「なあ、これ本当にいけると思うか?」
「大丈夫、大丈夫。いけますよ」
何の根拠もないくせに言い切ったに、本当かよ、と笑い声が溢れた。
この家に存在する一番大きな鍋で、今まさに四人分の蕎麦がぐらぐらと茹でられている。暑い、出してくれ、と助けを求めているようにも、やっと食べてもらえる、やったぜ、と喜んでいるようにも見える。あと二分の辛抱だぞ。心の中で声をかけて鍋の中をぐるりとかき混ぜる。
「あ」
突然、斜め下から声がした。視線を移すと、ついさっき出来上がったばかりのつやつやと輝く天使の輪が視界に映る。遅れてが俺を見上げて、俺達は無言のまま三秒ほど見つめ合った。
「どうした?」
「海苔、忘れてました」
「あっ」
俺とは同時にタイマーを確認する。あと一分でいけるか?はい、いけます!と、大したことでもないのに大事のように騒いで、俺とはきたる年越しに備える。
そうして山のように盛られた蕎麦がテーブルに置かれたのは西暦が変わる十分前だった。実家にいる時はまったく気にしなかったが、二人で囲むとなるとやはり四人分という量に不安が残る。しかも、相手は年下の女の子だ。……いや、でもは食べる時は結構食べるしな。本人がいけると言うのだからいけるのかもしれないと、につられて俺も根拠のない自信がわいてくる。
「美味しそうですねえ、お蕎麦」
美味しそうと思えるのであれば問題ないだろう。まあ、いざとなれば俺が食べればいい話だ。俺の胃はまだ余裕がある。
と向かい合って、一口サイズにまとめられた蕎麦を食べ始める。口に入れた途端には顔を輝かせて、美味しい美味しいと言いながら数時間前に食べたおせちを忘れたように蕎麦を吸い込んでいった。この様子なら本当に二人で四人分食べられるかもしれない。実家から届いた荷物を見た時はこんな量食べられないぞと頭を抱えたものだが、案外いけそうだ。
春秋さん、小さい頃からこんな美味しいお蕎麦食べて育ったんですか?羨ましいなあ、私なんておばあちゃんのとこに行った時くらいしか美味しいお蕎麦なんて食べなかったですよ。小さい頃はお蕎麦ってそんなに美味しいって思わなかったけど、大きくなってから美味しいって思い始めてきて。子どもの時からこういうお蕎麦食べてたら違ったのかなあ。
そんなことを口にしながら、は本当に美味そうに蕎麦を食べている。あれだけあった蕎麦は既に四分の三ほどにまで減っていた。まさかこんなに喜ばれるとは。送ってもらってよかった。泊まらないかと誘った時もそうだったが、どうやら俺はまだの幸せのボーダーラインがわかっていないらしい。の赤くなった頬を眺めながら頭の隅でぼんやりと思う。この瞬間を見透かしていたのかわからないが、気を利かせて到底一人では消費しきれない量の蕎麦と日本酒を送ってきた母には早めに感謝の電話をしないと。……あと、帰省は夏休みじゃなくて春休みにしよう。
「蕎麦、来年も送ってもらおうか。また大晦日から三日まで泊まりに来てくれよ」
「え!いいんですか?嬉しい」
え、という声が聞こえた時点で「来年も一緒に過ごすんですか?」と確認されるのではと身構えたが、は気づいていないのかあっさりと提案を受け入れた。勇気を振り絞った割には来年の約束が難なく交わされたことで気が抜けてしまって、返事のタイミングを逃し、悪くなった間を紛らわせるように蕎麦を啜る。いや、しかしおせちを食べる時に飲んだ日本酒のおかげでは未だに酔っているようだし、この約束は覚えられていないかもしれない。何ですかそれ、と言われたらどうしようか。いや、でも約束しただろと押し通せばはそうだっけと言いながらも頷いてくれるはずだ。寂しさは俺一人で飲み込めばいい。
「あ!」
蕎麦つゆに海苔と七味唐辛子を追加していたが突然声を上げて、ほんの少し肩が跳ねる。何があったのかを聞くより先に、はポケットに手を突っ込んで端末を取り出した。そのまま何回か操作をして画面が見えるようにテーブルの上に置くと。
ごおん。
鐘の音が空気を震わせた。
……ああ、そうだ。すっかり忘れていた。時計を見ると十二時をまわって数秒が経っていた。
「明けましておめでとうございます」
「おめでとう。今年もよろしく」
「はい、よろしくお願いします」
「完全に忘れてたよ。助かった」
「ふふ、思い出してよかった」
そうか。今はこんなものも配信しているのか。すごい時代になったものだ。
画面の中で鐘がズームアップされ、再び鐘が鳴った。一つ、また一つ、鐘の音が空気に溶けていく。と一緒に年を取っているような、言ってしまえば結婚したらこんな感じなのだろうかと人生を錯覚する。来年の約束を取り付けるだけで一喜一憂している今の俺には、まだまだ早い話だということはわかっているのだが。
「春秋さん」
「うん?」
「来年も再来年も、こうやって過ごせたらいいですね」
が顔を赤くしたまま笑う。テーブルの上の蕎麦は、もうほんの少ししか残っていなかった。