蜜雨

第13話

「なあなあ!」

 渾身の力で黒尾を吹っ飛ばして水道で口を濯いでいたに、銀髪で長身の男が話しかけてきた。はその声が黒尾の背を叩いた奴だと察した。

「黒尾さんが見学者だからテイチョーに体育館に入ってもらいなさいって!」

 絶対に丁重の意味がわからずに使っている。がこの男をアホの子認定した瞬間であった。
 怒りが呆れに変わる。先程の出来事は決して悪気があったわけではないだろうし、この子に怒っても仕方がないと諦めることにした。

「見学って……いやもう帰らないと!」
「なんだよ! バレー楽しいぞ? 見るよりやる方が何倍も楽しいけど!」

 男は無邪気な顔で自信満々に言い放った。
 そんなこと言われなくても知っている。も彼と同意見だ。なんたってバレーをプレイすることに命をかけていたと言っても過言ではないのだから。

「ホラ早くしないと俺も夜久さんに怒られる!」

 強引にの腕を引っ張り、ずんずんと前に進んでいく。きっと黒尾はを体育館に連れ込むなら、自分よりもリエーフが適任だと思って指示したのだろう。本当にいい性格をしている。

「お? やっぱり来たなー。リエーフ、そいつ適当に座らせてお前はレシーブ練だ!」
「えー?! 俺ちゃんとシゴトしたのにー!!」
「それとこれとは別だ! 早くしろ!」

 黒尾はの姿を見るとニヤリと笑みを浮かべた。リエーフ相手ならば断り切れないと全部わかっている顔だ。タチが悪い。
 はジト目で黒尾を睨みつけたが、ますます笑みが増しただけだった。だがニヤニヤしていた黒尾の尻にどの部員よりも背の低い男子が蹴りを入れていたので少しだけスッとした。

「いってえ! 俺のプリチーなケツが割れたらどうすんだよやっくん!」
「ケツはとっくに割れてんだよ! いいからとっとと仕切れ!」
「ちょっとはおふざけに付き合えよなあ……おーし、んじゃサーブレシーブやんぞー。サーブとレシーブに分かれ……リエーフお前はまずレシーブ側入れっつってんだろ!」

 監督やコーチが不在時に黒尾が仕切っている様子を見ると、主将は黒尾で間違い無いだろう。は本来の目的ではあるがこんな真っ正面から情報を得るなんて悪いとは思いつつ、つい癖で分析をし始めていた。おそらく周囲の部員の扱いからしてリエーフは1年、黒尾に蹴りを入れた夜久は3年だろう。見たところレシーブのレベルは全体的に高いが、夜久が頭一つ抜けている。きっとチームの要となるリベロだろう。バレーは球を自コートに落とさない限り試合が続く競技――繋いでさえいれば負けることはない。そんな持論を掲げ、粘り強いチームを作るのが自分の知っている猫又先生であった。やはり音駒高校はあのネコで間違いなさそうだ。

「あぶねえ!!!」

 誰かが大暴投サーブを仕出かしたらしく、黒尾が声を荒げる。は自分へ向かってくるボールに腰を落とし、ボールが落ちてくるであろう場所の正面に構えをとると、見事勢いを殺してレシーブをあげ、近くにいた部員の手元へと返した。はすんませんと謝る部員に大丈夫と手をひらひらさせる。あんな豪速球を平然と、しかも綺麗に打ち返すなんてレシーブを得意とする音駒のバレー部でも難しい。もしかしたらすごい逸材が見学にきたのでは――何人かの部員は黒尾が声を掛けるまで呆然としていた。



「おつかれっしたー!!」

 結局好都合なことに会議が長引いている猫又先生に出くわさないまま部活が終わり、無事黒尾に携帯を返してもらうことが出来そうだ。
 音駒が今どんなチームなのかもわかったし、2年のセッターに飛雄が興味を持ちそうではあるが、それよりも可愛い女子マネージャーがいなかったことに安心した。あとで男バレ3年連中に怒られるだろうが、東京に来た甲斐は十分にあった。

「なあなあ! お前バレーやってたのか? あのレシーブすげーじゃん! でも俺はもっとすげー! なんたって音駒のエースになる男だからな!」

 そう、この東京遠征はトラブルはあれどなにも問題ないはずだった。
 黒尾と事故とはいえマスク越しにキスをしてしまったが、的には許容範囲であった。しかしこのリエーフだけは――バレーに関することだけは許せないのだ。

「そんなヘボレシーブでエースだトスくれだの……基本しっかり固めてから言えや」

 おそろしい笑顔でリエーフの胸倉を掴み、空いているコートへと引っ張っていった。
 はよくバレーのことになると周りが見えなくなると言われているが、幸いなことに大抵近くにストッパーなる存在がいて止めてくれる。しかしここは東京で、もちろん止める人間などいない。
 黒尾をはじめとする自主練で残っていたメンバーは、なんだなんだと遠巻きにとリエーフを見守っていた。

「ああもう! これ邪魔!!」

 今までマスクにカツラまで被って完璧な男装を施していたが、がキレてすべて投げ捨てたことにより無意味なものとなった。こうしては黒尾にバラされることなく、自ら正体を明かしたのだった。服装だけは男子制服のままだが、の綺麗な顔と長くてサラサラの黒髪は確かに女子のものであった。

「じょじょじょじょ女子いいい?!!?!」

 はじめに声を上げたのはサイドは刈り上げ、中央に金髪のモヒカンを携えた完全に見た目ヤンキーだが女子という生き物に滅法弱い山本であった。その横で黒尾はぶっひゃっひゃっと笑い、さらにその横で2人の反応に引いている孤爪がいた。

「えっじょ? 女子? えっ?」

 当然リエーフも山本ほどではないが、困惑している。周囲の反応など気にもせず、は近くに転がっていたボールを手に取った。

「いいから構える! これからサーブ5本打つから、1本でもまともに返せたらスパイク練でもなんでも付き合うわ!! 負けたら大人しくレシーブ練習すること! ほら黒尾くん笑ってないで審判! 私がアウトしたらそっちの勝ちでいいわ!!」

 リエーフはこんな訳の分からない状況でも、いつもみんな(というか研磨)嫌がるスパイク練習に付き合ってくれる相手が出来ることが嬉しくて素直に勝負を受けた。要はトスを上げてくれさえすればいいのだ。勝つ気満々である。
 黒尾は面白いことになったと笑いが止まらなかった。

「1本目はじめ~」

 気の抜けた黒尾の声が体育館に響き、謎の勝負が始まった。
 もはや部員たちはリエーフが大人しくなるならいいかとすら思えてきた。

「っさっこーい!」

 リエーフの元気な声とは対照的には静かになった。
 ボールを胸の前で回転させてからボールを額につけ、ふわりと宙に上げてサーブを打つ。はじめにサーブを打つ際に胸の前でボールを回転させて額にくっつけるのが彼女のルーチンであった。

「ジャンフロ?!」
「しかもエンドラインギリギリ!?」

 黒尾と夜久は審判そっちのけでのサーブに驚いていた。
ノータッチエースを取られたリエーフは唖然としてなにが起こったかわからなかったようだ。がアウトした場合は即リエーフの勝ちとなるのだが、そんなプレッシャーを感じさせないほど攻めたサーブはの性格を表しているようだった。

「2本目、いくよ」

 リエーフもただの馬鹿ではない。
 思ったよりも伸びるのサーブを見て、先程よりも後ろへ下がった。もう軽口は叩いていない。野次馬根性で観戦していた部員たちも彼女のサーブに釘付けだ。パワーで押し込む男子とは違い、テクニックで獲りにいく女子の違いを見せつけられた。
 さあ次はどうくる。

「うわっ次はネット通過してから急に落ちやがった! 狙ってやってるとしたらこえーな……」

 リベロとして夜久はのサーブと向き合い、取ってみたいとさえ思った。もちろんアタックラインに落ちたボールを後ろに下がっていたリエーフは触れることもできなかった。これでコースを打ち分けられる可能性がある相手に、どこに位置すればいいのかわからなくなった。しかしリエーフはまだ知らない――彼女の本来の利き腕が左で、事故に遭ってから練習した右のサーブはまだまだ未熟だと。






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