ピンポン、と軽い音が響く。
わざわざインターホンなんて押さなくても、合鍵を持ってるんだから勝手に開けて入ってくればいいのに。相変わらず変なところで律儀だな。
鍋に蓋をして、返事をしながらサンダルに足をつっかける。
「こんばんは」
ドアを開けるとが立っていた。暖かそうなコートとマフラーに身を包まれて、本来の身体よりもずっと膨らんだ佇まいで俺を見上げている。おかえり、と答えるとは目を丸くしてからはにかんだ。
「髪結んでるんですね。珍しい」
「軽く作ってたから」
「もう?一緒に作ろうと思ってたのに」
「今始めたばっかりだよ」
散々空気に痛めつけられたのか、頬と鼻の頭が赤くなってしまっている。見ているだけで体温が下がっていくように感じて、寒いから、ほら、とを部屋の中に招き入れる。家の暖かさに身体の緊張が解れたのか、お邪魔しますという声とともにの口から安堵の息が溢れた。
「、……」
荷物を部屋に置くように言おうとしてが肩にかけているバッグに目をやる。が、それが想像していたより一回りも二回りも小さくて言葉が詰まった。まさかこれで三泊分なのだろうか。まじまじと見つめる俺の視線に気づいたがブーツから足を抜きながら顔を上げる。
「どうしたんですか?」
「ん?ああ……荷物、随分少ないんだな」
「だって、寝る時の服も最低限のスキンケアも全部春秋さんのとこにあるから」
その事実に何の疑問も抱いていないような顔つきで言われ、返事を考えたものの「そうだな」と頷くことしかできなかった。
確かにの言うとおりだ。俺のクローゼットにはのスペースが出来上がっている。彼女が泊まりにくると、ぽっかり空いたその場所に彼女のバッグが置かれる。洗面所の棚には俺が使わないスキンケアがあるし、下着が入っている棚には女物の下着が二つ紛れ込んでいる。部屋着は……俺のを着ているから専用のものはないのだが。
「あと、これ。お雑煮の材料」
肩にかかっているバッグとは別に、手で持っていた袋をが自分の顔の高さまで持ち上げる。受け取って中を覗き込むと、餅の他に人参やら牛蒡やら鶏肉やらなるとやらが入っていた。このあたりは俺も馴染みがあるが、事前に聞いていたようにせりや豆腐があったり、逆に大根がないのも違うところだ。食べ慣れたお雑煮とは違うが、それでもが作るお雑煮を食べるのは初めてだから、楽しみだ。
「悪いな、買ってきてもらって」
「ううん。泊めてもらうんだし」
「気にしなくていいのに。でも、ありがとな」
はこくりと頷くと軽い足取りでリビングに入っていった。初めて来た時は俺が言うまで上着も脱がなければ荷物も置かなかったのに、今では自分の家のように過ごしてくれている。クローゼットのスペース。スキンケア。下着。俺の部屋が少しずつ、しかし着実に彼女も生きやすいように変わっていっている。それがにとって当たり前になっているのが、なんだかむず痒い。嬉しいような気恥ずかしいような、変な感じだ。と恋人になってから、こういう自分でもよくわからない感情の混ざり合いが多くなった。そして、未だにその飲み込み方が上手くわかっていない。
「あれ」
声が聞こえてきて部屋を覗き込むと、クローゼットの前でがコートのボタンに手をかけたまま突っ立っていた。俺が顔を出したことに気が付くとベッドに送っていた視線をこちらに向けてくる。
「ベッド、変わりました?」
ぱちぱちと瞬きをしながらは疑問を口にする。同じ店で買い替えたこともあって、変わったところといえば高さだけだというのに、目敏い子だ。よく分かったなと言うとは得意そうに両方の口の端を持ち上げる。何回この部屋に来てると思ってるんですか、という言葉はさほど深く考えずに口にしたのだろう。
「よく使ってたもんな、いろいろと」
「はい、本当に……」
は返事の途中で口を止めて、いろいろ?と首を傾げる。そして真意に気付いたのか、遅れて「ばか」という言葉を投げつけてきた。間一髪のところでキッチンに逃げたが、壁を隔てていても鋭い何かが送られ続けているのを感じる。あいつは普段こういう感覚なのだろうか。真に理解できないくせにとある後輩の生活を想像してみる。確かにこれが四六時中というのは生きにくいことこの上ないだろう。しかも、赤の他人からもぶつけられるのだからどうしようもない。恋人によるものであれば受け入れられるだろうに。
そんなことを考えつつ卵を溶いていると、防寒具を脱いですっきりとした出で立ちになったが現れた。さっき揶揄われたのがまだ気に入らないのか、相変わらず視線は鋭いままだし、何なら頬はさっきよりも膨れている。そういう反応をするから揶揄いたくなるんだよな。
「なに笑ってるんですか」
「いや、何でもない」
しまった。頬が緩んでいたらしい。刺々しい言葉で初めて口角が上がっていることに気付き、誤魔化すように笑って見せる。それに絆されてくれたのか、はほんの少し表情を和らげて洗面所に向かった。ザバザバと水が流れる音を聞きながら、数十分前から火にかけている鍋の蓋を開けてみる。もわっと白い湯気が上がり、大根の匂いが漂った。
「どうするんですか?それ」
いつの間にか戻ってきていたが隣から鍋を覗く。熱いから身を乗り出さないように注意すると、子どもじゃないんだからと笑われた。どうやら曲がっていた機嫌は完全に直ったようだ。
「ふろふき大根にする。たれ作るから手伝ってくれないか?」
「はぁい。その卵は?もしかしてだし巻き?」
「正解」
「やったあ、わたし作っていいですか?」
「もちろん。頼むよ」
冷蔵庫を開けると、上段と中段を陣取る箱が真っ先に目に入った。一人暮らしを始めてからめっきり食べることがなくなったおせちだ。買うという手段は今までもあったものの、一人では食べる気がしないと思っているうちに数年が経ってしまった。結局一人で食べることはなかったな。に気付かれないように小さく笑って、下の段で居心地が悪そうにしている小さな箱を手に取る。
「白みそ使うんですか?」
「ああ」
「わたし、白みそって普段全然使わないです」
「俺も初めて買ったよ。他にどういう料理で使うんだ?」
「うーん……お魚の西京漬けとか酒粕うどんとか?匂いが残りそうだからわたしはマンションでお魚焼いたことないですけど」
それくらいしか思いつかないなあとが言うが、正直俺は西京漬けしか思いつかなかったから二つも挙げられるを尊敬する。普段使わない調味料なのに、一体どこでそういうことを学ぶのだろうか。
大根を浸していたお湯を水と一緒にシンクに流すと、まるで風呂上りのように鍋の中が寒々しくなった。時間制限があるわけでもないのに、必死に身を寄せ合っている大根に急いで出汁と調味料をかけてやる。火をつけてほくほくと鍋が温まり始めたのを見届けて蓋をすると、一仕事を終えた時のように肩が重くなった。よし、あとは出汁巻きをに作ってもらって、おせちを出すだけだ。
トン、トン、と包丁とまな板がぶつかる音が耳に入ってふと隣を見ると、が真剣な表情でゆずの皮を切っていた。細く切るのが苦手で、とよく本人が言っているとおり千切りに苦戦しているのだろう。眉間にはほんの少し皺が寄っている。その下では、蛍光灯に照らされてくるりと巻かれた睫毛の先が光っていた。
大根の匂い。先程の湯気のおかげで高くなっている室温と湿度。ゆずの香り。安心感とよくわからない懐かしさに包まれて、少しだけ胸が苦しくなる。何故だか、この部屋には愛が撒き散らされているように感じられてならない。
「春秋さん」
刻まれたゆずの皮を器に移しながらが口を開いた。ほとんどの意識を作業に向けているのか、こちらには顔を向けない。
「わたし、おせち作れたほうがいいかな」
何だそんなことか、と思ったが、彼女にとっては大事なことなのだろう。でも、気にすることはない。二十五年以上食べてきたお雑煮よりもが作ったお雑煮を楽しみにしているように、俺はの人生と混じり合うことに何の抵抗も抱いていないのだから。そこに何かしらの義務感を抱く必要はまったくない。
「そんなことないよ。俺もそうだけど、うちの実家もしばらくまともに作ってない」
「そうなんですか?」
「ああ」
コトコトと小さな音がして下を見ると、鍋の中が煮立っていた。まずい。火が少し強かったらしい。慌てて弱めると鍋はすぐに泣き止んでくれた。
大丈夫?と不安そうな声がしたので顔を上げて笑ってやると、はしばらく俺を見つめてから小さく微笑んだ。