屋敷での生活にもすっかり慣れた。家庭教師を始めて数ヶ月、もう実家に帰ると生活水準が違い過ぎて悲しみロックフェスティバル状態は避けられないだろうと思う。
ここ数日はずっと雨で、湿度がむわりと肌に纏わりつくようであった。雨の中、中庭で組手の修行をする訳にもいかないので、座学やら体幹のトレーニング、チャクラの調節などの静かな動きの修行が中心となった。
ネジ君の成長は行き止まりが一切存在しないので恐ろしくすら感じられる日々である。天才で努力も惜しまない彼は、きっとわたしなんかすぐに追い越して立派な忍になることだろう。実に楽しみである。
「今日も雨ですね」
ネジ君の声には元気がない。縁側から外を眺めるネジ君は、屋根から落ちてくる大粒の雨垂れが気になるらしい。
「梅雨に入ってしまいましたからね。修行はどこか広い室内をお借りできないか、調べてみます」
「つゆ?」
完全にお出汁の方の発音でネジ君が首を傾げた。ああ可愛いねえぎゅうってしたいねえ。
……心の内の邪悪なる化身を釘バットで打ちのめし、わたしは縁側で棒立ちになっているネジ君の隣に膝を曲げて座り込む。横顔の睫毛の長いこと。
「夏の手前の、雨が続く季節を梅雨と言います。木ノ葉隠れの里は季節が移り変わりますが、遠くの国ではずっと雨だったり、ずっと夏だったり冬だったり、色々あるんですよ」
「へえー……」
ネジ君もわたしの真似っこをして、体育座りに姿勢を変えた。隣に座っている存在があまりにも小さく、それでも同年代に比べればずっと屈強になったであろう彼は、着物の裾の解れた糸をちょいちょいと触っては溜息を吐く。ああ、引っ張ると余計に糸が出てしまうぞ。今度繕ってあげないと。
「先生は、いろんなことを知ってるんですね」
ぼくは、知らないことばっかり。丸っこい膝小僧に顔半分を埋めたネジ君はもうふわふわの布でくるんで持って帰りたい位の攻撃力に等しい愛らしさを発揮していてわたしは死んだ。ぐふっと呻かなかっただけ有終の美だ。
わたしは一体何を言っているんだ。現実に戻ろう。ネジ君が不貞腐れてぷくっと膨らませた頬をつついてしまうのを精一杯我慢して、つやつやの黒髪をそっと撫でるに留まる。頭を撫でるのはオーケーである。わたしが決めた。
「ネジ君はこれから知っていくんですよ。先生の方が長生きなので、たくさん知ってて当たり前です」
「ずるいです!」
君の可愛さがずるいよと口走らなかったから、今日は忍耐記念日。
いやもうわたし駄目だろ。アウト。ハムスター並に頬を膨らませてご機嫌斜めのネジ君は、わたしの膝にうりうりと白いおでこをぶつけてむーと唸った。わたしは天に召されないよう歯を食いしばって耐える。今日は忍耐記念日。いやもう忍耐など癖のようなものであるが。幸せ噛み締めてるのでこれで良いのだ。
「おや、殿」
廊下から穏やかな声音が飛んできてわたしは遂にブタ箱へぶち込まれる日が来たのだと思い、ああさよならだネジ君、今まで素敵な思い出をありがとう、と口を開こうとしたその時、不思議そうな顔をしたヒザシさまと目が合った。
「今日はご実家に戻られる日では?」
「アッ」
縁側の外は、雲から止め処なく粒が落ちている。
家庭教師は特別上忍の仕事とうまいことバランスを取りながらの週休二日住込みのお仕事であるが、ヒザシさまの計らいにより、月に一度は必ず実家に戻ることとなっていた。お休みの日をきちんといただいているので特別そのような気遣いをしていただかなくても、とヒザシさまにお伝えはしたのだが、頑なに首を縦に振ってくださらなかったのである。
しかし彼らは決して「ご家族が」と言った言葉を口にはしなかった。家庭環境は人それぞれで、あまり触れてほしくない人間がいることも十分理解していらっしゃるためだろう。常々思うが、この人達のあたたかさは心地良すぎて、人を駄目にする威力に溢れている。
よくある「ご実家のように寛いでくださいね」という台詞も今まで聞いたことがない。わたしは本当に恵まれた環境で働かせていただいているのだと、時折胸を掻き毟りたくなるような、感謝の言葉を何度吐いても足りないこの僥倖に苛まれている。
ヒザシさまと奥さまに見送られ、わたしはお屋敷を後にした。誤算は腰に引っ付いたネジ君である。家で一人でじっとしているのは嫌だ、とのお言葉。でも濡れてしまいますよ、とか、ここから近くもないので、とか、わたしの細やかな言い訳は叩き落とされ、何度も繰り返される「ぼくもいっしょに行きます!」の言葉に打ちのめされるしかなかったのである。完敗。
ネジ君は時々こちらがびっくりするほど頑固になるが、可愛いので許す以外の選択肢がない。
申し訳なさそうにわたしを見やっていたヒザシさまと奥さまには悪いが、どちらかと言うと役得なのでどうかお気になさらないでほしいというのが本音である。今にもスキップを始めそうなネジ君は、わたしの右手の人差し指をしっかり掴んで、雨を吹き飛ばす威力の笑顔だ。わたしは死んだ。
「先生のおうち、はじめてです!」
番傘をくるくる回してはしゃぐネジ君がいれば、梅雨などという陰気な季節も恵みの雨だと過大解釈できる。神に深く感謝である。
「ネジ君、水たまりが」
「わっ」
小さな足が割と深めの水たまりに嵌まってしまう前にその小さな腕を引っ張り上げ、何とか防ぐことに成功する。近道と思って選んだ道は、意外と道が悪くて失敗したなと思う。自分一人であれば特に問題はないが、こんな雨の中、まだ歩幅の小さなネジ君に長時間歩かせるのが嫌だったのである。いっそ背負ってしまおうそうしよう、合法的に負んぶができる良い言い訳ができたぞ!
「だめです! 父上と自分の足でちゃんとあるくってやくそくしました!」
ヒザシさまの予防線完璧すぎてわたしの心は折れた。
お屋敷から徒歩十五分ほどで少し寂びれた商店街に入る。雨なので人通りは疎らで、どこの商店の店主もテレビ番状態である。ネジ君は初めて通る商店街だったらしく、きょろきょろと興味深そうに視線を遊ばせている。古びて錆びた看板も、日に焼けた暖簾も、それはそれで味がある。
「あれ、ちゃん、久し振りに見たねえ」
通りがかった八百屋の奥から、馴染み深い店主のおばちゃんの声。先月実家に帰った時はこの八百屋は定休日だったので、二ヶ月は顔を出していない計算になる。思わず店に近付くと、おばちゃんがツッカケを履いて出てきてくれた。
「お久し振りです」
「ほんとだよー、ちゃんとご飯食べてるかい? お漬物持ってきな」
「わあ、いつもありがとうございます!」
目尻に皺が出来るほどにっこり笑うおばちゃんは、自家製の沢庵と白菜の漬物が入ったタッパーをわたしに押し付ける。わたしの肩をばしばし叩いて、ふと足元のネジ君に気付き、あれまあ、とまた笑った。
「ちゃん、また可愛らしい子を連れてまあ」
「お勤め先のお子さんですよ」
おばちゃん、またとか言わないでくれ、まるでわたしが幼子を連れ回す悪人のようではないか。いやまあ悪人みたいなもんだけど。苦笑いを禁じ得ないわたしを不思議そうに見上げるネジ君の眼差しが刺さるぞ。
「ちゃんと一緒にお散歩かい? 小さいのに偉いねえ」
ネジ君はぺこりと小さくお辞儀をする。控えめに言ってめっちゃ可愛い。おばちゃんも行儀の良い子だねえ、と感心した様子だ。ふと、おばちゃんは何か閃いた顔で割烹着のポケットをまさぐると、ネジ君の小さなもみじの手に何かを転がした。
「! キャラメルだ!」
「食べた後はきちんと歯を磨くんだよ。ちゃんも大きな怪我をしないようにね」
また買い物においでね、とおばちゃんに見送られ、キャラメルを大事そうにポケットに入れたネジ君の手を引いて、わたしは歩を進める。
商店街を抜けると住宅地に入る。ここから更に十分強歩けばわたしの自宅である。ネジ君は水たまりを懸命に避けながら、鼻歌でも奏でそうなご機嫌の良さだ。臨時のおやつを貰うと嬉しいよね。
八百屋のおばちゃんは詮索こそしないものの、いつだってわたしを心配してくれているのだ。長期任務で家を空けることが多いわたしの食生活に不安しか感じていないのか、よく晩ご飯のお裾分けをしてくれたり、商店街の特売セール日なんかを事前に教えてくれたりと、まるで母親のような温かさで出迎えてくれる。
「やさしい八百屋さんですね!」
番傘の下から、ネジ君の嬉しそうな声がして現実に戻る。しとしとと番傘を滴る雨は止まず、わたしはうん、と相槌を打ってできるだけ綺麗な道をネジ君に歩かせる。
忍としての生活は不規則で、家庭教師を始めてからは随分と規則正しい生活を送っているけれど、いつ死ぬか分からない仕事であることに変わりはない。
八百屋のおばちゃんは、急に来なくなる常連客を何人見てきたのだろう。考えると胃が痛む。
「ただいま」
返事がないことを承知の上で、ここ数ヶ月の習慣でつい言葉が零れた。狭い玄関にネジ君を押し込めて、番傘の滴を外に向かって払う。重い金属の扉ががしゃんと歪な音を立てる。
「おじゃまします」
いつでも礼儀正しいネジ君は、きちんと挨拶を済ませて脱いだ靴を揃えた。暗い室内にちょっと驚いたのか、ネジ君はじっとしている。改めて思うが聡明な子だ。四歳児ってやっぱり嘘だと思う。あ、まだ三歳か。
「ネジ君濡れてませんか? タオルを取ってくるのでちょっと待ってくださいね」
「はい!」
ついでに部屋の電気を付けると、ネジ君がほっと息を吐く。雨の中ずっと歩いていたので、身体が冷えてしまっているかもしれない。後であたたかい飲み物を作ろうと決めて、湿っぽい脱衣所の戸棚からタオルを取り出す。玄関に戻ってネジ君の目線に合わせるためにしゃがむと、ネジ君はぱちぱちとまばたきをして、わたしを見つめる。
「おうちの人、いないんですか?」
彼の、最初に核心を突こうとするところは、本当に優秀だと心の底から思う。
傘を持っていた小さな手はすっかり冷えてしまっていた。白い両手をタオルで包み、わたしは曖昧に笑って少し水分を含んでしまったネジ君の髪を軽く拭く。やっぱりお屋敷にいてもらう方が良かったかな。今更言っても遅いのだが。
リビングにネジ君を連れていくと、テーブルの上に書置きがあった。ああ、と思ってそれを摘まんでゴミ箱に捨てる。流れる動作にネジ君はちょっと驚いたのか、「ちゃんとよみましたか?」と心配の声を上げた。うんうん、読んだよ、いつもと同じ内容だからね。
わたしの両親はどちらも忍で、片方は研究職、片方は医療忍者である。共に医療の現場に身を置く多忙な生活で家にいることは滅多になく、どちらかと言うと栄養ドリンクを片手に昼夜関係なく働いているような人達である。一言で表せば社畜だ。ようやっと自宅に戻ってきても屍のように寝ていることが多く、そんな日々を繰り返すうちにわたしも特別上忍になって社畜の仲間入りである。血は争えないのである。
「先生?」
おっといかん、ネジ君が置いてけぼりだ。わたしは急いで眠っていた簡易ポットに水を注ぎ、インスタントのココアを開封する。牛乳はこの家にないので早々に諦め、すぐに湧いたお湯をマグカップに注いで粉を溶く。カカオの甘い匂いにネジ君がやっと頬を緩めたのでわたしも頬がでれでれである。台無し。
椅子の上で足をぷらぷらさせているネジ君の犯罪級の可愛さを噛み締めながら、出来上がったココアをテーブルの上に置く。どうぞ、と言うまでネジ君は手を付けないのだ。先生にそんな気遣いはいらないんだぞこの天使め。
閉めっぱなしのカーテンを開けるも、部屋の明るさは変わらない。蛍光灯もそろそろ変えないとな、と思うが、部屋の隅に溜まった埃を見るに、いつの話になるだろうかと思わず苦い笑いが出る。まず両親が生きているかが心配である。過労で人は容易く死ぬのだ。
日向一族の子の家庭教師、住込み。手短に伝えたそれに、両親はそれぞれ手放しで喜んだ。話をしたのはそれぞれの職場でだったが、どちらも同じ反応だったから夫婦なのだなあと思った。
あっしまった、ネジ君キャラメル貰ってたから甘くないお茶とかにすれば良かった。
「先生、おいしいです」
わたしがあっと言う顔をすると同時に、ネジ君がふわっと笑ったので結果オーライである。
さて、実家に戻ってきた当初の目的は、本である。リビングの奥にある書斎は三方面の壁を本棚が占めており、床にも山脈が連なる。社畜はみな本が好きであった。どんなに忙しくとも本は読みたいのであった。やはり血は争えないのである。
何故何どうしてのお年頃。ネジ君の好奇心を満たすためであれば、分厚い辞書や図鑑だって本当は怖い童話だって、何だって提供して進ぜよう。とりあえず国語辞典と、植物や鳥や魚の図鑑と、あとはネジ君本人に選んでもらうことにしよう。折角こんな薄暗くて埃っぽい実家にまで来てもらったのだし。
ココアを飲み終えたらしいネジ君を手招きすると、空間を圧倒的な割合で占める本の数々にぽかんと口を開け、と思うや否や、わあと感嘆詞を零して部屋の中に飛び込んできょろきょろと楽しそうである。ううう可愛いぞ。
「本屋さんみたいですね!」
「好きな本を選んで良いですよ。今日持ち帰れない分は、また今度持って帰りますので」
「ほんとうですか!?」
ネジ君の家にある絵本は全て読破してしまい、毎週のように本屋に通いたがるネジ君を見ているのも可愛かったのだが、わたしの実家に眠っている本を腐らせるのも忍びない。本は読まれてこそである。雪崩には十分気を付けて、いくらでも読みたい本を探してくれ。
里の図書館に連れて行っても良かったが、子ども向けの本はあまり品揃えが良くない。ネジ君が漢字もどんどん読めるようになったら是非一日中一緒に籠っていたい位には、文庫本は充実しているのだが。その点、自宅に揃っている本は己が読んで育ってきた本ばかりなので、自信を持って勧められる。
大抵のことは本に書いてある、と言われて育った。その通りだと思う。だから、ネジ君にもたくさん本を読んでもらって、色んな感情や経験を育んでほしい。いやまあ、まだネジ君には難しいかもしれないが。
小さな指が色とりどりの背表紙をなぞる。精一杯爪先立ちをして、高い位置に収められた本まで興味津々のネジ君のあざとさと言ったらもう唇を噛んで耐えるしかあるまい。ちなみに梯子も置いてます。高いところの本は先生が取るからね。一番上の本は先生でも梯子を登らないと手に出来ないからね。
えらびきれないです、とネジ君が半泣きになるまであと少し。
上手い具合に雨が止んだので、選び切れなかったネジ君のため、影分身を数体作ってとりあえずご所望の本を全て屋敷へ走り届けた。今日も良い仕事をしたなあと、畳の上に転がって息を吐く。ネジ君はわたしの隣で両足を伸ばし、百科事典を読んでいる。図や写真がたくさん載っているので見応えがある代物だ。わたしも小さい頃よく読んだ。きらきらした眼差しで真剣に読み耽っている姿はぎゅっと抱きしめたくなる可愛さである。もう言及するまでもない。
さて、ネジ君が本に夢中な間に少しは掃除でもしておこうか。どうせ両親が家に戻ってきても睡眠に思いを馳せすぎて掃除どころの話ではないのだ。よっこいせと言うのを我慢して立ち上がると、ネジ君がさっと振り返ってわたしを見上げる。わあかわいい。
「先生? どこ行くんですか?」
「いえ、ちょっと隣の部屋の掃除を」
「ぼくもお手伝いします!」
はいもうダメー、降参!
と、叫び出さなかったわたしは偉い。ネジ君が引っ付き虫に進化したので、わたしは口の内側を噛み締めるしかなかった。尊い。なんて尊い生き物なんだ。えへへと笑ってわたしの背中にしがみついているこの少年の可愛らしさは表現可能な域をすっかり超えている。
何だかんだ掃除まで手伝ってもらってしまったので、わたしは申し訳ないやら何やらで、とにかくネジ君のお気に入りに昇格した百科事典と鳥と魚の図鑑と番傘二本を片手に帰路を急ぐ。もう片方の手はネジ君に占拠されているのである。羨ましいだろう譲ってやらんもん! アッイエうちは警務部隊の人は間に合ってますのでどうか見逃してください。
急がば回れという言葉を今更思い出したわたしは、できるだけ道が綺麗に舗装されている帰り道を選んだ。薄灰色の雲の間から僅かな太陽光が覗いている。水たまりに反射する光が眩くて、少し目を眇める。
「あ、さん」
行きとは別の商店街を抜けた先、わたしの名を呼んだのは甘味屋仲間のうちはイタチ君だった。うちははうちはでも警務部隊の人じゃなくて本当に良かった。
「あれ、イタチ君どうしたのこんなとこで」
「夕飯の買い出しの手伝いです」
荷物持ちなので、と返す彼はまだ手ぶらなので、買い出しをしている親御さんを待っているのだろう。イタチ君はついこの間アカデミーを卒業したのに、どんどん難しい任務に挑戦していることで話題の下忍だ。うかうかしてると仕事を奪われるぞ、と先輩に言われた記憶も新しい。ネジ君も優秀だが、イタチ君も同様である。
ネジ君はわたしの手を放すと、何故かわたしの太ももに腕を回してじっとしている。ンン゛ッと呻かなかったわたしも優秀だと誰か褒めてほしい。どうしたネジ君、先生を半殺しにする気か可愛いぞ。
「噂の家庭教師、本当だったんですね」
じっとしているネジ君を見て、イタチ君は頬を緩める。そういや、彼にはネジ君くらいの年頃の弟がいるはずだ。小さい子は可愛いよねえ、と団子屋で語り合った仲なので、わたしが今ここででれでれの情けない顔を晒しても特に問題はない。いや、人通りがあるからキリッとした表情を作る必要はある。辛い。
が、聞き捨てならない台詞をイタチ君が言った気がする。
「えっ何、噂になってんの?」
「なかなか部外者がなれるものではないからでしょうね。羨んでる人は多いですよ」
「はー……そりゃそうだな」
だがしかし譲らぬ。即答するわたしに、イタチ君はからからと笑う。そうだ。わたしはこの仕事に多大なるやりがいを感じており、他人になど譲る気は毛頭ないのである。毎日可愛いネジ君に接していられる僥倖をむざむざ手放してなるものか。
「じゃ、そろそろ母が戻ってくるので。また甘味屋で」
「血糖値には気を付けるんだよ」
「他人のこと言えるんですか?」
「ウグゥ」
呻き声しか上げられないわたしに、イタチ君は爆笑である。失礼な子だが彼もわたしに負けず団子を貪るタイプの子なので、お互いさまである。将来は一緒に健康診断受けような、という提案に笑顔で嫌ですよ、と言ってくる子はイタチ君くらいなものだ。
お肉屋さんから出てきたイタチ君のお母さんに会釈し、わたしは足に巻き付いたネジ君に視線を落とす。立ち止まってごめんなさいネジ君、帰りましょうか。そう投げ掛けようと思って、わたしは硬直した。
何かよく分からないが、ネジ君は小さなくちびるを少し尖らせて不機嫌のポーズである。わたしの太ももをぎゅうぎゅう絞める手は幼子独特の、手加減なしの強さである。肉付きの良過ぎる太ももであることがバレてしまうので是非やめてほしいが、むくれるネジ君はとても可愛い。毎度語彙力が低下しているが、己ではどうしようもないので許してほしい。
「ネジ君?」
呼びかけても無視。反抗期だろうか。日々成長してるもんな。そんなところも可愛いぞ、とにやけそうになる頬を叱咤して、貝のように黙り込んだままのネジ君を抱える。意外にも足から大人しく離れたネジ君は、今度はわたしの首にぎゅっとしがみついて動かなくなった。
疲れてしまったのかもしれないな。わたしは首筋にくっついた高い体温を落とさないよう、きらきらと太陽光を反射する雨上がりの小道をゆっくり辿る。今日の晩ご飯、何でしょうねえ。わたしの独り言に、ネジ君の髪が首をくすぐった。