※引き続き捏造ばかり
※ヒロインの元カレ話あり
「どうですか? 車の具合は」
「ええ、癖があってとても心地が良いですよ」
本来であればは工藤邸でまだまだ残っている後処理をしながら、沖矢に扮した赤井と有希子が買い物から帰ってくるのを待っている予定であった。だが、現在有希子の計画的犯行によっては沖矢が運転する車の助手席に座っている。
なぜ有希子が先にを仕上げたのか、なぜが沖矢の姿に合わせたファッションとメイクで着飾られたのか、今ならわかる。沖矢を先に仕上げてしまったら、はさっさと部屋に引き籠って仕事をしてしまうだろうから、逃げ道をなくしたのだ。
せっかくお洒落したし、恋人どうしなんだから、新しく沖矢用に用意した車の試運転を兼ねたドライブとショッピングを楽しんでと有希子に凄まれてしまったら、もうに拒否権は皆無であった。
「本当はもっと乗りやすくて、スピードの出る車にしようと思ったんですが……」
「加えて、銃撃戦にも耐えられるような車ですか?」
「それを有希子さんに言ったら、マローダーの個人輸入はしないでねと釘を刺されました。私を何だと思っているんでしょうね」
「ハハハ、爆弾が設置されたビルにでも突っ込む予定があるように見えたんじゃないでしょうか」
「必要とあれば、マローダーじゃなくても突っ込みますけどね」
もちろん死ぬつもりはさらさらないので、綿密に計算に計算を重ねた計画を練ってからだが。
の顔は本気であった。空恐ろしい女だ。見た目はこんなにも可愛げがあるのに、思考は激しく物騒である。
「それにしても、スバル360ってシャレですか?」
“スバル”360のハンドルを握る“昴”は口角を上げていた。
「いえ、ただの有希子さんの趣味ですよ。まあ私は貴方の改名を考えましたけど……」
沖矢とが軽く笑い合うと、車内で淡々とニュースを読み上げていたアナウンサーが「来葉峠で炎上していたのは――」と口にした。事件の詳細や続報はネットニュースやテレビでも絶えず追っていたが、思わず沖矢もも黙ってラジオに耳を傾ける。
昨晩の事件は間違いなく何かしらのメディアでFBIに伝わり、優秀な捜査官であるジョディは、確信を得る為に携帯に残された指紋の照合をしに警察へ行く。ジョディをそう行動するよう仕向けたのは、紛れもなく今回この偽装作戦を考えたとコナンである。
ジョディの心情を考えると、の気分も沈む。きっとジョディは赤井の死に胸が潰れそうな深い悲しみに暮れ、涙しているだろう。職場の同僚以前に、ジョディにとって赤井は大切な存在であった筈だから。けれどもジョディは強い女性。その胸の痛みを隠し、今日も気丈に振舞ってくれているだろう。はそう思うことで無理矢理納得するしかなかった。
「……本当によかったんですか? あの携帯を燃やしてしまって」
「貴方ほどの方でも、もうどうする事も出来ない過去について蒸し返すことがあるんですね」
「あの携帯の中身はどうとでもなったのに、どうともしなかったので訊いたんですよ」
「死んで生まれ変わった男に過去は必要ありませんよ」
それは本心であった。
赤井も同様に知っているのだ。死と向き合う方法も、死者を背負う方法も、傷を見て見ぬふりする方法も、死者が齎すものが悲哀だけではないということを。
は赤井の死を偽装する準備段階で、赤井の携帯データを移行しようとした。しかし赤井自身が断ったのだ。は赤井の携帯に宮野明美からメールが届いているのを知っていた。だから赤井よりも先にから話を持ち掛けたのだが、彼は頭を振って真っ新な携帯を二台準備して欲しいとだけ申し出た。それが赤井の答えだ。たとえどんな犠牲を払おうと、全てを抱えることになろうとも、生きて、生き抜いて奴らの心臓をぶち抜く。覚悟はとうに出来ている。
「……すみません、野暮なことを訊きました。忘れて下さい」
先の先を見据えている沖矢の横顔が雄弁に彼の意志を伝えていた。そうだった。赤井が赤井であるから、は尊敬の念をもって彼に接し、彼と仕事をしているのだ。
「Amazing Grace……」
ニュースが終わった後に流れたのは美しい讃美歌だった。シートに凭れて窓の外を眺めていたは、何も考えずにただ思い出した言葉を独り言のように呟く。いつだったか、コナンも言っていた――
「赦しの歌……」
「……さんは赦されたいのですか?」
意外にも沖矢はの呟きを拾い、あの日と同じ質問を投げ掛けた。当然の答えは決まっている。
「ハハ……神に祈ることすらやめた私に赦しはいりませんよ。いつだって私の神様は休暇を取ってベガスに行ったまんまなんです」
自嘲気味に笑う。敬虔な信者でもないし、goddamとかChristといった神の名をみだりに出すような話し方も好きではなかった。が信じているのは自分の力だけだ。神ではない。
次に流れたのはイギリスの伝統的バラッドであるScarborough Fairだった。
「この曲……昔酒場でバイトをしていた時に、お客さんにリクエストされたことがありますね」
「昴さんが酒場でバイト……?」
「ええ、アコーディオンで曲の伴奏をしていたんですよ。バイトにしてはいいお金になりました」
「それは初耳ですね」
「おや、貴方でも知らない事があるんですね」
「どんな人間であろうと独占なんてできやしませんよ」
だから軽々しく独占なんて言葉を使用しないでもらいたい。
は今朝赤井が有希子に零した発言を滲ませて恨めしげに沖矢を見詰めたが、彼は大して気にする様子もなく笑みを浮かべるだけだった。
「Parsley, sage, rosemary and thyme,……」
この歌をに教えてくれたのは父親だった。反戦歌としてアレンジされたものが有名だが、の父は妖精の騎士が旅人に語り掛けて魂をとろうとする歌だと教えてくれたのだ。
「妖精の問い掛けに返事をしたら、むこうの世界に連れてかれる……か」
妖精の騎士は無理難題の伝言を旅人に押し付けるが、話にのってしまうと命を奪われてしまうから、旅人は関係のない香草の名前を述べた。
「ああ、だから返事をした僕はここにいるんですね」
「私は妖精というよりも、Cu Sith……魔犬がお似合いですよ」
「でも魔犬は人の手によって魔犬にされた。最期は銃弾で死んでしまいます」
「The hound of the Baskervilles……沖矢さんはHolmesianだったんですか?」
「正確にいえば、僕はDr.ワトソンです」
「……コナン君と話が合うわけだ……」
差し詰めあのボウヤはホームズの弟子、といったところか。
赤井は昔海辺で出会った少年と、今回の計画をと企てたコナンを重ねていた。
「さんは同じ推理小説でも、マザーグースを用いたものの方がお好みでしたか?」
「Who Killed Cock Robin? 魔犬の私が鉛弾で死ぬなら、コマドリの貴方は何で死ぬおつもりですか? 弓矢? 毒殺? それとも――」
誰が赤井秀一を殺したの? それは私、とが言いました。 私の知恵で、私の牙で、私が殺した。
大きな商業施設に到着すると、沖矢はに車内で待つように言って、先に車から出てしまった。一体どうしたのだとが首を傾げていると、助手席側のドアが開いた。沖矢が開けたのだ。
「お手をどうぞ」
「……ありがとうございます」
沖矢が有無を言わさぬくらい爽やかに微笑んで手を差し伸べるものだから、男性に恥をかかせるわけにもいかないは観念して素直に手を取った。が頭をぶつけないよう、天井に手を添えるのも忘れない紳士ぶりだ。
今からこんな調子では、メッセージ付きの花束を贈る日も近いのでは、と内心苦笑を漏らす。甘やかな気遣いは英国紳士の嗜み。手に取ったの手を自分の腕に組ませるさりげなさに脱帽だ。
この商業施設は、広大な敷地にいくつもの店舗が立ち並んでいる。まず沖矢とが並んで目指すは、有希子におすすめされたメンズ服のブランド店だ。
有希子が事前に沖矢の為に何着か用意してくれたが、本人の好みもあるし、何より(とても大学院生には見えない)沖矢の体型に合った服が必要だ。本人は着れればなんでもいいと言っていたが、安っぽい服だけは着せたくないと有希子が断固拒否した。確かに有希子が準備した服も、シンプルで良質な素材を使用した服ばかりだった。
「昴さんはお好きに見てて下さい」店内に入って沖矢の腕から離れたは「あ、すみません。彼に合いそうなシンプルな服を何着か持ってきて頂けませんか?」その店の雰囲気に見事にマッチした上品な女性店員に声を掛けた。
は自分の専門外の事に関しては、プロに任せるタイプである。それが一番効率が良いという考え方だ。
服飾関係には疎く、有希子や知り合いから服を貰えるおかげで、最近では滅多に自分で服を買うことがないも、どちらかというと着れれば何でもいいと思う方である。というより、も赤井も元からスタイルが良い上に、鍛え上げられた肉体が既にひとつの美として完成されているので、割となんでも似合ってしまうのであった。
沖矢の試着が終わるのを、店の雰囲気に違わぬ上質なスツールに座って待っていると、「とっても素敵な彼氏さんですね」はじめにが声を掛けた女性店員が麗しい笑みを湛えながら話し掛けてきた。は女性店員の言葉に当たり障りのない返事をしようとしたが、その前に再び女性店員が口を開く。
「お客様とよくお似合いでいらっしゃいます」
とんだ道化だ。「ありがとう、」本当に彼にお似合いなのは自分ではない。「、ございます」本来彼の隣には別の女性が居る筈だったのに、それを自分が何もかも奪ったのだ。しかもは決して赤井に対しても、誰に対しても、謝罪もしなければ赦しもいらないと断言している。よくもこんな女を設定上でも彼女にしたものだ。
いくら有希子の提案に押し切られただけだとしても、受け入れた自分も自分だ。もしかしなくても舞い上がっているのか。いや、赤井秀一に対して余計な感情は不要だ。あの組織を壊滅に追い込む為に、もう後戻りが出来ない程の犠牲を払った彼だからこそは赤井を殺してでも守ろうと決めた。それ以上の感情も、それ以下の感情も持ち合わせる必要はない。
「本日はありがとうございました」
付きっきりでと沖矢に接客してくれた女性店員が丁寧に服を包む。会計をしている間、はお手洗いに行っていた。
「是非このお洋服を着て、素敵な彼女さんと素敵な時間をお過ごしくださいませ」女性店員がエレガントに微笑む。「ええ……ありがとうございます」沖矢もカシミアの様な上質なグリーンを更に細めて微笑んだ。
店から出たところで服を詰めた紙袋を沖矢が受け取っていると、丁度がお手洗いから戻ってきた。沖矢がスッと腕を差し出すと、はそこに自然に手を置き、ふたりで女性店員に会釈して去っていく。「ふふふ……やっぱり羨ましいくらいお似合い……」ふたりは瞳の色こそ異なるが、抱えている想いは同じに思えた。
平日にもかかわらず、それなりに混雑している道を歩いていると、パァンと乾いた音が空に響いた。と沖矢が音の出所に当たりをつけて素早く振り返ると、無料で風船を配っている場所で子供が誤って風船を割ってしまったらしい。銃声ではなかったことにほっと胸を撫で下ろしたは、途中まで捲り上げたスカートをばさりと戻した。
「さん」
そんなの様子をしっかり見ていた沖矢が清々しいまでの笑顔で名を呼ぶ。
「いやっ、流石の私も今日はスカートにアップルまで仕込んでないですよ!?」
沖矢の声色で何が言いたいか察したが早々に白状する。どこの世界にデート中にアップル――M67破片手榴弾を装備している女が居るのだ。
「美脚自慢をしたいのであれば、その可愛らしい服の下に何が眠っているか拝見させて頂いても?」
「は、ははは……私が服を着ている以上、布の下には何か仕込まれているとだけ……」
つまり、答えはNOだ。
「あーっ! 昴さん、あそこで特別展示会しているみたいですよ! 見に行きましょう!」
これ以上墓穴を掘る前に沖矢の手を引っ張って、イベントスペースまで連れていく。期間限定のフリーギャラリーらしいが、小さいスペースながらも内装は思ったよりも凝っていた。
テーマは――世界の、あお。そのテーマ通り、壁や天井それから床に至るまで一面真っ青な空間で、あおを基調とした抽象画や風景画、海や空の写真、青磁などが展示されている。思わず入った場所ではあったが、思ったよりも興味が湧いてゆっくりと歩みを進めていくと、ある写真がの目に留まった。
「カリブ海……」
一概にあおといっても色んな表情がある。のあおい瞳も周囲の環境や、彼女の感情によって様々な表情を見せてくれる。こうして今も、美しいカリブ海がの瞳に反射して複雑なあおの世界を構築していた。
「まるでさんの瞳のようですね」
並んで歩みを進めていた沖矢もと同じようにカリブ海の写真に視線を合わせ、そう言った。目を丸くして沖矢を見上げる。彼のエメラルドグリーンだって、まるでカリブ海の一部だ。
は再びカリブ海を見遣る。
「以前、昴さんと同じことを言う人とカリブ海で出会いました。その人はヘミングウェイが好きで、そのヘミングウェイはよく女を海に例えるんです。逆に私はヘミングウェイがあまり好きではありません。だから私はなんて安っぽい口説き文句なんだろうって笑い飛ばしました。それがまさか昴さんまで同じことを言うなんて……」
――海とは“ラ・マール”スペイン語で海を愛して言えばそうなる。海を愛しながら海の悪口をいうこともあるが、それでも海を女に見立てて言っている。海とは女の様なものだと思っていた。大きな好意を寄せてくれるのかくれないのかどっちかだ。もし海が荒っぽいことや捻くれたことをするとしたら、女だからとしか思えない。(ヘミングウェイ「老人と海」より)
「ホォー……その方がの元カレですか」
「っ……私ってそんなにわかりやすいですか?」
「いえ、ロシア人の元カレがの瞳を褒めていたと聞いていたので、カマをかけてみただけです」
博愛の象徴とされる青の瞳が、特定の誰かを思い出している様子を見てしまえば、赤井は冷静ではいられなかった。
自分に全力でサポートするように、もいつかの彼に尽くしたのだろうか、それとも弱みを見せて甘えていたのだろうか――くだらない。いくら考えたところで真相には行きつかないのだ。
恋愛事情なんて世間話としてはポピュラーだ。だがが元カレの話を口にするだけで、赤井は顔に出してはいないが、胸糞悪くなっていた。これが男の醜い嫉妬や独占欲だというのならば、そうなのだろう。こんな気分の害し方をした覚えがないから、はっきりとはわからなかった。
自分の恋愛すら不器用で淡泊な方だ。他人の恋愛をやたらと詮索する趣味も、口を出す程の興味もないのに、なぜかの元カレの存在が喉の奥に引っ掛かった魚の骨みたいにずっと残っていた。
必要な物を買い込んで、そろそろ帰ろうかという時に、英国展が開催されている一角を見つけた。紅茶や伝統菓子、食器や生地、ガーデニング用品まで売られている。は瞳を輝かせて、有希子にお土産を買っていこうと沖矢の腕を引いた。
人間誰しも故郷には何かしら特別な感情を抱いている。も既にアメリカ在住歴の方が長くなってしまったが、生まれはイギリスで、父親もイギリス人だったからか、イギリスはやはりにとって故郷であった。
「コーヒーも好きですが、父の淹れたミルクティーが私は大好きでした。あの味が出せなくて紅茶はあまり飲まなくなってしまいましたが……」
は慈しむように目を細めて紅茶缶を手に取る。
「父は昔からガーデニングが好きで、よく花も買ってきてくれました。もちろんチョコレートも添えて」
イギリスでは仕事終わりの金曜日に、花と花に添えるカードやチョコレートを買う習慣がある。家族や恋人などに向けて、楽しい週末を華やかに彩るのだ。
プランターやジョウロ等のガーデニング用品を優しく見つめ、自然と饒舌になっていくの話を沖矢が黙って聞いていると、彼女はハッと我に返った。
「すみません、つまらないお話をしてしまいました。つい、家族の話が出来るのが嬉しくて……」
母親が黒の組織にかかわっており、父親も戦死しているにとって家族の話は安易に出来るものではなかった。しかし赤井は組織の事もわかっているし、父親の話もしていたから、堰を切ったように話しだしてしまったのだ。
「フ……構いませんよ。思えば、こうしてゆっくりとお話したこともなかったですしね」
はじめはXとしてだが、一応何年も前から付き合いがあるのに、は思考まで読めるくらい赤井を知り尽くしているにもかかわらず、赤井自身は彼女をあまり知らない。
まさかあのとこんな風にふたりで出掛けてゆっくり話せる日が来るとは思わなかった。以前までのであれば、仕事に関すること以外は赤井が質問しても出身地すら口を閉ざしていた。だが今は赤井が聞き出さなくても、自ら進んで話してくれる。それだけでよかった。
観覧車に乗ろうと言い出したのは、沖矢の方だった。ここでもやはりの手を取り、実に紳士的な振る舞いで鉄の鳥籠へと誘う。向かい合って腰かけると、身長が高くて足の長い沖矢との膝がぶつかりそうになり、この空間の狭さを実感した。
「そうだ、今のうちにさんにお渡ししますね」
荷物を一纏めにした大きな紙袋の中から、沖矢が持つには少々可愛らしすぎるラッピングをされた袋を取り出し、に渡した。思わず受け取ってしまったは礼を言って、「開けても……?」と沖矢に伺うと、彼はもちろんと頷いた。ラッピングのリボンを解いて袋から中身を取り出せば、真っ赤なリボンを首に巻いたふわふわと手触りの良いテディベアが顔を出す。「な、んで……」は困惑した顔で、テディベアと沖矢を交互に見ていた。
「さんが余りにも熱い視線を送っていたものですから……」
――欲しいのかと思って。沖矢は朗らかに笑う。赤井秀一の時には動かしたことがないであろう表情筋を使っている筈なのに、きちんと様になっているのがなんとなく悔しかった。どこまで完璧なのだ。
本当のところ、英国展でがテディベアに視線を奪われていた時間はほんの僅かであった。だが赤井にしてみればヒントはそれだけで事足りる。
「……幼い頃、両親がテディベアをプレゼントしてくれたんです」膝に乗せたテディベアと顔を見合わせながらは口を開いた。
両親が買ってくれたテディベアと寝ると、両親との思い出に包まれているようで、よく眠れたのだ。今ではもう形見となってしまったテディベアは一緒に寝るのはいいが、大きさが大きさなので持ち運びは困難であった。かと言って日本で自ら自分用にテディベアを買うのは憚られた。買ったところで両親からプレゼントされたテディベアと寝る時と同じようには眠れないだろうから。
「本当は僕が抱き枕に立候補しようと思ったんですが、そんなことを言ったらナイフを突きつけられそうなので断念しました」
「沖矢さんにナイフは向けない……と思います……」
今朝の自分の行動を思い返し、気まずそうに苦笑を漏らすは見詰めていたテディベアから顔を上げた。「……まだよく眠れてないんですね」その顔は一変して険しい表情をしている。どこか確信を持ったの声色に、沖矢はわざとらしく眉尻を下げた。
「僕もさんも、所詮は同類……行き着く先も一緒という訳だ」
仕事柄緊急時の電話はあるし、急な任務が飛び込んでくる時もあると赤井が熟睡する事は少ない。自然と気配には敏感になったし、眠りも浅い方であった。だが、彼らの場合はそれだけではない。
ふと、闇に引き摺り込まれることがあった。表には出せない事も、トリガーを引く感触だけが残る罪に問われない殺人も、裏切りや計略も、自分の信念を貫いて、まるで他人事のように涼しい顔をして行える。けれども思い出したように現れる踏みにじってきた屍に、時々足首を掴まれるのだ。そうするともうベッドが監獄にしか思えなかった。延々と悪夢が繰り返される自分だけの檻に見えてしまうのだ。だから彼らは睡眠がいまだに得意ではないし、ましてや他人と一緒に寝るだなんて考えられなかった。
「さんだから、僕もあんなに眠れたんでしょうね」
いくら疲労と睡眠不足が重なっていたとはいえ、赤井が人の隣であんなにすぐ眠りにつくなんてあり得ないし、本来であればも人に起こされる前に起きるタイプだ。現に有希子が部屋に入ってきた時は思わず飛び起きて、ナイフまで突きつけてしまった。
しかしと赤井だけで寝ていた時は本人達も驚くべきことに、夢すら見る暇もなく熟睡していた。その事実にはじめは戸惑いこそあったが、やがて納得した。Xの正体がであった以上、赤井は全幅の信頼をに寄せていたし、もまた絶対的な存在の赤井を信頼している。そんな彼らの間に安心感が生まれるのは必然であった。
「貴方には私のようになって欲しくなかったのに……」
「ええ、さんのおかげであの頃に比べたら大分マシにはなりましたよ」
――潜入捜査時代、Xもといは待機中の赤井に電話を掛ける用事があった。仮眠をとっていたのか、何度目かのコールの後赤井は電話に出た。その声は注意深く聞かなければ気づかない程度ではあるが、戸惑いと焦燥が混ざっており、酷く掠れていた。表面上は平静を保っていたが、激しい心音と脈拍が聞こえてきそうな、まるでさっきまで悪夢に魘されていたような声だった。そうは気づいていながらも、は指摘する事もなく、いつも通り滞りなく情報を伝えて通話を切った。すぐに赤井にはポイントに向かってもらう必要があり、集中力が要となる狙撃前にへたに刺激をしたくなかったからだ。
赤井が最も組織内で賞賛されていた仕事は、狙撃であった。赤井の迅速で、確実で、証拠も最小限な殺しを、組織は重宝していたのだ。その汚れ仕事のおかげでコードネームを貰うまでに至ったと言っても過言ではない。
一時期は赤井を殺人狂とせんばかりに、組織は狙撃の仕事をさせ続けた。出来る限り無駄な殺生はしないようが手を尽くしてはいたが、何事にも限界があるように、実際には救えない命が幾つもあった。
今回の狙撃も、殺すしか道がなかった。しかしはどうしても赤井の拭いきれない違和感が引っ掛かった。このまま赤井に狙撃させたら、彼がもう戻ってこれない気がしたのだ。こんなにも胸騒ぎがするのは、赤井から自分と同じような苦しみを感じたからだろうか。
は早急に赤井とは別のポイントに赴き、赤井より先に狙撃を完了させた。通常観測手を務める者は、元々優秀な狙撃手である者が多い。まさしくがそうであった。
『任務の変更です。』
が指定したポイントに到着し、既に狙撃の準備を始めていた赤井が眉を顰めた。狙撃直前にが電話を寄越すのも、ましてや任務を変更するのも珍しかったのだ。
『ターゲットの死亡を確認。貴方は組織へ報告願います。』
なぜ、どうやって、一体誰が――ありきたりな疑問をぶつけても、きっと自分の望む答えは返ってこない。
赤井が「了解」とだけ呟くと、はいつもの無機質な声で『午前3時前後は人間の精神活動が最も鈍くなる時刻。人間の判断も鈍ります。』と囀った。現在時刻午前3時2分。まだ夜明け前の闇が色濃く残っている時間だ。
うるせえ。それがどうした。テメェの鬱陶しい御託なんぞ聞いてられるか。反吐が出る。赤井はもはや何にイラついているのかもわからないまま、口に出さないまでも、えらくを罵倒しながら手癖でタバコに火をつけていた。『だから、ゆっくりとお休み下さい……お疲れ様でした』赤井以上に赤井を理解しているような口ぶりで、はプツリと電話を切った。いつもと変わらない機械音声なのに、の言葉はやけに赤井の耳に優しくこびり付いていた。
赤井は組織の目論見通り、終わらない殺人に気が狂いそうになっていたのだ。だが存外他人にも、そして自身に対しても無頓着な赤井は気づいていなかった。自分が内部から崩壊していっている事に。
何にイラついているのかわかったのは、タバコが吸い終わった後だった。
赤井は自分でも恐ろしいことに、殺しをルーチンワークにしていたのだ。組織の指令を受け、狙撃のポイントや天候、弾薬の調整等をと相談し、狙撃を行い、タバコを吸う――だから今日も無意識にタバコに手を伸ばした。それが赤井にとって任務完了の合図だからだ。そうして人を殺める罪悪感を薄まらせることで、自分自身をトリガーを引くだけの木偶の坊にしていた。
赤井はいつもの仕事の流れを断ち切ってきたにどうしようもなく苛立っていたのだ。しかし、それではただの殺人鬼と相違ない。
「あの狙撃はさんがしたんでしょう?」
が軍にいた頃、軍人に向いている人間はどんな奴だと上官に質問を投げられた。頭脳明晰な人間、身体能力が高い人間――否、答えは、強い精神力を持つ人間だ。即ち世の不条理や、理不尽な殺しに耐えられる人間である。
強い精神力を保つには、時に逃避も必要だ。
あの時の赤井の精神状態はまともではなかった。しかし幸いにもだけは、まだ持ち直せる段階で異変に気がついた。だから赤井を逃がしたのだ。聡い赤井ならば、がいつもと違う行動を起こしただけで、自分がいかに破滅の一途を辿っていたか気づくだろうから。
「私の仕事は、赤井秀一を奴らの心臓を打ち抜くSilver Bulletに仕立て上げることです」
はあくまでも仕事として赤井を手伝ったまでだとほのめかす。赤井がブレれば、急所を外してしまう。はほんの軌道修正をしたまでだ。
「潜入捜査が終わると同時にさんは消えた。もう無関係となった僕のカウンセリングと長期休暇を手配するのも貴方の仕事でしたか?」
取っ掛かりを与えれば、赤井は立ち直り方を自分で見つけられる筈だ。むしろ赤井のような一匹狼気質のスナイパーは人に頼る頭がないから、今後同じような精神状態に陥った時の対処法を自分で見つけて欲しかったのが本音である。
それでもがここまで赤井の面倒を見たのは、今後赤井と組む人間の為というのが大きい。周囲の赤井の評価は、肉体的にも精神的にもタフな男――それは断じて間違いではないし、も同意見だ。だが、は知っていて欲しかった。一見完璧な赤井にも、弱くて脆い部分があるという事実を。だからは知らしめるように、赤井に大袈裟なくらいのカウンセリングと休暇を申請したのだ。それが赤井とコンビを解消したの最後の仕事であった。
ふたりだけの小さな世界がゆっくりと規則正しいスピードで、揺れを伴いながら頂上へと向かう。
赤井よりは口数が多いキャラ設定の沖矢が、既に明かりが灯り始めた街を見下ろしながらまたも口を開いた。
「今日さんが英国展を楽しむ姿を見て……貴方と組んでいた時に、不確定ながらも自分と同郷だと知れてなぜだか嬉しく感じたのを思い出しました」
沖矢は、まだの名前すら知らなかった潜入時代――彼女がfirst floorを間違えた時のことを言っていた。
「類似性の法則、ですか」
も沖矢と同じように窓の外を見遣る。
まったく現実的な女である。あの赤井が自分の感情を素直に吐露する事などそうないというのに、返した言葉が非常に無機質でつまらない。ともすれば、体が触れ合うくらい狭い空間で同じように夜景を眺めている。
類似性の法則の次はミラー効果。そんな言葉で片づけてしまえば、ロマンの欠片もない。観覧車で心理学の講義でも始めるつもりだろうか。
「私としては、あの任務で犯した失敗は大きな失態に繋がりました」
は赤井に自分をツールとして扱ってもらうよう望んだ。相手に触れ合えば触れ合うほど、知れば知るほど、余計な感情が生まれるのを知っていたからだ。だから名前や性別、姿も素性も隠した。余計な感情を見せないよう機械音声にし、徹底して機械的に振舞ったのである。ただ、自分の言語の訛りだけはどうしようもなかった。幼い頃から多国籍な環境に身を置いていたためか、父親のようなクイーンズ・イングリッシュにはなれなかったのだ。その所為で赤井に無駄な情報を与えることとなってしまった。
「……やはり私は、」は表舞台に出てはいけない存在だった。あのまま、ずっとXのまま赤井をサポートし続けていればよかったのだ。「貴方の隣にいるべきではない……」苦々しく柳眉を顰めて呟いた。
「それは宮野明美やジョディを考えての事か?」
沖矢の声のまま赤井の口調に戻っていたが、は何も言わずに窓の外を見続けていた。夜の帳が落ちる中、煌々と輝く人工的な灯りと月光がの瞳を照らす。いつものの瞳ならば、その光を呑み込んで反射するくらい強い輝きを放っているのだが、今の彼女の眼光は翳っていた。
今日1日と共に過ごした時間は赤井に安らかさや穏やかさを与え、楽しささえ感じさせた。こんな気分はいつぶりだろうか。だが必ずしも同じ時間を過ごしたからと言って、が赤井と同じ情感を持つとは限らない。
「ハハッ……貴方は私を過大評価し過ぎですよ」
は宮野明美やジョディの幸せを奪った側の人間。いくら仕事上の設定とはいえ、これから先赤井と恋人として過ごす時間を重ねれば重ねるほど、彼女達に対する罪悪感に苛まれていく筈だ。確かにそんな感情の影や形はあった。あの赤井がにテディベアを贈ったり、の隣でぐっすりと眠ったり、と同郷である事を嬉しいと吐露したりするまでは。
「私はこれ以上貴方に情が移ってしまったら冷静でいられる気がしません」
はっきりとした隔絶と、踏み込んだら後戻り出来なくなる現実を言葉に含ませる。
薄情かもしれないが、は黒の組織を潰す為に払った犠牲――宮野明美やジョディ、もちろん赤井にも、後にも先にも贖罪するつもりはない。もとよりこれ以上の犠牲が出るのも覚悟の上で任務にあたっている。
「私はあくまで貴方というSilver Bulletを装填する為だけに用意された銃」
その間には何も生まれてはならない。何の感情も持たぬ、物言わぬツールでなくてはならない。いつでも撃鉄を起こす準備を怠ってはいけないのだ。それなのに、赤井との距離が縮まれば縮まるほど自分を見失い、弱くなっていく気がした。
今日1日赤井の傍にいるだけで無防備に寝たり家族の話をしたり、取り乱したり笑ったり――気づけば色んな感情を曝け出してしまった。このままではとてもじゃないが、ただの銃になれない。だからまだ取り返しのつく今のうちに赤井から離れようと思ったのだ。それは、ただの保身だった。
眩暈がする。ヤクを打たれたか、それとも鈍器で殴られたか。目の前が明滅する衝撃。ふざけるな。こんなの激烈な告白と変わりない。ここまできて今更引き下がれるか。
互いに心を許し、弱さを認め合えて、殺しても死ななそうな途轍もない存在などそうはいないだろう。
「二度も逃しはしない」
今度こそ紛れもない赤井秀一の低く威圧感のある声が、この小さな牢獄に重く響いた。窓の外を眺めていた視線を思わず沖矢に向けると、ハンターグリーンの瞳に捕らわれる。
「俺はお前の実力を認めているし、お前も俺の力量を知っている……互いを隣に置いておくのが最も合理的でsafetyだ」
知らず知らずのうちにに守られてばかりだった。やっと対等になれたかと思えば、行方をくらましてかつてのXのようにまた一方的に完璧なサポートを施すとほざく。
が本気で赤井の前に現れないと決めたら、いくら赤井でも探し出すのは不可能だろう。多分、本当にもう彼女の姿を目にする事はなくなる。それこそ誰が許してたまるか。
「そもそも組織の潜入を止められるくらい、の存在は危険視されていた。FBI内でも秘密裏に動いているお前だ、組織に存在が露呈するかもしれないというリスクを負ってまで来日し、俺を助けたという事は、再び俺と組んで日本を奴らの墓場にしてやれと上層部から命令が下ったんじゃないのか?」
冷静にけれども的確に理詰めしてくる赤井に、は口を噤むばかりで反論出来なかった。赤井がつらつらと並べ立てた理はどれも正論であったからだ。
「俺はお前が知っての通り不器用で、恋愛も片付けもデスクワークも苦手だ。料理も出来んし、生活能力も皆無。よく何を考えているかわからんと言われるし、自分でも自分のメンタル状態を把握していない。それと、すこぶる口下手な男だ」フッと沖矢の顔で赤井が笑みを零すが、口下手な男にしては舌がよく回る。「まともに出来る事と言えば、狙撃くらい……そんなどうしようもない男と組めるのはだけだと上が判断した。だから今お前はここにいる。違うか?」
これでチェックメイトだ。
「失うものがないから全てを背負って孤独になるのだと抜かしていたな……だが、残念ながらお前は既に俺という枷を負っている」
自己犠牲なんざ、ただの自己満足にすぎない。
は赤井秀一というあまりにも重たい存在を背負うと同時に孤独ではなくなった。自分の正義と信念を振り翳し、仕事という名目で様々な犠牲を生み出した弾丸の赤井と、銃のは同罪。元から共犯者なのだ。
「なぜ貴方は――ッ、……いっそ私を責めて下さいよ!」
は前髪をくしゃりと握り締めながら頭を抱え込む。赤井がを逃がすまいと言葉を重ねる度に、頭がおかしくなりそうだ。
なぜ――そんなのこちらが教えて欲しいくらいだ。30を越えても尚、まるでティーンのように感情任せに行動するなんて思わなかった。自分から女に贈り物をした事もなければ、ひとりの人間にこれほど必死に縋りついた事もない。自分でも自分がわからないのだ。去る者は追わずにいた自分が、こんなにもに執着する理由が。むしろにこだわる理由がわからないから、自分は知りたくて藻掻いているのだろうか。
「仕事に私情を持ち込むなんてあってはならない……」は何かと葛藤するように、赤井から貰ったテディベアをぎゅっと握りながら視線を逸らした。「こんな気持ち、」アイスブルーの瞳が動揺に揺れる。「本当は言いたくないのに……」この雰囲気は。「けれど、これで貴方が離れてくれるなら――」赤井は知っている。何度も経験していた。女がこんな顔をする瞬間は決まっている。「っ……私、」どく、ん。
まさか――あのに限ってそんなまさか。
赤井の心臓は柄にもなく激しく脈を打っていた。
「貴方を敬愛しているんです……ッ!!」
【敬愛】(けいあい)[名]尊敬し、親しみの気持ちを持つこと。相手を敬い、大切にすること。ここでの敬愛の英訳はrespectであって、loveではないことはの力強くも潔い態度で赤井はなんとなく察した。
つまりは前後不覚になるくらい赤井を敬愛していて、これ以上傍にいたら正常な判断を下す自信がなくて仕事にならないから、出来るだけ離れていたい。そういう事だ。赤井を愛しているだとか、好きだとか、そういうsweetな次元の話ではない。どちらかといえば、少しばかり強火な赤井秀一崇拝者に近かった。
頑なに凍てついていたアイスブルーの瞳は溶け始めた。だが、もしかしたらスナイパーふたりの撃ち合いは始まってすらいないのかもしれない。
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