主を助けろと言われても、その業務担当は審神者支援課の管轄なのでわたしには出来ません、と正直に申し出ようものなら指の一本だけ切り取って「ぜんぶなくなるとおしごとできませんよね?」つまりこちらに拒否権がないことを物理的に訴えられる可能性を想像し、わたしは首を縦に振る人形になった。命は惜しいし痛いのも嫌である。
物騒な想像が妄想の範囲に収まってくれることを祈りながら、今剣さんのひやりとした小さな手に引かれて、抜けた腰を叱咤しながら本丸の奥へ導かれた。
「山姥切国広だ。この本丸の初期刀だ」
「ぼくははじめてのたんとうでよんでもらったんですよ!」
執務室らしき部屋に待ち受けていたのは山姥切さんである。布を目深に被っているので表情が分かりにくいが、これは山姥切国広という刀剣男士の通常運転の姿なので、特別気にする必要はない。
今剣さんに勧められるまま、出してもらった座布団に正座する。当初の読めない表情とは打って変わって、それはそれは愛らしい笑顔の今剣さん、温度差が激しすぎて風邪を引きそうである。やっぱり平安の刀は何を考えているのか分からなくて恐ろしい。
この場に審神者さまがいないのは、わたしという不審者をまず刀剣男士が見極めてから、という方針なのだろうか。政府職員への信頼度はマイナス値なのか。職員証の偽装なんかしてないぞ。緊張で胃が痛い。
山姥切さんも今剣さんも、何か特別変わった様子はなさそうである。しかし、じっとりと肌に纏わりつくようなこの本丸の空気に、わたしの全く頼りにならない第六感が危険信号を出している。何か一つ間違えれば、やっぱりわたしの首は容易く胴体と泣き別れするに違いない。
くそう、全日本お家帰りたい協会でござる。
「突然の来訪、申し訳ございません。わたしは歴史保安庁大和国本丸支援課主事のサイトーと申します」
即座に帰宅したい願望を必死に押し殺し、首からぶら下がった名札を手に改めて名乗ると、山姥切さんが僅かに背筋を伸ばした。わたしの頭から膝まで満遍なく視線を滑らせると、小さく息を吐く。見た目から、警戒する必要がないと判断できたのだろう。そうです、わたしは非力で無害な一職員ですとも。
「あんたが望んでこの本丸に来たって訳では、なさそうだな」
「はい、こちらも予想外でして。新規本丸の備品確認業務の最中だったのですが……」
手荷物の中から備品チェックリストを取り出して、こんなのを確認していますと言うも、彼も興味がなかったらしく、ふうん、と返されるに終わった。
執務室内は不思議と薄暗く感じた。天井の電球をちらと見ると、一般的な本丸に使われているLEDの型番と同じだったので、薄暗く思うわたしの感覚がおかしくなっているのかもしれない。
普通の本丸に来訪するだけなら感覚が狂うことはないので、そういうことである。
外は相変わらず夜で、半分だけ開けられた障子越しに大きな満月が見える。ここには倶利伽羅さんがいないので、月が綺麗ですねという定番の戯れ言を口にすることもできない。誠に残念である。
わたしの腕時計は三時過ぎを指している。アナログ時計のせいで、三時なのか十五時なのか判別が出来ない。体内時計を頼ると、それほど空腹感はないので、恐らく昼ご飯を食べてからそこまで時間は経っていない。
だが、外の景色が十五時過ぎと言うには乱暴すぎる。
備品確認を始めたのは十三時過ぎ、池の辺りに出たのは約三十分後、さっきの今剣さんとの応酬は十五分に満たない程度だったと思う。正しく時間が流れていれば、わたしの腕時計は十四時前を示しているはずだ。
しかし、わたしの左腕に巻き付けたそれの盤面を見るに、池に引きずり込まれてから気絶していたとしか考えられない。その間、自分の身に何が起きていたのかについては、怖いので深く考えないことにする。
あっ今、脳内に直接同僚の溜め息が聞こえたぞ。でも幻聴だぞ。
端末を見れば日付も時間も明確になるが、今、端末の電源を入れるのは得策ではない。二人も目の前に刀剣男士がいるのだ、奪われて壊されて刀を抜かれでもしたら連絡手段を失って詰みである。目の前の他所の刀剣男士を完全に信用出来ないのは、悲しい職業病だ。
こういう時に三日月宗近や鶴丸国永やへし切長谷部や燭台切光忠が出てきたら、こちらの死亡率は途端に跳ね上がるのだが、山姥切さんや今剣さんなら大丈夫かなと思う。思いたい。願望を積み重ねたところで希望が降ってくることはないが、それでも縋りたいのが人間だ。
さて、執務室内には見慣れた管狐の姿がない。
余談であるが、二十一世紀に放映されていた某魔法少女アニメの影響で、歴史保安庁設立当初、つまりこの歴史保安戦争の最初期は、こんのすけが本当に信用できる存在なのか、審神者の間で活発に議論されていた。政府としては、単純に審神者への任務通達や業務補助、そして監視の意図でこんのすけを配備していたのだが、如何せんあのインキュベーターの残した禍根は大きかった。
あまりにもこんのすけのイメージが悪く固定されてしまったので、最近ではこんのすけを歴史保安庁マスコットキャラクターに仕立て上げ、少しでも親しみを持ってもらえるよう、グッズや着ぐるみの製作、こんのすけ自身への研修が遂行されているそうだ。広報広聴課の薬研さんに聞いた。
「あの、この本丸のこんのすけはどちらに」
こんのすけがいないというのは、複数のパターンが考えられる。政府に出向いている等の単純な理由で、一時的に不在にしているだけなら良い。問題は、こんのすけがどこかに隠されていたり、既に壊されてしまっていたりする場合である。本丸の監視を兼ねる管狐の存在は、事案の白黒にも影響するのだ。
「……今はいない」
さて、この返答の場合は判断が難しい。細かく問い質すことも出来るが、どこに地雷が埋まっているかが分からない。山姥切さんから更に詳細な説明があること期待したが、彼はそのまま口を噤んでしまった。何かしら話せない事情があるとみた。
この案件、より黒に近付いてしまった。ヤッタネ泣きたい。
審神者と刀剣男士、どちらに対しても中立の立場であるのがこんのすけだ。客観的な事情聴取が難しくなるのは痛手である。政府職員は、まずこんのすけの持ち合わせている情報との照合から業務を始めるのだが、仕方ない。泣きたいのを我慢しながら、そうですかとだけ返す。
美しい前髪越しに、山姥切さんが僅かに視線を左右に彷徨わせたのが視界に入ったので、わたしの絶望度は鰻上りである。彼の視線は精神状態を如実に反映するのだ。自分の意見に間違いがないと確信のある時の山姥切国広の目は、もっと力強く対象を射貫く。
絶望したところで業務が完遂する訳でもない。とりあえず現時刻を確認をしよう。
「……二十二時過ぎだな」
懐中時計を取り出した山姥切さんは、コチコチと針が動くそれをこちらに見せてくれる。
二十二時。定時過ぎてます。速攻お家に帰らせてください。
嘆きの声を受け止めてくれる管理職も打刻システムも此処にはない。残業代が出るだけこの仕事は良いよな、と自分で自分を慰めるしかない。
そして一度嫌な予感がすると、その後は転げ落ちていくばかりだ。これは経験則である。
米神を伝う汗が冷たいと思ったら、今剣さんが着物の袖で汗を拭ってくれた。疑ってごめん最高に優しい。わたしの同僚だったら華麗にスルーされていたぞ。
「かおいろ、よくないですね。つかれてるんですか?」
社畜は皆こんな感じですよ、と言いかけて口を噤み、お気遣いありがとうございますと返す。言わんで良いことはしまっておこうね。
「あんたが心配しているのは、自分の担当業務とやらか」
「まあそうですね、デスクに戻った時の書類の山は想像したくないですね。……ところで、戦況はどんな感じですか」
「……芳しくない」
こちらの質問に苦虫を奥歯で噛み潰してしまったような顔で答えてくれる彼は、くるっと後ろを向くと複数の冊子を目の前に出してきた。少し日に焼けた、コピー用紙の束である。
「業務日誌だ」
「拝見しても?」
「構わない」
促されるままに表紙を捲る。大和国本丸識別番号ね四七一三四六五九。本丸設立は二二〇五年二月。淡々とゴシック体で綴られている。元は定期監査用に作成したものだろう。
日誌は、執筆者と日付、天候、出陣の結果、新しく迎えた刀剣男士等について、箇条書きで記録されていた。毎日欠かすことなく記述があるので、この本丸の審神者さまは、かなりきちんと業務を遂行していらっしゃるようだ。日記は三日坊主のわたしからすると神のようである。
ぱらぱら読み進めると、出陣についても細かな気付きや改善点をその都度メモするようにしているらしく、真面目な姿勢であることが見て取れる。
日誌は途中から燭台切さんが執筆担当になったようだ。毎食の献立まで明記されていた。カタカナの料理が多くてさっぱり分からないが、別に指摘するようなことではない。大体の本丸で彼はそんな感じである。
「山姥切さんはあんまり日誌書かれてないんですね」
「俺は初期刀だが、近侍は別の刀が多かったからな。書くより斬る方が合っていただけだ」
「なるほど。近侍は燭台切さんが中心ですか?」
「ああ。主はすぐに寝食を忘れて没頭するから、力尽くで世話が出来る奴だと手間がかからない」
寝食を忘れる程に真面目に業務に取り組むなんて、審神者の鑑である。この本丸の担当職員は泣いて拝んでいるに違いない。
しかし、山姥切さんは「戦況は芳しくない」と言った。
複数あった業務日誌のうち、一番新しいものを確認すると、戦場で新しく現れた検非違使に苦戦しているらしい。特に動きの速い槍の攻撃のせいで、こちらの負傷率が上がっているとの記述があった。
「検非違使は最近出現が確認されたばかりでしたね……対策はいかがですか」
「脇差と短刀を抜いた編成で、ひとまず機動の速い男士で組んでいるが……」
「槍が厄介ですよね」
「そうだな。練度が上がれば手入れに必要な資材も増えるし、結構きつい」
大太刀がいれば心強いが、手入れ時にはぞっとするような数の資材が消えるからな、と山姥切さんは遠い目をした。
「ところで、審神者さまはもう就寝されてますかね? ご挨拶は明朝の方が良いでしょうか?」
不本意とは言え、突然訪問してしまったのだ。政府の評判はただでさえ悪い。挨拶というか謝罪の一つはしておかねば後々に響いてくる。案件が黒に近付いていることは誤魔化せないが、この本丸は正常に運営されていることが分かった。それだけでも救いなのである。そんな思いもあるので、審神者さまの顔を直接見て謝っておきたい。
しかし、山姥切さんと今剣さんの表情がさっと凍った。
えっ何で?
心臓が嫌な音を立てて血液を送り始める。こういう胸騒ぎが外れたことがないわたし、悲しくて泣きたい。
「……主はずっと眠っている」
ただでさえ低い声を更に低くして、山姥切さんは俯いてしまった。被っている布で完全に表情が隠れているが、見なくても分かる。どうやらわたしは地雷の上でタップダンスを披露してしまったらしい。
ずっと。繰り返すわたしに、山姥切さんは畳に視線を固定したまま、ぼそぼそと声を零す。
「主は、現世にいる頃から研究していた“はいばねーしょん”という技術で、眠っている」
「は」
あまり聞き慣れぬ言葉の並びに、顎に手を置いて少し考える。
「ええと、ハイバネーションって、確かパソコンの休止状態機能のことだったかと思うんですが、審神者さまはアンドロイドか何かなんですかね?」
「いや、主は生身の人間だ。俺も聞き慣れない言葉だったからよく覚えていないが、冬眠を指すと言っていた」
「ああ、コールドスリープの方ですか! 二十三世紀では実用化されてるのかあ」
審神者さま、研究職の方なんですね、すごいですねー、と流そうと思って踏み留まる。何で本丸でコールドスリープなんぞをしなければならないのだ。審神者の業務に支障が出まくるではないか。
そうでもしないといけない事情を想像してみる。インフルエンザを発症した訳でもないのに背筋が寒い。想像力が豊かなのが裏目に出た。
山姥切さんの隣にちょこんと座っていたはずの今剣さんが、正座しているわたしの膝に手を置いてこちらを見上げてくる。ぎゅっと寄せられた眉が物悲しい。
「……このほんまるに、あるじさまいがいのにんげんがきたのは、あるじさまがねむってしまってからはじめてです」
救援も呼べなかった、ということだろうか。
潤んだ紅の瞳はゆらゆらと揺れて、小さいけれど刀を握る手がわたしの膝から肩へ移動した。骨を圧迫する力強さは、見た目からは全く想像できない。こういう対応をされると、やはり彼らは人間ではないのだなと強く実感する。ぎりぎりと軟骨に力が加わって大層痛いが、口答えができないのが政府職員である。骨を砕かれていないだけマシである。
「この本丸にはもう後がない。外部の人間のあんたに頼るしかない」
変わらず視線を下に向けたまま、山姥切さんは強く奥歯を噛んでいるような声音で、頭を下げる。
「……頼む。力を貸してくれ」
事情を詳しく聞くだけなら簡単だ。しかし、同僚ともはぐれてしまった上、備品を確認していた本丸のことも放置する訳にはいかないし、かと言ってこの場で呆けていても助けが来る訳もない。
降参です! こうさーん! お家帰りたいでーす!
「おねがいします!」
両手を挙げてこの場からすたこらさっさと逃げ出したいが、今にも泣き出しそうな大きな目玉に見つめられて、頭も下げられて、これでさくっと断れる鬼の心を持っている輩がいるなら代わってほしい。無理だ。わたしにはとても。
だが、どの選択肢に縋ったとしても、わたしの身柄の安全は保障されないのだ。
腹を括る道だけが残されている。そういう仕事なのである。法律で定められた己の担当業務外のことだ、下手に首を突っ込めば責任問題で揉めに揉めるだろうが、かと言ってここから逃げる術もない。言い訳を繰り返したとて誰も聞いちゃくれないのだ。
全部終わった後に刺されたり斬られたりしませんように。一応祈っとこう。
「……担当課に繋ぐまでの時間稼ぎにしかならないと思いますが、ご了承いただけますか」
繋げられたらですけど、と念押しは忘れない。わたしの言葉に山姥切さんがやっと顔を上げた。唇を噛み締めて、眉間にぎゅっと皺を寄せた彼は、美しい碧の瞳でこちらを射貫く。
ほら、迷わない時の彼の視線はこうだ。
「十分だ。協力してくれるだけ有り難い」
わたしはべちっと己の両方の頬を手で叩き、姿勢を正す。脳内に業務フロー図を思い浮かべながら、指折り数えつつ山姥切さんを見上げた。
「では、審神者さまが眠ってしまわれた原因について、分かる範囲で良いので説明をお願いします。あと、この本丸の見取り図と、各部屋の備品を全てリストアップ……何らかの形で教えてください。備品は実際に確認も行います。それから、審神者さまの端末内を閲覧させていただきますが、よろしいですか」
「分かった。説明はこのまま俺がする。見取り図は歌仙が、備品のりすとは一人一部屋ずつ取りかかる。端末は好きに見てもらって構わない」
「ぼく、みなさんにおこえかけしてきますね!」
「ああ、頼む」
ばびゅーんといってきます、と部屋を飛び出していった今剣さんは残像だ。
逃げ場はない。ぐるぐるし始めた胃を押さえながら、わたしは山姥切さんから端末を受け取る。早く同僚と合流して業務を終わらせて家に帰って寝たい。そんなに贅沢な願いではないはずだ。誰か叶えてくれまいか。
夜の静寂が肌を舐める。泣き出したいのを我慢しながら、受け取った端末の電源を入れた。