俺の誕生日祝いにとが選んだ店はビル群の中にあった。立地こそ立派なものだが、何の変哲もないビル。強いて言うなら少し古びているくらいだろうか。地図なし、人に尋ねるのもなし、という条件でもう一度行けと言われたら、正直辿り着ける自信がない。
「二日からやってる店なんてよく見つけたな」
「でしょ」
は自慢げに笑った。聞けば一度来たことがあると言う。一瞬、ほんの一瞬だけ「男か?」という考えが過ぎったが、すぐにはそうではなかったなと思い直して、ほっとして、自分の心の狭さが嫌になった。
五人も乗ればぎゅうぎゅうになってしまうであろうエレベーターに乗り込むと、心なしか身体が沈んだように感じてと目を合わせる。わたし、やっぱりまだ太ってるのかな。これでも体重はちゃんと減ってるしジムも続けてるのに。小さな声が聞こえてきて思わず吹き出しそうになってしまったが、すんでのところで何とか堪えた。エレベーターが古いだけだと言い聞かせて、が自分の二の腕から手を離したところで扉が開く。出迎えた店員と話すの声はいつもよりほんの少しだけ低く、小さい。人前で声を高くする女の子ならたくさん見てきたが、その逆になる女の子はこの子以外に会ったことがない。だからどうということはないのだが。
年明け早々ということもあり、店には俺達以外に人がいなかった。案内された席にあるのが椅子ではなくソファだったことに驚いたが、沈み具合がちょうど良くクッションまでついているせいで、すぐに立ち上がるのが億劫になった。少し落とされた照明のおかげなのか、部屋の中央に鎮座するグランドピアノは窓から入り込む夜景の光を反射している。出てくる料理の味は言及するまでもない。
「いい店だ」
「良かった、落ち着かないって言われたらどうしようかと思った」
「俺があと五歳くらい若かったら思ったかもな」
は俺の返事に「そうなんだ」と呟きながらフォークとナイフを置き、細長いグラスを手に取った。そうだ、この子は五年前どころか十五年前の時点でもう既にこういう店に慣れてるような子だった。普段はそうでもないのに、たまに価値観の違いを見せつけられる瞬間がある。もちろんこれも、だからどうということはない。
がグラスを傾ける。俺の赤ワインと違って、彼女のスパークリングワインは底から永遠に泡が浮き上がっている。あれは百年経っても泡を吐き出し続けるのだろうかと我ながら馬鹿なことを考えていると、グラスから口を離したが首を傾げた。
「春秋さん、これノンアルコールって言ってましたよね?」
が小さな声で尋ねてくる。頭にぼんやり残っている店員の説明を辿り、確かそのはずだったと答えたが、はすっきりしない表情のままだ。
「なんか熱くなってきて」
「えっ」
嘘だろ、と溢すとは不思議そうな顔をしながらグラスを渡してきた。百年後のワインの泡なんて、馬鹿なことを考えてる場合じゃなかった。受け取って、一口だけ喉に流し込んでみる。……これは、どうなんだ?香りこそあるものの、アルコールを摂取した時の喉が熱っぽくなる感覚はない。そもそも、酒を飲むとすぐ赤くなるの頬がいつもと変わっていない。……いや、ほんの少しだけ赤くなってるか?照明が暗いせいで自信がない。
「ノンアルコールだと思うぞ」
「ほんとですか?……雰囲気酔いかな」
「気分は?悪くないか?」
「はい。体温が上がってるかも、っていうのだけ」
よかった、ここで体調を崩したらは向こう一年自分を責め続けるだろう。安心したが再びワインを飲んだところで、皺一つない服に身を包んだウエイトレスが話しかけてきた。ピアノを弾くがリクエストはあるか、ということらしい。俺は音楽にあまり詳しくないから、ここは任せたほうが良さそうだ。に視線を送ると、は考えるように宙を見上げ、それから呪文のような言葉を口にした。聞いたことがある単語がいくつかあったので、数曲頼んだらしいということだけはわかる。しばらくすると袖のないドレスを着た女性が奥から現れて、俺とに軽く頭を下げた。彼女が弾いたのは聞き覚えのある曲だったが、曲名はおろか、一体いつどこで耳にしたのかすら覚えていない。でも、静かで心地が良い。が好きそうな曲だ。
「弾いてくれるって知ってたのか?」
「ううん。ピアノがあるのは知ってたんですけど」
「それなのによくぱっと曲が思いつくな」
「わたしも春秋さんと釣りに行った時、同じようなこと思ってますよ」
は悪戯っぽく笑って、驚くほど大きな皿の真ん中で狭苦しそうに丸まったパスタにフォークを埋めていく。確かに、詳しくない人からすれば見慣れない魚なんて大きな特徴がなければどれも似たようなものだろう。小さく笑って、俺もフォークにパスタを巻き付けた。
「この曲」
「うん?」
「好きなんです」
「ああ。が好きそうだなと思ってた」
「はい。……でも、曲名なんて覚えなくていいですからね。知らないと死ぬわけでもないし」
「うん。でも、曲は覚えておくよ」
はこくりと頷いて、やっぱりわたし酔ってるかも、と恥ずかしそうに呟いた。