ネジ君からの質問攻めに疲弊する最中、廊下を移動する一つの気配がこちらに近付いてくるのが分かった。ネジ君は自分の部屋から取ってきたらしいお気に入りの絵本をわたしに見せるのに夢中で、紅潮する頬っぺたが大変愛らしい。
「殿」
廊下の方角を振り向くと同時にヒザシさまに名を呼ばれた。
「少し時間を頂けますか」
断る理由もないので、勿論です、と即座に返す。ネジ君はわたしとヒザシさまを交互に見上げ、「わたしはどくしょをしてきますね」と可愛らしい足音を立てながら自分の部屋がある方向へと走っていった。先程ネジ君が屋敷の間取りを全て教えてくれたので、大体は把握した。
あと全然今指摘するようなことではないけれど、ネジ君の一人称が「わたし」って本当に英才教育の賜物だな。時々ぼくって言っちゃう愛らしさを残しているところがまた殺傷能力が高い。君は有能な忍になることだろう。その頃にはわたしは薄暗いブタ箱で体育座りをしているかもしれないがな。
しかし、先程知り合ったような人間に屋敷の間取りなんか教えて良いのだろうか。まあ、向こうはわたしのことを知っていたからこそスカウトしてくれたのだろうし、わたしは日向一族を裏切るような真似をするつもりもないので、関係ないと言えばその通りだが。
だからと言って無用心過ぎるのではないだろうか。仮にも木ノ葉で一番優秀な一族の屋敷だぞ。例え宗家じゃなくとも名門の一家に変わりはない。と、小心者のわたしは言えない。そもそもわたしのような小娘に優秀な一族の人をどうこうできる力もないのだが。
背筋を伸ばし、同じく正座するヒザシさまの言葉を待つ。
沈黙の帳が下りた。ふかふかしすぎて落ち着かない座布団に意識が向かいそうになるのを押し留め、わたしは緊張から僅かに唇を噛んだ。彼の表情は明るくなく、漠然と嫌な予感だけが身体を支配している。
「……あの、お仕事の詳しい条件などを教えていただけないでしょうか」
「それは勿論です。ですがその前に、あなたに家庭教師をお願いした経緯をお伝えさせていただきたい」
ネジ君の前では言いにくいことだったのだろう。先程わたしがいくら食い下がっても、あの場では端から話すつもりはなかったということだ。結局、わたしが首を縦に振る以外の選択肢は最初から存在していなかったと。決定事項だったのだろう。無駄に足掻いてしまったなあ、と少し悲しい気持ちを抑えながら、わたしは姿勢を正す。気を抜くとすぐに猫背になるのだ。
「殿は、日向一族に宗家と分家があることはご存知ですか」
「ある程度ですが……アカデミーの時の友人は分家の人だったと思います」
「ええ、伺っております。では、日向の呪印については、どの程度ご存知ですか?」
詳しくは知りません、と素直に答えれば、ヒザシさまは大きな手で額当ての結び目を解き始めた。その下から現れたのは真っ白な包帯だ。それすらも解いてしまうと、顕わになった額の中心には卍の印が深く刻まれていた。存在は知っていたが、見るのは初めてである。
「宗家が分家を縛り付ける為にあるもの、でしたっけ」
「そうです。死んだ時に白眼の能力を封印することで、呪印は消えます」
ヒザシさまの声は先程よりずっと低かった。細められたまなこには、形容し難い感情の色が浮かんでいた。分家の人は宗家の人を酷く恨んでいるというのは聞いていたが、本当だったんだなと今更に思う。まあ、仲の良い宗家と分家なんて、御伽噺みたいなものである。こういった名家では、特に顕著だろう。
「ネジにも、もうすぐ……この冬には呪印が刻まれます。あの子の力は恐らく宗家を超える……きっと一族で一番日向の血を色濃く継いでおります」
あんな幼子にまでその呪印が必要なのか。名門の一族の人の考えは、一般人にはよく分からない基準があるのだろう。なるほど、ネジ君は随分優秀な子で、恐らく今いる宗家の跡取りよりも十分に強く、才能も実力もあると。そういったネジ君に対し、宗家は呪印だけでなく、家庭教師という外部の人間という首輪をつけることで、ネジ君自身に己の立場を理解させようとしているのではないか。
その力は宗家のために。己が命は宗家のモノ。逆らうことは許さないと。
名門の一族は、そうして何かしらの縛りを伝統的に受け継ぐことで成り立っているのだ。わたしは場違いにも己の生まれに感謝し安堵の息を吐きそうになったが、何とか堪えた。そういった面倒ごととは無縁な、放任主義の家庭で育ててもらったおかげで、今まで適当に程々に、それなりに楽しく人生を謳歌してきたのだ。当人の前で馬鹿な真似をするほどのうつけになった覚えはない。つもり。
「半分は正解で、半分は不正解です」
ヒザシさまにそう返されて、わたしは思わず間抜け顔を晒した。随分面白い顔をしていたらしいわたしを見て、ヒザシさまは力無く笑う。なんかすいません。
「我々は柔拳を扱う一族です。本来であれば、家庭教師に宛がうのは一族の人間なのですが、分家が力を持つことに良い顔をしない者は多くおります」
ヒザシさまの指は拳の中に隠れてしまって見えないが、僅かに震えているのが分かった。生まれた瞬間に、ネジ君は宗家の人間にはなれず、跡取りにもなれない。覆せない運命とでも言うのだろう。有能な息子の将来が狭められているのに反撃すらできないのは、親として筆舌に尽くしがたい苦さをずっと味わうようなものだろう。
「他の分家の者に家庭教師を頼もうとすると、遠回しに妨害されるのです。ですが、私は息子を、ネジには、宗家にだって負けない環境で育ててやりたいのです」
悔しげに彼は下唇を噛むと、視線を畳へと落とした。ああ、ただの息子想いの良い親御さんだ。伏せられた目蓋の奥には、どれほどの激情が隠されていることだろうか。
「あなたが特別上忍になられたとお聞きして、私は火影さまに直談判をして」
「エッ」
思わず声が引っ繰り返った。きょとんとした顔でヒザシさまはわたしを見つめ返してくださるが、いやいやいやいや。
「あの、そんな、わたし直談判されるほどの価値がある忍なんかではとてもとても」
「いえ。あまりに名の知れ渡った優秀な方には、逆にお願いできないのです。依頼すればすぐに噂が出回って初めからやり直しになるので……」
あ、なるほど。新米で全然有名ではないが、ぼちぼちの実力があって目立たない忍。その条件で絞られていけば、わたしに辿り着くのも難しい話ではないのかもしれない。
いや、いま無理矢理自分を納得させようとしてるけど。そういうことで良いのだろうか。もうそういうことにしとこうか。
「ですから、殿」
「はい」
ゆらりと、蝋燭の炎が揺れる幻影が見えた。
「ッ!」
瞬間、思わず息をのむ。びりびりと肌に、内臓に重圧がかかるのが分かる。周囲の空気ごと竦み、肺を鷲掴みにされているような感覚だ。こちらを殺すつもりの視線ではないので幾分マシだと言い聞かせる。そうでないと耐え切れる自信がなかった。何度でも言うが、わたしはしがない新米特別上忍であり、先日までただの中忍だったのだ。
ヒザシさまの米神に浮かぶ幾多の血管と、全てを見透かすような白のまなこは、ひたすら真っ直ぐにわたしという存在を見抜くことだけを求めているようだ。その広い視界に映るわたしは、どれだけちっぽけなものであろうか。
白眼。日向一族の特殊能力、血継限界と呼ばれるもの。その力を求めて他里から侵入者がやってくる以上の価値がある。書物で見ただけでは到底その凄さなど想像できる訳もなかった。口の中は乾き切って、引き攣った声を我慢するので精一杯であった。
ヒザシさまは白眼を発動させたまま、わたしを見据えて動かない。そろそろ息苦しさに頭がぼんやりとしてくる。
白の瞳が、悲しげに歪むのが見えた。
「……ネジを……ネジを、よろしくお願いします」
再び間抜けな声が喉から漏れた。視線はわたしから一向に外れない。わたしはからからに乾いた口の中で、縺れる舌で掠れるような返事をするしかなかった。
ネジ君の母君が熱いほうじ茶を持ってきてくださって、その場の空気は一瞬にして緩んだ。「脅してしまってすみません」とヒザシさまがへらりと笑うので、わたしは慌ててとんでもないです、と返すしかなかった。
子どもを想う、ただの父親の姿だった。
仕事内容に関しては、その後すぐに契約書をいただいた。勤務条件と内容、給与、住み込みに関しての屋敷のルール、休日、特別上忍との仕事の掛け持ちに関して。知りたかったことは全て手渡された三枚の書類に簡潔に網羅されており、わたしは喜々として迷うことなく血判を押した。わたしがあまりにうきうきとしているのを見て、ヒザシさまの笑顔が少し引き攣っていらっしゃったが、仕方ない。だって超高待遇だったんだもの。さっきと態度が違い過ぎるとドン引かれても、もう契約しちゃったもんね。クーリングオフされたら終了だがな。
綺麗な屋敷に住み込み、三食の食事に加えて大きな風呂にふかふかの布団付き。お給料もかなり良い。特別上忍の任務との兼ね合いは火影さまとの相談後に決定。わたしにとって悪いことが一つもなくて逆に恐ろしい。一生分の運を使い果たした気がする。
ネジ君の家庭教師として任されたことは、座学と体術が中心であった。アカデミーでは習わない、実戦で得られる類のものを四歳児に理論立てて説明することの困難さたるや、突然言語の通じない外国にひとり放り出されて生き延びろと言われているようなものである。加えて一般的な剛拳の修行もある。
お給料が良いだけのことはある。正直めっちゃしんどい。
わたしに宛がわれた任務の空き時間に合わせられた稽古という名の修行は、四歳の子どもに強いるには割と過酷であった。名門一族はスパルタだな、とぼんやり思う余裕があるのは休憩時間だけである。わたしも彼も必死だ。
初めは様子見程度にネジ君に攻撃してもらっていたが、まだ身体の出来上がっていない彼に変な癖がついてしまうといけないので、基礎的な動きを洗い直すことにした。身体の柔らかいネジ君は指先ひとつの動きですら既に美しく、将来が楽しみすぎてやはりわたしはブタ箱にぶち込まれる運命なのかもしれないと思ったが、言わなきゃ問題ないのである。白眼は心の内までは見透かさない。多分。
家庭教師を始めて早一週間、体幹のしっかりしているネジ君は実にしなやかな攻撃をするようになった。わたしは持ちうる技術をぼちぼち駆使して指導しなければならなかった。四歳の幼子というのはやっぱり嘘だったのではないだろうか。よくよく考えれば、彼は誕生日を迎えていないので現時点ではまだ三歳である。こっわ。
しかし、ネジ君は至近距離の攻撃は得意だが、少しでも相手に離れられると途端に動きが鈍くなる癖があった。一歩二歩程度の距離ならば問題ない。なのに、相手が大きく距離をとった瞬間にネジ君は動きを止めてしまう。次の攻撃に迷いが生じるのだ。どんなに至近距離の攻撃が上手くても、遠距離からの攻撃で命を落としてしまってはどうしようもない。
近距離型の体術使いは、特に空間の把握を怠ってはならない。身体で覚えるのが一番早い。
「ネジ君、また“止まって”いますよ!」
「は、はい!」
慌ててネジ君は姿勢を整える。何度繰り返したことか。足元を薙ぎ払うように蹴り技を入れ、ネジ君はそれを受け流す。しかし、先程動きが遅れた所為でタイミングがずれたのか、ネジ君は後方へ吹っ飛んだ。わたしはそんなに力を出してはいない。ネジ君の体はまだまだ小さく、軽すぎるのだ。
地面に体をぶつけ、ネジ君はけほけほと咽返る。見ていてかなり心苦しいのだが、ここで甘やかせては死んでしまうのはネジ君なのである。わたしはネジ君が立ち上がって限界を訴えるまで相手を続ける。
体勢が崩れた場合、攻撃のダメージは体に堆積しやすい。一刻も早く立ち上がり反撃することが重要視される。こんなちびっこには酷でしかないが、これがわたしの仕事であるので一切手を抜いてはいけない。
ヒザシさまが縁側で此方の様子をゆったりと眺めている。うわ~めっちゃ監視されてる。当然なのだが緊張するやら恥ずかしいやらで、背中がむずむずとする。
咳き込みながら、ネジ君は立ち上がる。飛び掛かって首元に腕を伸ばそうとすると、ネジ君は急いで首元を腕で庇いながら立ち上がり、後方へと距離を置く。その身のこなしは既に下忍レベルである。足元へ蹴り技を繰り出すと、ネジ君は今度は綺麗に受身を取って、わたしの腕を引っ掴んで自分ごと地面に叩きつけようとする。わたしは掴まれていない手を地面に押し付け、体を回転させてネジ君から逃れる。
激しい動きの所為で、砂煙が舞い上がる。舌打ちした。目にゴミが入りそうだ。
「はあっ!」
ネジ君の声が耳に響く。華麗な飛び蹴り。反射的にわたしはその幼い足首を掴んだ。吃驚した顔をして、ネジ君はぴたりと動きを止めた。
ネジ君の足首を開放してやり、わたしは此処までにしましょうか、とネジ君の目線に合わせて言う。ネジ君はまだやりたそうな顔をするのだが、すぐにはい、と素直に返事をして「ありがとうございました!」と頭を下げられる。わたしも同じように下げた。
ネジ君は砂に塗れて薄汚れている。お風呂に連れていかないと。ふう、と一息吐いて、背伸びをすると、縁側のヒザシさまとばったり目が合った。ヒザシさまはにこりと微笑み、お疲れさまです、と湯呑みを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
湯呑みの茶は熱い。ついさっき沸かしてくださったのであろう茶は、猫舌のわたしには凶器であるが、出されたものを飲まない訳にはいかない。少しずつ飲んでいると、ネジ君が息を弾ませて茶菓子をお盆に乗せてわたしの隣へやってきた。とたとたと小さな足音まで可愛らしくて庭の砂を吐きそうである。
「お団子、お好きですよね」
「ええ、大好きです。ありがとう」
ああ~めっちゃ好き最高、と口走らなかったことは奇跡である。ネジ君はどうぞ、と小さな手でわたしに串団子を差し出す。わたしの行きつけのあの店のお団子である。だらしなく頬が緩むのをヒザシさまに見られて羞恥のあまり土に埋まりたくなったが、団子を食べているうちにどうでもよくなった。
風呂上りに自室として与えられた部屋の縁側に出て涼んでいると、枕を抱えたネジ君がやってきた。黒く美しい髪はまだ僅かに湿っている。団扇で風を送ってやると、気持ちよさそうに目を細めた。
「せんせい」
「はい、何でしょう」
ネジ君はわたしを見上げて、ほしがとてもきれいですよ、と言う。もう眠たいのか、その声は既に舌足らずだ。先生という呼ばれ方がむず痒く、慣れない気恥ずかしさを誤魔化すように丸い頭を撫でる。
「山へ登れば、もっと綺麗に見えますよ」
「せんせいは、やまにのぼってほしをみたことがあるんですか?」
「ええ、ありますよ。ここから見える星空も綺麗ですが、山から見るとまた違って見えるものです」
ネジ君は縁側でこうやってわたしと話をするのが好きなようで、昼でも夜でも縁側でお話をしましょう、とわたしのひとさし指を掴んで誘導してしまう。ネジ君はたいそう可愛いのでそのお誘いを簡単に断れるわけもなかった。
夜空を見上げながら、最近星座を知ったネジ君があれやこれやと質問してくる。そのひとつひとつを無碍にすることもできないので、わたしは実家から埃を被った百科事典やら辞書やらを持ち込むことになった。わたしも勉強させていただいております。
一等素直で、修行に対して貪欲で、彼は毎日楽しそうにしてくれている。やりがいのある仕事だ。
眠ろうと思うのに眠れない時、わたしはよく星を見て気持ちを落ち着ける習慣があって、それがネジ君にも移ってしまったらしい。任務明けで身体は疲れているのに、脳が興奮して眠れないのだ。そういう日に限ってネジ君は、ぴったりわたしに引っ付いて縁側に座る。そして急に膝に重みを感じると、案の定、ネジ君は深い眠りについてしまっている。そうなると、多少のことではネジ君は起きない。わたしは小さな身体を抱えて隣の部屋まで彼を運び、実家よりも広い自室に戻ってお日さまのにおいのする布団で眠る。次の日になれば、ネジ君はまた眠ってしまってすみません、と照れながら謝ってくるのだが、それも可愛い。
「きょうはせんせいよりながくおきています!」
「そう? では、丑三つ時まで我慢してもらいましょうか」
「!」
うしみっつ、と掠れた声で困った顔をするネジ君は、目に入れても痛くない可愛さである。冗談ですよ、とわたしは背中を震わせて笑うしかない。ネジ君はぷう、と頬を膨らませて「もう、からかわないでください!」と怒る。わたしはその頬を突いて堪え切れずにまた笑ってしまう。ブタ箱にぶち込まれるのも時間の問題かもしれない。