「消してぇぇええええ、リライトしてぇぇええええええ」

 部室に響き渡る女の声。薄汚れた窓を薄汚い雑巾で必死に擦っているその先輩の耳には、赤色のイヤフォンが刺さっている。窓からきゅっきゅと耳障りな音が奏でられているのによお平気やなと思えば、なるほどそのためのイヤフォンか。

「くだーらなっちょーげんそー、わすーれなっそんざっかんをおおお、……おお」

 少々の悪意を感じる歌い方である。別にゴッチ本人もツイッターでネタにしとったから構へんけど。
 部室の入り口で荷物を抱えたまま佇む俺を漸く確認した先輩は、イヤフォンを丁寧に外して雑巾をバケツの中に投げ込んだ。対応に雲泥の差。先輩はもう一度イヤフォンを耳に突っ込んで、水道でちゃんと石鹸もつけて手を洗い、きちんとハンドタオルで水分を吸収してから、再びイヤフォンを外した。ウォークマンからイヤフォンの端子をそっと抜いて、コードはきっちり八の字巻きをして、ウォークマンをいつも入れているポーチに収納した。所要時間二十秒。

「何や、もう朝練終わり?」
「や、ガット切れてしもたんで、」
「はいはい、予備な」

 ほんまに対応は雲泥の差や。イヤフォンに対する誠意を後輩に少しばかり分けたって何の問題も無いだろうに、この先輩は音楽以外のことに無頓着すぎる(他人のこと言えんわと謙也さんには言われたけど、全然ちゃう)。軽音楽部よりも熱心にテニス部のマネージャーをしていることがほんまに不思議で仕方無い。

「切れるん早いな」

 三週間? 二週間前やっけ? 先輩は予備の部のラケットを俺に差し出し、ロッカーから個別包装されたガットの輪っかを取り出した。そのビニル袋の上から油性マジックで財前、と記入し、すっかりぼろぼろになっている俺のラケットを受け取って、まとめてラケットケースに入れた。このラケットケースは部の予備のもので、ガットの張替えやラケットの修理の際、スポーツ用品店に持ち運ぶために利用される。

「部長に相手してもろてるからちゃいますか」
「ははあ、そりゃお疲れさん」
「ほんまですよ。あの人は底なしや」
「底くらいあるて」

 はは、と先輩は笑う。練習中は白石部長を持ち上げる発言しかしないのに、相手が俺だけの時は別にそうでもない。白石かて人間やよ、と先輩は言う。俺は正直信じられない。

「ほな、放課後時間見つけて、いつもんとこ持ってったるわ」
「ありがとうございます」
「ガットの強さは前とおんなじでええん?」

 ラケットケース越しに俺のラケットのガットを指先でなぞっている。切れたのは、丁度真ん中の辺りだ。先輩はその辺りをなぞりながら、まるでコントロールが良くなったことを褒めるようなニヤつき加減でいる。しかし口に出してくれる訳ではない。

「はい」
「ん。あと十分か」

 部室でカチコチと存在を主張する壁時計を見ると、朝練の終了時刻まできっちり十分だった。そろそろ片付けに取り掛かる頃だろう。

「はよ戻って片付けしといで」
「ほな、ラケットお願いします」
「はいよー」

 そうして再び音の海に溺れていく先輩の視界には、まだ汚れたままの窓と、くたくたの雑巾だけだ。机の上に置いてある新聞紙は、汚れ落としの仕上げに使うのだろう。鼻歌が変わった。今度はナンバーガールだ。この先輩、ほんま邦ロックばっかや。
 黒タイツに包まれた足がパイプ椅子を踏み、窓の高いところまで腕を伸ばし、先輩は機嫌良さそうに掃除を続けている。冬の朝練の時は制服のままで部室に篭って作業をしているのを、最初の方こそ部長達が良い顔をしなかったらしいが、「着替える時間がなかったらギリギリまで作業してられるやん」という、一瞬部のためとも取れる発言によって結局うやむやになったそうだ。しかし、本音は「着替えるんめんどくさい寒い」であると俺は踏んでいる。
 たまには洋楽も聴いたらええのに。

「あーせや、財前」

 思い出したように先輩が振り返った。右のイヤフォンを外して、椅子の上で中途半端な中腰になって、しかし少しもぶれずに。

「洋楽聴いてほしかったら、音源貸してや」

 それだけ言って、また先輩は窓拭きに戻った。人の心ん中勝手に覗くなとか、上から目線でしかもの言えへんのかとか(まあ先輩やけど)、あといつも思うけどスカートの下にジャージのハーフパンツを裾折って履くんいい加減やめた方がええとか、言いたいことが山積みになって、喉に引っ掛かった。
 こうなったら最後、俺が言えるのは慣れた言い回しだけや。

「まあ、しゃーないっすわ」

 何がやねん、と自問自答。そんなん繰り返して、もうじき一年になる。

絹を渡る

140102
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