お店を出ると夜はすっかり更けていた。二人揃って時間を忘れて音楽と料理に浸っていたせいでデパートに駆け込む羽目になって、春秋さんのお家の最寄駅に着いた頃には二人とも身体が疲れきっていた。わたしに至っては普段よりも少しヒールが高いブーツで走ったせいで爪先がジリジリしている。これなら履き慣れてるブーツにすれば良かったかなと思う反面、誕生日祝いなんだし見栄を張ったオシャレはしたいという気持ちもある。これがなけなしの乙女心なのだとしたら、大事にしてあげたい。
「疲れたけど、でも、こういうのも楽しいですね」
改札を出たところで笑いながら言ったら、ちょっとだけ不安そうな顔をしていた春秋さんに控えめな笑顔が戻った。やっぱり車で来るんだったかなとか、ちゃんと時間を気にしておけばよかったとか、きっとそんなことを思っていたのだろう。なんだか申し訳ない。初詣といい、今回のお泊まりは行き当たりばったりなことが多い。ちゃんと考えておくべきだったなと少しだけ反省していると、数メートル先の街灯がチカチカと点滅しているのが目に入った。電気が切れているのだろうか。不定期に光ったり消えたりしている様子がとある物と重なって、そうだ、というくだらない考えが思い浮かぶ。走り出すと、後ろから「おい、」と春秋さんの声が聞こえた。
「春秋さん、見て見て!モールス信号!」
街灯の下に立って、光に向かって手をあげながら点滅にあわせて手を握ったり開いたりしてみる。春秋さんは少し離れたところでぽかんとした顔でわたしを見つめて、それから突然笑い出した。カサカサ、と春秋さんが持っているケーキ屋さんの箱も一緒に音を立てている。何やってるんだよ、もしかして本当に酔ってるのか?笑いながらそう言ってわたしの傍まで歩いてくると、春秋さんは眩しそうに街灯を見上げた。
「酔ってませんよ。ね、それよりモールス信号で何か知ってるのあります?」
「SOSなら」
「どういうのですか?」
「トントントン、ツーツーツー、トントントン」
「覚えやすい」
「だろ」
いつもの表情が戻った春秋さんにほっとする。再び歩き始めると、さっきよりもわたしのヒールの音が響くようになってきた。少しは和らぐかなと縁石の上に乗ってみたら心なしか音が小さくなった気がして、そのまま細い石に沿って歩いていく。たまにバランスを崩しかけて、横から手が伸びてくる。三度目には危ないから下りなさいという言葉も一緒に伸びてきた。先生みたいな顔をして先生みたいなことを言うから、可笑しくて笑ったらまた重心がブレた。
「春秋さん」
「うん」
「春秋さんがほしいもの、そろそろ教えてくれませんか?」
いつもより少しだけ近くなった春秋さんの顔を覗き込むと、春秋さんは瞬きを数回繰り返してから「ああ、そっか」と思い出したように口にした。この様子じゃプレゼントのことなんてすっかり忘れていたのだろう。つい一時間くらい前、ここにはないって春秋さんに言われて驚きのあまりデパートの道のど真ん中でばかみたいな顔をして立ち尽くしたわたしを見て、涙が出るくらい笑ってたのに。
「駅に着いたら教えてくれるって言いましたよね」
「言ったな」
「どこか寄るんでしょ?」
「うん。もう少し先だから」
「……まだ教えてくれないんですか?」
「教えないほうがいいと思って。のためにも」
「……わたしのため?」
わたしの質問に答えないで、かわりに大人びた笑みを浮かべるだけの春秋さんに、嫌な予感が本能を刺激する。春秋さんのこの笑い方は、絶対に、絶対に悪い事を企んでいる時のものだ。例えば、詐欺師が殺し文句を口にする瞬間のような。それか、肉食動物が餌に歯を突き立てる瞬間のような。まさかわたしはとんでもない誕生日プレゼントを選んでしまったのではないか、と今になって思い始める。でも、この近くにそんな危ないものを扱っているお店はないはずだ。一体何なんだ。まったく予想ができない。いざとなれば、用意してたものがある。正直あれを渡すのは気が引けるし、できるだけ避けたいけど、常識はずれなものだったらそっちに変えよう。
爪先の痛みが少しずつ増していくのを感じながら、警戒しつつ縁石を下りて春秋さんの半歩後ろを歩いていく。春秋さんの家にどんどん近づいていく。……もしかして、気を遣ってる?家に着いてから「やっぱりプレゼントはいいよ」とか笑って言われたらどうしよう。
そんな心配をしていると、春秋さんの家から一番近いドラッグストアの前で春秋さんは足を止めてわたしを振り返った。煌々と輝くドラッグストアの白い光を背に春秋さんは優しい顔をしながらわたしを見下ろして、わたしは春秋さんの影を全身に浴びる。
「ゴム」
「は?」
「ゴム買ってきてくれ。メーカーは……一番薄いやつなら何でもいいよ。サイズはわかるだろ?俺、ここで待ってるから」
春秋さんが口にした単語を耳にしてから、脳が混乱して何を要求されたのかが理解できていない。髪をまとめるヘアゴムのことかと思ったけど、続いた言葉の「薄い」「サイズ」で別物だということはわかった。ヘアゴムじゃないとすると。
……もしかして、コンドーム?
脳が理解した瞬間「やだ」の声が口から飛び出す。取り乱しているわたしとは裏腹に、春秋さんは慌てることなく、相変わらず痛いほど優しい笑顔を保ったまま逃げようとするわたしの手首を掴んだ。
「信じらんない!ばか!!変態おじさん!!」
「ひどい言われようだな」
「それくらいのことさせようとしてるんですよ!!」
今日が三が日で良かった。人が周りにいないおかげで、何だあの二人は、という目で見られることがない。
やだ、帰る、と抵抗してるのに春秋さんは笑ったまま一切譲る気がない。手首を掴んでくる力はこれっぽっちも緩められる気配がない。まるで春秋さんとのセックスそのものだ。優しくされる時じゃなくて、ひどいことをされる時の。何で。さっきまであんなに優しかったのに。先生みたいなことまで言ってたのに。こんなことなら教えてくれなんて言わなきゃよかった。忘れさせたままにしておけばよかった。じゃあ、アレを渡す?「実は用意してたんです」って言ったら諦めてくれるかも。……でも………………。
頭の中で二つのものを天秤にかけると、僅かに、本当に僅かにコンドームのほうに傾いてしまう。どちらにも羞恥心が追加されるけど、コンドームについてくる羞恥心のほうが軽いんだろう。この期に及んで。わたしの意気地なし。
「何でもいいって言ったのだろ」
「そっ、………………………………………………」
それは………………そうです、けど…………。
口にした声は震えて、どんどん小さく萎んでいく。春秋さんが口にしたかつての自分の何気ない一言がトドメになって、パンパンに膨れ上がった羞恥心に歯を立てられて、死にそうだ。爪先の痛みなんてまったく感じないくらい、全部の神経が心臓に集中してる。
逃げ場を探そうとドラッグストアに目をやる。今目の前でシャッターが落ちてくれたら。この地域だけでいい、停電が起きてくれたら。わたしの僅かな願望を嘲笑うかのように、LEDの光は遠慮なく網膜を刺してくる。なんとか考え直してもらえないかと春秋さんを見上げたけど、春秋さんは目を細めて、憎らしいくらいに気持ち良さそうな表情をしたままだった。
「……ほんとに行くんですか……?」
「ああ」
「お……お家になくてもお財布とか……入ってたりしないんですか……」
「余ってるけど買ってきてくれ」
絶望。それしかない。買う必要はないけど買えと言われてしまったら、もうそれまでだ。退路を完全に断たれて、わたしは呆然と立ち尽くした。顔が熱い。顔どころか、コートの下から熱が発せられている。春秋さんはそんなわたしの腰を優しく撫でて、背中を丸めた。耳元で「行っておいで」という優しい声が聞こえた瞬間、パン、という何かが弾けた音が聞こえて身体が震える。視界がみるみる滲んでいく。
一部始終を春秋さんに見られるわけじゃない。春秋さんが見るのはドラッグストアに入って、そして出てくるわたしだけだ。そう思うことで心が完全に折れないように必死に支える。震える脚を動かして、店員さんに変に思われないように、平静を装ってドラッグストアの中に入っていく。
そうだ。ここには売ってなかった、という話に持っていくことはできないだろうか。そんな考えが頭を過って心に潤いが戻ったけど、ここは春秋さんの生活圏内なのだから小手先の嘘は通用しないだろうと気づくと一瞬にして干乾びていく。そもそもコンドームを売ってないドラッグストアがあるのだろうか。せめて現実のものになってくれ、売り切れていてくれと願ったものの、お店の端っこから歩き始めて数分でその希望は打ち砕かれた。目線より少し下のあたり、透明な棚の手前から奥まで数種類のコンドームがきっちり詰め込まれている。その光景を目にした瞬間に頭がクラクラした。普段視界に入る分には何とも思っていなかったけど、買う立場になった途端にまったく違って見える。
世の人たちは皆こんな思いをして買っているのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。わたしは今、恋人に、「今からお前を抱く」「その時に使うから買ってこい」と、言葉にはせずとも宣言された上でこれを手に取っている。自分から進んで買おうとしているわけじゃない。自分から進んで買っていたら、恥ずかしさはここまで大きくならなかっただろう。これを買うということは「春秋さんに抱かれるために買ってきました」という意思表示になるし、喜んで抱かれにいくような意味合いにもなってしまうのではないか。……やっぱりアレにする?でも、お店に入った手前、何も持たずに戻ってきたわたしを春秋さんが許すだろうか。今度は「俺がついてってやるから」と微笑まれて、春秋さんに手首を掴まれたまま再びここに連れてこられるかも、……………………。
「……」
お店を出ると、上がりきった体温を真冬の風が冷ましてくれた。それが心地が良くて、破裂した心臓がだんだんと脈を取り戻していく。春秋さんは少し離れたところでケーキの箱を持ったまま何てことない顔で立っていて、わたしを見つけるとにっこりと笑った。
「おかえり」
「……」
「そんなに恥ずかしいモノでもないだろ」
「……そうですけど……」
でも、死ぬかと思った。わたしの言葉に春秋さんは「それなら良かった」とまたにっこり笑った。何が「良かった」なのか。良かったことなんて一つもない。少なくともわたしにとっては。でも、春秋さんにとっては何から何まで良いことしかなかったのだろう。むしろそれが何よりのプレゼントになったのかもしれない。でも、もうこんな思いはしたくない。来年はちゃんと自分で選ぼう。
「これならまだ数十万のものがほしいって言われる方がマシだった……」
「そうなのか?俺からしたらの反応も含めて数十万の価値があるんだけどな」
「そういう問題じゃない!」