作品ID:764
あなたの読了ステータス
(読了ボタン正常)一般ユーザと認識
「Reptilia ?虫篭の少女達?」を読み始めました。
読了ステータス(人数)
読了(15)・読中(0)・読止(0)・一般PV数(253)
読了した住民(一般ユーザは含まれません)
Reptilia ?虫篭の少女達?
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 休載中
前書き・紹介
第一章 日常に生きる少女 3
前の話 | 目次 | 次の話 |
廃棄物の沈む海と腐敗した油の匂いが混ざって、この街の匂いは形成されている。
砂原は駅前通りと商店街から離れた場所に建つ、板塀に囲まれた屋敷の前でその匂いを胸一杯に吸い込んだ。相変わらず、どろどろしい大気だが、しかし、砂原はそれが嫌いではない。
煙草を銜えると、舎弟の一人である道田がジッポライターの火を差し出した。
「やっぱり、故郷ってのはいいもんだわ」 煙を吐きながら、砂原はにやりと笑った。
道田は肩を竦めて下がる。
「八代目がお待ちですよ」 彼はそう言った。
砂原は頷いて、五回だけ吸った煙草を足下に落として踏み潰す。仰々しい瓦屋根の正門をくぐり、日本庭園を左に構える石畳の道を歩く。道田を筆頭とする砂原の舎弟達も彼の後に続いた。
大政組――。それが、砂原の属する暴力団組織の名前である。元は、明治維新と共に没落したものの、由緒ある武家から始まったこの組は、虫篭の稼業のほとんどを掌握する組織である。その圧倒的な勢力を形成するまでには血生臭い抗争の歴史があった。大政組は、虫篭における裏の戦乱を勝ち抜いた猛者達の集団である。中でも、齢五十を越える古株幹部の砂原はかつて、先代である大政和蔵に引き抜かれ、その抗争で名を轟かせるほどの活躍を見せた。悪名も随分高い。しかし、組織に対する忠誠の厚さが、彼を今も極道の世界に駆り立てる。
砂原は変わり者としても有名である。いつも針金の曲がったような笑みを浮かべていて、悠然と構えている。その喰えない表情で部下を労う事もあれば、制裁の鉛弾を容赦なく撃つ事もあるのだ。呑気そうに笑ってはいるが、その反面、その狡猾さとキレる頭脳は衰えを見せる事無く、今でも本土の筋者にすら恐れられている。同様に、彼を伝説として崇拝する者達も未だに増え続ける。
先代である大政和蔵は六年前に逝去した。寿命だった。七回忌も半年前に迎えたばかりである。
石畳を革靴で鳴らしながら、砂原はぼんやりと、恩人であり、親同然だった先代組長を忍んだ。かつて高校を中退してこの人工島へ渡り、放蕩していた所を拾われたのである。先代の懐が無ければ、今頃砂原はのたれ死んで腐っていたに違いないのだ。
この大政組の拠点とも言える屋敷は先代が建てたものである。日本庭園や、屋敷の裏手に寝そべる大仏像や、古めかしい装飾はすべて先代の趣味である。もちろん、大政組は虫篭の街中に事務ビルを何棟も持っているが、やはり、この屋敷の空気は格別だった。この屋敷で砂原は血生臭い青年期を過ごしたのである。
本堂の玄関に立つ二人のガードマンに敬礼じみたポーズを示しながら、砂原達は屋敷へ入る。腰元と言ってもいい、古風な着物を着た女達に座敷へと通された。
縁側に面した座敷には八代目であり、現組長である大政彦治が若い衆を侍らせて座っていた。
「よぉ、砂原」 彦治が莞爾と笑いながら迎えた。 「ご苦労だった」
彦治は二十八歳で、まだまだ若い。金髪を後ろに撫でつけるように固めて縁無しの眼鏡をかけているが、着ているのは黒い重厚な紋付の羽織袴である。その異様な組み合わせが若者の貫禄の示し方なのであろう。
対する砂原はくたびれた飴色のジャケットにネクタイである。互いの内に秘めた熱量をそのまま露わしたかのようで、砂原は苦笑を浮かべた。
「八代目、ただいま戻りました」 砂原は低頭する。後ろの舎弟達もそれに倣って頭を下げた。
「石田組とはどうなった?」
「話を着けました。変わらずの協定路線です」
「そうか、そうか」 彦治は頷いて、懐から葉巻を取り出す。すぐに側近の男が火をつけた。
砂原は三ヶ月間、本土、東京へと赴いて他の組織の下へ渡っていた。世間一般で言う出張という奴だ。皆、馬鹿馬鹿しい事だと内心思ってはいるが、これも平和に事を収めるのに必要な儀式だった。前回の抗争はそれ程、酷いものだったのだ。
「ともあれ、お疲れさん。皆、暫く休んでもらっていい」 彦治は紫煙を吐きながら労った。
砂原も愛用の煙草を銜える。彦治の前なので自分で火をつけた。ただ、組長の前で堂々と煙草を吸えるのは組内でも砂原くらいの幹部だけである。彦治もそれを咎めはしない。
「お前がいない間は、あのガキの始末に手を焼いていた」 彦治は肩を揺すりながら、少しだけ憮然として言う。 「相変わらず、やりたい放題だ」
「組員に手を出したんですか?」 砂原は煙を漂わせながら笑みを浮かべる。
『少女』に関しての話題はもはや二人の間では定番であり、主に砂原は愚痴を聞いてやる側だった。そして、彦治がぼろぼろと内心の事を漏らせるのも、やはり砂原しかいなかった。彦治がまだ鼻垂れた小僧だった時分から、砂原はよく彼の面倒を看てやったのである。
「いや、何かされたってわけじゃないが、強請に傷害……、警察もその度に動いてこっちまで動きが制限される。いい迷惑だぜ」
「娼婦のほうは?」 砂原は尋ねる。
「そう、それが一番厄介だな」 彦治は苦々しく言った。
娼婦というのは、大政組が仕切る虫篭唯一の売春宿で働く、真澄という女の事である。三十歳を過ぎたばかりの、娼婦にしては知性的な顔立ちの女だ。
少女がその真澄という女を慕っているのは、大政組の内でも警察の間でも有名な話だった。客の間でも噂になっているようで、サキが真澄の元へ出向く度に客入りが悪くなる。もちろん、その時ばかりは真澄も特例扱いで少女専属の娼婦として他の客の指名を受け付けない。従業員も大政組の面々も、それを黙認するしかないのである。
砂原は少女の事をよく知っていた。ある意味では、彼は少女に対して好意的でもあった。なんとなしに気になる存在である。同時に不憫に感じる事もあった。
「だがな、悪い話ばかりでもねぇ」 彦治はまた笑みを顔に浮かべた。
紫煙の中に浮かぶその顔は、暴力的な印象もあるが、砂原からすればあどけなさの面影もあった。少女と彦治は似ている、と砂原が内心思っているのは、誰にも話していない彼だけの説である。
「島知事がな、変わるんだよ」 彦治は言った。
「ああ、聞きましたよ、それ。確か、熊井とかいう狸でしょう」 砂原は顔を渋くして言った。
虫篭と呼ばれる人工島の街は、一応であるが東京都に区分される。だが、その隔離性から、都知事とは別に島知事という管理者が指名されるのだ。どちらかといえば、市長に近い役職である。
もちろん、その知事の選任は市民の投票で決まる事になっているが、いつからか、その知事選任も出来レースとなっていた。その出来レースにも大政組が一枚噛んでいる。それほどまでに組は影響力を持っている。故に、砂原も次の島知事が誰に任命されるのか、知り得られるのである。
もっとも、ほとんどの政治家はこの街の担当を嫌がって、自ら立候補はしない。だから、長年、この島の知事は変わっていなかった。
熊井というのが、次の選挙に勝つ予定の、腹の出っ張った狸じじいである。狸という砂原の表現が面白かったのか、彦治は葉巻を銜えながらくつくつ笑っていた。
「そう、その狸がな、今度、国の事業を任されるらしいんだよ」 彦治は笑いながら言う。 「幸い、うちの組にも好意的でなぁ」
逆に言えば、好意的ではない奴が知事になる事はないのである。
「共同で事業を展開しましょうって話だ」
「事業っていうのは?」 砂原はつっけんどんに訊く。
彼には余所者の、特に政府という組織の介入が面白くなかった。
それに、嫌な予感もしたのである。この直感が砂原を今日まで生き永らえさせたといっても過言ではない。
「極秘だそうだ。この島は舞台として適任らしい。まぁ、俺らがやるのは建物作る為の地上げだけだ」
「地上げ?」 砂原は腰を浮かしかける。 「それ、まさか、承認したんじゃないでしょうね?」
「まぁ、お前が反対するのは予想してたさ」 彦治は肩を竦める。
砂原は信じられない思いで若い組長を見る。地上げということは、この島の住民を追い出すという事である。この地に住み慣れた住民は、本土へと渡るしか手が無いだろう。
「大丈夫、その、移動した奴の手当ては国が付けるって話だ。俺らは強情な奴や、企業の相手をすりゃいいんだ」
「ここは、俺達の街ですよ」 砂原は僅かに眼を尖らせて言う。
「まぁ、聞け。なんたって今回は、国と足を揃えるんだ。何にしたって莫大な利益が入る。親父の代を越えるシノギになるぜ」
「その後、組はどうなるんです?」 砂原は訊いた。
「合法の社団法人に生まれ変わるのさ」 彦治は得意げな顔で言った。 「国のお墨付きだぜ」
砂原は愕然とした。そんな上手い話があるものか、と思った。もしそうなったとしても、それは代々続くこの組の誇りという奴を溝に捨てる事に等しいのではないか。
無意識に先代の顔を思い浮かべた。なにか、とんでもない事をしようとしている気がした。
しかし、砂原は表情を変えずに、目の前の主へと静かな目線を送っていた。結局は従うしかないのだ。
「砂原、俺はもう、おしめつけたガキじゃないんだぜ?」 彦治は察したように真顔になった。声には低い響きがある。 「親父を越えるつもりなんだよ、俺は」
砂原は黙って頷いた。今はもう自分の時代ではないのだという意識があるからこそ、できる芸当だった。
砂原達は門を出た。外は相変わらず日差しが強く、すぐに汗ばんでしまった。
休みを貰ったが、これから大政組が仕切る店を回るつもりだった。もちろん、舎弟達もそれに付いてくる。砂原が煙草を銜えると、やはり道田が火をつけた。
「ミッチーは、坊ちゃんの所に来るのは初めてだったか?」 砂原はニヤニヤして煙を吐いた。
「だから、それ、やめてくださいよ……」 強面を崩して道田は頭を掻いた。 「ええ、見た事はありましたけど、屋敷に来たのは初めてです」
道田は元々、九州の出身者である。まだ二十四歳であるが、砂原の右腕的部下だ。茶色の前髪の下では切創が斜めに走っている。それは極道に入ってからではなく、まだ学生だった頃に喧嘩の際に貰った傷らしい。砂原の前では大人しいが、本来は荒い気性の持ち主で喧嘩っ早いという事を砂原はもちろん知っている。
「なんか、想像と違いましたね。あれじゃ、まるでチンピラのガキみたいじゃないですか」 道田は険しい眼付きで声を潜ませる。
「若者の間ではあれが流行っているんだろ?」 砂原は引き笑いを押し殺した。
しかし、憮然としているのは道田だけではなく、他の舎弟達も同様だった。
「なんか、砂原さんを軽く見てるようで、あんまり好かないですね」 道田は舌打ち混じりに言った。
「やめとけ、ミッチー。思ってても口にするな」 砂原は笑いながらも、低い声で忠告する。
あっ、と気付いたように道田は口を噤み、頭を下げた。 「すみません……」
「まぁ、指を切り落とすのも古くせぇ時代だ」 そう言って、ひらひらさせる砂原の右手には小指が無い。 「若者の感性が重要なのよ」
舎弟が車のドアを開けて、砂原は後部座席に体を収めた。隣には道田が座り、前に他の舎弟二人が座る。エンジンが掛かり、滑るように走りだした。
「もう一ついいっすか、砂原さん」 道田が言う。
「どうぞ」 砂原はおどけて返す。
「組長が言ってたあのガキってのは、前に話してくれたサキって女の事ですか?」
「そうだ」 砂原は頷く。 「お前、サキを見たことなかったっけか?」
「噂だけしか知りませんね。筋者相手にもビビらない奴だとか」
「あいつには気をつけろ」 砂原は窓の外を眺めながら言った。
大政組の屋敷は丁度坂の上に位置しているので、この道からは澱んだ街が見渡せた。青い空とは正反対に、街はいつも赤土色と灰色に染まっている。もう少し遠くまで見てみると、緑色に煌めく海が見えた。
「何者なんですか、その、サキって女は?」 道田が尋ねる。
砂原はずっと持っていた煙草を口に銜えて、ぼんやりと考えた。
「お前、『強化人間プロジェクト』って知ってるか?」 砂原は尋ね返す。
「え、えぇ、名前だけなら……」 道田は曖昧に頷いた。
強化人間プロジェクトというのは十数年前、社会に露呈された政府の極秘プロジェクトの事だ。
元々は国の先進性を他国に示す為、国の生物化学の権威を秘密裏に招集して、過酷化する地球環境を生き延びる為、モルモットの遺伝子組み換えや新薬の実験を行っていたに過ぎなかった。それがいつの間にか人体実験まで行うようになり、クローン技術の応用として、タブーとされた人間までも造り出したのだ。造り出された人間や、遺伝子を組み替えられた人間はすぐに死んだという話であるが、稀に生き残る個体もいたという。
その生き残った人間を新人類――、『強化人間』と呼ぶのである。
ただ、この実験の残虐性や倫理性の問題から内部告発が起こり、社会へ暴露されてしまった。国民や他国の首脳からも非難が集中し、プロジェクトは中断され、造り出された人間や新薬、レポートなども回収されたという。これは社会騒動を越えて、世界中が注目した事件だった。
現在はもちろん実験は中断されたままで、政党の交替も起こり、日本は他国への信頼回復に励んでいる。
「そのプロジェクトの生き残りとされてるのがな、サキって女だ」 砂原は言った。
もちろん、確証のない話ではあるが、サキの身体能力は人間を超越している。導き出される答えはそれしかないのだ。
砂原が彼女へ興味を抱くのはその為である。何故、彼女が生き残って脱走できたのか、そしてこの街に流れ着いたのかは誰も知らない。
「嘘でしょう? じゃ、その女、人間じゃないってことですか?」 道田は驚愕を浮かべながらも、へらへらと笑っていた。
「ミッチー」 砂原は彼を見据える。もう笑ってはいなかった。 「この世界で生き延びてぇなら、何が真実で、何が嘘なのか、見極めるんだな」
車内の空気が凍りつくのがわかった。道田はごくり、と唾を呑んで頷いた。
砂原は窓を開けて、吸殻をガードレールの向こう側へ投げ捨てた。
砂原は駅前通りと商店街から離れた場所に建つ、板塀に囲まれた屋敷の前でその匂いを胸一杯に吸い込んだ。相変わらず、どろどろしい大気だが、しかし、砂原はそれが嫌いではない。
煙草を銜えると、舎弟の一人である道田がジッポライターの火を差し出した。
「やっぱり、故郷ってのはいいもんだわ」 煙を吐きながら、砂原はにやりと笑った。
道田は肩を竦めて下がる。
「八代目がお待ちですよ」 彼はそう言った。
砂原は頷いて、五回だけ吸った煙草を足下に落として踏み潰す。仰々しい瓦屋根の正門をくぐり、日本庭園を左に構える石畳の道を歩く。道田を筆頭とする砂原の舎弟達も彼の後に続いた。
大政組――。それが、砂原の属する暴力団組織の名前である。元は、明治維新と共に没落したものの、由緒ある武家から始まったこの組は、虫篭の稼業のほとんどを掌握する組織である。その圧倒的な勢力を形成するまでには血生臭い抗争の歴史があった。大政組は、虫篭における裏の戦乱を勝ち抜いた猛者達の集団である。中でも、齢五十を越える古株幹部の砂原はかつて、先代である大政和蔵に引き抜かれ、その抗争で名を轟かせるほどの活躍を見せた。悪名も随分高い。しかし、組織に対する忠誠の厚さが、彼を今も極道の世界に駆り立てる。
砂原は変わり者としても有名である。いつも針金の曲がったような笑みを浮かべていて、悠然と構えている。その喰えない表情で部下を労う事もあれば、制裁の鉛弾を容赦なく撃つ事もあるのだ。呑気そうに笑ってはいるが、その反面、その狡猾さとキレる頭脳は衰えを見せる事無く、今でも本土の筋者にすら恐れられている。同様に、彼を伝説として崇拝する者達も未だに増え続ける。
先代である大政和蔵は六年前に逝去した。寿命だった。七回忌も半年前に迎えたばかりである。
石畳を革靴で鳴らしながら、砂原はぼんやりと、恩人であり、親同然だった先代組長を忍んだ。かつて高校を中退してこの人工島へ渡り、放蕩していた所を拾われたのである。先代の懐が無ければ、今頃砂原はのたれ死んで腐っていたに違いないのだ。
この大政組の拠点とも言える屋敷は先代が建てたものである。日本庭園や、屋敷の裏手に寝そべる大仏像や、古めかしい装飾はすべて先代の趣味である。もちろん、大政組は虫篭の街中に事務ビルを何棟も持っているが、やはり、この屋敷の空気は格別だった。この屋敷で砂原は血生臭い青年期を過ごしたのである。
本堂の玄関に立つ二人のガードマンに敬礼じみたポーズを示しながら、砂原達は屋敷へ入る。腰元と言ってもいい、古風な着物を着た女達に座敷へと通された。
縁側に面した座敷には八代目であり、現組長である大政彦治が若い衆を侍らせて座っていた。
「よぉ、砂原」 彦治が莞爾と笑いながら迎えた。 「ご苦労だった」
彦治は二十八歳で、まだまだ若い。金髪を後ろに撫でつけるように固めて縁無しの眼鏡をかけているが、着ているのは黒い重厚な紋付の羽織袴である。その異様な組み合わせが若者の貫禄の示し方なのであろう。
対する砂原はくたびれた飴色のジャケットにネクタイである。互いの内に秘めた熱量をそのまま露わしたかのようで、砂原は苦笑を浮かべた。
「八代目、ただいま戻りました」 砂原は低頭する。後ろの舎弟達もそれに倣って頭を下げた。
「石田組とはどうなった?」
「話を着けました。変わらずの協定路線です」
「そうか、そうか」 彦治は頷いて、懐から葉巻を取り出す。すぐに側近の男が火をつけた。
砂原は三ヶ月間、本土、東京へと赴いて他の組織の下へ渡っていた。世間一般で言う出張という奴だ。皆、馬鹿馬鹿しい事だと内心思ってはいるが、これも平和に事を収めるのに必要な儀式だった。前回の抗争はそれ程、酷いものだったのだ。
「ともあれ、お疲れさん。皆、暫く休んでもらっていい」 彦治は紫煙を吐きながら労った。
砂原も愛用の煙草を銜える。彦治の前なので自分で火をつけた。ただ、組長の前で堂々と煙草を吸えるのは組内でも砂原くらいの幹部だけである。彦治もそれを咎めはしない。
「お前がいない間は、あのガキの始末に手を焼いていた」 彦治は肩を揺すりながら、少しだけ憮然として言う。 「相変わらず、やりたい放題だ」
「組員に手を出したんですか?」 砂原は煙を漂わせながら笑みを浮かべる。
『少女』に関しての話題はもはや二人の間では定番であり、主に砂原は愚痴を聞いてやる側だった。そして、彦治がぼろぼろと内心の事を漏らせるのも、やはり砂原しかいなかった。彦治がまだ鼻垂れた小僧だった時分から、砂原はよく彼の面倒を看てやったのである。
「いや、何かされたってわけじゃないが、強請に傷害……、警察もその度に動いてこっちまで動きが制限される。いい迷惑だぜ」
「娼婦のほうは?」 砂原は尋ねる。
「そう、それが一番厄介だな」 彦治は苦々しく言った。
娼婦というのは、大政組が仕切る虫篭唯一の売春宿で働く、真澄という女の事である。三十歳を過ぎたばかりの、娼婦にしては知性的な顔立ちの女だ。
少女がその真澄という女を慕っているのは、大政組の内でも警察の間でも有名な話だった。客の間でも噂になっているようで、サキが真澄の元へ出向く度に客入りが悪くなる。もちろん、その時ばかりは真澄も特例扱いで少女専属の娼婦として他の客の指名を受け付けない。従業員も大政組の面々も、それを黙認するしかないのである。
砂原は少女の事をよく知っていた。ある意味では、彼は少女に対して好意的でもあった。なんとなしに気になる存在である。同時に不憫に感じる事もあった。
「だがな、悪い話ばかりでもねぇ」 彦治はまた笑みを顔に浮かべた。
紫煙の中に浮かぶその顔は、暴力的な印象もあるが、砂原からすればあどけなさの面影もあった。少女と彦治は似ている、と砂原が内心思っているのは、誰にも話していない彼だけの説である。
「島知事がな、変わるんだよ」 彦治は言った。
「ああ、聞きましたよ、それ。確か、熊井とかいう狸でしょう」 砂原は顔を渋くして言った。
虫篭と呼ばれる人工島の街は、一応であるが東京都に区分される。だが、その隔離性から、都知事とは別に島知事という管理者が指名されるのだ。どちらかといえば、市長に近い役職である。
もちろん、その知事の選任は市民の投票で決まる事になっているが、いつからか、その知事選任も出来レースとなっていた。その出来レースにも大政組が一枚噛んでいる。それほどまでに組は影響力を持っている。故に、砂原も次の島知事が誰に任命されるのか、知り得られるのである。
もっとも、ほとんどの政治家はこの街の担当を嫌がって、自ら立候補はしない。だから、長年、この島の知事は変わっていなかった。
熊井というのが、次の選挙に勝つ予定の、腹の出っ張った狸じじいである。狸という砂原の表現が面白かったのか、彦治は葉巻を銜えながらくつくつ笑っていた。
「そう、その狸がな、今度、国の事業を任されるらしいんだよ」 彦治は笑いながら言う。 「幸い、うちの組にも好意的でなぁ」
逆に言えば、好意的ではない奴が知事になる事はないのである。
「共同で事業を展開しましょうって話だ」
「事業っていうのは?」 砂原はつっけんどんに訊く。
彼には余所者の、特に政府という組織の介入が面白くなかった。
それに、嫌な予感もしたのである。この直感が砂原を今日まで生き永らえさせたといっても過言ではない。
「極秘だそうだ。この島は舞台として適任らしい。まぁ、俺らがやるのは建物作る為の地上げだけだ」
「地上げ?」 砂原は腰を浮かしかける。 「それ、まさか、承認したんじゃないでしょうね?」
「まぁ、お前が反対するのは予想してたさ」 彦治は肩を竦める。
砂原は信じられない思いで若い組長を見る。地上げということは、この島の住民を追い出すという事である。この地に住み慣れた住民は、本土へと渡るしか手が無いだろう。
「大丈夫、その、移動した奴の手当ては国が付けるって話だ。俺らは強情な奴や、企業の相手をすりゃいいんだ」
「ここは、俺達の街ですよ」 砂原は僅かに眼を尖らせて言う。
「まぁ、聞け。なんたって今回は、国と足を揃えるんだ。何にしたって莫大な利益が入る。親父の代を越えるシノギになるぜ」
「その後、組はどうなるんです?」 砂原は訊いた。
「合法の社団法人に生まれ変わるのさ」 彦治は得意げな顔で言った。 「国のお墨付きだぜ」
砂原は愕然とした。そんな上手い話があるものか、と思った。もしそうなったとしても、それは代々続くこの組の誇りという奴を溝に捨てる事に等しいのではないか。
無意識に先代の顔を思い浮かべた。なにか、とんでもない事をしようとしている気がした。
しかし、砂原は表情を変えずに、目の前の主へと静かな目線を送っていた。結局は従うしかないのだ。
「砂原、俺はもう、おしめつけたガキじゃないんだぜ?」 彦治は察したように真顔になった。声には低い響きがある。 「親父を越えるつもりなんだよ、俺は」
砂原は黙って頷いた。今はもう自分の時代ではないのだという意識があるからこそ、できる芸当だった。
砂原達は門を出た。外は相変わらず日差しが強く、すぐに汗ばんでしまった。
休みを貰ったが、これから大政組が仕切る店を回るつもりだった。もちろん、舎弟達もそれに付いてくる。砂原が煙草を銜えると、やはり道田が火をつけた。
「ミッチーは、坊ちゃんの所に来るのは初めてだったか?」 砂原はニヤニヤして煙を吐いた。
「だから、それ、やめてくださいよ……」 強面を崩して道田は頭を掻いた。 「ええ、見た事はありましたけど、屋敷に来たのは初めてです」
道田は元々、九州の出身者である。まだ二十四歳であるが、砂原の右腕的部下だ。茶色の前髪の下では切創が斜めに走っている。それは極道に入ってからではなく、まだ学生だった頃に喧嘩の際に貰った傷らしい。砂原の前では大人しいが、本来は荒い気性の持ち主で喧嘩っ早いという事を砂原はもちろん知っている。
「なんか、想像と違いましたね。あれじゃ、まるでチンピラのガキみたいじゃないですか」 道田は険しい眼付きで声を潜ませる。
「若者の間ではあれが流行っているんだろ?」 砂原は引き笑いを押し殺した。
しかし、憮然としているのは道田だけではなく、他の舎弟達も同様だった。
「なんか、砂原さんを軽く見てるようで、あんまり好かないですね」 道田は舌打ち混じりに言った。
「やめとけ、ミッチー。思ってても口にするな」 砂原は笑いながらも、低い声で忠告する。
あっ、と気付いたように道田は口を噤み、頭を下げた。 「すみません……」
「まぁ、指を切り落とすのも古くせぇ時代だ」 そう言って、ひらひらさせる砂原の右手には小指が無い。 「若者の感性が重要なのよ」
舎弟が車のドアを開けて、砂原は後部座席に体を収めた。隣には道田が座り、前に他の舎弟二人が座る。エンジンが掛かり、滑るように走りだした。
「もう一ついいっすか、砂原さん」 道田が言う。
「どうぞ」 砂原はおどけて返す。
「組長が言ってたあのガキってのは、前に話してくれたサキって女の事ですか?」
「そうだ」 砂原は頷く。 「お前、サキを見たことなかったっけか?」
「噂だけしか知りませんね。筋者相手にもビビらない奴だとか」
「あいつには気をつけろ」 砂原は窓の外を眺めながら言った。
大政組の屋敷は丁度坂の上に位置しているので、この道からは澱んだ街が見渡せた。青い空とは正反対に、街はいつも赤土色と灰色に染まっている。もう少し遠くまで見てみると、緑色に煌めく海が見えた。
「何者なんですか、その、サキって女は?」 道田が尋ねる。
砂原はずっと持っていた煙草を口に銜えて、ぼんやりと考えた。
「お前、『強化人間プロジェクト』って知ってるか?」 砂原は尋ね返す。
「え、えぇ、名前だけなら……」 道田は曖昧に頷いた。
強化人間プロジェクトというのは十数年前、社会に露呈された政府の極秘プロジェクトの事だ。
元々は国の先進性を他国に示す為、国の生物化学の権威を秘密裏に招集して、過酷化する地球環境を生き延びる為、モルモットの遺伝子組み換えや新薬の実験を行っていたに過ぎなかった。それがいつの間にか人体実験まで行うようになり、クローン技術の応用として、タブーとされた人間までも造り出したのだ。造り出された人間や、遺伝子を組み替えられた人間はすぐに死んだという話であるが、稀に生き残る個体もいたという。
その生き残った人間を新人類――、『強化人間』と呼ぶのである。
ただ、この実験の残虐性や倫理性の問題から内部告発が起こり、社会へ暴露されてしまった。国民や他国の首脳からも非難が集中し、プロジェクトは中断され、造り出された人間や新薬、レポートなども回収されたという。これは社会騒動を越えて、世界中が注目した事件だった。
現在はもちろん実験は中断されたままで、政党の交替も起こり、日本は他国への信頼回復に励んでいる。
「そのプロジェクトの生き残りとされてるのがな、サキって女だ」 砂原は言った。
もちろん、確証のない話ではあるが、サキの身体能力は人間を超越している。導き出される答えはそれしかないのだ。
砂原が彼女へ興味を抱くのはその為である。何故、彼女が生き残って脱走できたのか、そしてこの街に流れ着いたのかは誰も知らない。
「嘘でしょう? じゃ、その女、人間じゃないってことですか?」 道田は驚愕を浮かべながらも、へらへらと笑っていた。
「ミッチー」 砂原は彼を見据える。もう笑ってはいなかった。 「この世界で生き延びてぇなら、何が真実で、何が嘘なのか、見極めるんだな」
車内の空気が凍りつくのがわかった。道田はごくり、と唾を呑んで頷いた。
砂原は窓を開けて、吸殻をガードレールの向こう側へ投げ捨てた。
後書き
作者:まっしぶ |
投稿日:2011/06/13 00:27 更新日:2011/06/13 00:36 『Reptilia ?虫篭の少女達?』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。 |
前の話 | 目次 | 次の話 |
読了ボタン