「山姥切君には僕から伝えておくよ。備品のリストアップも、皆に聞いたら半分は終わってるって言ってたから、明日のお昼までには全部確認出来るんじゃないかな。しっかり寝ないとお肌が荒れちゃうから、夜更かしなんて駄目だからね!」
じゃ、おやすみなさーい、とパステルカラーのもこもこな寝間着を身に纏った乱さんは軽やかに手を振って去ってしまった。
普段よりめちゃくちゃ肌に手入れを施され、ふわふわもちもちに潤った己の頬に感動を禁じ得ない。こんなの小学生以来のもちもち具合ではなかろうか。テクニシャン乱先生によるパックはいつ剥がすのが最適なのかを聞きそびれたまま、わたしは用意された布団に背を沈める。多分ずっと貼りっぱなしは水分が余分に飛ぶとかで良くなかったはずである。
寝間着にと着流しまで借りてしまった。鳴狐さんの予備らしい。非常に申し訳ないが、着替えは持っていないし、作業着で寝る訳にもいかないので、ありがたく袖を通させてもらった。
風呂場では異常なし。となると、次に無防備になるのは就寝時である。眠るのは簡単だが、殺されるのも同じく簡単である。
部屋の空気は今のところ変化がなく、ずっと湿度が高い。風呂上がりの首筋にじっとり纏わり付くようだった。視線を感じる訳ではない。そもそも刀剣男士が本気で気配を消したら、しがない政府職員のわたしには感知不可能である。そんな能力があったなら今頃審神者として本丸運営を余儀なくされていたところだろう。精々、一般人より適正値が高い程度である。
こういう空気は電気を消した瞬間に急変するのがセオリーだ。背を起こし、念のため手荷物を全て抱えてから、リモコンを手に取る。すぐに走り出せるように座ったまま姿勢を整える。無駄な抵抗でもしないよりはマシである。よし、サン、ニイ、イチで電気を消すぞ。サン、ニイ、イチ、
「おい」
「アアアアアアアア」
スパンと障子の開かれる音と同時に突如聞こえた人の声にわたしの手元は狂い、電源を強打した後にリモコンが何処かへ旅立ってしまった。口から零れ出た悲鳴は全く音量がなく、分からぬ相手を脅かす効果もない。全く慣れない暗闇の中、とにかく唯一の光源である月明かりに頼ろうと、がくがく震える足で立ち上がって外を目指す。
しまった、何者かが障子を開けたのだった。正面がガラ空きである。袈裟切りにされたらどうしよう、いや考えるよりも先に距離を取らねば。どう逃げれば。いやもう考えている間に斬り殺される。どうする、とにかく走り抜けるか。
混乱する脳は電気信号を送るのもままならず、わたしは迷っている間に敷布団と畳の段差で呆気なく足を滑らせた。
う、受け身を! 受け身を取らねば! 何も見えないけど!
「……あんた馬鹿か」
存外、優しい声であった。
傾いたわたしの体は何かに抱き留められ、畳と熱い口付けをするには至らなかった。はあ、と聞き慣れた溜め息が耳元に落ちてくる。頬にふわふわとした何かが掠める。不思議と殺気も感じない。斬り付けられたような鋭い痛みもない。腹に回された腕は内臓を圧迫したものの、それだけだった。
「お?」
僅かに身を捩って背後に視線を向けると、暗闇の中、光る金色の二つの目が静かにこちらを見下ろしていた。
「早くリモコンを探せ」
「はい」
混乱したまま、反射でいつも通り素直に返事したわたしの背後から熱が離れていく。ようやく闇に目が慣れて、布団のすぐ横に転がっていたリモコンを見付けた。
急いで電気を点灯させれば、ふっと息を吐く同僚がそこにいた。
倶利伽羅さんだ。
「間抜け」
きゅうと倶利伽羅さんが目を細めるさまに、わたしの心臓は死んだ。そして己の顔に貼り付いているコットンパックの存在も思い出して更に死んだ。そっとパックを剥がして、布団の近くに置いてあった屑籠へシュート。コットンに含まれていた水分のせいで、ぺしゃりと鳴った。
倶利伽羅さんだ。
同僚の姿を認めた途端、今まで我慢していた不安やら緊張やら孤独感やらが鮮やかに蘇ってくる。涙腺の蛇口が緩み始めて、みるみる視界が歪む。いや、決壊させる訳にはいかない。しかし喉が震えるのは堪えきれなかった。
「遅いですよ倶利伽羅さん……どんだけわたしが死にそうになってたか!」
ああ、たった数時間離れていただけなのに、この安心感は何だ。左手を柄に、右手の指を襟足に絡ませてこちらを見下ろしている。いつも通りの、同僚だ。
「きちんと仕事はしていたらしいな」
思考が完全に駄目な方向へ振り切れたわたしは、ぐずぐず鼻を啜って目前の神さまへと飛び込んだ。
「お褒めいただき光栄ですアアアアア倶利伽羅さんだアアアアア」
「おいやめろ引っ付くな」
容赦なく引き剥がすも、全力で震えているわたしを哀れに思ったのか、わたしの肩を真下へと押して布団に座らせると、自分も腰を折って畳に鎮座してくれた。はあ、と嫌そうな溜め息はきちんと付いてきたが。いえいえこれは神対応ですよ。わたしはもうすぐ死ぬのか?
安心すると同時に恐怖も蘇る。今剣さんの刃が首に当てられた時、よく漏らさなかったなと最早感心するばかりである。誰も褒めてくれないから自分で褒めるぞ。
「ところで、どうやってここにいらっしゃったんです?」
感動の再会を味わうのも三分が限界である。乱さんに徹夜は駄目だよと言われたが、この状況下ではそうも言っていられない。折角潤いを取り戻したわたしの肌は犠牲になったのだ。
審神者さんの端末の電源を入れると、時刻は深夜二時を過ぎたところだった。いややっぱりもう寝たいです。
「池に飛び込んだ」
「そんな無茶な」
明瞭な返答に白目を剥く。同僚が連れ去られたからと言ってそんな後先も考えずに、倶利伽羅さんらしくない。いやまさか、わたしのことが心配で身体が勝手に、とかそんな、まるでラブコメみたいな!?
「池からあんたを引っ張った手らしきものが見えた」
ええ、真っ当に業務を遂行していただけですね、分かります。
さくっと恐ろしい供述をした倶利伽羅さんは、己の懐から小さな端末を取り出して画面をスワイプしている。政府所属の刀剣男士に与えられる端末は、人間の職員のものより二回り程度小さく、倶利伽羅さんであれば片手で操作が可能な大きさである。戦闘時に邪魔にならないようにという配慮らしい。
ぱっと見たところ、倶利伽羅さんは濡れたり汚れたりした様子がない。池に飛び込んだと言えども、わたしと同じように水面に触れた訳ではないのだろうか。
「……手らしきものですか。手じゃないんですか」
「靄のようだった」
「靄」
それってやっぱり呪術的な何かですかね、と恐る恐る尋ねると、首が一度だけ縦に振られてしまい、気が遠くなる。ラブコメも遠のいてしまった。悲しみのあまり視線を落とす。夢見たって良いじゃない人間だもの。おうおう。
「これだ」
画像ファイルを漁っていたらしい同僚が、端末の画面をこちらに見せた。池の水面から伸びる黒い何かは、彼の言葉通り靄のように見える。輪郭がぼやけているが、煙と称するには密度がある。黒い何かは大きく二本に分かれており、先端は手のような形を描いていた。
己のSAN値がゴリゴリと削られていくのが分かる。
写真として残るのであれば、完全な霊的物質ではない。だが化学物質だと言い切るのも納得がいかない。ひとまず呪術だと仮定する。その手のものが倶利伽羅さんには反応せず、わたしに向かってきたことを考えると、攻撃対象は人間に絞られていたのだろうか。まだ審神者も就任していない本丸に仕掛ける理由は何だ。人間を対象にしたいなら、もっと大人数が集まるところの方が効率が良い。演練とか、城下町とか。人数が問題でないなら、それこそ特定の個人を狙っていたのか。
泳ぐ思考を垂れ流しにする訳にもいかないので、己の端末の画面に指を滑らせる。何でも書き起こすのが一番早い。まとめる間に倶利伽羅さんが重要な部分を抜き取ってくれるだろう。テキストエディタを開いて文字を打ち込み始めると、彼がぼそりと声を零す。
「加えてあれは、池じゃなかった」
真顔で冗談を言われると冗談に聞こえないので止めてください、と言うも、倶利伽羅さんは柔く首を横に振った。思わずわたしは打ち込む指先の動きを止める。血の気がヒットエンドラン。
「わたしこれでも目は良い方ですよ。本当に池じゃなかったとしたら気付いてたと思うんですが」
「確かに一部は本物の池だろう。恐らく何重にも目眩ましの術がかけてあった」
「術?」
「池の中……正確には池の前の地面だろうな。そこに転移の術式が組み込まれていて、あんたは引っ張られた」
成る程、その整理であれば納得出来ないこともない。そういうことにしておこう。思考を放棄しているのではない、脳が休息を欲しているだけである。
重い頭を振って顔を上げると、不思議なことに同僚と目が合った。
見つめ合うと素直にお喋り出来ない同僚だが、わたしもその傾向がある。人の目を見て話すことの難易度の高さよ。いや、そうじゃなく。いつものアイコンタクトにしては、随分と視線の絡まる時間が長い。
「……エッ」
あまりの長さに静かに慌てふためくわたしに、鬱陶しそうに目を細めた倶利伽羅さんが龍の巻き付いた腕を伸ばしてくる。あっその見下すような視線イイですね、と喉まで出かかっていたわたしの背は、再び布団に沈んだ。手にしていたわたしの端末も同じく布団にダイブである。
「は」
混乱するわたしの上、覆い被さるように両手を敷布団に突っ張ってこちらを見下ろす同僚は、静かに瞬きを繰り返している。
ち、近い。何だこれは。眠たいんだろうか。ここに敷いてある布団は一組だ。押し入れに予備が入っているか確認しないと、と起き上がろうとするも、肩を布団に縫い付けられる。長い指がしっかりと肩の骨を掴んでいて、容易く動きが封じられていることを実感する。しがない社畜が刀剣男士に力で敵う訳がない。
あの、と困惑の声を出さざるを得ないわたしに、倶利伽羅さんは右手の人差し指を自分の口元に持っていった。黙っていろ、とのことである。そのポージング最高にイイですね、と訳の分からないことを口走ることがなかったので、わたしは辛うじて生き長らえた。
が、倶利伽羅さんはそのまま肘を僅かに折る。わたしの両足を跨いでいるであろう姿勢が低くなり、浴衣越しに体温が分かって硬直する。太ももに倶利伽羅さんの足が完全に接触している。
いや、距離が。近い。再三申し上げるが近い。その整ったお顔を近くで拝見出来るのは嬉しいやら恥ずかしいやら、いや、とにかく近い。キャパオーバーだ。抵抗しようにも力が全く入らない。そうですわたしが腰抜けです。骨抜きかもしれない。
ついに、彼の前髪がわたしの前髪に混じる。こちらを見下ろす金色は閉ざされることなく、わたしは視線を逸らしたい気持ちでいっぱいなのに、指先一つ動かせない。あれだ、蛇に睨まれた蛙だ。いや、蛇ではなく龍か。
妙な汗が額に滲んでくるのが分かる。このままわたしはどうなってしまうのだろう、気付いたら刺されてあの世行きの快速急行に飛び乗っている可能性もあるのでは、と思ったところで、倶利伽羅さんの顔が少しだけ遠のく。
「や ね う ら」
形の良い唇が、音もなく四文字をなぞった。
誰かが我々を監視しているということか。わたしの驚いた顔は、恐らく倶利伽羅さんの後頭部でその何かからは見えないのだろう。それを狙ってこの距離なのか。納得はするが、あまりにも心臓に悪すぎる。
「…………」
そして黙りこくってしまう同僚である。いや、ずっとこのままなのか? それはヤバくないか? 心不全になったらどうしてくれるんだ?
「……そのまま適当にしていろ」
耳元に零された声は殆ど息のようなもので、すぐに空中に霧散してしまう。手袋をした指が、わたしの耳のふちをなぞった。普段の塩対応からは想像も出来ない、熱っぽい動きを感じる。
適当とは。
「ちょ、」
「好きにさせろ」
今度はしっかりとした声音だった。屋根裏にも聞かせるような音量である。わたわたするも、片手で易々と布団に縫い止められたわたしに抵抗の手段はなく、首元に顔を埋めてくる倶利伽羅さんがあまりにも性的すぎて心臓が破裂しそうである。絶対に血圧に良くない。突然死したらどうしてくれるというのだ。
こんなサービスは聞いていない。わたしは彼に一方的に命を預けているようなものだが、ただの同僚なのである。ああ~猫っ毛が~顎を擽る~何か良いにおいもするよお~!
「まっ」
「五月蠅い」
濁点の混じりそうな声が喉からご挨拶しかけたところで、肩に置かれていた手が二の腕を通ってわたしの手に絡む。指の股に倶利伽羅さんの長い指が入り込んで皮膚が撫でられ、鎖骨の辺りに熱い吐息が零されてヒエーオギャーと叫び出したいがまともな声にならなかった。これは慣れ合いに入らないのか。どうなんですか。
「…………」
動きが止まる。どくどく脈打つ己の心臓が五月蠅くて仕方ない。一秒が何分にも感じられて、今にも心臓が勢い余って飛び出てきそうだった。こんなファンサがあるなんて聞いていないぞ。普段から狙ったら確実に殺すマンであるとは思っていたが、いざ実行されるとその破壊力は想像を遙かに超え、最早えげつないとしか言及出来ない。供給過多という言葉をご存知ですか。
大混乱スマッシュブラザーズ状態に陥ったわたしに静かに視線を落としていた倶利伽羅さんは、何度か瞬きをすると、漸く上体を起こした。やっとの思いでわたしは肺で縮こまっていた空気を吐き出すことに成功する。わたしの太ももを挟んでいた長い足も離れ、同僚は布団の端で足を崩して座り込んだ。
「部屋の内部に結界を張れ」
淡々とした命令文が飛んできた。
「ええ?」
「監視者が報告に行ったんだろう、今のうちだ」
早くしろ、といつもと同じ声音で急かされ、混乱の解けぬまま手荷物から札を取り出し、震える足腰に鞭打って部屋の四隅に貼り付ける。簡易な結界だが、札を貼っている間は防音、視界遮断、侵入不可の効果を発揮する便利な奴である。ただし持続時間には限りがある。加えて結界を張ったことは外から見れば分かってしまうので、監視者が戻ってくる前に壊しておかねば言い訳が出来ない。
監視者。屋根裏に潜り込める体型ならば短刀だろうか。式神かもしれない。やっぱりいつ殺されても可笑しくなかったんだなあ。諦めにも似た気持ちが胸に渦巻くが、諦めるのは十八番だし、と自分を元気付けることに成功した。単純明快な己の思考に合掌。
結界作成の命令が出たということは、次に求められるのは職員以外には聞かせられない、一段階上の情報共有である。とんでもないサービスだったが、仕事の一環であったのならば仕方ない。彼は割と手段を選ばないタイプである。まだ五月蠅い自分の心臓を宥めながら、端末の電源を押す。
「とりあえず、現状まとめ作成していきますので」
「これからか」
「鬼ですか」
反射で返すと、倶利伽羅さんは真顔で「冗談だ」と言った。今日は冗談も言ってくださるから頗る機嫌が良いようだ。何か分からんけどやったぜ。
「審神者さまの状況についての聴取は、聞きながら書き殴っただけで推敲出来てません。それでも良ければ先にご確認ください」
布団の横に転がっていた端末を手に、箇条書きのファイルを空中に展開する。倶利伽羅さんの長い指が展開された画面をすいすいとスクロールしていく。相変わらず読むのが速い。そういやこの同僚、速読も会得していたんだった。
部屋の隅にあった小さな文机を引っ張ってきて、映像化したキーボードを出してタイピングを開始する。風呂場である程度構想を練っていたので、打ち込みはスムーズだ。風呂場でもぐでぐでするだけでなくちゃんと仕事していた自分を褒めるぞ。
「審神者は研究者か」
「はい。もうすぐにでも担当課にぶん投げたいことだらけですよ。でも電波入らないんですよねえ」
せめて本庁と連絡が取れれば担当課に情報を渡せるのだが。溜め息を吐き捨てながらも指の動きは止めないわたしは最高に偉いぞ。やっぱり自分で褒めるのにも限度があるので誰か褒めてほしいぞ。
倶利伽羅さんが山姥切さんからの聞き取り情報を全て読み終えてしまったようなので、わたしは今打ち付けているテキストエディタの画面も空中に展開する。こっちも見てもらった方が時短だ。倶利伽羅さんは無言で画面を睨み付けている。
「基幹システムのハッキングの可能性は」
「高いでしょうね。まだモデムの確認は出来てませんが、こう徹底して電波遮断しているところから予想するに、罠でも仕掛けられてるかなと」
恐らくハッキングを見抜かれるところまで想定済みで、二重にも三重にも手が回されている可能性がある。犯人は暇人なのか、凝り性なのか。今はまだ人物像を浮かび上がらせることが難しいので何とも言えないが、大変面倒である。
同僚は自分の端末を片手に空中の画面をさくさく操作し、新たに情報を書き加えていく。
「あと、審神者さまの生存確認をしておきたかったんですが、この本丸の燭台切さんが審神者さまの部屋に籠城されてるようでして」
「……よりにもよって光忠か」
溜め息を吐きながらも指先は止めない倶利伽羅さんである。
「悲しいですね。わたしが殺される前に助けてくださいね!」
「気が向いたらな」
事例を思い出すに、絶望度が増していく。最早笑うしかないわたしに対し、倶利伽羅さんは空中にフリック操作のキーボードを出してすいすい文字を打ち込んでいて、大凡平常通りの運行である。
「生きてるわたしは五月蠅いかもしれませんが、わたしの死体を持って帰って職員死亡届を作成する方がめんどくさいですよ!」
職員死亡届作成に必要な時間と労力と決裁ルートを思い描くと、嫌な汗が次々に出てくるものである。死んじゃいましたはい終わり、といかないのがお役所仕事。倶利伽羅さんは少しの逡巡の後、ふ、と小さく息を零した。
「それもそうだな」
納得されてしまった。いや説得した結果なのだが。淡々と言葉を返してくれる倶利伽羅さんは、ある程度打ち込みが終わったらしく、キーボードを消してわたしの入力を見守ってくださっている。わたしは超特急で打ち込みを進めながら、そう言えば、と切り出した。
「執務室の障子越しなら接触できるかもと山姥切さんがおっしゃってました」
障子越しの燭台切光忠、油断した瞬間に障子ごと斬り捨ててくる映像が容易く浮かぶ。青銅の燭台に比べれば障子なんて空気に等しい。せめて苦しまずに死ねますように。南無。
「……場合によっては強行突破する」
「了解です」
強行突破は倶利伽羅さんのお役目である。わたしは上手く誘導尋問して情報を集めるか、時間を稼ぐか。殺されるまでの制限時間を数えながら、ギリギリのところで綱渡りをしないといけない。胃薬をデスクに置いてきてしまったのは失敗だった。あれは強化アイテムである。
「そうだ、倶利伽羅さんの感覚も確認しておきたいんですが」
「何だ」
普通に返答がある。遂にデレ期に突入したのだろうか。それともこれが頑張る社畜へのご褒美なのだろうか。ありがとうございます。
しかし、職務上この幸せを延々と噛み締めている訳にもいかないので、わたしは言いたくない懸念事項を口にする。
「この本丸、薄暗く感じませんか」
暫く沈黙が落ちた。
「……あんたはそう感じるのか」
「と言うことは、これ、人間限定のフィルターの可能性がありますね」
今も少し薄暗いですけど、と付け加えると、同僚は顎に手を当てて視線を落とす。ああ、さっきまでの多幸感は特急電車で旅立ってしまったようだ。
「今のところは目だけか」
「はい。耳鳴りとか妙な音とか、声もないです。鼻も特に違和感はないですね。時々背筋がぞくっとしますが、回数が増えるようならまた報告します」
「風邪じゃないのか」
「まあ体力は落ちてますよね、定時で帰れる日が待ち遠しいです」
運動不足であることは事実だが、まずは休息が欲しい。政府職員の頭上に疲労マークが見えるとしたら、軒並み赤色であることだろう。朝になれば橙色には戻るが、久しく桜は吹雪いていない。
まあわたしは倶利伽羅さんとタッグを組んで業務を遂行出来ているので、精神面では桜は霰のように降り注いでいる。単純に身体が追いついていないだけである。
一人でいた時より部屋の薄暗さが少しマシになったように思うのは、恐らく倶利伽羅さんが一緒にいてくださるからだろう。刀剣男士は存在しているだけで邪なモノへの耐性を発揮する。いや、わたしは邪なモノではない、思考が時々危ないだけで対象外である。許して。
この本丸の情報をやっと打ち終えたので、ファイルを上書き保存する。今回の件で書き上げたファイルを全て展開し、書き漏らしがないかを確認する。
備品確認をしていた本丸め二六九七三一三六。審神者さまコールドスリープ事件勃発の本丸ね四七一三四六五九。本丸め二六九七三一三六の池の前の転移術式が引き金となり、現在本丸ね四七一三四六五九にて情報収集を……識別番号が長過ぎて大変面倒なので、以降、め二六九七三一三六は“め本丸”、ね四七一三四六五九は“ね本丸”と省略する。“め”と“ね”でこれまたややこしい。噛みそうである。
さて、術を仕掛けられる人間は限られるはずだ。め本丸の前任の審神者さま、ね本丸の審神者さま、め本丸に行き来していた者、それぞれの審神者さまの知人。あと政府職員。いや、流石に最後のはないと思いたい。
「あ、さっきの本丸の神気濃度はどうでしたか」
「問題はなかった」
「そうですか……」
ただの中継地点に利用されただけなのか。
それにしても、歴史保安庁に配属されてから、心霊現象なんて、と馬鹿に出来なくなってしまったのが恨めしい。目に見えないものは信じません派だったのに、見えて触れて攻撃してくるんだもんな。もっとお淑やかに頼む。
「あんた、引き寄せやすいんだったな」
「そうでしたね」
これまでの経験を踏まえて的確な返答をする。ここで回想シーンを挟むと大変なことになるので割愛である。襟を正していると、同僚は自分の前髪をくしゃくしゃとかき混ぜて遠い目をしていた。わたしも倶利伽羅さんの前髪をくしゃくしゃってしたいけどしたら殺されそうである。
「…………はぁ」
「めちゃくちゃ溜め息」
石切丸総括に念入りにお祓いをしてもらっておけば良かったと思っても遅い。体質は一晩では変わらないのだ。よくよく考えても、引き寄せやすいのは幼少期からなので筋金入りだ。手遅れ感が半端ない。泣きたい。
空中に広げた画面を無駄にスクロールしていると、突然はっと倶利伽羅さんが顔を上げた。次いで舌打ちもひとつ飛んでくる。
「おい、脱げ」
「え!?」
再び何ぞこの展開、と盛大に混乱するわたしの背後に素早く回った倶利伽羅さんは、ぐいっと寝間着の襟を後ろに引っ張った。恐らくそんなに力は入れてないのだろうが、貧弱な職員の身体は呆気なく後ろに倒れそうになる。慌ててふよふよの腹筋で姿勢を戻しながら、とりあえず胸元を押さえた。貧相であっても猥褻物になり得るのなら防衛しなければならない。
「首の後ろだけで良い」
「はあ」
じゃあ最初からそう言ってくださいよ、と返すわたしに、再び鋭い舌打ちが聞こえる。さっきまであんなに機嫌良かったのにもう斜めなんですか、とは言えないわたしである。
「あのう、どうなってるんですかね」
「……指の形がくっきり這っている」
無理。
はいそうですかと一蹴出来るほどわたしは強くない。靄のくせに生意気だぞ。労災下りるかな、と得意の現実逃避をしていると、ようやく襟から同僚の手が離れた。
倶利伽羅さんはまた己の端末画面に指を滑らせている。と思ったら、パシャッとシャッター音が鳴った。随分堂々とした盗撮だぜ。まあ仕事なんですけど。好奇心に負けて画面を覗き込むと、ご指摘のとおりに首から肩にかけて、赤黒い痣が指の形を描いている。見なけりゃ良かった。
痣の色合いから、かなりの力が込められていたのが分かる。虐待である。弱い者苛めは駄目だぞ。正体が分かった暁にはけちょんけちょんにしてくれるわ。倶利伽羅さんが。
眉間に深い皺を刻んだ同僚は、視線を左下へ投げた。言いにくそうに口を開く。
「この本丸に飛ばされるまでに、ハジカミイオを見た」
「ハジカミイオ?」
初めて聞くので鸚鵡返しすると、倶利伽羅さんはぱちぱちと何度か瞬きをして、どうにかわたしにも分かるような単語を探しているようだった。こういう時、彼が古くから在る刀で、わたしとは違う時間の流れに身を置いているのだということを実感する。
「……山椒魚だ」
山椒魚。山椒のにおいがするからそう呼ぶのだったか。水中にいるイモリのようなものだったと記憶しているが、残念ながら実物を見たことはない。
「よくそんな小さいの見えましたね?」
「あんたの腕くらいの体長だったがな」
「それ大山椒魚では?」
鴨川とかにいる奴ではないか。大きくて黒くてぬめっとしていてのそっと動く奴。確か一部の種類は絶滅危惧種に指定されていたはずである。そんなものが本丸の池にいるなんて聞いたことがない。
いや、審神者の能力が頗る優秀な人は、わたしとは別の引き寄せで神さま関係を集めてしまうという噂を聞いたことがあるが、我々が業務に励んでいた先の本丸の条件には当てはまらない。
そもそも、この本丸に飛ばされるまでのルートが、わたしと倶利伽羅さんとで同一である証拠はない。まあわたしの場合は気絶していたに違いないので、確認の仕様もないのだが。
「身体の違和感は。今日の業務中から全て思い出せ」
地を這うような声で紡がれる業務命令に胃が竦む。思考を逡巡させるも、寧ろ違和感がないことの方が稀である真実に辿り着いてしまう。酷い話である。
「あの、肩こりと胃痛はいつものだと思うので、除外で良いですか」
悲しき自白に、倶利伽羅さんが本日何度目か分からない溜め息を吐く。これは肯定の意である。安心して頭から足の先まで記憶を手繰る。
頭、偏頭痛の範囲なので除外。多分問題ない。目、鼻、特に違和感なし。口は、
「……池に引っ張られた後、妙に喉が気持ち悪かったですね。何か間違えて飲み込んでしまったような……」
自分で言っておいて血の気が引いた。倶利伽羅さんからは盛大な舌打ちを享受する。
間違いなく仕込まれている。何かは分からないが、想像したくもない。飲み込むには少し大きい何か。薬物の類であれば終了のお知らせである。大量の錠剤とかだったらどうしよう。もう消化してしまっている可能性もある。端的に言って詰んでいるのでは。
どうしようもないのに喉元を押さえてガタガタ震えるわたしの手を、同僚が引っ張った。革の手袋越しに手首を掴まれ、親指で手首の動脈をなぞられる。これは、とりあえず落ち着けの意である。思考がしっちゃかめっちゃかになった状態を宥める手段として使用されるのだが、余計に思考が混線するとは、今のところ言い出せていない。
「爆発物とかだったらどうしましょう」
引き攣る頬を叱咤して頑張って笑顔を作って茶化すも、倶利伽羅さんの表情が緩む様子はない。
「……死亡届はきちんと作成してやる」
「わあいやっさしーい」
死亡フラグも愛せるようになったなら、わたしは無敵になれただろうに。