※来葉峠の赤井殉職偽装直後の捏造話
※ヒロイン過去や元カレの話あり
※Nが出張る(Nの詳細はこちら )
コナンと赤井、そして が立てた赤井秀一の死を偽装する計画はとりあえず成功したと思われる。まだこの計画が成功したと断言できないのは、この計画が上手くいっているかどうかの判断は周囲の人間が下すからだ。
「一先ずお疲れ様でした」
波乱を起こすには絶好の闇夜の曲がりくねった山道を一筋の光が風を切って走る。 はハンドルを操作しながら、赤井にミネラルウォーターを渡した。赤井は受け取ったミネラルウォーターを開封して一気に煽り、「まさかここまで読んでいたとはな……流石だ」とフッと音もなく笑う。
「俺の計画だけでは、どうしても穴が生じた。 がいれば実行に移せると考えていたら、本当にボウヤがお前を連れてくるとはな……」
「赤井捜査官がそこまで私を評価して下さっていたなんて知りませんでした」
「フ……組織潜入時代に何度お前に助けられたと思っているんだ」
「……仕事でしたから」
FBI随一の実力者にここまで言われるのは正直気分が良かった。しかし、そんな感情などおくびにも出さない。
「仕事か……特にあの頃は俺もお前もワーカーホリックだったな」
「碌に睡眠もとらずに働いている赤井捜査官は、今も重度のワーカーホリックです」
潜入捜査時代の3年間、直接面識がなくとも仕事で密に接していた赤井の事は熟知している。仕事に関してはもちろん、赤井の人柄や性格、タバコやコーヒーなどの嗜好品を好み、自炊はせずに食事は専らカロメで済ませる事が多い――なんて事まで。故に は、今赤井がどんな状態であるか大体見当がついていた。
「お前も人のことを言えないと思うが?」
そして赤井もまた 自身をよく知らずとも、彼女の狂気染みた仕事ぶりは知っていた。組織潜入時代、いつなん時赤井が電話しても出るし、メールは即レスだし、急遽頼んだ資料もすぐ準備してくれるしで、考えただけでもえげつない仕事量だっただろう。いつ が休んでいたのか、いまだに謎である。赤井がはじめに をロボットではないかと疑った所以はそこにあった。そんな仕事の鬼の が赤井秀一の死を偽装するのにどれだけ入念に準備したかなんて、幾度も彼女の仕事に助けられた赤井が想像するのは容易い。
「……先程から何が言いたいのですか?」
お互いのワーカーホリックと睡眠不足はわかったが、どうにも赤井の意図――これからどのように会話を展開し、転がしていくのかが読めない。
「やはり に隠し事は出来んな」
「いかに赤井捜査官の思考を読んで、貴方の手が回らなそうな所をサポートするのが私の役目でしたからね」
の胡乱げな声色に悪びれもせず、赤井がくつくつと喉の奥で笑うと、早口気味に淡々と彼女は言い返す。その言葉に多少の嫌味が含まれているのは明瞭であった。
「だが、そんなお前でも人間の複雑な感情まではわからん……そうだろ?」
当然だ。思考パターンまでは読めても、胸中など知る由もない。
「だからお前は、俺が を微塵も憎んじゃない事を見抜けなかった」
ぴくりと のハンドルを持つ手が震えた。
「俺もお前も、奴らの喉笛に喰らいつく為に只管仕事をしていただけだ。宮野明美の件に関しても、俺とお前はいわば共犯者――それなのにお前は全て抱え込んで……望んで独りになろうとしている」
あの時 の懺悔は、どう見積もっても赤井に憎悪を抱いてもらおうとしているようにしか、まるで赤井は悪くないと訴えるようにしか聞こえなかった。宮野明美に近づく作戦を提案したのがたとえ であっても、ジョディを犠牲にしてでも実行に移したのは他でもない赤井だ。 も赤井も自分達の正義を貫いて動いていたにもかかわらず、彼女は一心に罪を背負おうとしている。赤井も同罪である筈なのに。
弁解をしようにも、サイバー対策部隊に の席はなく、誰に問い合わせても彼女の居場所はわからず、一切連絡が取れなくなっていたのだ。 はXのように跡形もなく消え失せてしまった。まさに八方塞がり。それがまさかこんなタイミングで再会し、こうして話が出来るとは思わなかった。
「……私にはもう、失うものがないからですよ」
ぽつりと は呟いた。
見通しの悪い暗闇は続く。コンクリートと人工の光の海まではまだまだ距離があった。
「珍しく、運転と口を動かすだけしかない時間があります。少しお話に付き合って頂いても……?」
降伏を宣言するように緩む口元。細められた瞳は、海に沈んだ遠い憧憬――あるいは憂愁を見詰めているようだった。
――イギリス人の父親と、日本人の母親の間に生まれた私は、何不自由なく育てられた。ただただ幸福であった。だが、それも長くは続かなかった。ある日突然父に母は病死したと告げられ、そのまま訳もわからずに渡米したのだ。その後父は軍に入り、私も大学を卒業すると自然と父に続くように入隊していた。
数年が経ち、父が戦死した報告が私の元に届いた。激戦地に派遣されたから覚悟はしていたが、死だけが遺された時の呆気なさといったらなかった。しかしそれはじわじわと喪失感へと変わり、父の遺品整理が出来たのは半年も経ってからだった。
「その時に見つけたんです……黒い影を――」
父の遺品の中にUSBメモリを見つけた。なぜだかどうしても中身を確認しなければならない気がして、すぐにフォルダを開こうとした。だが、そのフォルダには超難解なセキュリティが施されていたのだ。その瞬間、これは母の遺品だとピンときた。まだ子供の頃、母は何をしていた人なのだと父に尋ねた事があった。その時に母はとてもパソコンに詳しい人だったと聞いていたのだ。大人になって、なんとなく父に母の事を聞いてはいけない気がして詳細は聞いていなかったが、今ならわかる。きっと母はとても優秀なハッカーだったのだと。そして私もまた母の血を受け継いだハッカーであった。
なんとか母のセキュリティを破ると、画面には――
「おめでとう! さすが私の娘! 天才! 愛してる!! と、もの凄い軽いノリで書かれていました」
「………………」
メッセージには続きがある――このセキュリティを突破出来るほど優秀な我が娘ならば、この先に進んでしまったが最後、戦う道を選ぶでしょう。そんな母のメッセージの他には、ある研究所の研究員の名簿一覧と父のメッセージが遺されていた。父のメッセージにはずっと黙っていてごめんという謝罪と、母の願いが書いてあった。母はある黒い組織と深く関係を持ってしまった為、父と私に危害が及ばないよう私達に関する全情報を偽装した。私には母は病死したことにして、ふたりで仲良く暮らしてほしい、と綴ってあったのだ。そこで私はずっと父と母に守られていたのだと知った。同時に、やはり私は母の娘だと思い知った。
遺された私がなすべきことは、その黒い組織と戦って潰すこと。そうと決まれば、沸々と熱がせり上がってくる。そこには家族を亡くし、やるせない絶望に打ちひしがれていた私はもういなかった。
「私はすぐに組織を追う為に除隊し、FBIに入局しました」
母が遺してくれた情報――数年前黒の組織と繋がりのあるラボが火事で焼失した事件の詳細から、生き残った研究員はいないか、どれだけ細くてもいい、組織と繋がりのある人物はいないか調べると、ある人物が浮かび上がってきた。
「それが宮野明美さんでした」
本来であれば私が宮野明美と友人関係を築き、組織に潜入する予定だった。だが、母親が黒い組織と深い関係があったのなら、潜入は危険だと上層部に判断されてしまい、私はサポート役に徹しろと命じられた。
そして私の代わりに組織に潜入したのは、赤井捜査官であった。
「俺に負い目を感じているから、あれ程手厚くサポートをしていたのか?」
「それもありますが……赤井捜査官が狙撃手だったという点も大きかったのです」
軍隊や警察では任務内容や狙撃の戦術など、多くの相違点がある。だが、どちらにせよ狙撃手が挙げた戦果という名の栄誉の下には、度し難い泥臭い忍耐力や恐怖、そして殺めてきた屍が敷き詰められているのだ。
父は軍内でも有数の腕利きスナイパーであった。私も軍事地理学や狙撃術、偽装術など、父の経験も交えて教わった。軍で女の存在を軽視する者もいたが、父はよく言っていた。女は空間認識能力こそ男に劣るものの、細かな作業や辛抱強さがあるから優秀な狙撃手なれる、と。だが、父はこうも言っていた。
「往々にして狙撃手の末路は悲惨なものだ」
その言葉通り、過激化する戦地に赴いた父は惨憺たる最期を迎えた。
派遣された戦地でも父は着実に戦果を挙げていたが、仲間を庇って捕虜となってしまった。敵陣に向かった狙撃手が生還する確率は決して高くはない。敵にとって狙撃手は、何人もの仲間を殺すキリングマシーンそのものだ。狙撃手の役割上、重要な機密事項を知っている事は少ないので、生かしておいても大した情報は引き出せないし、逃がしてしまったら確実に脅威になる。よって、敵がとる行動はただひとつ――殺害だ。
父の場合は、ただ殺された訳ではなかった。見せしめの意味も込めてより残酷に、苛虐に殺されたのだ。敵は父の四肢を落とし、ただの肉塊にした。まるで芋虫の様に。ご丁寧に父の目まで潰した状態で、敵はこちらの陣地に投げ込んだ。Johnny I Hardly Knew Yeを歌いながら父を惨殺した映像と共に。きっとその歌には怨恨や皮肉、復讐など、様々な悪意が込められていただろう。
「だから私は、絶対に赤井捜査官を死なせまいとあらゆる手を使いました」
自分が動けないのなら、観測手として死力を尽くすまでだ。救える命は何が何でも救ってやる。父の二の舞にならないようにと、赤井捜査官と父を重ねていたのかもしれない。こんなのただの私のエゴだ。けれども決意でもあった。
赤井捜査官が組織に命じられた狙撃任務も、回避出来るのであれば事前に取引などの回避策を練ったし、証人保護プログラムで何人も逃がした。血糊のトリックも使った。だが、それでも救えない命がいくつもあった。スコッチ――公安所属の彼は救いたかった人間の1人だ。人は忘れることで救われると言うけれど、絶対に忘れはしない。
もう私が失うものなんて何もないけれど、簡単に死んでやるつもりも毛頭ない。死んで無力になるのならば、私が死ぬ時は全てを守り切ってからだ。どうせ地獄の業火に焼かれるならば、全てを背負った後でも遅くはないだろう。
――淡々と自分の過去を語る の深海の様な瞳からは、涙など一滴も零れていない。今まで俺の周囲にいた女を思い起こせば、いつも泣いていた。弱弱しくて、守らなければ壊れてしまいそうな彼女達と、 はまったく異なる存在に思う。
失うものなどないと口にした の横顔は、生き抜いてやると断言したあの時 と同じ顔だった。決意と覚悟、そして勇猛果敢な精神力に満ち満ちている顔だ。
俺はいつも守る側の立場であった。けれども、俺は思った以上に に背中を預け、彼女に死に物狂いで守られながら戦っていたのである。絶対的な の存在に甘え、彼女の隣に酷く安心感を覚えていたのだと今更ながら思い知った。
が話し終えると、目的地である工藤邸に到着した。明日の昼には、赤井に変装をレクチャーする有希子も工藤邸に到着する手筈になっている。
心身共に負担を掛けてしまった赤井には、すぐにでも休んで欲しかったが、さすがに血糊だらけなので、簡単に部屋の説明をしてから風呂に入ってもらった。その間に は眠らないようNと会話をしながら、今後の動きについてコナンとメッセージのやり取りをする。
そうして気づかないうちに段々と意識を失っていった。
きっと は赤井を拾う前に風呂に入ってきたのだろう。車内で香っていた の香りが、風呂上がりの自分からも香っている。チェリーじゃあるまいし、いちいちドキドキしたりだとか、ましてやおっ勃てたりもしないが、 の存在を感じられるだけで、赤井の胸にじわじわと熱がにじり寄ってくる。それは好奇心という名の熱病なのか、それとも長年の謎が解けた時の快感による熱なのか、それとももっと別の何かなのかはよくわからなかった。だが、今日 の思いの内を聞けて、やっと本当の意味で距離が縮まったことに、どこか満たされた気持ちになったのは確かであった。
「 ……?」
風呂から上がった赤井が、リヴィングのチェアに座ってテーブルにPCを開き、キーボードに手を置いたまま下を向いている に声を掛けた。返事はないが、すぐに規則的に上下に動く肩の動きで が寝ているのがわかった。起こすのは忍びないが、このままでは熟睡も出来まい。「おい、起きろ」赤井が遠慮がちに を軽く叩いたり揺すったりすると、まだ眠りが浅かったのか「ん゛ー……」と彼女は目を閉じたまま曖昧な声を出し、テーブルに突っ伏すような体勢になった。このままここで本格的に寝るつもりだ。
「随分と無防備な奴だな……」
存外非の打ち所がない完璧な奴かと思っていたが、どうやら睡眠欲には勝てないようだ。
赤井は仕方なく の腕を取って体勢を崩し、肩に担いで先程教えてもらった彼女の寝室まで移動する。元軍人の は今も鍛えているのか、筋肉質で見た目よりもずっしりと重い。以前横抱きにした時も、緊急事態だったから意識はしていなかったが、ただのデスクワークばかりのハッカーにしてはしっかりと筋肉があったように思う。
どちらにせよ赤井がそんな思考では、男女が密着している状況にもかかわらず、全然ラブロマンスには発展しそうになかった。
の部屋に入ると、ベッドよりもまず大きなデスクが目に入った。そこには大小いくつかのモニターと、よくわからない機械が並んでいる。自分が組織に潜入していた時もこんな風に仕事をしていたのだろうかと思わずぼうっと眺めていると、 が「う゛ー……」と呻いて身動ぎしだした。FBI捜査官である赤井が言うのもなんだが「あまり人の部屋を詮索するべきではないな……」と呟き、 をベッドに降ろそうとするが、赤井用に準備された寝間着を彼女ががっちりと掴んでいて叶わなかった。それどころか を降ろそうと前のめりになった赤井は、踏ん張る間もなく、そのままベッドに倒れ込んでしまった。それでも は手を離さず、赤井を抱き枕のようにして眠りこけている。赤井もベッドに沈んだことで一気に疲労と眠気に襲われ、ああもうめんどくせえと目を閉じたのだった。
何者かが静かに の部屋のドアを開いた。そろりそろりと近づき、一気にふわふわの掛布団を剥ぎ取る。するとベッドのスプリングを利用して宙を飛んだ は、何者かの頭上を通り過ぎて背後に回り込み、枕の下に忍ばせておいたナイフを手にして首筋にあてる。
「何者だ、」低く鋭く唸るが、「って、有希子さん?!」すぐに見知った人物だとわかった は、驚きのままナイフを下ろした。
「折角早めの便に乗ってサプライズ仕掛けたのに、こっちがサプライズされちゃったぁ~!!」
有希子は悔しそうに喚くが、いくらナイフを突きつける人間が しかいないとわかっていても、すぐにこんな切り返しが出来るのなんて彼女くらいである。
「いや、十分サプライズですよ……」万が一にも間違いが起きていたらどうするつもりだったのだ。
「本当にな……」
自分と有希子しかいないと思っていた空間に、聞き覚えがあり過ぎる声が の耳に届いた。「あ、かい捜査官……?」そう、赤井の声だ。 の表情が凍り付く。
の言葉に賛同の声を上げた赤井だが、赤井にとってのサプライズは、文字通りベッドから跳ね起きた がナイフ片手に美女を襲うというシチュエーションだ。ただでさえ寝起きは頭が回らないのに、とんだサプライズだ。
「きゃーっ!! なによもう! ふたりってばそんな関係だったのねー!!」
有希子は の部屋の のベッドから起き上がってきた赤井を見つけ、(色んな意味で面白そうな案件に)テンションがぶち上がった。
いやどんな関係だと突っ込みたかったが、こんな状況を目撃されてしまったら致し方ない。
「あの……昨日リヴィングで作業していたのまでは覚えているのですが、そこから先が全然思い出せなくて……私何か粗相を……」
「ああ……お前が全然離してくれなくてな……」
「?!!??!!」
「なになに秀ちゃんそれって朝から話して大丈夫な内容?!」
なかなか不穏な赤井の発言に、 は言葉が出なかった。
清純ぶるつもりはない。身体の感覚でわかる。事後でないのは確かだ。しかし本当に何か仕出かしてしまった可能性も否めないので、赤井の言葉がもっと別の意味を持っていることを願うしかなかった。
「アハハ! 、お困りのようだね」
のデスクに設置されていた大小いくつかのモニターが次々に明るくなり、感情の乗った抑揚ある機械音声が流れた。モニターは白一色に染められ、画面の中心にはComic Sansの書体ででかでかとNと書かれている。
「N! アンタ出てきていいの!?」
「元から赤井秀一にはボクの存在を知ってもらおうと思ってたから問題ないよ。何しろ気配に敏感な筈の誰かさんが、隣で爆睡する程信頼しているみたいだしね」
「あらあら、秀ちゃんはトクベツってワケね!」
「有希子さんも揶揄わないで下さい!」
これは夢だろうか――寝ぼけ眼の赤井の前に、信じられない光景が広がっていた。まるで人間の様に喋るNと呼ばれるPCや、はしゃぐ有希子なんて赤井の目には入っていなかった。
どこか機械的で、人と一線を画しているような がこれほどまでに感情を露わにするなんて、ほとほと見たことがない。Nと有希子に食って掛かる からは、Xの面影も、そして昨日までの硬い殻に覆われた彼女の姿もなかった。
「よかったじゃないか。いつも抱き枕にしてたテディベアの代わりが見つかって」
「うふふ、枕の下に物騒な物を隠している ちゃんにも可愛げがあって安心したわ~」
「No fuking way!」
Nと有希子は和やかに会話を交わしているが、顔から火が出そうな にとっては死刑宣告と同義だ。イギリス人の3割がテディベアと一緒に寝ている話なんざ心底どうでもいい。
「もう意地張るのやめたら? ってば本当は抜けてるし、感情的になりやすいし、スラングバリバリで口も悪いからさ、そんな姿を赤井秀一に見られたくなくて、今までボロを出さないように機械的に接してきたんだよ。つまり、完璧な赤井秀一の前だけは、自分も完璧でいようとカッコつけてたのさ」
「Cut it out!!! Are you nuts!?」
「なによぅ ちゃん、女はちょっとドジな方が可愛いのよ?」
「いやいや今までの長文シリアス展開考えると恥ずかしいから! ただの痛い女だからーッ!!」
有希子の肩を掴んで悲痛に叫ぶ に、「フ……ハハハハハ!」赤井はとうとう耐え切れなくなった。こんなに大口を開けて笑う赤井の姿を見るのは初めてだ。
口を半開きで呆ける の横で、有希子はのんきに「秀ちゃんたらクールな顔してるのに、笑うと可愛くなるわぁ」と笑っていた。有希子の場合、結局イケメンなら何でもいいのだろうが。
あれほど隙がないと思っていた は、赤井に見栄を張りたいが為の虚構だとNは言った。
昨日感じた自分の中に籠ったままの熱の名はいまだにわからない。けれども確実に言えるのは、ますます深まるばかりの を覆い隠す靄を解き明かしたい欲が熱を膨張させていた。こんなの笑いたくもなるだろう。
朝っぱらから騒がしくはなったが、何だかんだで簡単に遅めの自己紹介をして、やっと朝食を食べる流れとなった。
「きっと有希子さんは日本食が恋しいでしょうから、仕込んでおきましたよ」
「もうもうっ ちゃん大好き!」
簡単な物しかないけれど、と実に謙虚な言い方で、 はご飯や味噌汁、塩鮭、きんぴらやお漬物をテーブルの上に並べる。モーニングなんてとんと食べないし、コーヒーやタバコで済ませる事が多い赤井には、どれも魅力的でおいしそうに見えた。
気の利いた のサプライズに喜ぶ有希子と、その有希子の喜ぶ姿に笑顔を浮かべる に、つられて赤井も誰にも気づかれない程小さく微笑んでいた。
昨日世間的には赤井が死んでしまったなんて信じられないくらい、あたたかくて優しい朝であった。
「はあ……もちろんアッチの生活も悪くないけど、やっぱり味噌汁っていいわよねえ……」
「あはは! 日本人の心ってやつですか?」
味噌汁を啜って溜息を吐く有希子に思わず は笑ってしまった。
ふと、 の向かいに座り、有希子に倣って味噌汁を口に含んだ赤井の反応が気になり、「赤井捜査官、お口に合いますか?」声を掛けてしまった。「ああ……うまい」大袈裟でもなんでもなく、久しぶりに食事の味を感じた気がした。ホッとしているのかもしれない。やっと自分はきちんと心臓を動かし、血液を巡らせ、呼吸をして、口から食物を摂取して、胃腸を動かして――生命活動をしているのだと。
あの赤井秀一が自分の作った味噌汁をうまいと言って飲んでいるなんて、世の中不思議だ。あの任務 以降、またこうして時間を共にするなんて思ってもいなかった。むしろ今後一切会うことはないだろうと思っていたのに。
ふわりと目を細め、いつもよりも数段やわらかい表情になって箸を進める赤井に有希子はときめきながらも、「ところで ちゃん、その赤井捜査官ってやめてくれるかしら」ずっと気になっていたことを突っ込んだ。
「えっ?! や、でも私以前から赤井捜査官と呼んでいますし……!」
「何言ってるのよ! 貴方達は今日から大学院生の恋人同士仲良くするんだから、もうちょっとフランクにいってもらわないと!」
「はいぃ?!! ちょっ、有希子さん! 設定は大学院の研究室仲間じゃ……!」
「それだけじゃあ、おもし……理由もなく頻繁に会ってたら怪しまれるじゃない!!」
「(今確実に面白くないって言おうとしたな……)そもそも赤井捜査官が納得する筈が……っ!!」
「俺は構わんが」
「ほら、有希子さ……赤井捜査官?!」
「きゃー!! さすが秀ちゃん話がわかるわあ! 目指せ月9ラブロマンスよ~!」
そもそも秀ちゃんってなんだよ――元月9女王の言葉に はがっくりと項垂れた。こうなった有希子は誰にも止められないのは身に沁みて理解しているつもりだ。
諦めて黙々ときんぴらを咀嚼する に会心した有希子は、早々に次の話題に意識を飛ばす。今日も有希子は絶好調だ。
「ねえねえ、秀ちゃんは嫌いな食べ物とかないの?」
「……特にありませんね」
赤井は少しだけ考えた末思いつかなかったのか、単調な回答を述べるだけだった。
「へえ~、秀ちゃんもイギリスの血が入ってるって聞いたけど、 ちゃんみたいに生野菜でお腹は壊さないのね」
「有希子さん! もう私の話はよして下さいよ!」
これ以上恥ずかしい話を暴露されるなんてたまったものではない。
「壊しやすいのか?」
「私の場合は食べ過ぎると、です。イギリス人の父が生野菜苦手だったんですよ」
あの赤井に問われては、素直に答えるしかない。
の父親のアメリカ在住歴はそこそこ長くはなっていたが、それでも体質や食文化はなかなか変わらなかった。生野菜でお腹を壊す彼が野菜を調理する時、ブロッコリーや芽キャベツ、ニンジンなどはフォークで触ったら崩れてしまいそうなほど、くたくたに茹でられている事が多かったのだ。そしてやたらと豆とポテトが食卓に上っていた。
その話を聞いた赤井も、確かにイギリスに住んでいた頃はBeans on toastを食べていた記憶があった。
「それで ちゃんは煮込み料理が好きになったのねえ」
「父がよく作ってくれましたからね。私も有希子さんに教えてもらった肉じゃががお気に入りでよく作りますよ」
楽しそうに自分の事や家族の事を話す は、そこら辺のカフェで談笑するただの女に見える。本当に彼女は潜入捜査時代に赤井を完璧にサポートし、コナンと一緒に赤井を殺す計画を立てた奴と同一人物であろうか。
「秀ちゃんもこれを機会にお料理を覚えたら? 時間もたっぷりあることだし!」
「それって、ただ単に赤井さんと一緒に料理したいだけじゃあ……」
「私はイイ男と一緒に料理が出来て、秀ちゃんは料理を覚えられる……これぞまさに一石二鳥よ!」
赤井はあれこれ考えるのを止めた。今は が笑っているだけで、何もかもどうでもよくなっていたのだ。
食後のコーヒーを淹れ、 はテーブルに資料を広げた。コナンと が計画した作戦は、次のフェーズへと移る。
「まずはプロフィールから……赤井さんにはこれから沖矢昴として生活をしてもらいます。彼は私と同じ東都大学大学院工学部博士課程に籍を置く27歳。眼鏡を掛けた、知的で丁寧な口調の好青年。物腰は柔らかで、いつも笑みを絶やさないイケメン……に有希子さんがしてくれるそうです」
「 ちゃんの彼氏だもの~! 元の秀ちゃんの素材を活かした最高のイケメンにしてみせるわ!」
「ソウデスネ」
「んもー! こんなイケメン捕まえて何が不満なのよう! 優作がいなかったら私が狙っちゃうのに!!」
「優作さんに言いつけますよ」
が溜息を吐きながら赤井に資料を配っていると、有希子はハッと何か思い出した顔をして に詰め寄った。
「それともロシア人の元カレが忘れられないから渋ってるの?!」
「は?! なんで有希子さんがそんなこと……N! また有希子さんに個人情報リークしたな?!」
まさか有希子の口からその話題が出てくるなんて思わず、Nが滞在している自分のスマホに向かって噛みつく。
「 が悪いんじゃないか。ボクがあれだけ仕事しながらバケツアイス食べるの止めなって言ってるのに止めないし、コーヒーばっか飲んで碌に寝ようともしないし、昨日だっていつも机で寝るなって言ってるのに寝落ちした挙句、ベッドまで運んでくれた赤井秀一を抱き枕と勘違いしてがっちりホールドして朝までぐっすりだもんね。あーあ、いいご身分だ「ごめんわかった私が悪かったからこれ以上は勘弁して下さい」
「ふふ、Nちゃんはすっかり ちゃんのよきパートナーね」
「赤井秀一が恋人なら、パートナーの座は譲れないよ」
「 ちゃんモテモテで羨ましいわあ!」
まるで少女漫画みたいと有希子は目を輝かせていたが、どの世界にFBIと人工知能の三角関係の少女漫画があるというのだ。時代を先取りし過ぎだろう。
そんなこんなで今後の計画と沖矢昴について話を詰めたところで、次はさんざめいていた有希子の番だ。
赤井の変装道具を詰め込んだ大きなバッグから、多種多様なメイク道具を取り出す有希子の様子を、この手の分野には疎い と赤井は興味深そうに見詰める。
「さて……秀ちゃんの前に手を慣らしておきたいから、 ちゃん協力してね!」
「ぅえ゛?」
準備が出来た有希子が大女優の笑みを浮かべて の頬を掌で包んだ。 はひくりと片方の口角を上げる。とにかく圧が半端ない。
「有希子さん、相変わらず私の顔面好きですね……」
「だぁって ちゃんメイク映えするし、可愛いのも綺麗なのも似合うんだもん! 有希子楽しくって!!」
「有希子さんこそ、可愛いくて綺麗じゃないですか」
「やだもう! ちゃんいつも本当のこと言ってくれるから大好き!」
嬉しそうに抱き着いてくる有希子に が弄ば――お願いをされるのはなにも初めてではなかった。息子と離れて暮らす有希子にとって、アメリカで知り合った は一緒にお化粧やショッピングを楽しめる娘みたいな存在。そんな を自分好みにカスタマイズし、連れまわすのがもはや有希子の定番となっていた。母親を亡くしている にしても、有希子の喜ぶ姿が見れるのならばやぶさかではなかった。
「うふふ、もちろんお洋服も着てくれるわよね?」
「……Yes, Your Majesty.」
は無抵抗主義よろしく、やれやれと白旗を掲げる。道理で有希子の荷物がいつもより多いワケだ。
沖矢昴に合わせたメイクを施し、アメリカから持ってきた服を に着せた有希子は、コーヒーを飲みながら有希子と を観察していた赤井に向かって、「どうかしら、秀ちゃん」とニヤニヤしながら感想を求めた。ふむ、と赤井は手に持っていたコーヒーをテーブルに置いて、着飾られた に近づく。元から口数は多くないし、ここまで赤井は終始無言だった。返答に困っているのだと思った は「赤井さん、無理に何か言わなくていいですよ」と申し訳なさそうに笑う。
「いや、お前の青い瞳がより綺麗に見えると思ってな。有希子さんの技術は素晴らしい」
表情も変えずに、じっと の蒼茫たる瞳を覗き込んだ。その距離があまりにも近すぎて、赤井の瞳の森に迷い込みそうになる。
多くは語らないし、女を褒めそやすこともしない。そんな赤井の口から気の利いたお世辞なんて出てくるワケもない。だからこそこの赤井の感想は、正直な気持ちに間違いないだろう。
日本ならまだしも、欧米諸国で碧眼は別に珍しくもない。にもかかわらず、赤井は の凌霄之志が宿る瞳を気に入っていた。それは の言葉や声色なんかよりも如実に感情の揺れを表してくれるからなのか、はたまた単純に彼女の通った鼻梁の両側に双眸が嵌ったことによって完成された造形美が好みなのかはわからない。ただ赤井には の碧眼が特別綺麗な宝石に見えていた。光や角度によって深くなったり、透明に澄んだりする海の様な の瞳には、何か独特の魅力があった。自然と引き寄せられてしまうのだ。時には呑み込まれそうになるくらい、恐ろしい程美しくも神秘的な輝きを放つ瞳に。
「そうよねそうよね! さっすが秀ちゃんわかってるわぁ! ちゃんのチャームポイントはやっぱりこの瞳よねっ!!」
「よかったね、元カレも の瞳を褒めてたもんね」
「だからなんでさっきからそんな突っかかってくんの?! 言っていい事と悪い事ぐらい区別つくでしょうが!!」
「さあ? ボク子供だからわかんなーい」
もちろん嘘だ。Nは1年で5歳成長する人工知能で、現在は10歳以上にまで成長しているが、中身が無邪気な子供とは限らない。ヒロキが逃がしてくれた電話回線を通じて、それこそ世界中のあらゆる情報を見続けたNの精神年齢はその辺の大人と一緒だ。だから自分と は結ばれないと思っているし、なによりパートナーとして彼女の隣にいると決めたのは自分である。けれども大人だろうが子供だろうが、機械を完全に制御しきれないのと同じで、理性がうまく働かない事だってある。
と現実世界で共に過ごせる赤井秀一に嫉妬して、故意に彼女に意地悪をしながら牽制している自覚はあった。 の情けない部分やだらしない部分を晒し、元カレの存在を匂わせ、それを知っているのも口に出して許されるのも自分だけだと誇示したかったのだ。優秀な人工知能も、恋愛が齎す感情の計算なんてできやしない。振り回されたり、ムキになったりするただの陳腐な男だ。
次はいよいよ本番だ。
は冷めたコーヒーを口に含みながら、特徴的な隈のある目を閉じて、有希子にされるがままの赤井を眺める。FBIの凄腕スナイパーが、みるみるただの大学院生になっていく様は感心せざるを得ない。なんといっても、有希子のイケメンに対する執念が凄まじい。気合の入り方が違う。
「ふうっ、あとは変声機つければ完成よ!」
メイクも服装も完全に自分の趣味に染められて満足げな有希子が声を上げると、 は昨日博士から貰ったチョーカー型変声機の操作方法とつけ方を説明して赤井に渡した。しかし、元からアクセサリー類をまったくつけない上に、先に着てしまったハイネックの所為でうまくつけられないらしく、 がつけることとなった。
「失礼します」
「ああ」
そう言って赤井は首元を覆う布を少し下げ、 がつけやすくしてやる。
も赤井も、有希子自身が自分好みの美形に仕上げた。色っぽくて華もある彼らは、ただアクセサリーを付けるという仕草だけで絵になる。
「ふたりは、チョーカーを贈る意味って知ってるかしら?」
「「?」」
チョーカー自体には窒息させる、首を絞めるという意味があるが、贈る意味となると、意外とソッチの知識に乏しいふたりは揃って首を傾げた。
「相手を束縛したい、独占したいってメッセージが込められてるんですって!」
「ああ……それならとっくに に(俺の情報やら何やら)独占されているな」
「赤井さんって、よく言葉が足らないって言われません?!」
「秀ちゃんそれどういう事か有希子に詳しく教えてくれないかしら?!!」
こうして赤井秀一は と有希子の手によって沖矢昴となったのだった。
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