蜜雨

第五訓

※BGM:サクラミツツキ



 夢の中では満月だった月も、今宵は半分に欠けていた。自分はその半分を満たすことはきっと永久にないのだろうけれど、あの月はやがて満たす時が必ず訪れる。そう考えると少しだけ憎らしい。
 は桜が好きだった。と銀時が初めて出会った松下村塾には大きな桜の木があり、それを眺めながら筆を動かすのが一番落ち着くと話していた。だからこそ桜を見ると思い出すのは先刻の夢だった。いつまで自分はという存在に縛られているのだろう。もう何年も前に死んだというのにいつまでも想い出となってくれないを、銀時は自分の中でどう処理すればいいのか今もわからないでいた。きっとアイツ等もを忘れられずにいるだろう――そう銀時が杞憂する程は強烈で、何にも代え難い存在だった。もし生きて逢えるのならば、今度こそこの手で――いや、今自分は何を考えたのだ。はたと我に返ると勝手に顔に熱が集まってきた。それを酒の所為にするにはまだまだ量が足りないと更に酒を煽る。

……」

 その名を口にすると、思いのほか重く響いて銀時へ圧し掛かった。
 が生きていたらきっと美しく成長しているだろう。この桜が似合うあの女性のように――銀時は目をこれでもかと見開いた。さっきまで誰もいなかった筈の場所に銀時と同じ様に桜を見上げる女がぽつりと佇んでいたのだ。

「っまさか……!」

 本当にお登勢の言った通り、の亡霊が桜の花びらと共にこの地に舞い降りたのだろうか。
 弾けるように身を乗り出し、期待を込めてじっと目を凝らすと妙齢の女は銀時の視線に気づいたのか、目を細めて風に弄ばれている髪を押さえ付けながらこちらへ近づいてくる。

「あなたも花見酒ですか?」

 美しい外見とは裏腹に、彼女は意外にも気さくに銀時へ話し掛けてきた。歯を見せて笑いながら酒の入ったコンビニの袋を掲げる彼女も、どうやらこんな時間から呑む気らしい。

「あ、ああ……」

 銀時はこの状況にまだ順応出来ていないらしく、何を言われているかよく理解もせずにぎこちなく頷いた。彼女は銀時の動揺を気にする様子もなく、質素なベンチへと腰を下ろした。彼女が一挙一動する度にするりと黒い絹糸が肩から滑り落ちる。それを耳に掛けて品良く口角を持ち上げる姿がゆっくりと銀時の眼球に焼き付いた。どことなく雰囲気がに似ている。あの頃のは男装をしていて、女らしい格好も言動も一切見せなかったので銀時の想像でしかないが、もしが成長してきちんと女性らしく身なりを整えていたらこの女性のようになっていた筈だ。あんなご時世でなかったら、は一人の女性として幸せになっていたかもしれない。今更死んだ者をとやかく言っても如何し様もないことではあるが。

「春は夜桜に限りますね。美味しいお酒がより美味しく感じます」

 彼女は月明かりに溶け込むような微笑みを浮かべながら、コンビニの袋からワンカップの日本酒を取り出した。
 またも銀時の心臓が早鐘を打つ。目の前の彼女が先刻の夢のと同じような言葉を紡ぎ、が好んだ日本酒をに似た顔でのように呑んだのだ。銀時は最早彼女がにしか見えなかった。彼女にを重ねれば、桜を愛でながら時折お猪口に落ちる花弁をじっと見詰めて楽しげに笑っていたのを思い出す。次々と名も知らぬ女での面影を追う自分に嫌気が差す一方で、彼女が本当にだったらとあり得ない希望に縋る自分がいた。いい加減諦めろと言い聞かせても、どうしても脳裏にこびり付いてくる。を忘れる為に呑んでいたのに、気づけばのことばかり思い出してしまっていた。

「……随分難しい顔をしてお酒を飲むのですね、あなたは」
「いや……いつもはこんなんじゃねーんだけどよ……」
「酔いに任せて話すことではありませんか?」
「あー……あんま気持ちの良い話じゃねェよ?」
「だからこそ、今話すんでしょう?」

 もう会うこともない二人がお酒に浸って、思考も言動もふわふわとしている今だからこそ後腐れもなく話せるのだ。

「アンタが昔惚れた女に似てるんだ」

 口に出した後の気まずさが銀時の咽喉にべったりとはり付いたが、もう後戻りは出来ない。

「ソイツは死んじまった。今でも信じられないけどな」

 いくら死んだと言葉にしても現実味を帯びない。きっと一生その柵が銀時を締め付けるだろう。

「死んでないよ」
「……アンタに何がわかるってんだ!! アイツのこと、そんな軽々しく……ッ!!!」

 口にするなと荒げた声でそう告げようと思ったが、それよりも先に女が銀時の頬を白く華奢な掌で包んだ。酒の所為か少し熱を帯び、思っていたよりも柔らかくない、硬くカサついた皮の感触に銀時は身に覚えがあった。

「私は生きてる」

 昔からは眉尻を下げて困ったように笑うのが癖だった。あの頃と何も変わらない。

「ただいま、銀時」

 すとんとすんなり耳に染み込む自分の名にどうしようもなく心が震えた。口を開いても言葉が出てこない。――そう名前を呼ぶことも声帯が許さなかった。気がつけば頬を包む手を掴んで自分の胸へと誘っていた。あたたかい。とても。の身体に血が巡り、体温がある証拠だ。決して死んでなどいない。やはり生きていたのだ。夢でも幻でもなく、確かにこの世には存在している。

「あの時の約束を果たしにきたよ」

 今も昔も銀時の中にはあの時の約束が刻まれていた。あれから銀時の護るものは何一つ変わっていない。そしてもまたあの時の約束を忘れてはいなかった。
 これまでの孤独を分け合う様に銀時とは時間も忘れてキツく抱き合う。あのモノクロの空に寂しげに浮かぶ欠けた月の半分をやっと取り戻せた。もうを思い出にしなくていいのだ。

「ごめん。ずっと待っててくれたんだね」

 も銀時も自身の頬を伝うものが何かわかった。互いにそれを隠す為だと自分に言い訳をしながらより密着すれば、もう二人の間に寒さなどない。

「私のことなんてとっとと忘れてしまえばよかったのに。本当に馬鹿ね……」

 そんなのは強がりだとは自分の本心を理解していた。本当はこわかった。銀時は銀時でを忘れてしまうことをおそれたし、で銀時に忘れられていることをおそれた。ずっと銀時には会いたい気持ちがあり、いざ会いに行ってみれば銀時は不在だった。それに少なからず安心した自分がいた。を忘れ、今過ごしている人達と幸せにやっている銀時を見たら、自分はもう過去として消化されているのだと言いようのない悲しさに傷つくのだ。だからこそは偶然この公園で再会した銀時を騙すようなことをした。もし銀時が女として生きているを見て何も気づかなかったら、何も明かさずは死んだことにしておこうと思っていた。だが驚くべきことに銀時は思っていた以上にに固執し、今も尚何処かで生きているとずっと信じていてくれたのだ。は銀時の気持ちを試すようなことをして申し訳ないと思うと同時に、安堵した。こうやって過去にならず、今も銀時の中でを生きながらえさせてくれていたのだ。

「俺ァ、馬鹿でいい……お前が、が生きてるなら」

 銀時の真っ直ぐな眼差しに見詰められ、自然と二人の距離は縮まってゆく。も身を委ね、瞳を閉じると唇にあたたかな感触が――

「……うぷっ吐きそってか吐くぅううおええええ゛!!」
「えっちょ、うわっ!!?」

 こなかった。






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