤はついに実行しなかった。彼の心肝に埋もれる情が、燃え尽きることなく激烈に滾っていたからだ。
 酒屋の看板娘として笑顔を浮かべる彼女は、片や人を斬る事でしか人々の幸せを守れない自分の無力さに絶望して弱弱しく涙を流している。極めて愚かしい――そう思うのに、斎藤の目は奪われてばかりだった。どうしようもなく惹きつけられていたのだ。
 腹が立つ。途轍もない手練れだが、馬鹿正直で鈍くさい田舎娘にこんなにも心を掻き乱される事が。

「あの櫛は母の大切な形見なのです……! だからっ返してください!」

 いつも物腰柔らかなが珍しく声を荒げる。余裕のないを嘲笑う様に斎藤は口の端を吊り上げた。

「ならば俺を殺して奪えばいい」

 斎藤が刀を差し出す。あの時と違い、素直に受け取ると同時に抜刀して斬りかかった――斎藤を背後から狙う賊を。
 舞うように軽やかな動きであったが、その太刀筋は鋭く重く、死に際に声を出すことすら許されなかった。粛々と、静寂を保ちながら一瞬で命を散らせてゆく。夥しい血潮は、敷き詰められた紅葉によく馴染んだ。

「これが貴様の正義か」

 骸へ視線を落とす斎藤を追いかけるように、も又骸を見詰める。
 謀られた――普段はぼんやりとしているだが、頭の回転は存外速い。
 斎藤程の男が賊の気配に気づいていないわけがなかった。に刀を取るよう誘導したのも、斎藤が賊を斬る気がないという意思表示だ。刀を握らない斎藤を、ならばきっと庇い立てするだろう。斎藤は確信すらしていた。彼はの力量と、正義を認めていたのだ。

「この方もきっと何人もの人間を殺してきたのでしょう……けれどもこの方も、この荒んだ時代の中で精一杯生きようとしていただけに過ぎません」

 斎藤の思惑を看破しているに対し、斎藤も又が賊を斬った意図を理解していた。
 以前、各々の相容れない正義に突き動かされた殺し合いに混ざるつもりはないと断言していた。この骸の所属も、目的もわからない。だからこそはこの賊を殺したのだ。もちろん程の実力者であれば、生け捕りも可能であった。だが、敢えて殺した。もしが賊を殺さなかった場合、賊の命は斎藤の裁量に任される。それはつまり、死を迎える前に死よりも惨い拷問が行われるという事だ。情報を搾り取れるだけ搾り取り、醜く塵芥の様に誇りも尊厳もなく無様な死を遂げるだろう。

「この方と私達は同じ人斬りであるのに、私はあなたを生かすコトを選びました」

 懐紙でこびり付いた血を拭い、慣れた手つきで刀を鞘に納めた。

「結局、刀を握ってしまえばみな同じ……その人にどれだけ生きる価値があるかを量り、斬るのみ」

 新撰組も、志士達も、みな人を幸せにする為に人を斬っている。然れども、果たして人を殺して得られる幸せなんて本当にあるのだろうか。只人々は平穏に暮らしたいだけだというのに、その幸せを脅かしているのは刀――すなわち人斬りなのではなかろうか。
 飛天御剣流の理、剣術の理全てを否定する自分自身には震える。
 無力だ。自分ではどうにも出来ない。
 異なる思想や正義を持ち、反発し合う勢力が話し合いで解決しなかった場合、刀を振るう以外の解決法などあるのだろうか。そもそも、正しさを別の正しさで正そうなど浅はか過ぎるのだろうか。

「では、貴様は俺を斬るか?」

 行く秋を感じさせる風が強く吹いた。絶えず落ちる葉が一層勢いを増して、斎藤とを隔てる。斎藤の言葉は、いつかが沖田に投げかけた言葉と一緒であった。沖田に握られた指先の熱を振り払う様に抜かれた刀は、乾いた音を伴って寂寞が滲む葉を斬り裂く。

「あなたが新撰組であろうとする限り、私はあなたを斬るコトはありません」

 真っ直ぐと射抜く様なの答えに斎藤は動じるどころか、口元は弧を描いていた。

「では、もし俺が私利私欲に溺れ、人々に厄災をもたらす様になれば……」
「もちろん、斬り伏せます」
「……ほう、では沖田君はどうだ?」

 振り払った筈の熱がぶり返す。

「っ、何故今沖田さんが出てくるのですか?!」
「これでも沖田君とはそれなりに付き合いも長い。仲間として釘を刺しておいてやろうと思うのは、至極当然のコトだろう?」

 いけしゃあしゃあと、らしくもない事を言い放ち、わざとらしくため息まで吐く斎藤。は完全に斎藤の術中に嵌っていた。
 いまだは沖田を斬る覚悟も、斬らぬ覚悟も出来ていなかった。
 飛天御剣流の理を貫こうとする一方で、密やかに膨らみ続ける、膨らんではいけない慕情に苦しんでいる事を斎藤は察していた。

「っ失礼いたします!」

 半ば逃げる様に斎藤へ刀を押し付けたが、その手を斎藤は即座に掴んだ。勢い余って胸に飛び込んでしまった彼女が、ついと顔を上げれば斎藤とばちりと目が合う。

「随分と顔が赤いが……具合でも悪いのなら送っていくぞ」
「~~~っっ!!」

 清廉な瞳を涙で潤ませ、純朴な頬を赤らめるに多少の芋臭さを禁じ得ないが、蠱惑的な島原の遊女よりも甘やかで強かな京女よりも、斎藤の目には愛おしく映った。ところが意外にも、あの聡い斎藤がこの感情を素直に享受するのはもう少し先である。斎藤自身認めたくなかったのだ。数回しか会った事の無い、素性もよく知らぬ女に心を掻っ攫われただなんて――






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