蜜雨

其之十二

 激動の試合が終わり、鳴り止まない拍手を背に控え室に戻ってきたに悟空とクリリンが労いの言葉をかけてくれた。今はふたりのその実直な眼差しに耐えられないは曖昧に笑って、頑張れと伝えてからその場を離れた。すぐに救護係がに駆け寄って治療を勧めてくれたが、自分で治せるからと押し切った。とりあえず今はひとりになって精神を落ち着けたい。

 そもそもが薬草や医学に興味を持ったのは、武道がきっかけであった。師匠と修行してはあちこちに傷をつくり、日に日に傷を増やしていくが、方向音痴が故に山をおりて薬を買いに行くのもままならないは、それならばいっそ自分でつくってしまえと薬草の本を師匠に買ってもらって勉強をしたのがはじまりだ。そのうちの傷の治りが驚異的に早くなって自分への薬は作らなくなったが、それから武道と並行して薬学、果てはもっと広範囲で医学について勉強をした。解剖学や生理学を学ぶと、は男女の身体が大きく違うことを知った。そしてこれから起こるであろう、自分の身に起こる身体の変化をおそれた。決して師匠のようにはなれないと絶望したは体格やスタミナ、力の差が開いてくることを見越してスピードを鍛え、最小限の動きで最大限の力を発揮する動きを追求し、人体の急所を的確に狙えるようにもなった。しかし自分の力を把握すればするほど、着実に自分の体がより女性に近づいているのがわかった。山の麓で共に武の道を歩んでいた者たちや、師匠以外の大人たちはみな一様にに好奇の眼差しを浴びせていた。やがては逃げるように自分を男と偽るようになったのだった。

 師匠も見抜いていた自分の弱さ――師匠の師匠である亀仙人が見抜けないはずがない。何から何まで完璧に負けた。完敗だ。こんなにも完膚なきまでに負けたのは師匠以来だ。フッと力が抜けたのか、はふにゃりと笑って椅子に背中を預けて天井を見上げた。

「ケガは大丈夫かの」
「! 武天老師さま!」

 しかいなかった選手控え室にチュン、もとい亀仙人が音もなく訪れた。だらりと椅子に腰掛けていたは慌てて立ち上がるが、亀仙人は座っているよう手で制した。

「なんじゃおまえ包帯も巻かずに着替えおって……どれわしが一から治療と着替えを……」
「もっもう全部終わってます!!」

 あやしい手の動きとイヤらしい目つきにぞわりと背中に悪寒が走り、自分自身を守るように抱きしめた。どうしてだろう――尊敬する師であるのに、身の危険を感じるなんて。

「肩が外れてたんじゃ、固定せんと……」
「昔から師匠にもよく外されてたんで大丈夫です! それに、傷の治りだけは早いので!!」

 は軽く言っているが、あの沙門に肩を外されるまでボコボコにされて一晩ですっかり治るなぞ、本当に人間かと亀仙人が疑うくらいにはびっくり人間である。

「それで……迷いは断ち切れたかの」
「……初めてカメハウスに来た時から気づいていたんですね。私の弱さに……」

 は自嘲気味に笑う。
 悟空とクリリンと共に亀仙人に修行をつけてもらった時、がはじめに課せられたのは男装をといて女の格好をするという精神修行であった。

「武天老師さまも、そして沙門師匠も、本当の私に向き合って私と真剣に拳を合わせて下さいました」

 逃げていたのはむしろ自分の方だ。師匠の言葉に耳をかさず、他の雑音に惑わされて自分を見失い、男として生きることで強くなった気でいた。

「武道は己に負けぬために励む。あなたはそう仰いました。しかし私は己から逃げ、まわりの者たちばかりに目を向けていました」

 狭い世界で勝手に敵をつくり、もがき苦しみ、ひとりで傷ついていた。こうして自分自身をきちんと見てくれて、受け入れてくれる人がいたのに、一筋の光には気づかず、下を向いて暗い闇の底を見つめていた。きっと、もっとずっと前から師匠は手を差し伸べてくれていたのだ。それを師匠の師匠が気づかせてくれるまで気づかないなんて、本当に情けない弟子である。きっと天国の師匠は怒っていることだろう。

「正直……まだこの生き方を変えるのはこわいです。だから、俺が負けた武天老師さまに俺が勝ったら、本来の私に戻ろうと思います!」
「なんじゃかややこしいのう……しかし、わしに勝つつもりでいるとは大きく出たもんじゃ」
「師を超えるのが弟子の目標ですから」

 胸のつかえが取れて霧が晴れたように笑ったの笑顔に、頬を染めてなにも言えなくなってしまった亀仙人であった。






 悟空とチュン(亀仙人)の決勝戦は僅差でチュンが勝利を掴んだ。表彰式も終え、その後ブルマたちと合流して亀仙人の有難いお言葉を頂き、みんなで揃って食卓を囲むこととなった。
 悟空が腹八分目まで食べて食事はお開きとなり、みんなで車に乗り込んだ。車内で今後の動向について話していると、これ以上教えることはないと亀仙人にきっぱり言われてしまった。

「これからはそれぞれの道をゆけ」

 はさてこれからどうしようかとぼうっと窓の外を見ながら思案していると、鼓膜が破れるくらいの音の暴力がを襲った。

「っっび……っくりしたあ……!! なんだよ悟空!」
「だから! オラと一緒に来ねえかって言ったんだ!」
「悟空と……?」

 悟空は再び孫悟飯の形見であるドラゴンボールを探しに世界を巡るらしい。
 亀仙人をも苦しめた実力――なによりただ純粋に強さを求める精神力を持つ悟空と共に修行すれば、自分の持つ弱さを少しでも払拭できるかもしれない。

「よろしく頼む!」
「ええー! はまた孫くんと一緒なのー!?」

 と悟空が拳をぶつけ合うと、ブルマが抗議の声をあげた。

「せっかく少しはゆっくりと一緒に過ごせると思ったのに……」
「堂々と浮気宣言か?」
だからいーのっ!」

 ウーロンのからかいに、ブルマはと亀仙人にしか真意がわからない理屈を捏ねると、は乾いた笑いをこぼすしかなかった。

 飛行機が飛び立てるくらいの広場で車から降りると、早速悟空とは出発の準備に取り掛かった。

「ブルマ」
「やっぱり都でわたしと一緒に過ごす気になった!?」
「あ、いや……それはごめん……」
「じゃあなによ!」

 は出発前にどうしてもブルマに伝えたいことがあった。

「天下一武道会で言ってくれた言葉、嬉しかった。ありがとう」
「なっなによ改まっちゃって……!」
「本当に……救われたんだ」

 あの時はブルマが懸命に気持ちを伝えてくれたことが素直に嬉しかったが、今ならブルマが本当に伝えたかったことがわかる。
 が何者であろうが、ブルマにとってはそんなちっぽけなことどうでもよかった。いつだってはブルマに優しくて、ピンチの時は助けてくれて、強くて頼りになる仲間――であるから好きなのだとブルマは伝えたかったのだ。
 まだ武道家のみんなには自分が女であると打ち明ける勇気はないが、一緒に旅をしたブルマの言葉が少しだけ背中を押してくれた。今はまだそれだけでいい。これからまた強くなればいいのだから。

 ただ、機会があればブルマには男装している理由を話そう。いつまでも変態だと思われたくはない。
 そう決意を胸に、は悟空の待つ筋斗雲へと乗り込んだ。






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