「ゆうべはおたのしみでしたね」

 にっこり菩薩のような笑みを浮かべた今剣さんに、悪寒が背筋でシャトルランを開始する、そんな朝。




 午前六時過ぎ、部屋の前に現れた気配にわたしと倶利伽羅さんは目蓋を押し上げる。中途半端な睡眠時間のせいで眠気が半端でないが、文句を言える立場ではないので閉口。
 この本丸の時間軸と我々の本来の時間軸がずれているため、夜通し状況整理に勤しんでいたように見えるが、実際はただの残業と変わらない。しかし全く眠っていなかったのがバレるとそれはそれで面倒なので、こちらの本丸の時間軸で朝の四時に布団に入った。押し入れの中を捜索すると予備の布団があったので、わたしが畳の上で雑魚寝する未来は阻止出来た。
 ちなみに、倶利伽羅さんと一つ屋根の下で一晩を過ごすとなると極度の緊張で眠れないのではないかと危惧していたのだが、杞憂に終わった。お休み三秒であった。起床時に倶利伽羅さんからは大きな溜め息を頂戴したが、疲労困憊の社畜は気絶するように眠る技術を持っているので、予想が外れなかったことに対する溜め息であろう。
 さて、障子越しのシルエットから、その正体は乱さんだ。気配を消していないのは、しがない職員に対する配慮であろう。大変有り難いことである。

「おはよーございまーす! 職員さん、起きた?」

 鈴を転がすような声音、刀剣女士でないことが誠に不思議。

「おはようございます、今起きました」
「洗面所に案内するね。開けても良い?」
「ありがとうございます。どうぞ」

 わたしと倶利伽羅さんが布団から出ると同時、すっと障子が動いて、朝日を浴びた目映い金糸が風に靡くのが見えた。内番着に身を包んだ乱さんは、その華奢な肩にコットン生地のトートバッグを提げている。
 寝癖で跳ねる毛先を手櫛で宥めながら乱さんに頭を下げると、彼は眩しい笑顔でわたしの目の前に腰を下ろした。視線は当然ながら、昨日はいなかった同僚に向けられている。

「で、どなた?」
「歴史保安庁大和国本丸支援課副主査、大倶利伽羅だ」

 予想通り、しっかり切り込んできた乱さんに対し、倶利伽羅さんは本体を自分の右横に置き、平常と変わらない淡々とした声を紡いだ。ここから暫くは、わたしは貝のように黙りこくるのが仕事である。

「成る程、政府の刀剣男士なんだね。でもどうやってこの本丸に入ってきたの?」
「今は言えない」

 乱さんの蒼い瞳は爛々と輝き、こんなに可愛らしい姿をしていても短刀、その殺意の高さに職員は固まることしか出来ない。少しでも隙があれば刃を差し込まれる。しがない職員は迂闊に口を開けば死あるのみというのがよく分かる。命は惜しい。

「ボク達に危害を加えないって証明出来る?」
「具体に証明できるものはないが、必要以上の犠牲を出すような仕事はしない」

 必要であれば犠牲も厭わない、という裏の言葉は、乱さんも十分承知の上だろう。大きな瞳は倶利伽羅さんとわたしを映し、小さな溜め息と共に閉ざされた。

「……正直に答えてくれたから、ここは信用しておこうかな」

 洗面所はこっちだよ、と手を引いてくれる乱さんの後ろ姿は華奢だ。さらさらと揺れる髪は艶々と美しく、社畜は己の髪を思い浮かべて悲しみを飼い慣らす。
 ぎしぎしと鳴る板張りの廊下を進み、角を曲がると洗面所だった。差し出された手拭いを受け取って、蛇口を捻る。太陽光を反射する水はきらきらと輝いて冷たそうだ。見た目だけでは汚染されているとは全く分からない。
 まあ飲まなければ問題ないだろう。後ろに立っていた倶利伽羅さんも、躊躇うことなく横で顔を洗っているので、わたしも倣うことにする。
 背が高いので洗面所に向かって前傾姿勢になっている倶利伽羅さん、朝の支度をする高校生の弟(架空)のような風体で少し可愛らしい。言ったら殺されるので黙っておく。
 冷たい水は眠気をきっちり追いやってくれた。手拭いを顔に押し当てていると、乱さんが「こっち向いて」化粧水を含ませたコットンを片手に、上目遣いでこちらを見やる。わあ、睫毛が長いナア。
 手早く肌に水分を補給させられ、乳液を広げられる社畜は為すがまま、日頃からきちんと肌を労ってやらねばな、と思うに留まるのであった。そりゃスキンケアは大事なのだが、まずは睡眠時間をきちんと確保するところからであろう。土台がガタガタでは意味がない。

「でも駄目だよ、若い男女が一つ屋根の下なんて!」

 丁寧に乳液を塗ってくれる乱さんが唐突に吠えたので、わたしは驚いて目を開いてしまう。何の話かと思えば、同僚のことだろう。目の下を柔く撫でる指先を享受しながら、わたしは当然の事実を述べることにする。

「いやあの、仕事ですんで」
「……職員さん、まさか徹夜ばっかりしてるの?」
「まだ数回しかないですよ」

 終電を逃してタクシー帰りになる経験は、何も歴史保安庁に配属されてからではない。これから先の業務がどうなるかはわたしにも分からないので、適当に濁しておくのが正解だ。というか数えてないし。悲しくなるし。

「うわー……ボク、これからはもっと他の政府の職員さんにも優しくしてあげなきゃ」
「お心遣い痛み入ります」

 無駄口を叩いている暇はないぞ、と倶利伽羅さんから無言の圧力を頂戴したので、わたしは慌てて乱さんの手をそっと引き剥がす。きょとんと目を丸くした乱さんは、続いて柔っこそうな頬をぷくりと膨らませた。

「もうっ、せっかちだなあ、ボクとの約束忘れちゃった?」
「え、何でしたっけ」
「ボクの楽しみを奪わないでほしいんだけど」

 片手で容易く顎を掴まれて狼狽える。可愛らしい見た目に騙されてはいけない、短刀でも力はそこらの人間より遙かに強い。抵抗は無駄である。顎でも砕かれるのかとヒヤヒヤしていると、乱さんは自由な片手をトートバッグに突っ込んだ。
 登場したのは、メイク道具がギッシリ詰まったバニティポーチである。
 睫毛肉挟み器に怯える職員の抵抗も虚しく、部屋に連れ戻されていとも簡単に組み伏せられたわたしは、乱さんの鮮やかな手捌きで化粧を施されたのだった。いつもより睫毛がきちんと上向きなので視界が良好と言うか、目蓋が開きやすいと言うか。大変怖かった。部屋の隅で倶利伽羅さんも怯えていたから相当である。

「そんなに怖がらなくても大丈夫なのに」
「すみません慣れてませんで……」
「ふふ、職員さんイイ反応するからやり過ぎちゃったかな。ごめんね!」

 輝かんばかりの笑顔で謝られてはどうしようもない。

「さて、お化粧は終わったし、山姥切君を呼んでくるね」
「ありがとうございます」

 どっと疲労感が肩にのし掛かったまま、乱さんを見送る。
 睫毛肉挟み器はやはり大変に怖い。締切が翌日に迫っているのに存在を忘れられていた書類を見付けた時と同じく怖い。
 肩をぐりぐり回しながら、己の端末の動作確認をする。動きは問題ないが、やはり電波は入っていない。
 ほっと息を吐くと喉のむず痒さに気付いてしまい、思わず咳払いが飛び出た。喉に絡む違和感は通常であれば風邪か花粉症等のアレルギーを疑ったが、残念ながら何かしらを仕込まれているのが確実なので、心が死んでいくのを感じる。美人薄命って言うし。いや美人じゃなくても死ぬ時は死ぬが。




 心の闇を抱えたまま、そうして冒頭に戻る。真っ赤で大きな目がこちらを見上げて非難囂々、その冷たさに内臓が竦む。大きな誤解であるが、こちらの狙い通りである。

「よそのほんまるでちちくりあうなんてよゆうですね~?」

 しかし罪悪感やら何やらで心臓に悪い上に胃にダメージが蓄積される。誰だって無難に生きていきたいものである。

「でもまあ……どうやらさいごまでしていないみたいなので、ここはめをつぶってあげましょう!」

 何か恐ろしいことをおっしゃっている。最後までしたら分かるんかい。屋根裏で我々を監視する以外に何か感知出来る術でもあるのだろうか。とんでもねえことである。
 倶利伽羅さんをちらりと横目で見ると、涼しい顔で今剣さんの視線を受け止めている。玉鋼で作られた精神は人間よりずっと屈強であるらしい。仕事なら手段を選ばないのは今に始まったことではないが、申し訳なさが脊髄を走り抜け、わたしの胃は再び泣いた。真実ではないので余計に痛い。
 今剣さんの視線は、わたしの下腹へと移った。

「うーん、まだ大倶利伽羅のしんきがそれほどなじんでいませんねー……よっぽどおしごといそがしいんですね!」

 もう好きに妄想してくれやい。
 今剣さんは正座するわたしの膝の上に座り込み、ゆらゆらと左右に揺れ始めた。目前にはおろおろと動揺している山姥切さんの姿があった。頑張って止めてくれ初期刀さんよ、社畜には逆らう技術が備え付けられていないのだ。

「…………」

 同僚は黙りである。いつも通りである。山姥切さんと今剣さんが部屋に入ってきてから、一言も喋っていないので省エネモードなのかもしれない。
 首から提げている職員証を興味深げにしげしげと眺めている今剣さんは、社畜の貧相な胸に後頭部を預けてくつろぎモードである。己の強さを確信しているが故の行動であろう。やっぱり短刀は怖い。

「うーん、ほねがいたいですね! きちんとえいようをとらないとだめですよ!」

 胸は抉れゆくばかりである。

「ゴホン」

 わざとらしい咳払いをした山姥切さんによって、やっと空気が破けた。今剣さんのくつろぎモードは解除される様子がないので、どうやらこのまま仕事開始である。
 眉間に皺を刻んだままの山姥切さんが、紙の束を差し出した。

「頼まれていた物品のりすとだ。現物はそれぞれの男士の部屋にあるが、確認はどうする」
「ありがとうございます。迅速にご対応いただいたところ恐縮なんですが、確認の前に、お願いしたいことがありまして」
「何だ?」

 勝手な言い分にも関わらず、山姥切さんは至極自然に言葉を返してくださるので、わたしは泣くのを堪えねばならなかった。やっぱりこの山姥切国広は天使。いや倶利伽羅さんはわたしの嫁なので比較対象ではない。わたしは何を言っている?
 顔は見えていないが、きっと倶利伽羅さんの表情は冷たいと思う。経験則である。

「障子越しで構いませんので、燭台切さんとお話をしたいのですが」
「……分かった。案内する」

 思考と口から飛び出す言葉をきちんと切り離すことに成功したので一安心。文句の一つも言わずにこちらのお願いを聞いてくれる山姥切さんを拝みたい気持ちを押し留め、膝から動く気配のない今剣さんを抱き抱えて、山姥切さんの後ろに続いた。




 太陽が昇ったことと、倶利伽羅さんが近くにいることで、昨日感じていたじっとりとした本丸の空気と薄暗さは影を潜め、こうやってただ廊下を歩いている分には、通常の本丸と大した差はないように思う。
 でもまあ、錯覚なんだよなあ。
 本日の業務予定は、燭台切さんと面会、後に転送門と基幹システム関係の実地確認、本丸の刀剣男士の私物確認、それから何とかして職場と連絡を取ることである。昼過ぎには終わらせたいところだが、わたしの命も終わらないか冷や冷やである。
 主に、この障子の奥にいるであろう刀剣男士によって。

「燭台切、今良いか」

 審神者さまの部屋は、想像通り本丸の中心部にあった。一室だけ独立した建物になっていて、周囲は庭だ。見たところ他の壁に窓はなく、この正面の障子だけが出入り口のようだ。大きな茶室とでも言おうか。
 今剣さんは、途中でわたしの腕をすり抜けて何処かに走っていってしまった。別に良いのだが、何か縋るものがあった方が心が強くなれるので、つまるところ今のわたしの心は弱い。倶利伽羅さんにしがみつこうものなら刀で尻を叩かれる羽目になるので、選択肢から泣く泣く除外である。
 己の手のひらが緊張のあまり手汗でべとべとになっていて物悲しい。わたしの真横に立つ倶利伽羅さんは自然体で悔しい。職員はただの人間なので、どう足掻いても刀剣男士に刃向かわれたら死ぬしかない。多少の緊張は許してほしい。
 庁舎のデスクに忘れてきた胃薬が恋しい。

「……おい」

 腕組みをしてずっと口を真一文字に引き結んでいたはずの倶利伽羅さんが、やっと声を発したと思ったら、不思議なことにわたしの右の手首が拘束されていた。絡んでいるのは、同僚の左手である。
 革の手袋に包まれた親指が、手首の内側の動脈をなぞり上げる。条件付けされた身体は少し力が抜けて、強張っていた呼吸を自覚する。倶利伽羅さんはそれ以上は何も言わず、視線はずっと障子に向けたままだ。
 与えられた優しさに細く長く息を吐いて、左手で心臓を押さえて目蓋を落とす。次に目を開けば、もう右手は自由だった。

「……山姥切君? 何かご用かな?」

 時間が少しばかり過ぎて、職場で聞き慣れた低音が鼓膜に触れた。僅かな衣擦れの音、近付いてきた足音は、途中でぴったりと止まった。

「偶然だが、政府職員がこの本丸に迷い込んできた。主のこともあるし、力になってくれるかもしれない」
「本当に!?」

 反応はまずまずである。そのまま普通に障子を開けてくれたら良いのだが、そうもいかなかった。予想はしていた。会話に長けた燭台切光忠が対面を断るというのは、よっぽどの事情があると見て間違いない。
 山姥切さんは淡々と声を重ねていく。

「あんたと話がしたいらしい。応じてくれるか」

 頭から被った布の裾を指先で摘まみながら、少しだけ振り返ってこちらに視線を流してくる。美形の流し目は心臓に悪い。

「……このまま、障子越しでも良いかい? 格好悪い注文をしてしまってすまないけれど」
「ああ、了承を得ている。このまま頼む」
「分かったよ」

 ほ、と勝手に喉から息が零れた。ひとまず第一の関門はクリアである。
 ここからは時間との勝負だ。相手に隙を与えず、かといって不愉快にさせることなく、手短に終わらせなければならない。

「失礼いたします。歴史保安庁大和国本丸支援課主事のサイトーと申します」
「直接顔を見せられなくてごめんね」

 僕は燭台切光忠だよ、と障子越しにも美しい低音がよく響く。倶利伽羅さんは既に空中にフリック操作のキーボードを出現させており、記録の準備は万端である。山姥切さんはわたしの左横まで下がり、一度頷いて見せた。

「いえ、助かります。この本丸の審神者さまのことで、いくつか教えていただきたいのですが」
「何でも聞いて」

 その声は驚くほど柔らかい。動揺を腹の底に押し留め、わたしは障子の奥へ視線を投げる。

「ありがとうございます。では、率直な質問ばかりで申し訳ないのですが、今の審神者さまの状態は如何ですか」
「主はまだ眠ったままなんだ。僕がきちんと毎日身体を拭いて、整えているよ」
「ここ最近、審神者さまの体調に変化はありましたか?」
「特に変わったことはないね……ただ眠っているようにしか見えないかな」
「……眠る前の審神者さまとの、最後の会話は覚えていますか?」
「うん、覚えてるよ。夕餉の後だったんだけど、明日の朝餉にどうしても焼き鮭が食べたいからよろしく、って言われたんだよね。白身魚があるからムニエルにしようかと思ってたんだけど、ってつい言っちゃったら、『いやいやじゃあムニエルが良い、俺も好きだし』って食い気味で、ちょっと笑っちゃった」
「ムニエル美味しいですよね」
「鮭は夕餉に出すね、って言ったら、子どもみたいに嬉しそうに笑ってたな。よく覚えてる」

 隣の倶利伽羅さんの指は淀みなく動いている。一呼吸置いて、残りの質問を脳内に浮かべながら口を開いた。

「審神者さまは、燭台切さんから見てどんな方ですか?」
「うーん、そうだね……食べることが大好きな人、かな。僕が作った料理をいつも美味しく食べてくれる。年齢からしたらちょっと子どもっぽいところは多いけど、良い主だよ」

 陽だまりのような声を紡ぐ燭台切さんの、見えない表情が浮かぶようだった。山姥切さんは、静かにわたしを見張っている。流し目の碧が、布の隙間からちらりと覗いている。そこには目立った感情は見えない。
 フリック操作を続ける倶利伽羅さんの左腕が、わたしの肩に僅かに触れている。見える心遣いに少し息を吸う。障子の奥、見えないものこそ見なければならない。

「最後の出陣は覚えていますか?」
「阿津賀志山だね。転送門が動かなくて、結局出陣出来なかったけど」
「……ありがとうございます。ご協力いただき、助かりました」

 額に滲み出た汗を手の甲で拭って頭を下げる。隣の山姥切さんが、ぱちぱちと瞬きを繰り返してこちらを見やるのが分かった。これだけで良いのか、とでも言いたいのだろう。燭台切さんが障子の向こうで動く気配はない。

「山姥切さん、一度部屋に戻っても良いでしょうか」
「……分かった」

 布の裾を握ってこちらの動向を窺っていた山姥切さんは、今度はわたしの作業着の袖に指を突っ込んだ。何だそのあざとい仕草は、と言い出しそうになる口を押さえ、山姥切さんに軽く引っ張られるがまま、わたしと倶利伽羅さんはその場を後にした。




 元の部屋に戻ると、わたしは軽く息切れしていた。運動不足を思い知らされる社畜である。山姥切さんがわたしの作業着の袖をずっと指で引っ張ったまま、こちらの歩幅をあまり考慮せずにすたすた歩くせいである。足が長くて羨ましい限りである。
 そう思えば、倶利伽羅さんはわたしを置いてどんどん先に進むものの、途中で必ず立ち止まってくださるなと思って、ぐっと頬の内側を噛む。こんな空気の中でいきなりにやける訳にはいかない。不審者である。

「それで、次はどうするんだ」

 わたしの作業着からいつもの布への手遊びに戻った山姥切さんは、僅かに上目遣いでこちらを見る。そう必殺技をほいほい連発するものではない、社畜は簡単に死んでしまう。
 死ぬ前に仕事をしなければならないので、少し逡巡。

「皆さんにご準備いただいた物品の確認をしてから、転送門の確認をしたいのですが」
「分かった。あんた達の準備が整ったら、それぞれの部屋に案内する。何分後が良い?」
「では、十分後にお願いします」

 山姥切さんが頷いて部屋を去ったのを確認し、わたしは障子を閉めて音声遮断効果のみの札を貼り付ける。この札は繰り返し何度も使えるエコ仕様なので、精度は使い切りのものには劣るが、貼らないよりはマシである。まあ、多分屋根裏辺りに今剣さんが待機しているとは思うが。
 片膝を立てて部屋の隅に座った倶利伽羅さんの、投げ出された足を見て息を吐く。刀剣男士、やはりどいつもこいつも足長過ぎである。何だか腹立たしくなってきた。

「どう思いました?」
「意気消沈しているが、病んでるほどではない」

 主語を抜いても通じる関係性、プライスレス。いや仕事です。

「そうなんですよ。おかしいですよね」
「何がだ」
「人好きの燭台切光忠ならもっと病んでいてもおかしくないです」
「偏見じゃないのか」
「契約課の燭台切さんを見て同じ台詞が言えますか」
「……一理ある」

 深い息を吐き捨てた倶利伽羅さんはポケットから端末を取り出し、わたしと燭台切さんの会話のログを指先で辿って、嫌そうな顔を隠しもしない。

「……あの燭台切光忠、一振り目じゃないと思います」

 結論を口にすると、同僚は指を端末から離し、眉間に皺を寄せたまま僅かに首を傾けた。

「根拠は」
「発育が幼いかと」
「……あの筋肉ゴリラが?」

 衝撃的な言葉の組み合わせがその口から出てきたことが信じられず、わたしは思わず自分の頬を抓る。痛い。現実である。きょとんとした顔で「筋肉ゴリラ」と言った倶利伽羅さん、契約課の燭台切さんが聞いていたらジャーマンスープレックスの刑に処されていたぞ。生き急ぎすぎである。

「ずっとそんな風に思ってたんですか?」
「話を逸らすな」
「いや、はい。発育というのは身体じゃなくて精神のことです」

 そもそも顕現した刀剣男士の肉体には、個体差が殆どない。ただし、精神面の成熟度にはやはり違いがあり、長く本丸で生活をし、戦場に出ている刀剣男士の方が思考に幅がある。蓄積された経験の差による影響は大きい。
 例えば倶利伽羅さんは、政府が顕現した刀剣男士であり、事務処理能力が著しく高い。一般的な大倶利伽羅に比べ、対人関係の築き方はビジネスライクに偏っている。慣れ合うつもりはないと彼は言うけれど、業務であるならば割と柔軟に動いてくれるのだ。これが他の本丸の大倶利伽羅だったならば、多分わたしのことなど無視してさっさと自分一人で自分の仕事を終わらせて庁舎に帰っているのだろう。
 政府職員の仕事は連携してなんぼである。担う役割は明確にするが、次に仕事を振る職員が最適に動けるように采配することができる大倶利伽羅は、やはりこの倶利伽羅さんだからこそである。

「おい」

 同僚自慢はこの辺で留めておこう。震える声でこちらを制止した倶利伽羅さんの耳がこれ以上赤くなってしまうと、わたしの正気が保てる自信がないのだ。襲いかかってしまうのは本意ではない。いや返り討ちにされると思うが。

「一般的に燭台切光忠という刀剣男士は、対人思考を読む能力が高いんですよね。だからこそ先回りして気遣いができるし、あれだけ婚期を逃す審神者も増えると」

 要は、相手が欲しがっている言葉を的確に推察し、伝える技術力が優れているということだ。

「あの燭台切さんの受け答えは素直かつ明瞭でした。こちらの投げかけを真っ直ぐに受け止めて、真っ直ぐに返す。普通のことですけど、燭台切光忠としては些か違和感があります」
「……普通であれば言葉がもっと回りくどいと」
「まあそうですね。彼はああ見えて鶴丸国永ほどではなくとも好奇心旺盛なタイプですし、勉強熱心ですから」
「それで、発育か」

 嘆息した同僚は、視線を天井へ投げた。諦めて戻ったか、と低い声が零される。音声遮断の札は遺憾なく威力を発揮したということだろう。流石の短刀でも、読唇術を完璧に取得しているとは考えにくい。
 座布団に腰を下ろすと、勝手に溜め息が肺から出てきた。どうやらやっと緊張が解けたようだ。自分の身体のことながら、自分でコントロールできない部分は最早他人事である。
 さて、本題に戻る。

「……簡単に言うと、一般的な燭台切光忠の会話レベルはパリピで毎月の売り上げの首位を掻っ攫う営業マン並ですけど、さっきの燭台切さんは思春期の優等生な中学三年生ですね」
「ぱりぴ……」
「突然ひらがなで発音するのやめてください死んでしまいます」

 わたしが悪かったですから。何卒。拝んでお願いすると、いつもの嫌そうな顔をしてくださったので、わたしも通常運転に戻ることができた。大変危なかった。

「こちらの質問の意図に一切触れなかったところがポイントですね。審神者さまの状態、会話について聞くなら、『僕と主はこんな関係だよ』ってところまで勝手に答えてくれるのが一般的な燭台切光忠です。具体的なことを言うより、なるべくまとめて抽象的な言葉に寄せたがる。ムニエルの下りなんて懇切丁寧じゃないですか」

 冷静になるために、自分の考えを整理しながら話すのは最適手段である。
 結局のところ、燭台切光忠とは、心根のやさしい刀剣男士なのである。気遣いの鬼、庇護対象に認められたが最後、彼の思いやりは終わりが見えない。
 倶利伽羅さんが、先程入力していた端末をこちらに差し出してきたので、受け取って文面を眺める。報告書にはこの文面をコピペで問題ないだろう。

「最後の出陣の返しが決め手ですね。出陣できなかった、で終わらないんですよ。『でも僕の主は立派な審神者だから、それだけは分かってほしいな』とかフォローを付け加えるのが自然です」

 データベースの海に溢れている燭台切光忠の事例の全てに目を通すことは出来ていないが、半数程度は過去に読んだ。その上での感想なので、的外れではないと思う。
 念のため、倶利伽羅さんの端末からわたしの端末に文章を転送していると、同僚は不思議そうな顔をしてわたしを見上げていた。

「あんたは光忠マスターなのか」
「いえ、わたしは倶利伽羅さんのオタクです」
「は?」
「口が滑りました許して」
「は?」

 羞恥心で人は死ぬ。

十二進法の遠景|08

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