「ちぎられたいの?」
俺の上に馬乗りになったは剣呑な眼差しで俺を見下ろしている。あんまりにも唐突な言葉に俺は目を丸くするばかりで、何を返せば良いのか分からない。とりあえずはいどうぞ、とは返さない方が身の為な気がする。ひやりとした視線が肌を刺す。随分は怒っているらしい。
一向に返事をしようとしない(出来ない、の間違いだが)俺に業を煮やしたのか、はもう一度繰り返した「ちぎられたいの?」。二度も同じことを言われたって、その主旨が分からなければ意味が無い。俺はとりあえず困惑した表情を隠さないでおく。
ぐっと胸倉を掴まれて、さっき自室の床に強く打ち付けられた頭が持ち上げられて、至近距離での顔を拝むこの姿勢、なかなかに腹筋が辛い。じんじん痛む後頭部と、の視線で焼き殺されそうな肌の痛みに目の前がちかちかする。の眉間の皺はかなり深い。
こんな風に激怒するを見るのは久しい。最後に見たのは、確か、……そうだ、俺が実習で大怪我を負った時だ。自分の力量を弁えずに無茶をするからこんなことになるんだ死にたきゃ死ね、とあまりにも分かり難すぎる心配の言葉を貰ったのだ。結局、突き詰めて言えば、は優しい。
が、今回はどうやら優しさ成分が一切含まれていない。何事か。脳内を懸命に探ってみるが本当に心当たりは無い。
が俺の耳元で低く言い捨てる。
「好きな子が出来たんならさっさと言いなさいよ」
「はあ!?」
寝耳に水過ぎて俺は吃驚してを見詰めるしか無かった。何だそれ。好きな子? 誰だよ、お前のことだろ、と言いかけてに前髪を掴まれて更に顔が近付く。こんな状況でなければ口付けだって出来るのに、と頭の隅に浮かんだ考えは、続いたの言葉に至極粉砕される。
「ホントは組は馬鹿だね! ほら、さっさと振れば良いじゃん!じゃないとわたし今すんごい腹立たしい心持ちだから千切るよ」
ふる? 振る? お前を? 何で?
疑問符が飛び交ってまともな思考が出来ない。念押しされた「ちぎる」という言葉に更に混乱する。ちぎるって、何だ。契る? 千切る? ……千切る!?
冷や汗が出てきた。嫌な予感しかしない。こういう時の予感は九割以上の確率で当たってしまうものだ。米神を汗が伝う。前髪の毛根がそろそろ悲鳴を上げている。俺は引っ繰り返った声でにとりあえず尋ねることにした。
「ち、ちぎるって、何を!?」
は先程までの鬼のような形相がまるで嘘だったかのように、仏のようににっこり笑んだ。
「ちんこ」
言葉にならなかった。
俺は二股なんぞしていない。
この主張はには受け入れてもらえなかった。悲しいことだ。俺の恋人はだけである。嘘じゃない。花街にも行っていないし、俺はに充分満足している。多分。そりゃ俺も男だから胸の大きな女に目が行かない訳じゃないが、いや、そうじゃなくて、言い訳がしたい訳じゃなくてだな、
「五月蝿い振るならさっさと振れ」
なあ、人の話聞けよ、俺が好きなのお前だけだよ! そろそろ般若みたいな顔やめろ!
ぽた、と何かが頬に落ちてきた。俺は混乱のあまり沸騰しそうな脳味噌で、現状把握に努める。に掴まれた前髪の毛根がぎちぎち嫌な音を立てている。腹の上に乗っているの体温は恐らく低くない。胸倉にあるの手は僅かに震えている。
の顔が少し離れた。般若は姿を消し、は目を閉じて深く息を吸った。はあ、と溜め息のように零された吐息も震えていて、俺はただを見上げる。そして、は口許だけで笑った。
「振ってよ、さあ早く」
伊作が薬品の調合を間違えて爆発させた時に天井に付いた染みなんかを見ながら、俺は鼓膜を揺るがした音をきちんと理解出来ずに間抜けに口を開けた。
何故は俺に振られたがっている? 訳が分からない。泣きそうな顔をして(いや、もう泣いているが)歪に笑って、こいつは一体何がしたい? 分かるのはが傷付いていることと、何か大きな誤解が俺達の間にあるということだけである。そして俺の前髪はそろそろ限界である。
ハゲになるのを阻止する為、俺は恐る恐る提案する。
「……あの、、とりあえず話を聞いてくれるか」
「聞かなくても分かるからいらない」
一刀両断されて俺のが泣きそうなんだが。
「お前、俺が言うこと信用出来ない?」
「うん」
泣いて良いか。
「だってわたしが束縛してただけじゃん、食満はわたしのこと好きじゃない」
ぶつっと何本か前髪が切れて、胸倉からも手が離れて、俺は床に盛大に頭を打ちつけ、目の前に星を散らした。勝手に断言して辛そうに目蓋を伏せて、は乾いた笑い声を上げる。
「わたしが食満の傍にいるから可愛い女の子が辛い思いしてんの知ってる。あんたは友人の座を利用して這い上がったわたしを断らなかっただけ」
は今までずっと俺のことをそんな風に思っていたのだろうか。俺には自我が無いとでも言いたいのか。ふふ、と泣き笑うは乱暴に目尻を擦る。声に、ならない。
俺は一等が好きで、熟年夫婦みたいに穏やかにだらだらと一緒に時間を浪費するのが好きで、たまの休みに街に出て上手い飯屋を探して、一歩俺の前を歩きたがるの手を掴んで隣を歩かせて、お似合いの恋人ですねって言われたくて、学園の屋根の上で月見酒をして、の髪に触れるのが好きで、ああもう、分からん、俺は何が言いたいんだ、くそ。
俺の上から退こうとするを、本能の示すまま、手を伸ばして捕まえる。ずっ、と洟を啜ったは俺を見詰める。後頭部の痛みを端に追いやって、赤い目をしたの前髪を掴んだ。
「千切って良いから好きでいてくれ」
これが俺の最大の、最高の答えだろう。