お客様ご来店です、という声が微かに聞こえた気がした。
窓の外から視線を離して、薄暗い店内を辿る。立ったまま酒を飲むスペースの向こうに入り口があるのだが、そのカウンターに客が並んでいてよく見えない。店員が行き交っていることも相まって、探すのは諦めた。小さく息を吐いて再び窓の外に目をやった途端、たくさんの話し声に紛れて後ろから春秋さんと名前を呼ばれる。振り返ると、眉尻を下げたがそこにいた。
「」
ごめんなさい、せっかく来てもらったのに遅れちゃって。言いながらはコートのボタンを外し、バッグを椅子の背にかけた。駅から走ってきたのだろう、息は上がっているし髪も少しだけ乱れている。遅れたと言ってもたかだか十分、十五分だ。しかも仕事が原因なら尚更仕方がない。そんなに気にすることではないのに。……とは思うものの、気にするなと言って割り切れるような子じゃない。が椅子に腰かけたのを見届けて、メニューを手渡しながら口を開く。
「じゃあ遅れた分、帰る時間も遅らせてくれ。ちゃんと送っていくから」
前に俺が遅刻した時ににやられた手をそのままやり返すとは目を丸くして、それから嬉しそうに表情を崩した。
「何か頼みました?」
「飲み物だけ」
「どれにしたんですか?」
「えーっと……どっちにしたかな」
からドリンクメニューを受け取ってページを捲る。シャンパンかジンかで悩んで結局シャンパンにした気がするのだが自信がない。確かこっちだと思うと文字を指さすと、酒に詳しくないはふうんと口を閉じたまま答えた。そのまま前後のページにゆっくり目を通し始めたのでノンアルコールは最後のページだぞと言ってみたが、はちらりと俺を見てから小さく笑うだけ。どういう意味なのかがわからずに黙って見ていると、声とともに白い手が横から伸びてきてテーブルの上にシャンパンが置かれた。
「すみません、注文いいですか?」
「はい、もちろんです」
「えっと、この季節のベリーニお願いします」
「えっ?」
「かしこまりました」
「あ、あとカルパッチョと剣先イカと菜の花のグリルと、」
俺の間抜けな声は店員にもにも無視された。が頼んだ飲み物に気を取られて、何の料理を頼んでいるのか頭に入ってこない。ぽかんとする俺を他所には呪文を唱え終わり、店員はそれを復唱すると去っていった。はその背を見送ってからテーブルの上で腕を組んで身体をこちらに傾ける。食事の時によくする仕草だ。
「どうしてそんなに驚いてるんですか?」
「……今、酒頼まなかったか?」
「頼みましたね」
「飲んで大丈夫なのか?」
「弱いのだから大丈夫じゃないですか?飲みたい気分だったし」
「……」
口を開けたままの俺を見つめてからは意味ありげに目を細めた。が酒を飲むなんて、年に一回、正月だけのはずだ。それが「飲みたい気分」になるなんて、理由がまったく想像がつかない。いや、一つだけ心当たりはあるが、今に始まったことではないし、そもそもヤケ酒をするようなタイプでもないはずだ。……もしかすると俺が知らなかっただけで、腹が立ったり悲しかったりするとは今までも酒を飲んでいたのか?だとするとその度にすぐに寝たり気分を悪くしたりしていたはずだ。それは身体に良くない。やめさせたほうがいい。しかし、その元凶が俺だと言われてしまえば俺は何を言う権利もない。
「春秋さん?」
呼ばれて、現実に戻される。いつの間にかの前にはグラスが置かれていた。ピンクのようなオレンジのような不思議な色合いだ。春らしい色とも言える。
「どうしたんですか?」
「……いや、何でもない」
そうなの?と首を傾げながらもの指が細い棒を摘まみグラスを持ち上げる。俺の身体はそれに反応してグラスを持ち、ぶつからないギリギリのところまで近づけた。は何てこともないようにグラスを傾け、春がの中に流れ込んでいく。新鮮な光景ではあるが、なんだか落ち着かない。
「大丈夫か?」
「もう、子どもじゃないんですから自分の許容量くらいわかりますよ」
「無理に飲まなくていいんだからな」
「はあい」
あまりにも俺が心配するから可笑しくなったのか、は眉尻を下げて笑った。
「そういえば春秋さん、近くで買い物してから来たんでしたっけ」
「ああ」
「お家の近くじゃ買えないものだったの?」
「あー……近くも見てみたんだけどいまいち良いのがなくてな」
「……?何を買おうとしてるんですか?」
「の誕生日プレゼント」
はパチパチと瞬きを繰り返して「プレゼント」と口にする。笑うだけの返事をしたタイミングで、机の上に料理が運ばれてきた。今のは少し気が抜けているだろうからとさっと腕を伸ばして取り分けると、はありがとうございますと呟いてしばらく皿の上の料理を眺めていた。
「そんなに驚くことか?」
「まさかそんなに探し回ってるとは思わなくて」
「はは、確かにこんなにいろいろ見て回るのは初めてだよ。難しいもんだな」
は顔を上げて俺をじっと見つめる。飲んだ酒の量と比例して赤くなっている頬。照明のせいでいつもより余計に潤んでいる瞳。何かを探ろうとしているわけではない。ただ純粋に、甘えるようにこちらを覗き込んでいるのが嬉しくて頬が緩んでいく。
「難しいんですか?」
「難しいよ」
「……」
「どうした?」
「……慣れてるんだと思ってた」
前はな、という言葉を魚と一緒に飲みこんで、静かに食事を口に運び始めたを見つめてから窓の外を眺める。小雨が降り始めたらしい。窓に小さな水玉が張り付いている。ぽつぽつという音が聞こえてくる。春秋さん。賑わっている店内の隙間でが俺を呼んで、静かにそちらに目をやる。
「怒ってると思ってました?」
何のことかは言われなくてもわかる。は皿の上に綺麗にして、フォークを元通りに戻して、先ほどとは違う目で俺を見つめていた。言葉を選ぶためにグラスを持ち、勢いのままアルコールを流し込む。しかし言葉を選ぶ必要はないことに気づいてすぐにグラスをテーブルに置いた。
「いや。……どちらかというと悲しんでると思ってたよ」
「……そっか」
「……どっちだったんだ?」
は瞬きをして、小さく微笑む。
「どっちも」
そう言うとさらに顔を崩していつものように笑った。作り笑いではないことに安心して、少しずつ肩の力が抜けていく。
「あれから数日落ち込んでたんですけど、見てられないからって会社の先輩にバッティングセンター連れてってもらったんです」
「え」
「そしたらちょっとスッキリしました。バッティングセンターって初めて行ったんですけど、意外と小さい子が多いんですね」
「な、なあその先輩って」
「お待たせしました」
言いかけた途中で邪魔が入った。は顔を上げると慌てた様子で空になった皿を持ち上げ、空いたスペースに新しい料理が置かれる。顔が整った店員はに笑いかけるとが持っていた皿を受け取って、俺に目配せしてから離れていった。は目を輝かせて今度は真っ先に取り分け用のフォークを手に取る。
「わあ、美味しそう。春秋さん、菜の花ですよ。わたし今年初めて食べます」
「あ、ああ……。……なあ、もしかして連れて行ってくれたのって例の隣の席に座ってる人か?」
「?何が?」
「バッティングセンターだよ」
「ああ、はい。そうですよ」
「男じゃないか!?」
「まあ、バッティングセンター行こうって言うくらいですからね」
言っておきますけど、春秋さんにどうこう言われる筋合いはありませんからね。春秋さんだってボーダーの女の子とご飯行ったりするでしょ。
釘を刺されて「うぐ」と喉の奥で音を鳴らす俺にはしたり顔をした。くそ、酒が入ってることもあっていつもより遠慮がなくなってるな、こいつ……。言いたいことがどんどん溢れてくるが、言ってもしょうがないことばかりですぐに萎んでいく。一人で口を開けたり閉じたりを繰り返す俺を横目には美味しそうにイカと菜の花を食べている。それを見ていたらごちゃごちゃと考えている自分が馬鹿らしくなってきてテーブルに肘をついて頭を抱えた。
「どうしたんですか春秋さん」
「……バッティングセンター、楽しかったか?」
「はい」
「……そりゃよかった」
「なに落ち込んでるんですか」
「落ち込んでるわけじゃ……いや、落ち込んでるのか……」
最終的に頭に残ったのは「初めての場所なら俺が連れて行きたかった」というもので、それがあまりにもちっぽけで自分が情けなくなってくる。そんなことは今に始まったことではないのに。誕生日プレゼントの正解がいつまで経っても見つからないことといい、のことになるといつも情けないところばかり露呈してしまう。大して危ない目に遭うわけでもないのに、それをに言えずただただ心配させてしまっていることも含めて。
「春秋さん」
の声がする。すぐに目を見る気になれず、椅子に背中を預けて今度はひじ掛けに片肘を立てる。そしてしばらくそのまま顔を覆った。控えめに聞こえてくるジャズ。溢れかえる他人の会話。食器がぶつかる音。周りが騒がしくなるほど頭の中が少しずつ静かになっていく。
「春秋さん」
もう一度呼ばれて、窓の外を数秒見つめてから声がした方を見る。と視線が絡み合う。その目が泣きそうなくらいに優しくて、人前じゃなければ抱きしめていただろう。は小さく微笑み、グラスに指をかけると顔の横まで持ち上げた。
「わたしのことで戸惑ってほしくて、……仕返しです。たまにはいいでしょ?」
なんだよ、それ。仕返しなら十分成功してるよ。