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作品ID:1753
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鏖都アギュギテムの紅昏

小説の属性:ライトノベル / 異世界ファンタジー / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 / 連載中

こちらの作品には、暴力的・グロテスクおよび性的な表現・内容が含まれています。18歳未満の方、また苦手な方はお戻り下さい。

前書き・紹介


一回戦第八典礼『虐殺強権/強姦戦域』

前の話 目次 次の話

 一回戦 第八典礼
  朱龍(アケロン)・ケーリュシア
  罪状:変異血脈根絶法違反。公文書偽造。大規模な贈賄。詐欺罪。殺人罪。脱税。違法薬物の密造、密売。農奴逃亡幇助。人身売買。貨幣偽造教唆。
   対
  異律者「トコツヤミ」
  罪状:存在するという罪。

 朱龍よりも一世代前の時代に、〈拳聖〉と呼ばれた勇士がいた。名を延哭(ラグナ)・レグナスという。比類なきじゃんけんの腕前を持ち、決闘典礼において生涯無敗を貫いた男だ。彼は晩年、じゃんけんという行いについてこう論じている。
「確率論に頼った者から死んでゆく」
 おおむねのところは、同意できる。
 そもそも確率論というものは、根本的に妥協の産物である。
 次に相手がチョキを出す確率が三割だの四割だのいやいや二割だの、まったくものごとを表層しか捉えていない愚鈍の思考である。
 確率など、存在しないのだ。
 相手が次にチョキを出すのなら、チョキが十割、それ以外が零割だ。真理とは常に単純である。こちらの情報の多寡によって確率分布に変動が生じるなどという思考がまず理を違(たが)えているのだ。
 確率論とは妥協である。
 対象の情報が不足している時に、とりあえず思考を進めるための目安でしかない。そんなモノをいくら研ぎ澄ましたところで真理には永遠に辿り着かない。
 では、じゃんけんにおいて必勝を期するにはどうすればいいのか。
 愚かな無能は「信念を込めて手を出せば必ずや神(ヘビ)が恩寵を賜わして下さる」などと言い、
 少し知恵の回る者は「敵の手の動きから先読みしよう」と言い、
 戦士と呼ばれる者たちは「表情、視線、呼吸から思考を読むべし」と言い、
 人の域を越えた怪物らは「敵の思考をテメエが作れや」と言う。
 だが――朱龍にしてみれば、いずれも物足りない方法論であった。
 なんというか、どこかで確率論に寄りかかっているところがある。この世には意味や理由がある――などという甘えの臭いを感じてならない。
 違うだろう。世界はもっと冷酷で、機械論的だ。
 このことを話しても、理解を示した者はいままで誰ひとりいなかった。
 [だから]、[誰ひとり朱龍には敵わなかった]。
 ――〈蛇の天秤〉。
 己の拳殺理論を、朱龍はそう名付けている。惰弱な確率論(あまえ)の入り込む余地のない、それは死のごとく平等で無慈悲な、厳然たる真理であった。

 ●

 至聖祭壇の参列席は、どこか異様な緊張感に包まれていた。
 巨大な汚物の塊を目にした時のような、嫌悪と忌避の念が充満している。
 維沙・ライビシュナッハもまた、その想いを共有する。
 ――いや、汚物の方がマシかな。
 眉をひそめずにいるのに苦労していた。
「なんともまぁ……見るのは初めてというわけでもありませんが、いやはや、慣れませんな」
 刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドも、不快げな表情を見せている。
 常に胡散臭い笑みを絶やさぬこの男にしては非常に珍しい。
 無理からぬ。
 至聖祭壇は現在、巨大な半球状の鉄格子に覆われ、参列席と隔てられていた。
 壇上には、ひとつの汚濁があった。
 四肢を鋼鉄の枷で戒められ、四方から鎖で引っ張られている。
 五十歩以上の距離があるにも関わらず、鼻の曲がるような悪臭がここまで漂ってくる。
 それは獣性と下劣の象徴。
 人類の絶対敵。
 禁忌。
 それらを「神(ヘビ)の使わした裁きと試練の使徒である」などと言いだした異端者らは残らず処刑された。餓天法師にではない。世俗の民衆によってだ。
 すべての人類に、忌まれ、憎悪され、恐れられ、嫌悪される究極の外敵。
 ――異律者(サテュロス)!
 それは長い頭を振りたくり、黄色い唾液を飛ばしていた。ねじくれた角が頭の両側面で渦を巻いている。喉奥で粘液が泡立っているのがわかる、不快で不潔な絶叫を上げていた。
 その眼は、石榴の実のごとき紅玉。無限の飢餓と情欲を湛え、神経質にあちこちへと瞳孔を向けている。
 全身にびっしりと黒い剛毛が生え、乾いた血がこびりついていた。
 その顔は、馬や山羊に似ていたが、膿疱や瘡蓋に覆われ、常に不快な粘液を垂れ流している。
 体つきは人間に近いが、その両の脚は踵が地面より浮き上がって第三の関節を成し、先端は蹄で覆われている。
 非常に大柄で、ほとんどの人間を見下ろすことができるであろう。強靭な筋肉が体毛の下でうねっているのが見て取れる。
 人間と山羊のあいのこのような姿だったが、明らかにそんな理屈で計れる存在ではなかった。
 なぜなら、生物としてのまっとうな常識からは逸脱する特徴があるからだ。
 全身のところどころ、黒い体毛の狭間から、赤黒い生殖器官が伸び、勃起していた。
 肩、腕、手首、膝、ふくらはぎなど、明らかにありえざる箇所から何本も何本も屹立している。
 びくびくと痙攣しながら、先端から透明な粘液を垂れ流していた。
 発情しているのだ。
 みずからを取り囲む、人間と言う種族に。
 飛びかかり、組み伏せ、縊り殺し、食い殺しながら、自らの子種をその肉の中に吐精しようと猛り狂っているのだ。
 咆哮が上がる。歯茎がめくれあがり、生えそろった薄汚い牙が蟲の脚のごとく蠢いた。
 自らを理不尽に戒める四肢の枷と、その鎖を引く餓天法師らに、憎悪と情欲を抱いているのだ。
 粗暴に振り回される手足。しかし、その動きの枕を鎖で巧みに引っ張られ、思うように暴れられない。
 知性の欠片も感じられぬ醜態。
「まこと、カザフ防衛線(リメス・カザフィテス)の勇士らには頭が下がる思いです。かような下種の侵入を、長きにわたり防いでくれていたのですから」
 刈舞はしみじみと眼を閉じる。
 思わず、維沙は想像した。あれが大挙して押し寄せてくるさまを。
 自分ならば到底、平静を保つことなどできないであろう。先頭に霊燼がいたとはいえ、軍団兵(レギオナリス)らの勇気にはまったく驚嘆するほかない。
 しかしそれも過去の話。
 魔月と霊燼がいずれも投獄された現在、カザフ防衛線は突破され、〈帝国〉の奥深くにまでこの汚らしい獣の軍勢は入り込んでいる。
 辺境の村落はもちろん、内地の都市までもが異律者の蹄に踏みしだかれていた。凄まじい虐殺と凌辱の連鎖が、人類の版図を蝕んでいるのだ。
「しかし、状況は言うほど絶望的でもありません。少なくとも今回の異律者の大侵攻は、そう遠くない将来、撃滅されるでしょう」
「どうしてそう言えるんですか?」
「彼らには兵站という概念がありません。必要な物資はすべて現地調達しようとします。根本的に、敵地の奥深くに切り込んで支配権を確立できるような勢力ではないのです。加えて、人口が過密状態にある都市部に侵入した異律者らは、急激に体が弱り、力尽きてゆきます。我々人類ならば免疫のできている、さまざまな病に罹り、実にあっけなく死んでしまうのです。ゆえに、人類の残存戦力でも彼らを噛み潰すように包囲殲滅することは可能ですし、現にもうその動きは始まっています」
 ――早すぎる。
 硬直化した縦割り社会の極致とも言うべき〈帝国〉の底辺として、体制の理不尽さと鈍重さを味わわされてきた維沙にしてみれば、この対応の早さはなんだか不自然に思える。
「……魔月さんの、思惑通りに、ということですか」
 刈舞が、かすかに目を見開いた。
 そして、どこか底光りのする眼で、維沙を貫く。
「維沙どの。どうかそれ以上は」
「……わかりました。もう余計なことは言いませんし、考えません」
 刈舞の緊張が解け、目元に柔らかさが戻った。
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。発言にはもっと細心の注意を払うべきでした。知るべきでない者に、知るべきでない知識を吹き込むのは、一種の暴力でしょう。汚れ仕事は我々大人が片付けます。だから、あなたや狼淵どのには、どうか光射す道を歩んでいただきたいものです」
 困ったような、哀しげな笑み。
 維沙は、何も言えず、うつむいた。
 ――恐らくは。
 全体の計画は魔月が立案し、各地の諸侯との折衝は刈舞が担当したのだろう。あの無慈悲で正論しか吐かぬ男に、複雑な利害と感情を抱える貴族らを説得できたとは思えない。
 どれほど以前から、この二人の男は、陰謀の中心として今回の事態に備えていたのだろう。
 そして、もしも刈舞と魔月がかなり以前から結託していたとするなら、昨晩の地下庭園で交わされた両者の会話の意味とは、[つまり]。
 維沙は首を振る。
 どうでもいいことだ。誰が――というか、[誰と誰が]皇帝を殺したのかなど。
 そんな疑問はこれからの世界に何の関わりもないことだ。
 聞くべきではないのだ。
 そして、狼淵には二人の結びつきを言うべきではない。
 もちろん、狼淵は刈舞をすでに信頼している。今更その程度のことで刈舞を見る目が変わったりはしないだろう。だが刈舞の方は、魔月の片棒を担いでいる現状に強い負い目を感じているようだった。
 ならば不必要に言いふらしたりしないのが情けというものだ。
 ――狼淵。
 この場にいない、彼を想う。
 狼淵は、席を外していた。一人になりたいらしい。魔月や刈舞がいろいろと考えているように、狼淵もまたもがきながら前に進もうとしているのだ。
 ――僕は、どこにも、行けないけれど……
 それでも、彼らの苦闘が、どうか無意味に終わることのないよう、願わずにはいられなかった。
「さて、始まるようです」
 その言葉と同時に、至聖祭壇全体を巨大な影が横切って行った。
 維沙は上を見上げる。
 空に向けて大きく口をあけた闘技場。その空を区分けするように、弓形の梁が出現していた。まるで扇のごとく、等間隔に散らばってゆく。
「太古の機構ですね。雨天でも問題なく典礼を執行するための大規模なからくりです」
 しかし、今は雨など降っていない。
 そんな疑問に答えるように、梁と梁の間に黒い布が渡されてゆく。
 見る見る周囲が闇に包まれてゆく。狼狽のざわめきが、あたりを満たす。
 やがて、光は完全に締め出され、視界は闇一色に満たされる。
 喧騒は大きくなり、ほとんど恐慌一歩手前だ。
 そして。

「この大地はかつて、土くれのひと欠片に至るまで人の物であった。我ら人の子は、万物の霊長としての権利を存分に行使し、螺旋の豊穣の果実の甘みを喰らうがごとく、恵みを享受し、栄え、謳歌しておった」

 扇情的で、戦慄を呼び覚ます、その声。
 若いような、老いているような、男であるような、女であるような――そのいずれでもあり、いずれでもない、その声。
 維沙の背筋を、ぬるりと粘液質な恐怖が這いまわる。

「されど、この世の果てより、黒き獣どもが現れり。かの者らは人々の領域を侵し、その正当なる支配を奪い、闇の森に居座れり。民草、嘆き悲しみ、奪われた大地を取り戻さんと奮起するも、敵わず、鏖されり」

 至聖祭壇をぐるりと囲むように、輝く石柱が現れた。
 壇上が照らされ、闇の中に浮かび上がる。
 その中心に、紅い人影が現れていた。黒い紅を引いた唇が、何らかの凶念を込めて吊りあがった。
 やがて参列席を振り仰ぎ――

「人の子よ。汝らに問う。[このままで良いのか]。汝らの怒りは、嘆きは、呑み込める程度のものなのか。伏して耐えることを本当に承服しているのか。殺され、犯され、食い潰された友や家族の無念を、このまま風化させて良いのか――答えよ!!」

 ――大喝。
 湿った風圧が吹きつけるかのごとく、その声は千を越える参列者全員の頬を張り飛ばした。
 繋がれている異律者すらも一瞬もがくことを忘れるほどの、それは完璧な間を置いた煽動であった。
 衆目を惹きつけずにはおかない、理不尽なまでの存在感。
「……否……」
 維沙のすぐ近くで、そんな声が漏れ出た。
「……否だ……」
 別の方向からも声がする。
 否、否、否と、声は徐々に増え、参列者は立ち上がり、唱和し、やがてひとつのうねりとなって至聖祭壇を呑み込んだ。
 否! 否! 否! 否! 狂熱を煽られた群衆が、一斉に猛る。
 それは、感情と本能に訴えかける狂奔の呼び水。罪燐・ルシリウスの冷静な思索を促す演説とは対極を成す、原初の祭祇であった。
「――よろしい! 人の子らよ、その悲憤、苦しみ、痛み、希望、絶望、そのすべて! 妾が受け取ろう! おぉ、なんと激しく、眩く、熱く、美しい! これこそ人である! これこそが、この地上の正当なる主の証である!」
 歓声が、爆発した。
 口ぐちに朱龍の名を歓呼する。
「なんともはや」
 隣で刈舞が苦笑する。
 だが、その苦笑は「笑み」よりも「苦み」のほうが遥かに多く混じっていた。
「これですよ、維沙どの。この狂熱。徹底的に異律者を排撃する臣民感情。黒き獣への偏執的な憎悪。これこそが、人類社会を本当に破滅へと導いている宿痾なのです」
「え……?」
「人類は異律者に勝てない。そう認めぬかぎり、我々は決して前に進めはしないというのに」
 維沙は眼を見開き、慌てて周囲を見渡した。
 幸い、刈舞の発言を聞き咎める者はいない。
「さて、ひとまずは朱龍どののお手並み拝見といきましょうか。《魔拳》の妙技、今のうちにとっくりと偵察しておかねば」
「そ、そうですね」
「おぉ――黒き獣よ、これよりお主に死を賜わすのは妾にあらず。全人類の怒りと尊厳なれば」
 粘度すら感じられる艶やかな笑みとともに、朱龍の口上は締めくくられた。
「これまでお主らのしてきた冒涜と罪業の因果、従容と甘受せよ」
 そこへいつものように、餓天法師が歩み来たる。
「これより八鱗覇濤が一回戦、第八典礼を執り行う」
 維沙は息をひそめ、死合う両者を睨む。
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
 朱龍が、手袋を外した。
「朱龍・ケーリュシア、並びに異律者「トコツヤミ」。第七炎生礼賛経典義(テスタメントゥム・デュエリウム)が典範に従い、宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)に己が霊格を問え」
 餓天法師が腕を上空に差し上げる。
「――始め」
 腕が振り下ろされる。
 同時に、異律者を戒める枷が、一斉に外れた。

 ●

 狼淵・ザラガが両親を自殺という形で喪った時、その胸に去来していた感情には、悲憤と同時に安堵も混じっていた。
 そのことを、今も否定しきれないでいる。
 ――おやじ。おふくろ。
 そして、名前すら貰うことなく逝った弟と妹よ。
 いったい、彼らの〈魂〉は今どこにあるのか。それとも、そんなものはもうとっくに霧散し、この世のどこにも存在しないのか。
 救いは、どこにあるのか。
 ――少なくとも。
 おやじと、おふくろは、あのまま生きていても、救われることなどなかったであろう。
 共同体での孤立は、即破滅を招く。ひたすら虐げられ、何の希望もない生を全うしただけだったろう。
 ――何のために生きるのか?
 ――心の安らぎ以外、人が追い求めるに値するものなどあるのか?
 罪燐・ルシリウスの言葉が胸をよぎる。
 愛を捨てよ。そは憎しみの母である。
 変異血脈根絶法を作ったのも、狼淵の両親を爪はじきにしたのも、愛を胸に秘め、大切なものを守るために精一杯だった連中だ。
 しかし、螺導・ソーンドリスの言うように、人は決して愛を捨てられぬと言うのなら。
 人が人らしく生きる限り、他の人間に不幸を押しつけざるを得ないのなら。
 首をくくるというのは、あるいは冴えた手だったのではないだろうか。
「……っ」
 頭を乱暴にかきむしる。
 失って。失って。
 [置いてかれて]。
 そして、心が叫ぶのだ。
 ――どうして、連れて行ってくれなかった。
 どうして、自分たちだけ、楽になろうとした。
 あんたらにとって、俺は、何だったんだ。
「――絆などまやかし。理解など不可能――そう考えておられるのかな。お若い方よ」
 その声が聞こえた時、狼淵は即座に振り返り、心機を臨戦させた。
 相手がじゃんけんを仕掛けてこないことはわかりきっている。ゆえに相手を視界に収めることに躊躇などなかった。
 小柄な老人が、佇んでいた。
 漆塗りの打刀を手に、穏やかな気息を繰り返している。
「螺導・ソーンドリス……」
 眉をひそめ、睨みつける。
 友好的になど、到底なれそうもない相手だった。
「何の用だ。こっちゃ今機嫌が悪ぃんだよ」
「善哉。ままならぬ現状に怒りを燃やすは若者の特権でございます」
「あァ?」
 こめかみに血管を浮き上がらせながら、狼淵は拳を握りしめる。
 てめーになにがわかるってんだよ、と言いかけたその瞬間。
「[あなたは間違いなくご両親から愛されておりましたよ]」
 困惑とも怒りとも喜びともつかぬ奇妙な感慨が、狼淵の胸中に射込まれた。
「なに……を……」
 それは、少なくとも、文面だけを見れば、狼淵が今最も欲していた言葉で。
「おやじと、おふくろを、知っているのか!?」
「お会いしたことなどありませんし名前も存じ上げておりません」
「じゃあ何なんだよ! 知りもしねえのに適当なことくっちゃべってんじゃねえぞ!」
 胸ぐらを掴もうと手を伸ばしかけ――同時に狼淵の戦士としての本質が激しく警鐘を鳴らした。
 しん、と澄んだ刃鳴り。
 引っ込めた腕があった位置を、閃光が薙いでいった。研ぎ澄まされた軌跡が、蛍火のごとく空中に灼きついている。
 螺導が抜き打ちに斬りつけてきたのだ。無意識のうちに相手の呼吸を探っていなければ、片腕を失っていたところだ。
「お見事。では拷問具をお出しなさい」
「あぁ!?」
 ひょう、と打刀が風鳴り、狼淵に切っ先を突き付けた。
 間近で見ると、吸い込まれそうなほどに美しい刀だった。
 八雲肌の地鉄が、青々と濡れ光っている。沸(にえ)は深く、星屑を散りばめたかのような地景を描いていた。ふくら付く刃先には互の目刃紋が浮かび上がり、いかにも豪壮である。
「これよりあなたに注がれし愛の実在を論証いたしましょう。お若い方、カリテスをお出しなさい。さもなくばあなたの器が満ちる前に、御首級(みしるし)頂戴つかまつる」
 その言葉に従ったわけでもないが、この男なら本気でこちらの首を落としかねない。
「――〈信頼〉の八鱗よッ! 無垢なる白を纏い、凝固せよッ!」
 白く澄んだ奔流が狼淵の掌より吹き出し、収縮。剣の形に固形化した。
「愛の、論証だ? 何言ってんのかわかんねえよ!」
 彼我の間合いは四歩。即死距離からはやや外れている。
 螺導の呼吸は――当然ながらよくわからない。なんとなく、いま吸っているなとわかる程度だ。
「では、一手馳走いたす」
 言うや否や、無造作ににじり寄ってくる。
 構えは、両手で握った刀を自らの右側にだらりと下げた形だ。片手武器と素手による兵法に慣れ親しんだ狼淵には、異質な構えであった。体のどこにも力みが感じられない。構えていながら、ごく自然体だ。
 ――なんなんだ!
 この剣鬼がどういうつもりなのかさっぱりわからない。が、間違いなく本気だ。今ここで狼淵を斬り殺す結果になっても一向に構わぬと、迷いのない足取りがそう告げていた。
 選択を迫られている。螺導・ソーンドリスの太刀は人間の動体視力を悠々と抜き去り、朧な孤月としか認識できない。
 見てから反応していては到底間に合わないのだ。
 大気が張り詰め、時間が鈍磨する。
 ――ええい、やりづれえ!
 命を狙われたことは何度もある。だが、じゃんけんの選択肢を最初から考えない死合などこれが初めてだ。思考の切り替えがうまくいかない。
 敵は左半身を前に出し、刀を執る両手は後ろに引いている。
 つまりこちらは右側から剣を振り下ろし、螺導の背中に斬り込むべきか。そうすれば、少なくとも刀で受け止めることは不可能。相手は回避するしかない。
 どちらに避けるか。狼淵から見て左に動くということはないはずだ。追憶剣の斬撃が足を切断する。跳びでもすれば回避は可能だが、そこから螺導が反撃に出るには一拍置かなければならない。なぜならすぐに刀を振り下ろそうとしたら、体の上昇中に刃が狼淵に当たることになる。つまり、体の動きと刀の動きが正反対の方向になってしまい、その剣力は著しく弱体化するのだ。肉を少し裂かれはするだろうが、それだけだ。致命傷には程遠い。直後の狼淵の斬り上げで決着だ。
 ゆえに左はない。では右か。はたまた後ろに退くか。
 ――右、か?
 こめかみに汗が浮かぶ。つとめてゆっくりと気息を全身に回す。
 後ろは考えづらい。繰り返すが、体の動きと得物の動きが連動して初めて一撃必殺の剣力が生まれる。後ろへの回避は、直後の反撃を著しく困難にするのだ。刃蘭のような身体能力まかせの相手なら、そういう変則的な動きもしてくるだろうが、螺導はもっと一つの流れの中で鮮やかに勝利を斬り取る剣客である。
 つまり、右だ。上体を傾けてこちらの右横に踏み込みざま、追憶剣が通過した直後に後の先を取りに来る――はずだ。
 悩んでいる暇など欠片もない。腹をくくった。
「るぁッ!」
 剣光一閃。カリテスの至高の刃が斜めに奔り――
 何かの冗談のように、螺導の姿が消失した。精妙な歩法は意識の狭間を縫うのだ。眉一つ動かさず、狼淵は追憶剣に引っ張られるように前転。剣呑ながらも澄み渡って美しい刃鳴りが、背中をかすめてゆくのを感ずる。
 間一髪で回避成功。
 ――ここまでは読み通り!
 そのまま片手で倒立し、振り返りざまに回し蹴りを一閃させる。
 鈍い感触。
 蹴り足に、打刀の柄頭がめり込んでいる。
「――ちっ!」
 両腕の力で跳び退る。
 こちらを振り向きもせずに迎撃してきた。奴は一体どうやって周囲の状況を把握しているのか。
「珍奇な曲芸でございますが、いささか興が醒めまするな。刀法(たちかき)にてつかまつりませい」
「なんでアンタの要望を聞いてやらにゃならねえんだよ!」
「剣とは人が無想に至る唯一の方法論でございます。戦をするなら槍や弓を持ち出せば良いにも関わらず、刀剣が一向に廃れる気配がない、その理由をお考えなさい。剣とは己と語らうための鏡のごときものでございます」
 相変わらず何を言っているのかさっぱりわからない。

 かくして、何の脈絡もなく、老剣鬼と少年剣士による刃の狂宴が始まったのであった。

 ●

 至聖祭壇は、熱狂の渦に飲み込まれていた。
 天蓋の幌が作る闇の中で、参列者は皆立ち上がり、朱龍の名を連呼している。
 維沙は耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、漆黒の中に浮かび上がる典礼の様子を見据えた。
 一見すると、戦況には変化がないように思えた。
 朱龍と異律者は、典礼開始時点と同じ位置で睨みあっている。
 だが――その場から一歩も動かなかったわけではない。すでに一度、攻防はあった。
 典礼開始と同時に手枷足枷が外れ、異律者トコツヤミは絶叫を上げながら吶喊。
 朱龍の艶めかしく盛り上がった僧房筋に食らいつく直前、毒蛇のごとく跳ね上がった白い手首が、その顎門(あぎと)を強引に閉じさせた。歯肉と牙の欠片が飛び散る。
 異律者の強襲速度は刃蘭・アイオリアに勝るとも劣らぬ。それを迷いもなく一手で迎撃してのけた朱龍の運体と呼吸察知能力は間違いなく人を越えた領域だ。
 そこからするりと異律者の側面に回り込みざま足を払う。異律者は何かの喜劇のように空中で一回転して床に叩きつけられる。
 即座に振り下ろされた靴踵が、右肩より生えた赤黒い性器を踏みにじる。血飛沫と薄汚い子種が石畳に開花する。
 金切る絶叫が異律者の喉より迸り出て、跳ね起きる。そこへ迎え撃つように、朱龍の拳が腹に突き入れられた。
 完全な脱力状態から半歩踏み込んで放たれる無拍子の一撃。
 ずむ、と異様な音がして、異律者の巨体が弾かれたように真横に吹き飛んだ。
 一気に間合いが開き、典礼開始時と同じ状況に戻る。
 朱龍は中腰で拳を突き出した姿勢のまま残心。豊かな乳房が衝撃の残滓にゆさりと揺れる。
「今のは勁の絞りを意図的に甘くしていますね」
 横で刈舞が言う。
「完全に決まった場合、七孔より噴血してその場に崩れ落ちるはずです。朱龍どのはかの悪鬼をいたぶられるつもりのようで。まこと、大衆心理と言うものを心得た御仁です」
 なんとも言えない気分になる維沙。
「ほれほれ、立ちやれ。楽しみはこれからぞよ。また陽根がひとつ潰れただけではないか。痛うない痛うない。頑張れ頑張れ」
 童を励ますように声をかける。
 その言葉を理解したわけでもないだろうが、異律者は跳ね起きて朱龍を見る。
 残った陰茎はいまだ充血し、眼も血走っている。砕けた牙を軋らせ、戦意と情欲は旺盛のようだ。
「おぉ、まだまだ妾を孕ませる気概は充分かえ。ほほ、怖や怖や。身も細る思いぢゃて。のう?」
 薄らと黒い唇に笑みを乗せる。
 そして――双方は同時に手を出した。
 じゃんけんである。

 ●

 星々が瞬くように、無数の火花が瞬いては消えた。
 硬質の悲鳴が幾重にも幾重にも耳を劈き、殺意の交響を奏でる。
 狼淵と螺導は足を止め、丁々発止と刃を撃ち交わしていた。両者の間で剣閃が乱舞し、時に直線状に、時に弧を描き、時に不規則な軌道変化を見せながら、純粋剣術の小宇宙を展開する。
 だが――それは本来あり得ないことである。
 斬撃を叩き込むことと、斬撃に対応して防ぐことのどちらがより難易度が高いかを考えれば瞭然である。
 ここまで長く刃の応酬が繰り返されるはずがない。真剣勝負とは大抵一閃か二閃にて決着する。
 ではこの現状を成り立たせている事情とは何か。
「なめてんのか。やるなら真面目にやれ」
 すなわち、片方の技術面がもう片方を明らかに凌駕しており、かつ優越している方が速攻で仕留めるつもりがない場合。
「やっておりますとも。それで? [読み取りましたかな?]」
 死の閃光の狭間で、軽く首をかしげながら螺導は問う。
 狼淵は螺導を油断なく睨みつけながら、困惑した。
 読み取ったか、と聞かれれば、確かに読み取っている。
 追憶剣カリテスを通じ、螺導・ソーンドリスが今何を考えているのかを読み取りはしたのだ。
 しかし――理解不能であった。
 激しく交わされる剣先から流れ込んでくる思考。想念。
 それは、あえて言葉にするなら[自己への没入を媒介とした他者の主観の簒奪]であった。
 ……狼淵にも意味がわからなかったが、とにかくそうとしか言いようがない。
 先天的全盲たる螺導が、認識や思考の様式を常人とは大きくかけ離れた形に培ってきたであろうことは想像がつくが、だからといってその様式をいきなり頭に流し込まれて理解などできるはずもないのだ。
「てめーが[取り繕ってる]ってことだけはわかったよ妖怪ジジイが」
 こめかみに、汗が浮かぶ。
 理解できないなりに、この老爺の世界認識の異形ぶりはなんとなく感じ取れる。
 盲人は普通、視覚以外の感覚が鋭敏に発達しているものだが、螺導という男の本質は恐らくそういうところにはない。
「やつがれ、人の〈魂魄〉の構造について、余人とはいささか異なる見解をもっておりますれば――」
 刀をだらりと下げながら、無造作に歩み寄ってくる。
「――あなたが何を見、何を想い、何に苦しんでいるかはたちどころに感得できまする。稀なる器を宿せし若者よ」
「……っ」
 硬質の悲鳴が連続し、火花が咲き乱れる。
 一呼吸で三連撃。そのすべてが必殺の軌道。さらに大上段で刀がひるがえり、瀑布のごとき一撃が来る。
 狼淵は刀身の平を斜めに当ててそれを受け流し、すれ違いざまに一閃。
 空を切る。
 直後、右目に光が走った。
「……っ!」
 その意味を理解し、戦慄する。
 右眼球に、何かが触れている。
 冷たく、美しい何かが。
 ほんのわずかでも動けば、それは狼淵の目を突き潰してしまうことだろう。
 刀の、切っ先が、狼淵の瞳孔に沈み込む直前の位置で、まるで時が止まったかのごとく静止していた。
 ぬるい汗が、全身を這い回る。
「……なんだ、今のは」
 今、何が起こったのか。
 それは、わかる。
 冗談でも妖術でもなく、純然たる剣理による奇跡である。
 狼淵はさきほどの自らの動きを反芻する。
 凡庸な大上段を? 斜めに当てて受け流した?
 そんなわけがないのだ。剣の求道を極め尽くした修羅の一刀を、賢しらに受け流すなどと。
 事実は逆である。
 受け流したのではない。受け流されたのだ。
 空を切ったのではない。最初からその軌道は螺導を捉えてなどいなかった。
 そもそもあの大上段は刀を返した峰打ちである。あまりに高速すぎてわからなかっただけで。
 斬りおろしで狼淵の横薙ぎの太刀筋を歪め、回避の要をなくしたのち、下向いた切っ先を石畳に叩きつける。
 その反動をもって剣先を跳ね上げ、狼淵の右眼にぴたりと押し当てる。
 それはわかる。なぜか、わかる。
 ――見えていたわけじゃない。
 見えず、認識できない奇襲だったからこそ、このざまである。
 では、なぜ自分は、さっき何が起こったのかを知っている?
 その知識はどこから来た?
 少なくとも、追憶剣カリテスを介して螺導の思考を読んだわけではない。さきの攻防は非常に脊髄反射的なものであり、御力を発動するほどの余裕はなかった。
 では、なぜ。
「――自己への没入」
 混乱する狼淵の脳髄に、その言葉がするりと入り込んだ。
「己の内側へ、深く深く潜航いたしますると、やがて意識ならざる〈渾沌〉の領域に至りまする」
「何を……!?」
「そこは、自分でも自覚していない凶暴かつ暗き情動が荒れ狂う、嵐のごとき世界でございます」
 右目に触れていた切っ先が、引っ込められた。狼淵は思わず目を押さえる。
 螺導は一度刀を打ち振るい、優雅に納刀。ちん、と涼やかな鍔鳴り。
「我々が自覚する意識など、この嵐の海に浮かぶちっぽけな筏に過ぎぬということをあなたは知るでしょう」

 ――その海の、奥深く。

 己の意識の下、遥か深い暗闇より、そんな言葉が響いてきた。
「さらに深く、また深く。情動の大海を下へ下へと潜っていきますると――」

 ――そこには、

「すべてが」

 ――ありまする。

 狼淵は、どっと脂汗をかく。不気味な声の反響が、脳裏に発生している。反射的に距離を取ろうとして――恐らく物理的な距離など何の意味もない現象であることを理解する。
「それは何であるのか。神(ヘビ)――とでも呼べばいいのか。やつがれには判断のしようもありませぬ」

 ――しかし、[それ]は確実に[そこ]にあり、そしてすべての人々と繋がっておりまする。

 現実の発言と、意識の底から溢れてくる言葉。
 それらが互いを補足し合うように、交互に語りかけてくる。
「すべての人々と、繋がっている……?」
 螺導はうなずいた。
「さよう。比喩でも、屁理屈でもなく、そのままの意味でございます。我々の精神の底の底、〈渾沌〉よりさらに奥深く。そこに鎮座まします〈深淵〉は、単一の存在でございます。[それ]が四方に無数の根を伸ばし、それぞれの先端が〈魂魄〉を得て、肉体という殻をかぶったものを、我々は「人」と呼んでいるのでございます」
「んな……馬鹿な……」
 異様な情景が脳裏に現れる。
 全方位に無数の触手を伸ばす、正体不明の大いなる[何か]。それこそが「人類」の正体であり、普段目にしている四肢を備えた姿は、この存在の触手の末端に過ぎないという――
 とうてい受け入れがたい話だ。
「皇帝陛下が現世にご降臨あそばされ、餓天宗が万民の〈魂魄〉を導くようになる以前。人類は、人種や地域によって異なる信仰を育んでいたと言います」
「あぁ?」
「各共同体は、それぞれがそれぞれの神を妄想し、崇め奉っていたとか」
「だからなんだよ」
「非常に奇妙なことに、それぞれの神話や伝承には、どこか似通った象徴が存在しておりました。天に父性を、地に母性を見出したり、世界すべてを支える大樹を想起したり、死後に楽土や地獄が存在するとしたり、竜を退治して王となった英雄の物語がまことしやかに伝えられたり」

 ――驚くべきことに、距離的にまったくかけ離れ、交流も存在しない社会の間でも、多くの象徴的記号が共有されていたのでございます。気候や風土に共通点などなく、言語すらまるで異なっていたにも関わらず、です。

「これは何故なのか? 多くの異端者らが禁断の知識を紐解いては頭を悩ませてきた疑問でございますが、やつがれにしてみればその答えは単純明快。すべての人間は〈深淵〉において繋がっており、各地域に共通する神話的象徴は、その〈深淵〉より溢れ出てくる人類共有の想念なのでございます」

 ――それゆえに、このようなことも可能なのでございます。

 脳裏に響くこの声は、間違いなく螺導のものであり――つまるところ、この男は。
「あんたは……その〈深淵〉に接続できる……とでも言うつもりか。そこから、俺に繋がる根を探し当て、思考を送り込んでいる、とでも!?」
 声が震える。
「誰にでもできることでございます。ただそれに気づかないだけで。特にあなたの根は非常に見分けやすかった。稀なる輝きを持っていた。一目瞭然でございました」
 まるで眼が見えているかのような言い回しだ。
「〈深淵〉に至りなさい。お若い方よ。そのための筋道はカリテスを通じ、すでにあなたの〈魂魄〉にあるはずでございます」
 踵を返し、歩み始める。
「おい! 勝手に斬りかかっといて、言いたいことだけ言ってくれるじゃねえか!」
「やつがれ、無意味に他者を傷つけたことは一度もございません。思推なさい、お若い方よ。あらゆる事柄には意味がある。刃傷すら例外ではない」
「あぁ?」
 相変わらずもってまわった言い廻しで苛々させられる。
「愛とは何か。絆とは何か。人と関わるとはどういうことか。人を殺めるとはどういうことか。すべては〈深淵(そこ)〉にありまする」
 それだけを言い残し、小柄な老爺は貧民街の闇へと消えていった。
 狼淵は、眼を押さえるのも忘れて、唾を吐き捨てた。
「何言ってんのかさっぱりわかんねーよ!」

 ●

 ――重要なのは、均衡である。
 天秤が吊り合うがごとく、互いの戦闘思考が高度にかみ合った瞬間、そこには奇妙なまでに穏やかな安定と調和がもたらされる。
 死合う両者は、ひとつの秩序、ひとつの運動体となって、まるであらかじめ定められていたかのごとく必然的な決着を、共同して作り上げるのだ。
 朱龍・ケーリュシアの拳殺理論――〈蛇の天秤〉。
 だがしかし、今回はそんなものを持ち出すまでもないお粗末な相手であった。
 至聖祭壇が、静まり返っている。さきほどまでの熱狂とは対照的に、畏れを含んだ静寂がその場に降り積もっていた。
 朱龍と、異律者は、手を出し合った状態で静止していた。
 こちらの手はパー。異律者の手もパー。
 朱龍は空いた片手で紅髪を梳った。最前の立ち回りで少々乱れてしまったようだ。いまひとつ決まらぬ。
 黒き獣は鉤爪の生えた五指を繰り、今度はチョキを出す。
 朱龍もチョキだった。
 汚泥が煮立つような唸りとともに、異律者は手を次々と変える。
 指の形がめまぐるしく変化し、三種の手が無作為に次々と繰り出される。
 余人には手がぼんやりと霞んでいるようにしか見えぬであろう高速じゃんけん。
 矢継ぎ早に出される生(パー)と死(チョキ)と無機物(グー)は、しかし殺傷の霊威を発揮することなく終わる。
 朱龍が同時にまったく同じ手を出しつづけているからだ。
 正直、あくびをかみ殺すのに苦労していた。
 ――つまらぬなァ……
 もう殺してしまおうか、と思うが、典礼前にあれだけ大掛かりな演出をした手前、観客が納得する劇的な勝利と言うやつを演出してやらねばなるまい。
 美貌を物憂げに傾げ、朱龍は無造作に歩みを前に進めた。
 じゃんけんも抜かりなく継続中である。相手の筋肉の動きがあからさますぎて、寝ぼけていても阿片を決めていても見切れるであろう。なんとも杜撰な駆拳である。じゃんけんをナメておるのかと思う。
 それとも考える頭がないのか?
 一応、異律者は社会性昆虫のごとき階級構造を持つ知的生命であるらしいが、それにしては莫迦すぎであろう。
 汚らしい絶叫を上げ、飛びかかってくる畜生。少しは呼吸を隠す努力をせよ。
 一呼吸で六発繰り出される瞬撃で全身を打ち抜き、吹き飛ばす。
 そして歩みを再開。
 起き上がりかける顎先を槍のごとき前蹴りで砕くと、直後に突きつけられたチョキを相殺。そのまま手首を捕え、こちら側に引き込みながら脇で極める。石畳に倒れかかる衝撃で肘関節を粉砕。
 倒れかかった勢いのまま転がり、毛むくじゃらの巨躯の上に馬乗りになる。
「哀れよのぅ、これほど偉大な〈魄〉を持ちながら……」
 力強く隆起した胸板に優美な指先を這わせる。筋骨に紛れた経絡の流れを確認。
「力の扱い方を知らず、培うこともない。もって生まれた生物としての枠から一歩も逸脱できず、本能の奴隷のまま実存(じぶん)では何ひとつ掴み取ることもないまま生を終える……実に、実に涙を誘うありようよな。無意味に生まれ、無意味に生きる」
 折られていない方の腕が振りかざされ、鉤爪が朱龍を引き裂かんと迫る。
「――では、無意味に死のうか」
 指圧。朱龍の小指が、異律者の肉体にめり込む。
 瞬間、黒き獣の巨体が大きく痙攣した。四肢が硬直し、動きが止まる。
 その状態を維持したまま、丹田に気息を回し、勁を蓄積する。
 下腹をへこませて吸気。へそを左右に引き延ばすように吐気。
 全身の歯車が噛み合うように、あらゆる筋肉、血脈、骨格の作用力がひとつの勁として寄りあわされ、練り上げられる。
 そして。
 爆発的な呼気とともに拳を打ち下ろし、発勁。
 巨人が足を踏み下ろしたかのような重々しい轟音。
 異律者を中心に、放射線状に亀裂が走り、砕けた石片が舞い散る。
 ――手ごたえあり。
 心地よい虚脱感とともにゆったりと身を起こし、一歩二歩後ずさる。
 黒い唇を歪め、腰に手を当てて経過を眺める。
 異律者は――もがいていた。
 まるで溺れているかのように手足を動かし、身をのたうたせている。
 口を精一杯に開け、呼吸を行おうとするも、わずかなうめき声すら出せないでいる。喉に何か詰まっているかのようだ。
 首を振りたくり、喉をかきむしり、悶えている。
「おぉ、苦しいかえ? 苦しいよのぅ。吸うことも吐くこともできんよなぁ。なにゆえであろうなぁ」
 目を嗜虐的に細め、ねっとりと声をかける。

 ●

「あれは遠当てと呼ばれる技法ですね」
 刈舞は単眼鏡(モノクル)を動かしながら言う。
「相手の肉体の表面ではなく、体内の任意の深度で衝撃を炸裂させる絶招です。もともとは甲冑を着た相手を葬るための合戦礼法でしたが、朱龍どのはより残虐な意図を持ってこれを撃ち込まれたようで」
「腹に撃ち込んで、どうして呼吸ができなくなるんです?」
「肺は、そもそも肺自身の力で呼吸を行っているわけではありません。それより下の、横隔膜と呼ばれる部位こそが呼吸の原動機なのです。そこを遠当てで正確に撃ち抜き、断裂せしめたのでしょう」
 維沙は戦慄する。
 その気になればいつでも殺せるのに、朱龍は徹底的に嬲るつもりのようだ。
 見たところ、あの異律者の個体は決して弱くはない。身体能力だけで言えば刃蘭・アイオリアに匹敵する。人間では対抗しがたい存在だ。
 それがまるで相手にならない。
「維沙どの」
 刈舞が、静かな眼差しを向けてくる。
「あなたは[あれ]に、本当に勝てますか?」
「……っ」
 痩身を、生ぬるい恐怖が這いまわる。
 膝をぎゅっとつかみ、震えをこらえる。
「勝ちます」
 決然と、隻眼を至聖祭壇に向ける。もはや決して目をそらさぬと覚悟して。
「勝って見せます」

 ●

 わざとゆっくりと脚を後ろに引き――体重を乗せた大振りな蹴りを叩き込む。
 柔らかいものと硬いものを一度に叩き潰す、甘美な感触が爪先に広がる。
 ――頬骨が砕けたかな?
 衝撃で、異律者の赤い眼球が飛び出ている。その瞳孔は震えるように拡大と縮小を繰り返し、明確な怯えの色があった。
 絶対に勝てない、ということを、ようやく悟ったようだ。遅すぎる。あぁ、莫迦なんだったな。
 朱龍は穏やかに微笑みながら性器のひとつを踏み潰し、にじる。これで通算五本目だ。せっかくだから、生きているうちにすべて潰してしまおう。
 這いずって逃げようとする足首を持ち上げ、膝蹴りで関節を逆に折り曲げる。みちみちと靭帯が引き千切れる快い音とともに、折れ砕けた骨が膝裏から飛び出る。
「痛いよのぅ、苦しいよのぅ――だが甘受せねばなぁ、主らがいままで踏みにじって来た人々の無念と絶望に比べれば、まったく足りぬゆえなぁ」
 全周囲より、朱龍を讃える歓声が押し寄せてくる。
「ほぅれ、頑張れ頑張れ。至聖祭壇から逃げられれば、お優しい餓天法師さまが楽に殺してくれるぞよ?」
 そろそろ殴る蹴るは飽きてきたので、懐から鋏を取りだした。
 ぢょきん。
 小気味良く肩から生えた性器を切断。
 ぢょきん。ぢょきん。ぢょきん。
 ふくらはぎ。手首。上腕。刃が鳴るたびに血飛沫と腺液が噴き上がり、異律者の体が苦痛にのたうちまわる。
 その口からは血泡が吹き出し、懸命に外気を取り込もうとするも、まるで果たせない。
 そして、死ねない。異律者の強靭な生命力は、いまだ楽になることを承服していない。
「さてと」
 残った性器は二本。まずは逆の手首に生えたモノから。
「ほれ、ぢっとせんか」
 手首を捩じりあげながら極める。
 先端の膨らんでいる亀頭の半ばをぢょきん。ついで細い首部分をぢょきん。それから血管の浮き出る竿を先端から少しずつぢょきんぢょきんぢょきんぢょきんぢょきん、ぢょきん。
「うん、もうすこし切れ味の悪い鋏にすべきだったの。すっぱり切れ過ぎてもあまり苦痛はあるまい? うん?」
 見ると、異律者の両眼から、透明な涙が流れ出ていた。
「おやおや、おやおやおや。これはこれは。異律者も痛みに涙を流すとな。ほほ、なかなか親近感の湧いてくることよ」
 朱龍はおもむろに異律者の尻にまたがり、最後の一本――人間と同じく股間に生えるそれと、相対した。
 しばし人差し指を己の顎に当てて思案し、ひとつうなずくと、鋏を閉じた状態で逆手に持った。
 そして逆の手で薄汚い性器を優しく掴む。艶めかしい手つきで指を絡みつかせ、刺激し始めた。
 萎えてきっていた陽根はたちまち膨張し、腺液を分泌し始める。
「元気でよろしい。ではさらば」
 鋏を小さな孔に一気にこじ入れた。ねじりながら奥まで貫く。
 次いで閉じあわされた鋏の持ち手を両手で掴むと、すこしずつ割り開いて行った。
 尻の下で異律者の筋肉が痙攣しているのを感じる。
 完全に開き切ると、力を込めて引き抜いた。栓を抜いたように血とよくわからない液体が吹き出る。
「悪根、これにて根絶さる。うん、気分はどうかの? 子孫を遺す可能性を根こそぎ奪われた気分は? ……おや、これはいかん。もう死にそうではないか」
 異律者の頭の方に回り込むと、気付けとばかりに飛び出ている方の眼球を毟り取った。
 血と視神経が、眼窩よりぴゅるると出てくる。
「ほれ、しゃんとせい。最期に妾に一矢報いて見よ。ほうれほうれ、ここにおるぞよ?」
 顔の目の前で両手を音高く打ち鳴らす。
 すると――異律者の腕が、震えながら持ち上がり始める。
「おぉ、善き哉善き哉。さぁ出来るかの? 死ぬる前にせめて一手、目に物見せられるかの? ほほ、頑張れ頑張れ」
 もどかしいほど遅く、しかし確実に、その指は死を象徴しはじめる。
 朱龍は、にんまりとそれを見ていた。
 そして毛深い手がようやくチョキを作り上げるのとまったく同時に、微妙な笑顔の横にグーが出現していたのであった。
 朱龍がさっと立ち上がると、異律者の頭部は破裂し、骨片と脳漿が紅い裾を汚した。
「典礼、かく成就せり! 勝者、朱龍・ケーリュシア! ますらおに誉れあれかし!」
 ――誉れあれかし!
  ――誉れあれかし!
 歓声が炸裂し、壁が押し寄せてくるかのように朱龍の名が連呼される。
 両性具有の麗人は、芝居がかった所作で参列席を振り仰ぐと、優美に一礼してみせた。
 歓呼の声は、しばらくとどまるところを知らなかった。

後書き


作者:バール
投稿日:2016/06/27 20:46
更新日:2016/10/17 20:37
『鏖都アギュギテムの紅昏』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

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作品ID:1753
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