穏やかな春の陽気に設定されている庭を背後に、倶利伽羅さんは顰めっ面である。風景とのミスマッチが逆に芸術的だ。麗らかな空気の中、己の血液が滲んだお札を片手に倶利伽羅さんの横に立つ。
 庭から眺める本丸は落ち着いており、何の問題もないように見える。午前中に備品の確認をしてきた本丸と比べると確かに少し古い部分はあるようだったが、この程度は許容範囲だろう。中古物件にしては綺麗な方だと思う。
 懐中電灯で床下を照らし、しゃがみ込んで覗いてみたが、特に目立ったものは見当たらず。後ろの池は透き通った水で満たされており、時々吹く柔らかな風で水面に波紋が生まれる程度で、静かなものである。
 ぱっと見れば普通というのが一番厄介なんだぜ。泣いても良いか。
 泣いている暇があるならタスクの一つでも処理しろ、と倶利伽羅さんが直接脳内に語りかけてくる。今のところ、幻聴には勝てた試しがない。

「うーん、とりあえず神気と水質の検査始めますかね」

 先程作った血液付きお札二枚のうち、一枚を倶利伽羅さんの手のひらに押し付ける。水質を調べたい場合は、このお札を調べたい液体中に浸せば簡単に結果が出るが、神気濃度の確認には、刀剣男士がちょっと気合いを入れてお札を使う必要があるのだ。どんな気合いの入れ方をするのかは、正直隣で見ていてもよく分からない。わたしの気合いの入れ方とは違うということだけは分かる。
 倶利伽羅さんの眉間に刻まれた皺は、先程から消える様子がない。もしかしてお腹でも痛いんですか、と冗談半分で言いかけて、彼は本丸を睨み付けたまま、端的にこう述べた。

「……淀んでいる」

 何が、と尋ねようと口を開いた瞬間、首の後ろを冷たい何かに引っ掴まれて飛び上がった。驚いて隣を見るも、彼の右手はお札を握り、左手は鞘に添えられている。
 じゃあ、わたしの首を掴んでいるのは。
 理解してすぐ、背筋を襲う悪寒に喉が震える。口を開くも声にならず、どっと汗が噴き出た。首に巻き付くそれは冷たく、指のような何かがばらばらに、ゆっくりと肌を圧迫する。

「ア、」

 何か、妙な術式が発動しているのではないか。
 わたしの立っていたすぐ後ろは池だった。底の石まで見える程度には透き通っていたのだ、違和感があれば池を見た瞬間に気付いただろうに。
 異変に気付いた大倶利伽羅さんがわたしを見やると同時、抗いようのない強い力が下方向に加わり、無理矢理膝を折られる形でがくんと姿勢が崩れた。
 景色がスローモーションで流れていく。

「おい!」

 黄金の瞳が丸くなって、褐色の手がわたしに伸びる。咄嗟にわたしも手を伸ばすが、後ろに引っ張られる力は強く、強い浮遊感が内臓を襲う。
 自分の爪の先だけが、伸ばされた黒の革手袋の表面を一瞬引っ掻いて、虚しくもすぐに離れ離れになってしまった。




 汚い悲鳴も出せず、背中を打ち付けた衝撃で咽せた。

「……っう、ぐぅ……い、いてえ、畜生誰だめっちゃ痛い……」

 水面に向かって引っ張られたはずが、驚くことに出会ったのは固い地面である。呻きながら背中を擦り、ゆっくりと視線を上げる。
 周囲は暗い。さっきまで昼の本丸にいたのに、今度の光源は月明かりのみである。やたらと大きく見える満月が不気味だ。とりあえず上半身をそっと起こす。あああ背中痛い、あともう一発攻撃食らったら間違いなく死ぬぞ。嘘じゃない。
 何やら喉が気持ち悪くて咳払いをする。舐め始めたばかりの飴玉を間違って飲み込んでしまったような感覚だった。んんっと喉を鳴らすも違和感は拭えず、諦めて時間の経過と共に慣れることだけを祈っておくことにする。
 この仕事柄、諦めるのは得意である。
 右足が何やらすーすーすると思ったら、パンプスが引っこ抜けて少し遠くへ転がってしまっていた。くさくさしながら拾い上げて座ったまま履き直し、抱えていた荷物が手元にあることに安堵して息を吐く。仕事道具の中には機密情報が入っている。紛失など言語道断である。わたしの首なんて容易く吹っ飛ぶ。
 立ち上がってまた何かに引っ張られるのが怖い訳ではないが、わたしは地面にへたり込んだまま、現状把握に勤しむことにした。別に怖くない。危険回避のためである。嘘じゃない。
 目前には本丸がそびえ立っている。さっきに比べて随分と傷が多く、薄暗い。つまり、悲しいことに、備品の確認をしていた先程の本丸と、この本丸は別物だ。
 握り締めたまま存在を忘れていたリトマス試験紙(改)が目に入った。このお札は問題がなければ何の変化も起きないが、現実は残酷なものである。
 真白の色合いだったはずのそれは、見事なまでに真っ黒に染まっていた。
 さっき池から引っ張られた時に、その水面にお札が触れたのだろうか。しかし、わたし自身は水に濡れておらず、荷物も乾いたままである。端末は防水仕様なので問題ないが、書類がべしゃべしゃにならなくて良かった。

「いや良くないわ」

 セルフツッコミも辞さない。池から引っ張られたのにその池に落ちず、昼から夜の本丸へ座標移動したとするなら、やはり何か術式が発動したと考えるしかない。時間遡行で過去の本丸に飛ばされた可能性もある。
 そもそも、ただの座標移動なら時間帯は変わらないはずである。わたしが長い時間気絶でもしていない限りは。
 リトマス試験紙(改)が黒く染まってしまったので、水が既に汚染されていることは確定である。本丸の水道の一部は、池の水を濾過して循環させている。いざという時に本丸内で自給自足出来るようなシステムにしてあるのだ。電気は太陽光と審神者の霊力の合わせ技で、それを再利用してガスも賄っている。ああ、さっきの本丸の配電盤の確認がまだだったのを思い出してしまって鬱である。いっそ忘れていたままでいたかった。
 どこかで流れが止まれば淀みが生まれ、そこから良くないモノを引き寄せることもあれば、良くないモノそのものを生み出してしまうこともある。本丸の水が濁るということは、それだけ何か問題を抱えているということである。
 リトマス試験紙(改)の結果から、この本丸の危険度は五段階評価で表すと三である。他に五感に訴えかけてくるような不調がもっと続いて出ていれば、その評価は四に引き上がっていたが。生憎と胃がしくしくするばかりで、これは常なので大した不調ではない。
 とにかく現状を分析しないことには何も始まらない。職員用端末の電源に指を引っかけた時だった。

「つーかまえた」

 叫び出さなかったのは奇跡である。
 唐突に、ひたり、と喉元に冷たい何かが押し当てられた。鼓膜が拾ったのは幼子の声である。姿が見えないので、恐らくというか間違いなく、背後を取られている。
 心臓が早鐘を打つ。額に滲み出た脂汗を制御出来るはずもなく、わたしは手にしていた端末を膝の上に置いて、とりあえず両手を挙げることにした。降参です、こうさーん。わたしは無力ですお助けくださーい。

「なにものですか」

 この舌足らずな喋り方には聞き覚えがある。刀剣男士の今剣さんだ。短刀のため愛らしい童子の姿をしているが、源義経の刀と言われており、見た目以上に長く在る刀だ。嘘偽りを述べた瞬間にわたしの頸動脈は掻き切られるに違いない。誠実に答えねば。
 緊張で荒れそうになる呼吸を必死に宥め、もつれる舌先で何とか声を振り絞る。

「歴史保安庁、大和国本丸支援課、主事の、サイトーと申します」
「ほんとうにせいふのしょくいんですか」
「く、首から職員証を提げておりますので、どうぞご確認ください」

 今剣さんは背後から小さな手を伸ばしてわたしの職員証を摘まむ。表は所属と名前だけを記した名札だが、裏に職員証を入れている。きちんと顔写真付きである。名乗った通りの文字列が並んでいるのを認めてくれたのか、今剣さんはそれを手放すとわたしの耳元に口を寄せた。

「なまえは、ぎめいですか」
「はい。歴史保安庁に配属された時に設定されたものです」

 ちなみに、公安九課とは全く無関係であることをここに述べておく。わたしも配属時は驚いたものである。
 今剣さんは暫くうーんと唸った後、よく切れそうな彼自身をわたしの首元から下げてくれた。月明かりをきらきらと反射する刃は改めて見ても鋭利だ。背筋が寒い。とりあえず斬り捨て御免は免れたようである。とりあえず。
 今剣さんは己自身をわたしの首元からは離してくださったが、わたしの背後に立ったまま動かない。

「いくつかしつもんにこたえてください」

 はい以外の答えを口にしたら、やはり首が遠く彼方へ旅立ってしてしまうんだろうな。大人しくわたしは首を縦に振り、今剣さんの質問を従順に待つ。

「どうやってこのほんまるにきたんですか」
「あー……新規本丸の備品確認業務中、何故か庭の池から、何かに引っ張られて、気が付いたらここに」
「なにか」

 鸚鵡返しをする今剣さんは可愛らしいが、残念ながら空気が緩む気配はない。

「冷たい手だった気がしますが、正体までは分かりませんでした」

 わたしがあの時見えていたのは、珍しく目を丸くする倶利伽羅さんの表情と、不釣り合いに穏やかな春の景色だけである。

「では、びひんかくにんとはなんですか」
「ええと、まずわたしの所属する課は、本丸が稼働するまでのあらゆる準備を担当しておりまして、本丸に備え付けられているものに不足がないかを確認するのですが」

 ぶっちゃけ本丸支援課の仕事は備品確認以外の業務の方が多いのだが、それはここで述べる必要もないので黙っておく。説明を始めると長くなってしまうし、そこまで聞かれている訳でもない。

「つくえとか、まにゅあるとかをかくにんするってことですか?」
「そうですね」

 察しの良い今剣さんである。

「うーん……」

 ずっと地面に座り込んだままのせいで尻が痛み始めた。そろそろ立ち上がりたいが、こちらの意思は通じるだろうか。

「では、せいふのしょくいんだというのなら」

 大きくて丸い瞳に覗き込まれ、立ち上がることを諦める。深紅のそれはこちらの目の奥を見る。取り繕えば未来が消える。幼子の見た目に騙されてはならない。
 ごくりと生唾を飲み込んで、瞬きも忘れて今剣さんの言葉を待つ。

「ぼくのあるじさまを、たすけてください」

十二進法の遠景|03

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