、風呂出たぞ」

リビングのドアが開いて春秋さんが戻ってきた。濡れていると思っていた髪はすっかり乾いていて、わたしは思わず春秋さんの頭部を凝視してしまった。

「?どうしたんだよ、そんなに見て」
「髪……乾かしちゃったんですか?」
「え?ああ、うん」

濡らしたまま戻ったらまた風邪引くって怒られそうだなと思って。春秋さんは尤もなことを言ってベッドの上に座っているわたしの隣に腰かける。確かにそうなんですけど。でも長い間そのままでいなければ風邪は引かないわけで。今日は春秋さんの髪を乾かしたい気分だった。そう言ったら笑われるだろうか。春秋さんの手が伸びてきて、頬を撫でられる。

「ごめんな。待てなかったから」

待てなかったって……何を?と、聞こうとしたけど、春秋さんが覆いかぶさってきたことで質問は空中に放り投げられてしまった。成人した男女の体重を正面から受け取ったベッドがかつてないほどに軋んで、壊れたんじゃないかと一瞬心配になる。けど、それよりも春秋さんの身体に押しつぶされた苦しさが勝った。ベッドと春秋さんの身体の間でいつもより浅い呼吸をしていると、春秋さんの額が肩に押し付けられて大きな手が指を絡ませてくる。

「……死ぬかと思った……」
「はは」

何を笑ってるんですか。こっちは死ぬところだったのに。なんなら息も一秒くらい止まりましたよ。そう言おうと思ったけど、聞こえてくる春秋さんの息遣いがなんだか不安気で、口を少し開けたところで止めてしまう。胸のすぐ上で春秋さんの胸も動いている。わたしと春秋さんの呼吸は驚くほどタイミングが合わなくて、……いや、むしろ合いすぎているのかもしれない。わたしが息を吸えば春秋さんも吸って、わたしが息を吐いたら春秋さんも吐いた。せめてわたしが吸ったら春秋さんは吐いてほしい。難しいかな。いつか忘れたけど、恋人同士は呼吸とか心拍が同調していくという論文を見かけたことがある。それが本当なら、タイミングをずらしてほしいという要望は意味がないだろう。ずらしたとしても、きっとそのうち今と同じ状況になる。

「春秋さん」
「うん」
「春秋さんからわたしと同じシャンプーの香りがする」
の借りたからな」
「なんか……そのうちシャンプー以外も春秋さんと同じ香りになりそう」
「はは……そりゃあいいな……」
「……春秋さん」
「……」
「ボーダーで何かありました?」

その瞬間、春秋さんの胸の動きが止まった。けど、すぐにまた動き出す。ずれかけた呼吸のリズムはどちらが合わせたのか、数秒経つ頃にはまた合うようになった。春秋さんは耳元で多めに息を吸って、数秒止めてから吐き出す。

「ああ」

春秋さんがこんなに素直になるなんて珍しい。てっきりいつもみたいに誤魔化されるかと思ってた。でも、今の様子からすると、きっと何もなかったと言うつもりだったのかもしれない。どういう風の吹き回しなのだろうか。無機質な天井を見つめながら繋がった手を強く握り、春秋さんの頭に頬を擦りつける。

「これから一週間以上連絡が取れなくなるけど、心配しないでくれ。終わり次第すぐに俺から連絡する」

十日ほど前に春秋さんとの電話でそう言われたとき、ボーダーで何かあるんだということはわかった。多分秘密保持の契約か何かを結んでいるんだろう、ボーダー内の出来事や事情は春秋さんの口から聞いたことがほとんどない。当然と言えば当然なんだけど、こんな状態になるなら少しくらい話してくれてもいいのに。やっぱりわたしは春秋さんがボーダーに所属していることをこの先もずっと納得できないだろう。

「春秋さん」
「……うん」
「手、ほどいていいですか?その……」

どうしよう、ストレートに言うのは少しはずかしい。言葉に迷っているうちに沈黙がやってきたけど、でもすぐに引っ込んでいった。春秋さんの手が緩んだのを見計らって分厚い背中に片腕を回して、もう一方で春秋さんの頭を撫でる。こんなに大きい身体をしてるのにまるで子どもみたいだ。



小さな声が聞こえてきて、わたしは春秋さんを抱きしめる力を少し強くした。このまま春秋さんとわたしの香りが混ざって、そのうちどちらともいえないほどに身体が一つに溶け合ってしまえばいいのに。

夜中一時のわたしの部屋。二人分の一つの呼吸音がただただ優しく繰り返されている。