「春秋さん」
人混みの中から声がして顔を上げる。改札のあたりに目を凝らすとが手を小さく手を振りながら小走りで向かってきていた。
「おかえり」
端末の画面を切りながら俺の前に立ったに声をかけるとはにこにこと笑いながら「ただいま」と答える。随分と上機嫌そうだ。そんなに職場の食事会が楽しかったのだろうか。顔が赤くなっていないということは酔ってはいないはずだから余計な心配はしなくていい。……そのはずだ。
「ありがとうございます、迎え来てくれて」
「いや、俺も論文の気晴らしになったよ」
どちらからともなく手を繋いで駅を出る。食事会はどうだったのか聞いてみると、は上機嫌のまま話し始めた。どうやら別の部署にが好きなアーティストを同じように好きな女性がいたらしく、その人と意気投合したらしい。機嫌の良さが分かって安心しつつその話を聞いているとが何かを思い出したように声を上げた。
「ね、春秋さん、この香りわかります?」
が言いながら手首を近づけて来て、俺はそこに鼻を近づける。ふわりと香りが漂ってくるけど正直何の香りかは分からない。でも良い香りだ。思った事をそのまま伝えるとは顔を輝かせた。
「今日の食事会で隣に座ってた営業の人がつけてたんです」
「へえ」
「手首撫でてもらっただけだから香り移ってないかなと思ったんですけど、分かってよかった」
「うん、……うん?」
「春秋さんって香水つけないけど一つくらい持っててもいいかなって思ったんですけど、こういうのどうですか?」
「ちょっと待て、俺にってことはこれメンズじゃないのか?」
「?はい」
「……つけてたの男の人だろ?」
「はい」
「手首撫でられたのか?」
「だってそうしないと香り移らないじゃないですか」
「メーカーと種類を聞けばいいだろ!?」
「覚えてないって言うんですもん」
それなら後から教えてもらえばいいだろ!とか、上機嫌なのはそれもあるんじゃないか!?とか、あらゆる言葉が頭の中を駆け巡る。でも、そんな俺の心情も知らずには「ロールオンで香りが自然に漂う」だの「オイルベースだから指先のケアもできる」だの嬉しそうに話していて、それを聞いてるうちに自分の怒りがどんどん萎んでいくのを感じて俺はとうとう溜息を吐いた。
「どうしたんですか?」
「いや……の気持ちはわかったよ。今度一緒に見に行こうか」
「ほんとですか!?」
「ああ」
「やったあ!男の人の香水ってわたしが思ってたよりもいろんな種類があるみたいだから、春秋さんに合うのプレゼントさせてください!」
トドメに笑顔を向けられて俺の怒りは完全に消え去った。うん、うん、との言葉一つ一つに相槌を打つ。帰ったら滅茶苦茶になるまで抱いてやると心の中で呟きながら俺のマンションに向かう足を速めると、隣から「何でそんなに急ぐんですか?」と呑気な声が聞こえてきた。