「さて、主が眠ってしまった原因だったか」
被っている襤褸の裾を強く掴んだまま、山姥切さんが二日酔いの朝のような物憂げな声を出した。慌てて発言権を取得すべく挙手する。
「すみません、メモを取らせていただいても構いませんか。わたしの手持ちの端末に打ち込みたいのですが」
「分かった。俺も、全てを整理して話せるとは思わないから、その、助かる」
よし、ごく自然な流れではないか? わたしは手荷物から自分の端末を取り出し、電源ボタンを押す。お、電源入ったぞ! 最高か! これは幸先が良い!
まあ、電波は全く拾っていないので、わたしは同僚との連絡も取れないのだが。知ってたよ。ぬか喜びも得意なんだ。
自分の端末の時計を確認すると、時刻は腕時計と同じく十五時半だったが、審神者さまの端末は、山姥切さんが教えてくれた通り、二十二時過ぎを示している。
時空ってこんなに簡単に歪むんだなあ。
この本丸に支給されている端末を卓上の真ん中に置き、わたしの端末は手元で操作する。映像化したキーボードが机の上に映るのを確認して、山姥切さんにお願いしますと頭を下げる。打ち込みはフリック入力よりも両手の方が圧倒的に早い時代の人間なもので。
「……何から話せば良いんだろうな。俺の推測も混じって大丈夫か」
「推測の場合は、そうおっしゃっていただければ有り難いです」
「分かった。じゃあ、主のことから話す」
映像化したキーボードに指先を乗せ、準備は万端である。メールボックスの下書きに新規ファイルを作成する。
「俺の主は現世のらぼというところで働いていた。動物の冬眠のめかにずむを人間に応用する技術の研究をしていたと言っていた。性別は男、年は三十路だ」
所々ひらがなが混じるところが可愛らしいが、指摘するともう話してくれないかもしれないので、わたしはぐっと堪えて映像のキーを叩く。
同僚の倶利伽羅さんは横文字にも問題なく対処してくださるので、こういったあどけない言葉遣いはなかなかお目にかかれない。だからこそ、たまに拝める辿々しい口調に殺されることになるのだが。希少価値が高いほど殺傷能力も抜群である。
「ぐらびあ雑誌とやらを眺めるのが趣味で、概ね乳のでかい女が好きらしい」
いきなり嗜好の話になった。何でや。場を和まそうとしてくれたのだろうか。不要な気遣いである。しかし、山姥切国広とはそういった不器用な気遣いをするところが魅力でもあると、まんばちゃん推し過激派の政府職員の一人が全力で擁護するのが目に浮かんだので、わたしは正しく返答する。
「巨乳派ですか。まあ世の中そんなもんですね」
「あんたはその上着でよく分からないな」
指摘された上着は、歴史保安庁の文字が胸元に刺繍されている、グレーとカーキと水色の中間色の作業着である。見た目は野暮ったい普通の作業着だが、こんなんでも二十三世紀の技術によって防御力を高める特殊な繊維が織り込まれていて、太刀筋を浴びても多少は無傷でいられるのだ。すごいのだ。某戦国御伽草子の火鼠の衣の類である。
そしてわたしの乳はすごくないのだ。涙が出る。
「上着があってもなくてもよく分かんないから大丈夫です。今の発言で更に抉れました。それで、続きをどうぞ」
「……悪かった。あんた随分凶悪な顔をするんだな。もう乳の話はしない」
「いや別に乳が悪いという訳ではないですよ、この世の癒やしですからね!」
「続けて良いか?」
「すいませんでした」
ふて腐れて同僚にするような態度を取ってしまったが、山姥切さんは少し戸惑った顔をしたものの、きちんと話の本筋に戻してくれる。優しい神さまである。いや同僚が優しくないと言っているのではない。ちょっと素直さの練度が足りてないだけで。でもそんなところも可愛いのである。
脳内で同僚のでかい溜め息が響いたが、やっぱり幻聴である。
「この本丸は、出陣、遠征、演練、内番を当番制で回してる。同じ時期に顕現した奴らの練度が大体等しくなるように出陣していた。至って普通の本丸だと、思う」
睫毛を震わせた彼は、わたしに視線を投げてから、さっと逸らしてしまう。わたしがまんばちゃん推し過激派の職員だったら、今頃スキップで川を渡って鮮やかな花畑に顔を突っ込んでいたことだろう。
倶利伽羅さんに同じようなことをされたら合掌するしかない。見つめ合うと素直にお喋りできないシャイなアンチクショウは総じて尊いものである。
「きちんと計画を立てて本丸を運営されているんですね。言葉にするほど簡単ではないですよ、自信持ってください」
「……そうか」
少し表情の緩んだ山姥切さん、そのあどけなさに何人の審神者が死んだだろう。あまり直視しないように、端末の画面へ視線を落とす。わたしも命は惜しいのだ。
「ついでに、この本丸に顕現されている刀剣男士の数を教えてください」
「三十五だ。刀帳データを見るか?」
「ありがとうございます。あ、先に刀種の内訳数を教えていただければ助かります」
「分かった」
この本丸の端末に指先を滑らせて、山姥切さんは戦績のページを見せてくれる。それぞれの内訳をメモしていると、彼は布の端を指先で弄りながら、わたしの入力が終わるのを待ってくれているようだ。同じフロアで仕事をしている山姥切さんはここまで手遊びをしないから、少し物珍しい。
「では、転送門が動かなくなった日のことを教えてください」
「……その日は、阿津賀志山へ出陣しようとしていた」
編成は、隊長に山姥切国広、次いで鶯丸、燭台切光忠、三日月宗近、山伏国広、蛍丸。大きいけれど小さい狐を探していたとのことである。初鍛刀の今剣さんは審神者さまの護衛として本丸に残っていた。
「三日月宗近さんは既にいらっしゃるんですね」
「あいつは鍛刀で来たからな」
そこで運を使い切ったんだろう、と山姥切さんは苦く口元を引き攣らせた。
「転送門の操作には何も問題はなかったが、いくら待っても転送が始まらない。何度試しても動かないから、とりあえず主に報告するために執務室へ戻ったら、主がずっと咳き込んでいてな。今剣は取り乱しているし、薬研が真っ青になって主に飛び付いていたが、咳き込みが激しくて、もう殆ど喋れないような状態だった」
「それは……その出陣前、審神者さまのご様子はどうでしたか」
「普段と変わりなかった。寝起きはいつも機嫌が悪いが、朝餉もしっかり食べていた」
「寝起きから機嫌が良いのなんて燭台切さんくらいでは?」
「あんた、燭台切に何か恨みでもあるのか?」
「いやまさかアッハッハ」
持病は、と尋ねるも、人間どっくとやらでも何も問題のない健康優良児だったぞ、と彼は顎に手を当てて唸っている。三十路の男を童子扱いかと、今度はわたしが苦笑いをするはめになった。刀剣男士から見れば、生きている人間などみな子どものようなものなのだろう。
「後で構いませんので、念のため、その日の朝食と、前日の食事の内容を教えていただけますか」
「分かった。確認しておく」
「お願いします」
料理に何かを混ぜ込まれていなければ良いのだが。一度体内に異物を取り込んでしまうと、後々厄介である。
「主は咳き込んでいるうちに血も吐いていた。喉とかが切れたんだろうな。ずっと背中を擦ってやったが、一向に良くならなかった」
「審神者さまに外傷はありましたか」
「いや、目立った傷があれば薬研が真っ先に手当てをしていたはずだ、恐らく傷はなかった」
持病も外傷もなし、至って健康となると、本丸内への異物混入か、あるいは何かの呪術の影響を受けているか、といったところだろうか。宅配履歴も辿るようにしておこう。
「血を吐きながらだったが、主は突然思い付いたのか、急いで何かを手元の紙に書き付けて、俺の手に押し付けた。息も切れ切れに『気に入ってるアレに挟んでおいてくれ』と言った。訳が分からなかったが、主の命令だから、それを主が一番気に入っているぐらびあ雑誌に挟んで本棚へ押しやっておいた」
気に入っているアレで通じるのか、と無駄なところで感心してしまった。脳内に同僚のブリザード級の視線が蘇るが仕方ない。
「それって、この紙ですかね」
端末で撮影しておいた紙を山姥切さんに見せると、ああ、と返事があった後、山姥切さんは俯いてしまう。この血痕は想像通り、審神者さんの吐血だったという訳だ。
「……主は『実験を始める』と言い出して、床に倒れたまま、あれこれと指示を出した。薬研が山のような絡繰を抱えて主の部屋から戻ってきて、本当にやるのか、とか言っていたと思う。主の顔色はもう土みたいで、どうしてもやらなければならないと言っていた」
長い前髪で顔を隠してしまった山姥切さんだったが、説明は怠らない。言われるがままにわたしはキーを叩き、小まめに文章を保存しておく。
「審神者さまは、いつも突然思い付いて実験を始める方なんですか?」
「まあ」
鶴丸国永とは相性が良いたいぷだ、と山姥切さんは少し顔を上げて遠い目をした。
もう三十路だというのに、困った奴だろう、と言う彼の目元はそれでも穏やかで、良い信頼関係が築けていることが推察できた。
「後のことは俺に全て任せると言って、自分の腕に薬品の入った注射針を刺した後にすこんと眠ってしまった。主が長期間不在にする時と同じようにしろという意味だと思ったから、俺は久し振りに初期刀らしく色々やった」
「長期間不在というのは?」
「主は研究結果の共有のために、定期的に現世のらぼというところに顔出しをするんだが、一度そちらに出向くと本丸に戻るのがなかなか難しいらしい。それで、端末から指示を仰いで何とか切り盛りするんだ。だが、本丸のことをずっと放っておく訳にもいかないから、大半の研究は大学院とやらで一緒だった同期に任せていて、本丸でもできる研究に留めていると言っていた」
「熱心ですね」
「そもそも、審神者になると決めたのも、研究費の補助金を国が出すという条件が提示されたからだと言っていた。面白いと思ったことを追い続けていないと気が済まないらしい」
つくづく鶴丸国永とは相性が良すぎる、と山姥切さんは苦笑を零す。
「でも、鶴丸さんは第一部隊ではないんですよね?」
刀帳に記されていた鶴丸国永の顕現日は、本丸稼働の最初期に分類されていた。時期から考えて、恐らく鍛刀でこの本丸に顕現した刀剣男士なのだろう。
「最高練度に達してから、専ら遠征と手合わせ要員だな。最高練度の刀剣男士は殆ど出陣しない」
まあ俺は出陣するがな、と鼻を鳴らす彼はどこか自慢気だ。ちょっと少年染みていて可愛い。まあうちの課の倶利伽羅さんの方が可愛いんですけどな!
この場にはツッコミ役がいないので、あまり調子に乗ってはいけない。取り返しが付かなくなる。自分に言い聞かせながら、正座した足の上下を入れ替える。ちょっと痺れてきたのは内緒である。
「その時、第一部隊だった刀剣男士の反応はどうでしたか」
「そうだな、普段飄々としてる鶯丸も、俺の兄弟も、主の咳き込み方には流石に青ざめていたな。取り乱していなかったのは三日月くらいか」
「そうですか……」
蛍丸は心配そうに周りをぐるぐるしていたが、と続ける山姥切さんが、はっとしたように顔を上げた。
「そうだ、燭台切は棒立ちだったな。一言も声を出せずに真っ青で……」
「一言も? それ実は大倶利伽羅さんだったりしません?」
「うちの本丸の大倶利伽羅は割と喋るぞ。食い物限定だが」
何それ是非お目にかかりたいですと反射で零すと、彼が少し引いた目でわたしを見た。おっといけねえ、自重するぞ。
しかし、あの気遣いの鬼というか、完璧すぎて審神者が気疲れする案件多発のあの燭台切光忠が、と思うと不自然である。パニックで棒立ちとか格好良くないよね、とか言い出しそうである。
「今も主の部屋で何をしているのか知らないが、一向に出てくる気配がない」
何それ超怖い。まず燭台切光忠という時点で、もう色々と怖い。色んな事例集を端から端まで読んで、登場頻度が高すぎる刀剣男士故である。
燭台切光忠が怖いのは、人懐っこく親切で、気配りの鬼で、文句の付けようのないイケメンで、良い匂いがして、足が長くて、打撃力がえげつないところである。あと豊かな尻と胸。絶妙すぎるバランスで構成されている要素は、人を狂わせることなど容易い。現に燭台切のせいで婚期を逃す審神者の多いこと。超怖い。
三日月宗近のような、いっそ人外染みた美しさではなく、生々しい色気が織り成す技だろう。いや別にわたしは燭台切光忠さんに何をされた訳でもないし、個人の好みの問題で言えば倶利伽羅さんには勝らないので安心してほしい。
契約課配属の燭台切さんにぶん殴られて殉職するのは嫌なので、そろそろ思考を切り替えることにする。
「後で構わないので、その燭台切さんとお話できますかね?」
怖くても事情聴取はしておくべきである。怖くても。
「……主の部屋の障子越しなら、そう難しくはないだろう」
懸案事項、燭台切光忠、とだけ端末に記入しておく。嫌な予感が背筋を行ったり来たりしているが、震えたところで仕方ない。生きて帰るという目標を諦める訳にはいかないのだ。
転送門が使えなくなった出陣の前に、何か本丸に違和感がなかったかと尋ねるも、山姥切さんは静かに首を横に振った。
「では、最後の外出はいつでしたか」
万屋でも演練でも、と聞くと、山姥切さんは少し考えた後、顎に手をやりながら口を開いた。
「前日、演練に出たな。主の同期だという男と当たったから、よく覚えている」
お、これは何か手がかりがあるかもしれない。演練では何かと揉めごとが発生しやすいし、公的な記録がきっちりと映像で残っている。思わず少し前のめりになりながら、山姥切さんに話の続きを請う。
「あの時の主はガキみたいで面白かった。研究とやらは、主にとって本当に楽しいことなんだろう。写しの俺には、よく分からないがな」
演練の前後の時間で、主さんと同期の男性は楽しくお話をしていたのだという。友人と会うと幼くなるのはよくあることだ。柔らかい表情をした山姥切さんは、また襤褸の裾を指先で弄んでいる。
「その演練の勝敗はどうでしたか」
「俺達の圧勝だった」
相手の編成は、加州清光、堀川国広、和泉守兼定、骨喰藤四郎、獅子王、御手杵だった。連携は悪くなったが、経験値の差という奴だ、と山姥切さんは口の端を吊り上げた。この山姥切さん、想像よりちょっと血の気が多い。
同期の男性について印象に残っていることを聞くと、惨敗してもあまり悔しそうには見えなかった、という答えが返ってきた。主と研究のことばかり話していた、細かい内容は俺にはよく分からない、と山姥切さんは襤褸を指先に巻き付けながら言った。
うーん、勝敗に拘りがなく、ぶっちゃけ研究以外に興味がないとか。国の提示した条件があるから嫌々審神者になった可能性もあるだろう。刀剣男士との距離感に悩んでいるとか。駄目だ、まだ確定要素が少ない。憶測を重ねても正解に辿り着ける気がしないので、端末には“審神者の対人関係、演練で関わった審神者、大学院の同期を中心に調査”と入力しておく。
「そういえば、審神者さまのご家族とか、恋人についてはご存知ですか」
「何だ、立候補か?」
「違います! わたしの嫁は倶利伽羅さんです! いや冗談です!」
山姥切さんが吹き出した。失礼である。唐突な質問にふざけているのかと批難されるかと思ったが、彼はヒーヒー腹を抱えて震えるのに満足したのか、若干の涙目でこちらを見上げる。やっぱり失礼である。
「生憎だが、あまり詳しくない。実験か任務か飯か、主の思考はそんなところだ」
「さいですか」
糸口が掴めなかったので、切り替えて別の質問を投げることにする。
「初期刀のあなたから見て、この本丸の雰囲気は如何ですか」
この本丸か、と山姥切さんは顎に手を当てて視線を一度落とすと、そうだな、とゆるりと目尻に温度を灯す。
「俺達の本丸は、主がやりたいことを一番に出来るよう、戦のことは俺達で何とか出来るとこまでやろう、というのが暗黙の了承でな。研究のこととなると童子に戻るあいつを見守りたい奴らばかりだ」
目蓋を伏せた彼の前髪が揺れる。僅かに湿った空気に思わずタイピングする手を止めると、青の瞳がこちらを貫く。
「だが、主が眠ってもう三ヶ月だ」
「三ヶ月間、一度も覚醒してないんですか」
白頭巾が一度縦に揺れる。三ヶ月もの間、物言わぬ主君の世話をしても覚醒の予兆もなく、出陣もままならない。無為に過ぎる時間の中で、ただ見守るしかできない彼らの心境を想像すると、勝手に胃がしくしく泣く。
「……政府への連絡はどうされていましたか」
「この本丸を担当している政府の職員に毎日連絡を入れているが、えらーで跳ね返ってきてしまうんだ。そのめーるぼっくすを見れば分かる」
長い指に促されて端末を操作すると、毎日一通、必ずメールを送っていた形跡があった。受信ボックスはサーバーエラーによる自動返信で埋まっている。今日こそは、と短刀達が意気込んで、その度に空気が沈むから、途中からメールは全部俺が送るようにした。何でもないように言う山姥切さんは、再び目蓋を落としてしまう。
負った傷を隠す痛々しさは、誤魔化せない。
「幸い、俺達は人間じゃないから、畑で採れる作物だけで十分足りるし、食べなくても折れはしない。だが、主の霊力が弱まってきていて、このままでは俺達はこの姿を保てなくなるのでは、と心配する声が出た。もし主が目覚めた時に、側で世話が出来る奴がいなければ、きっと主は困るだろう。ずっと眠っていれば、体が上手く動かなくなると薬研が言っていた」
誰だ、こんなにも人に寄り添ってくれる刀剣男士の主さんに危害を加えたのは。絶対に取っ捕まえてやるという強い決意を胸に、わたしは思わず眉間に寄った皺を指先で揉みほぐす。ここでわたしが苛立ったところで解決する訳でもない。
「辛いお話をお願いしてしまって、申し訳ございませんでした」
「別に、事実だ」
淡々としているように見えるが、これは初期刀だからこそだろう。彼が揺らぐと影響が大きすぎることを知っているから、卑屈な言い方はしても絶対に諦めるような言葉は吐かない。よく出来た刀剣男士だ。
「……おい、日付が変わっているが、このまま夜通しやるつもりか」
言われて審神者さまの端末の右端に視線を落とすと、言葉通り日付が変わっていた。もう二時間も経っていたのか。申し訳ございませんとへこへこ頭を下げるわたしに、山姥切さんは別に構わない、と慌てて付け加えた。
時刻を再認識すると、どっと疲れが肩の上に乗っかってくる。少々哀れみの目を向けてくる彼は、襤褸の端を握り込んで立ち上がった。
「部屋と風呂は用意してやれるぞ。電気と水は問題なく使えるからな」
「そりゃあ助かりますが、でも良いんですか?」
見ず知らずの人間を本丸に滞在させるのは、セキュリティ面から好ましくないだろう。政府職員であることは信じてもらえているが、他の刀剣男士がどう思っているかまでは分からない。皆まで言うのは悲しいので必要以上には喋らなかったが、どうやら伝わったらしい。眉尻を下げた山姥切さんは小さく息を吐いた。
「人の子は休まないと簡単に死ぬだろ。あんた、会ってからずっと顔色が悪い」
この山姥切国広、あまりにも社畜に優しくないか? 天使なのか?
ありがたくお言葉に甘えることに決め、わたしはふと手荷物を覗き込む。そう、仕事の道具に過不足はなかったが、お泊まりセットどころか化粧ポーチもない。女としての自覚が欠如していると詰られそうだが、わたしの元々の業務は本丸の備品確認である。泊まり込みなど想定していない。デスクに置いてきてしまったわたしは別に悪くないのである。
しかし、見目麗しい刀剣男士の前に、顔面工作もせずに姿を現すのは大変心苦しい。マスクも持っていないし詰んだと慌てるわたしに「そういうのは乱に借りれば良いんじゃないか」と提案してくれる山姥切さんを見上げて、わたしは呆けた。
「神だ……」
「刀剣男士だが」
言ってから、山姥切さんは可笑しそうに肩を震わせてそっぽを向いてしまった。