「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
この前二十歳になったと思ったばっかりだったのに、早いなぁ。
春秋さんは笑いながら数字にかたどられた二本のロウソクを見下ろした。年越し蕎麦と同じように日付が変わる瞬間にお祝いしたかったのに、春秋さんが変な事を企んだせいで結局この時間になってしまった。お風呂に入っている間に誕生日になるなんて。ケーキだってもっと早くに食べるはずだったのに。夜中に砂糖の塊を食べたりしたら、太るに決まってる。今はまだ恨めしい気持ちが勝っているけど、これもいつか良い思い出になるのだろうか。あの日夜中に誕生日ケーキ食べましたね、なんて、笑って言えるのだろうか。
「きっとそう言ってるうちにおじいちゃんになるんですよ」
「はは、おじいちゃんか。五十年くらい先の話だな」
でもがいてくれるならそれでいいよ、と春秋さんはまた笑う。それだけでなんだか何もかもがどうでも良くなって、春秋さんのせいで刺激された羞恥心も、首にくっきり残された痣はいつ消えるのだろうという心配も、太るだろうなという危機感も、一瞬でどこかに消えてしまった。春秋さんってこういう事、さらっと言うんだもん。羨ましい。わたしは言いたくても恥ずかしさが勝って言えなくて、この三日間で少なくとも二十回くらいは同じことを繰り返してしまっている。
自分でも何を言っているのかよくわからない返事をしながら、小さなホールケーキにロウソクを突き立てる。バランスは悪いけど、誕生日らしさだけはなんとか保っている。
「こういう典型的なショートケーキって久しく食べてないな」
「わたしも二十年ぶりくらいかも」
「これ、そのまま食っていいのか?」
「はい。品はないけどその方が楽しそうだし、……ん!生クリーム美味しい」
そんなことを言い合いながら、春秋さんとわたしはまん丸のケーキを端っこから少しずつ削っていく。一回じゃ食べきれないだろうなと思っていたけど、想像していたよりもずっと小ぶりだったことと、生クリームがくどくなかったことと、死ぬほど激しいセックスによって体力と糖分をすっかり失っていたおかげでぺろっと平らげてしまった。普段から似たようなことをやっているはずなのに、一つのものを分かち合っているのを何故か強く感じて、このケーキにしてよかったなと頬が緩んだ。
「じゃあ、春秋さん」
「ん?」
どうぞ、と大したものでもないのにケーキの上に乗っていたプレートを仰々しく譲ると、春秋さんは可笑しそうに笑った。そうして頰を緩ませたまま、ビスケットでできたプレートを摘む。
「はるあきくん、ね」
「すみません。子どもへのケーキだと思われちゃって」
素早く謝ると春秋さんは「いや、嬉しいんだよ」と答えた。ホワイトチョコで書かれた「Happy Birthday はるあきくん」の文字は電気の明かりを反射してつやつや光っている。それをひとしきり眺めると春秋さんは大事そうに口に運んだ。
「なんか、これで終わったみたいだな」
「え?」
「俺の誕生日」
誕生日になってからまだ二時間しか経ってないのにな。そう言いながら浮かべた笑顔が幸せそうにも寂しそうにも見えて、少し苦しくなる。
他の何かを強請られているわけではないということはわかっている。でも、ここでわたしが「これからは毎年こうやってお祝いしましょうね」とか「大好きですよ」とか、そんな言葉を素直に言えたらどんなに良かっただろう。こんな状況になってもまだ恥ずかしさに負けてしまうわたしを、きっと春秋さんは許してくれるだろう。でも、今日は春秋さんの誕生日だ。春秋さんは五十年後の話をしたけど、来年の今頃はもしかしたら他人に戻っているかもしれない。考えたくないけど、ボーダーの活動中に春秋さんの身に何かが起こる可能性だってある。それなのに、わたしはまだ羞恥心を盾にしている。さっきだって言葉とコンドームを天秤にかけてコンドームを優先した。
「でも、今までで一番幸せな誕生日になったよ」
どうしよう、という迷いは春秋さんのその言葉でどうでも良くなった。
もう、どうにでもなれ。今回は何もかもが行き当たりばったりなんだから。
紅茶を飲んでいる春秋さんに「ちょっと待っててください」と声をかけて、クローゼットを開ける。バッグの中に大事にしまっていた封筒を取り出してテーブルに戻ると、春秋さんは不思議そうにわたしを見つめた。何て言えばいいのかわからなくて、無言のまま封筒を春秋さんに差し出す。こういう時ですら可愛い言葉の一つも言えないなんて、わたしはどこまでいっても可愛げがない。太陽くらいの熱がないと浮くこともできない自分が憎い。
「誕生日プレゼントは当日言うって言われたから、なんか……マトモな物じゃなかったらどうしようと思って」
「ひどいな」
ひどいも何も実際そうなったじゃない、と言いそうになったけどなんとか我慢できた。春秋さんは封筒を受け取って、表側を眺めて、それから裏側を眺める。もちろん、そこには何も書いていない。誰からなのかも、何の手紙なのかもわからない。わからないようにした、というのが正しいんだけど。なのに、春秋さんはそれだけで気付いてしまった。
「もしかしてラブレターか?」
どうして言っちゃうのかな。これじゃ何も言わないわたしが馬鹿みたいだ。
頷くのも首を横に振るのも違う気がして、わたしは何も言わずに春秋さんを見つめる。それで春秋さんはすべてを理解したみたいで、途端にくしゃっと表情を崩した。
「いやぁ、はは。嬉しいもんだな、こういうの」
「……貰ったことあります?」
「いや、ないよ」
「今は読まないでくださいね」
「駄目なのか?」
「……目の前で読まれるの、恥ずかしいから」
「じゃあ、あっちで読んでくる。それだったらいいだろ?」
この期に及んで自分を優先するわたしを咎めることなく、春秋さんは廊下を指さした。やっぱり帰り際に渡すんだったかな。でもその時渡したとしても、春秋さんは読んですぐに追いかけて来ただろう。
「それならわたしが廊下行きます」
「駄目だ」
「何で」
「居た堪れなくなったらそのまま玄関から逃げるつもりだろ」
「……寒いからできないですよ、そんなの」
思いついた言い訳は、とにかく駄目だの言葉に切り捨てられた。
「すぐ戻ってくるから」
そう言い残して、春秋さんがドアの向こうに消える。その瞬間に、迷いと入れ替わってやってきた緊張感で息が詰まってきた。
重いなとかこんな子だったのかとか思われないかな。春秋さんはそういう人じゃないってわかってるのに、後からどんどん要らない心配が湧いてくる。やっぱり、書いた後に読み返すべきだったかな。でも、読み返したら渡せなくなりそうでできなかった。あれは思っていたことをただ勢いのままに書き殴っただけの、ただの手紙だ。伝えたいことは書けたけど、余計なことまで書いちゃった気がするし、脈絡もないし、凝った表現なんて一切できていない。あんなこと書かなきゃよかったって思うような箇所が、いくつもある。でも、これは伝えないほうがいいかな、なんて考えてたら、わたしの性格的に最終的には「お誕生日おめでとうございます」の一言にすべて収まってしまっただろう。それくらい、あれはひたすら迂回し続けた言葉の集まりだ。ラブレターなんて、そんな可愛らしいものじゃない。ラブレターだと思って読んで、がっかりされたらどうしよう。渡さなければよかったかも。逃げたい。ここが一階だったら窓から出ていけたのに。
暴れ回る心臓と血流に気を失いそうになりながら、わたしは必死に沈黙に耐えた。どれくらい時間が経ったのかわからないけど、突然部屋のドアノブが傾いて反射的に顔が上がる。わたしの予想に反して、春秋さんは廊下に行く前とまったく変わらない表情で戻ってきた。
「ただいま」
「……お、…………おかえりなさい。……読みました?」
「読んだよ」
当然だ。春秋さんには読むという選択肢しかないんだから。わたしだって春秋さんの立場ならそうしてる。そうですかともごもご言いながら緊張を紛らわせるためにマグカップに口をつける。紅茶の味も香りももはやまったくわからない。マグカップに視界の一部を奪われたまま再び座った春秋さんを盗み見る。春秋さんは表情を変えないまま、同じように紅茶を飲んでいた。
「……あの、春秋さん」
「うん?」
「何か……言わないんですか?」
「言ってもいいなら言うよ。言いたいことなら沢山あるからな」
「……」
さっきまでは感想を聞くのが怖かったけど、何の感想も聞かないのはそれはそれで怖くて、「じゃあ、一言だけ」と口早に言う。それまで何ともない顔をしていた春秋さんはふっと表情を緩めて、ゆっくり息を吸う。今までもらった言葉の中で一番嬉しかったよ。一言ではない感想が穏やかに鼓膜を震わせる。「嬉しかった」という最後の言葉がじわじわと脳に染み渡ってすべてを浸し終わると、目の奥が熱く、痛くなった。
良かった。悪く思われなかった。嬉しいって思ってくれた。良かった。渡して良かった。……書いてきて、良かった。
溢れてくる何かを誤魔化すために「そう」と言葉を出して、これじゃあまりにも不愛想だなと思って「ですか」を言い加えた。そんなことしたって何の意味もないのに。わたしは本当に可愛くないやつだ。そんなわたしを春秋さんは優しい顔で見つめている。恥ずかしさもあるけど、嬉しい。もしかしたら春秋さんよりもわたしのほうが嬉しいかもしれない。それを自覚した拍子にぽろりと涙が零れてしまって、慌ててそれを拭った。
「」
聞こえてきた声が柔らかくて、心地が良くて、素直に泣いてもいいんじゃないかと脳がだんだん麻痺してくる。ばか。わたしが泣いてどうするんだ。そう思って堪えてたのに、もう一度春秋さんに名前を呼ばれたのが引き金になったのか、涙が溢れてくる。その涙に押されて、ぼろぼろ涙が零れていく。春秋さんは立ち上がるとわたしの隣に座り直して、わたしを抱きしめながら頭とか背中とか、あらゆるところを撫でてくれた。
「ごめ、なさい」
「何でが謝るんだよ」
「ちゃ、んと……ちゃんと言いたかった、のに」
「いいよ。……いいんだ。ありがとう」
「はる、ぅ」
「プレゼントがどんなものでも、手紙はくれただろ」
「う、」
「俺、生まれてきてよかったよ」
「っひ、く」
「一緒にいてくれてありがとう」
わたしが文字でしか言えなかったことを、春秋さんはこんなにも優しく口にできる。その器用さが羨ましい。いや、これは器用とか不器用とか、そういうことじゃないんだろう。片手で数えられるたった数文字の言葉さえ言えないわたしは、ただ春秋さんに包まれて、愛の言葉に埋もれていく。本当はわたしがするべきことだったのに。それなのに、春秋さんはそれでいいと言う。がそこにいれば、いや、そこにいなかったとしても、一緒に生きていてくれれば、俺はそれだけで全身に愛を感じるんだ、と。