「はい! クレンジングと乳液と化粧水とコットンね! シャンプーとかも僕のを使って良いよ! お風呂上がったら僕がパックもしてあげる!」
「いやそこまでしていただくのは……」
「女の子のお客さんは初めてなんだもん、僕のワガママ聞いてほしいなあ」
きゃるん、という効果音が聞こえる。幻聴だ。上目遣いで確実にこちらを仕留めようとしてくる乱さんは、流石、粟田口の短刀である。本当に遠慮しないで、と鈴の転がるような声で強請られてしまえば拒絶は難しい。わたしにそんな特殊技能はない。
倶利伽羅さんにお強請りされたらこの命などさくっと差し出してしまうだろうなあ、という不要な想像を胸に、わたしは白旗を掲げた。ぷくっと頬を膨らませて不満げな乱さんに、頷くまで脱衣所から出て行かない、と言われてしまえば頷くしかない。他に選択肢があったならご教示いただきたいものである。
「主さんはおじさんだし、いっつも同じ服を着てるから面白くないんだあ」
顔は悪くないんだけどね、と付け加えた乱さんからばちこーんとウィンクを頂戴し、白魚のような手から真っ白なタオルを手渡される。攻撃力マシマシである。
三十路を子ども扱いしたり、おじさん扱いしたり、この本丸は割と自由である。
「こちらの審神者さまは、どういう方なんですか?」
山姥切さんとは違う視点で語ってくれることを期待して尋ねると、乱さんはぱちぱちと音が鳴りそうな瞬きをして腕を組んだ。
「主さん? 典型的な理系男だよ。実験して論文書いて実験してを延々繰り返してるし、変なところで拘りが強いし、面白いものを発見したら飛び付かずにはいられないって感じ」
合コンで出会った男と付き合って別れた後の女の愚痴のようだった。
「主さんの靴下が臭いから一緒に洗わないでって短刀達が洗濯当番に言ってるのを聞いて本気で落ち込んだり、お風呂場で毛根にただならぬ情熱を注いでたり、足の長い刀剣男士に膝かっくんしたり、簡単に言うと元気な人、かなあ」
わたしは閉口を選択した。迂闊に口を開いてはならぬ。
でもね、と乱さんは続ける。
「僕達のこと、すごく大切にしてくれてる。日本史は苦手だったって言ってたけど、戦場の分析は熱心だし、実験以外の時は僕達とお話して、色んなことを覚えようとしてくれる。前向きでいなきゃって自分に言い聞かせてるところはあるのかも」
それに、と乱さんはにっこり笑う。
「この本丸の刀剣男士は一振りも折れたことがないんだよ。自慢の主さんなんだ」
蒼の瞳がやわらかく融けた。
目は口ほどに、という諺の信憑性は同僚で確認済みである。その表情に嘘が混じった様子はなかった。純粋な、主を慕う刀剣男士の顔だった。
「ね、朝になったらお化粧もさせてね?」
約束、と乱さんはわたしの頬を指で突く。これは金銭が発生するファンサなのではと思ってしまったが、こちらが強請った訳でもないので、至れり尽くせりのお気遣いを有り難く享受することにした。
脱衣所からるんるんの足取りで出て行った乱さんを見送ってから、作業着のジッパーに手をかける。あんなに可愛いのに女の子じゃない不思議に、やはり脳は混乱したままである。
化粧もしてくれるのか。大変有り難いことだが、睫毛肉挟み器が怖いと震えるしがない政府職員に対して、恐らく短刀の彼は一切の容赦がないだろう。ビューラーはマジで怖い。あんな目蓋の目元をぎゅっぎゅっと力一杯挟まれた時の痛みを想像するだけでちびりそうである。というか睫毛が千切れることはないのだろうか。世の大半の女性はあまりにも強かだ。
なお、視力の良さから縁のない人生を送ってきたため、コンタクトレンズも同じく恐ろしいわたしである。目玉に異物入れるとか、目薬だけで間に合ってます。世の大半の人間はあまりにも精神が強い。
あらゆる意味で激弱のわたしは無意識に零れ出た溜め息を飲み込んで、風呂場の扉を開ける。妙な気配や違和感はない。すぐに何かに斬り殺されることはないだろうと判断し、風呂場の入口の扉にタオルを引っ掛けてタイルを踏み締める。疲労のあまり手拭いで局部を隠す気力もない。
シャワーのコックを捻る。まあ斬り付けられても抵抗の仕様がないのだが。すぐに熱い湯が出てきたので、足先を温めると、むくんでいた足の血流が蘇ってびりびりとした。
浴場はしっかりと掃除がされているようで、目立った汚れは見当たらない。湯船も何人もの男が入ったとは思えないくらい綺麗なものだ。あんなに髪の長い男達もいるのに、やはり刀剣男士とは不思議な存在である。抜け毛とかないのか。アイドルがトイレに行かないのと同じ理屈が罷り通っているとでも言うのか。
風呂場で接触してくる刀剣男士がいるかもしれないと気を引き締めていたが、杞憂に終わった。大量に置かれていた同じ容器のシャンプーとは別に、パステルカラーの可愛らしいそれが目に入ったので手に取ってみる。なるほど、これが乱さんのか。申し出を断るのも失礼かと思い、そのままポンプを押す。
めちゃくちゃ良いにおいのするシャンプーで髪を洗い、洗い流さないトリートメントまで借り、これまた良いにおいのするボディソープで身体を包んでも、気配の一つも増えなかった。本当にただ可哀想な社畜に風呂を提供してくれただけのようだった。ざぱりと音を立てて湯船に肩まで浸かると、喉からはおっさんのような声が条件反射で出てしまう。両腕をぐっと上に伸ばすとバキバキと骨が鳴った。
「風呂は命の洗濯だもんなあ」
適当な言葉に返ってくる声はない。安心して肩までじっくり浸かる。おっさんのような呻き声が思わず口から再びこんばんはしてしまったが、聞いている者もいないのでそのままにしておく。
本来、こういった案件の風呂場で気を抜くなど自殺行為に等しいが、積み重なった残業のせいで思考がぐずぐずなのである。ここ数週間、定時という概念が恋しい。ぐっと腕と足を伸ばし、背中を反らせば容易く骨が鳴る。想像はしていたが、やはり可愛らしい音ではなかったので自分でも引いた。
貧相な足の筋肉などを湯船の中で揉みほぐしながら、さっき聞き取った内容を簡単に脳内で整理する。後で端末に打ち込んでおかねばならないので、なるべく簡潔な言葉をイメージしながらツリー図を描く。風呂は思考を纏めるのに最適な場所だ。社畜だって毎日湯船に浸かりたいぞ。
さて、この本丸は即座に危険とまでは言えないが、安全かと言われるとやはり首を傾げるしかない。違和感が多いのが何よりの証拠だ。
時刻の合わない腕時計、三ヶ月間眠ったままの審神者さま、何かを隠している初期刀の山姥切さん、今はいないというこんのすけ、夜中とは言えわたしという不審者が侵入したにも関わらず、直接的な攻撃を仕掛けてきたのが今剣さんだけという事実、全体的に薄暗くて傷の多い本丸、静かすぎる他の刀剣男士。
いつ倶利伽羅さんに情報共有出来るようになるかを考えると憂鬱になったので、手足の指がふやける寸前まで湯船の世話になり、名残惜しくも脱衣所を目指した。