「……」
チチチ、と遠くで鳥が鳴いている。意識が落ちる前とは部屋の明るさが違う気がして、一瞬だけ脳が混乱した。
……そうか、朝になったんだ。
意識を取り戻すのと比例して右の脇腹あたりが重たくなってくる。押されているというか、何かが乗せられているというか。何だろう。そちらを見ると剥き出しの太い腕が自分の身体を抱えるように巻き付いていた。そこでやっと今自分が自宅にいないことと今日が元旦であることを思い出す。静かに、ゆっくり振り返ると見慣れた寝顔がすぐ近くにあった。すう、すう、と健康的で静かな寝息が耳をくすぐって、身じろぎしたくなるのを必死に堪える。春秋さんが起きる前にお雑煮を作ってしまおうかと思ったけど、こんなに気持ち良さそうに眠ってるんだから、もう少し寝かせてあげよう。再び目を閉じた瞬間、身体に乗っていた腕がぴくりと動いた。
「……あ。おはようございます」
「……おはよう……」
「起こしちゃいました?」
「いや……」
だいじょうぶ、と答える声がいつもより弱々しくておぼつかない。何かを言っているのか呻いているのかわからないけど、春秋さんはもにょもにょと何かを口にしながら後ろからわたしの身体にしがみついてきた。まるで抱き枕にされているみたいだ。昨日飲んだお酒がまだ残ってるのかな。春秋さんってあんまり酔いが長引かないほうなのに、珍しい。それともただ寝起きが悪い日というだけだろうか。
「わたし、お雑煮作ってきていいですか?春秋さんは寝ててください」
「……もうすこし……」
その後の言葉が聞き取れなかった。けど、わたしのうなじに額を押し付けて甘えてきたから、もう少しこのままにさせてくれということだろう。きっと。
息を小さく吐いて、春秋さんに抱きしめられたままぼーっと部屋の中を眺める。背中に伝わってくる肌の感触が気持ち良くて、鼓動の音が心地良くて、わたしまで眠くなってきた。これは良くない。今寝たら次に目を覚ますのはお昼になる予感がする。眠気を振り払おうとしてほんの少し視線をずらすと、昨日の夜豪華なおせちやお蕎麦が並んでいたテーブルが目に入った。今は何も置かれていなくて、なんだか物寂しい。
「……」
結局、言えなかったな。
頭の中でぼんやり思う。せっかく四日も一緒にいられるんだから普段あまり言えないことをちゃんと伝えようとあれこれ考えてたのに、昨日はなんだかんだ普段と同じように過ごしてしまった。春秋さんはあんなにさらりと言えるのに、どうしてたった数文字の言葉が言えないんだろう。「好き」も「大好き」も「愛してる」も、ぜんぶ片手で数えられる文字数だ。なんだったら、口にすれば一秒で言い終わる。それなのに、いざ春秋さんが目の前にいるとどうしても舌が動いてくれない。揶揄われることもなければ驚かれるわけでもないって、ちゃんとわかってるのに。
再び外から鳥達の鳴き声が聞こえてくる。わたしの後悔なんて笑い飛ばすような、憎らしいほどに気持ちのいい天気だ。カーテンの隙間から入ってくる光がとても柔らかい。……あれ。そういえば、お正月っていつも晴れてる気がする。少なくとも記憶の限りでは。これって結構すごいことなんじゃないかな。
「……」
「はい?……起きました?」
「うん……」
やっぱりまだ完全には起きてないみたいだ。もうちょっと寝る?と聞いてみたら、予想に反して春秋さんは小さく首を振った。その拍子に春秋さんの髪が肌を刺激してきて、少しだけ背中がぞわぞわする。
「わたし、先に準備してますね」
「ん……」
春秋さんの腕をどかして先にベッドから出る。春秋さんの瞳が閉じられているのを確認してから、床に放り投げられた部屋着と下着を掴んで素早く腕と脚を通した。心なしか今日は街が静かだ。車の音も団らんの声も、何も聞こえてこない。まるでわたしと春秋さん以外、この世界には誰もいないような。なんだかそわそわする。
顔を洗って歯を磨いて、最低限のスキンケアをやりこなして、さて、と袖を捲る。鍋を取り出す、水を入れる。材料を出して。まずは出汁と鶏肉。それから人参と牛蒡とお豆腐。黙々と準備を進めていると春秋さんが欠伸をしながらリビングから出てきた。ドアが開いた時一瞬だけドキッとしたけど、服はちゃんと着てくれていた。意識も完全に取り戻したようで、わたしの手元を見るなり春秋さんは「お」と声を上げた。
「美味そうだな」
「まだ全然出来てませんよ」
「それでも美味そうに見える」
俺も手伝うと言い残して春秋さんは洗面所に向かった。美味そう、ということはお腹が空いてるんだろうか。昨日の夜、おせちもお蕎麦もあんなに食べたのに。そういうわたしもお腹が空いてきたから春秋さんのことあんまり言えないけど。
冷蔵庫の中からせりを取り出して切ろうとしたところで、さっきよりも目が大きくなった春秋さんが現れた。やっぱりすぐ起きなかったのはお酒のせいじゃなかったみたいだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「何かやることあるか?」
「えーっと……じゃあ、灰汁取ってもらえますか?」
「ん」
春秋さんの腕が壁に伸びて垂れ下がっていたお玉を手に取る。
「春秋さん、おせちは元旦に食べるのが一般的だっていつ知りました?」
「大学入ってから。俺のとこでは大晦日に食べるって言ったら友達に驚かれたよ」
「わたしも。でも元旦におせちとお雑煮どっちもって、食べきれないですよね」
「そうだよなぁ。……ん?でも、それを言ったら大晦日におせちと蕎麦食べるのも同じじゃないか?」
「……たしかに」
「はは」
灰汁をひとしきり取り除いたらしく、春秋さんはお玉を置いた。でも、鍋の中のお雑煮を見つめたまま動く気配がない。さらりと落ちた髪の間から覗く瞳は不定期に瞬きをしている。眠いのか、お腹が空いたのか、ぼーっとしてるだけなのか。どれだ。
横顔を見つめていると、突然春秋さんがこちらを振り向いた。あまりにも前触れのない行動にびっくりして反応が遅れる。
「どうしたんだ?」
「こ、こっちの台詞ですよ。どうしたんですか、ぼーっとして」
「え?ああ、はは。すまん、何も考えてなかった」
いや、まだ少し眠いなとか腹減ったなとかは考えてたな。春秋さんが呑気に笑いながら言う。なんだ、全部だったか。そう思ったら可笑しくなってわたしも笑った。
お雑煮の準備が終わって、ほんの少しだけ残っていたおせちとお酒をテーブルに並べる。
「朝からお酒飲むのってなんかドキドキする。不良になったみたいで」
「不良のハードル低くないか?」
日本酒を注いで、注いでもらって。
「今年もいい年になりますように」
お猪口を合わせる時に言うと、春秋さんは柔らかく微笑む。もっと愛情が伝わる言葉の方が良いかなと思ったけど、恥ずかしくてやっぱり口にはできなかった。あと三日、この調子が続くんだろうか。一回くらいは言えたらいいんだけど。
「初詣、いつ行く?」
「今は混んでそうですよね……明日の朝にします?」
「そうだな。近くの神社だったら少し早めに出れば人もそんなにいないだろうから」
こういうのって本当はちゃんと計画を立てていくべきなんだろうな。お泊まりで頭がいっぱいになって、全然考えてなかった。
肝心のお雑煮だけど、どんな反応をされるだろうと冷や冷やしたのはほんの一瞬で、春秋さんは一口食べた途端「美味い」と声を上げて朝から二杯もおかわりをした。夜も食べられるようにと思ってお鍋いっぱいに作ったのにすぐになくなってしまって、あーあ、と思ったけど、なんだか泣きそうだった。