ガタン。

僅かな振動と一緒にドアが閉まる音がして反射的に顔を上げたけど、帰って来たのは春秋さんじゃなくて隣の人のようだった。期待した分気が抜けてしまって、息を長く吐きながら再び床に座り込む。

「浮気されてるかもって思ったら私はしばらく泳がせますけどね」

テレビの中で女の子が言うと周りに座っていたお笑い芸人の人やらアイドルの人やらが口々に驚きの声を上げて、わたしはその様子をぼーっと眺めた。浮気を泳がせるってすごいなぁ。わたしはどうするかなぁ。そもそも春秋さんって浮気するのかなぁ。春秋さんが浮気するとしたらどんな人なんだろう。そんなことをとめどなく。なるべく他の事を考える隙間ができないように。
なのに、目が勝手にテーブルの上に置かれた二人分のお箸と食事に向かってしまった。

「ぁああ……!」

せっかく考えないようにしてたのに!わたしの馬鹿!と自分を叱りながら身体の向きを変えてベッドに突っ伏す。

「春秋さん……」

予定の時間通りに帰れないと連絡がきたのは三時間半ほど前のことだ。論文の事で教授の人と話し合う時間が大幅に伸びているらしい。しょうがない、最近ボーダーの活動が忙しかったから論文があんまり進んでないのは分かってたことじゃないか。そう自分に言い聞かせてもどうしてももう一人の自分が「でももう三ヶ月以上会ってない!」と駄々をこねてしまう。せめてその嫌な言葉を聞かないようにしようとテレビから聞こえてくるどうでもいい話へ必死に耳を傾ける。

ガタン。

突然、ドアが閉まる音がした。ばっと顔を上げてその勢いのまま立ち上がる。廊下に繋がるドアを開けると、玄関に人影があった。

「あ」

目が合うなり春秋さんは声を漏らして、「寝ててもいいって言ったのに起きてたのか?」なんて呑気なことを言った。靴を脱ぎかけてるとこに飛び込んだら春秋さんがバランスを崩しちゃうかも、という声を無視してわたしは春秋さんに抱きつく。声が言った通り春秋さんは重心がズレて玄関のドアに背中をぶつけた。けど、怒られはしなかった。

「遅くなってごめん」

頭を撫でられながら優しい声に包まれて、じわじわと目の奥が熱くなっていく。春秋さんの胸に額を押し当てたまま首を振ると、小さく笑う声が聞こえてきた。髪の隙間から伝わってくる指先の体温はいつもより冷たいけど、撫でる手つきも呼吸の速さも上下する胸も全部春秋さんだ。浮気を泳がせると言っていた女の子がここにいたら、たった三ヶ月で大袈裟な、って言うんだろうか。

「春秋さん」
「うん」
「会いたかった……」

一瞬だけ春秋さんの手が止まった。けど、すぐにまたわたしの髪の間を滑り始める。

「今日は素直なんだな」
「……わたしはいつも素直ですよ」
「はは、そうか」

俺も会いたかったよと柔らかい声が鼓膜をくすぐって、なんだかそわそわして意味もなく春秋さんの背中に腕を回す。そのまま思い切り息を吸うと、春秋さんが小さく呻いた。

「どうしたんですか?」
「いや……実は一昨日から研究室に篭りっきりで……」
「?はい」
「……風呂に入ってないんだ」

わたしはぽかんと春秋さんを見上げて、春秋さんは気まずそうな顔でわたしを見下ろす。……一昨日、ということは二日前……だよね。頭の中で少し考えてからもう一度春秋さんを抱きしめたまま息を吸うと春秋さんが「こら!」と声を上げた。

「そんなに気になりませんよ」
「そういう問題じゃない!」
「……わたしがいいって言ってるのに」
「そ……れは、嬉しいけど。でもそれとこれは話が別だ。風呂入っていいか?」
「いいですけど……先にご飯かわたしっていう選択肢もありますよ」
「いや先に風呂、……ちょっと待て。今何て言った?」
「知りませーん」