胃がねじ切れそうだ。
 社畜の作業着の袖口を指先で摘まんで引っ張り歩くのが余程お気に召したのか、山姥切さんの指が袖から離れる様子はない。わたしの一歩半前を颯爽と進んでいく姿は、犬を散歩する飼い主のようだ。そうね、政府の犬だからね。早く人間になりたーい。完。
 同僚の対人省エネモードは解除される気配がないので、おふざけも胸の内に留めておかねばならない。虚しい結末はすぐそこである。
 刀剣男士との歩幅の差により、どう足掻いても息切れが免れない短足の社畜は、廊下のど真ん中で突然立ち止まった山姥切さんの背中に思い切り鼻先をぶつけて悶絶するのに忙しい。等速直線運動は急に止まれないのおである。
 低い鼻が更にぺしゃんこになったと思わず嘆くわたしに、わたわた慌てて謝罪してくれる山姥切さんは、同僚と同じく架空の男子高校生のような雰囲気で、胃痛を和らげてくれる効能を発揮した。己が気持ち悪いので言及はしない。
 腹の痛みは一時的に穏やかになったものの、強打した鼻はじんじん痛む。手を当てて我慢していると、山姥切さんが懐から四つ折りの紙を取り出して、こちらの手のひらに押し付けてきた。

「渡し忘れていた。部屋割りはこの図面を見てくれ。俺も同行した方が良いか?」

 青空を映したような瞳がわたしの顔を覗き込んできたので、負傷した鼻を押さえたまま思わず仰け反る。顔面偏差値で殴るのは構わないが、しがない政府職員はうっかり殉職しやすいということを念頭に置いて行動していただきたいものである。

「いえ、わたしと倶利伽羅さんだけで問題ありません。確認作業が気になるようでしたら、同行していただいても構いませんが」
「いや、あんた達を疑う意図はないんだ。俺がいる方が穏便に済むならと思って……」

 えっ何それフラグ?
 まだ死にたくないしナアと思って倶利伽羅さんに視線を投げると、穏やかな瞬きだけが返ってくる。
 はいはい、自分で判断しろと仰るのですね。
 こういった状況下では、最悪の場合を想定して動くしかない。命を大事にしろ、とは同じ課の上司の口癖である。無闇に首を突っ込めば、あっさりとターンエンドだ。
 審神者と違って、政府職員なんて幾らでも───いや、そうやって特攻させられた数多の職員が命を落としたせいで、時の政府───歴史保安庁備前国と相模国は一度壊滅状態となり、山城国は何とか職員の定数は満たせたものの、大和国はこうして刀剣男士にも政府職員として働いてもらってる有様である。審神者よりは替えが利くと言うだけだ。
 ええ、命は惜しいですよ。

「では、お願いします」

 顔を上げれば「任された」頬をふわりと緩める天使こと山姥切国広の姿が視界に入り、社畜の蚤の心臓は破裂した。




 心臓が破裂しようとも業務は待ってくれない。山積みのタスクを一つずつ脳内で分解して、ひとまず見取り図を見ながら回る部屋の順番を決める。刀剣男士の数から考えて、各部屋三分程度で確認しなければ間に合わない。三分クッキングには下拵えの時間は含まれていないと言うのに、随分酷い条件だが、文句を垂れ流しても受け止めてくれる人がいない。閉口。集中力が勝敗の決め手である。
 まあ負けたら死ぬのだが。わたしが。わはは。
 部屋は端から順に、この本丸で顕現した順番で割り当てられているようだった。一番新しく来た刀剣男士の部屋が目前にあったので丁度良い。部屋への声かけは山姥切さんが行ってくれると言うので、社畜がゼロカウントで斬り殺される心配はなくなった。万々歳である。
 そうやって油断していたら、死角から鋭利な刃物がこんにちはすることになるのだろう。わたしは詳しいんだ。先程折角和らいだはずの胃が、絶え間なく悲鳴を上げている。全国お家帰りたい協会、願望ばかりが募る。
 倶利伽羅さんは携帯端末を片手に黙りだが、通常運転なので気にしてはいけない。撮影と記録はお任せしますね、と言わなくても通じているのが有り難い。わたしの神さまはやっぱり最高だぜ。

「…………」

 同僚、最早視線すら合わせてくれない渾身の塩対応である。知ってた。
 気を取り直して、最初の部屋、つまり一番最後に顕現された刀剣男士の部屋の前である。緊張から出てきた生唾を飲み込み、山姥切さんを先頭に待つ。

「……御手杵、入るぞ」
「失礼いたします……」

 廊下から一応挨拶すると、障子が滑らかに開いた。
 きっと聞き慣れた、間延びした返事があるのだろうと思っていた時期がわたしにもありました。
 部屋の奥、胡座姿の御手杵さんが静かにこちらを見上げている。普段は緩やかな言葉を操る彼の口許は硬く引き結ばれ、ただ瞬きと呼吸を繰り返し、じっと座っている。
 ……今、山姥切さんは障子に手をかけなかった。御手杵さんが障子を開けて部屋の奥に座るには、ちょっと時間が短すぎやしないか。実は自動ドアだったのか。上部にセンサーは、と思って見上げるも、そんな設備改造が施された様子はない。
 いやまあ、御手杵さんも爆裂に足が長いので、障子を開けて一瞬で部屋の奥に戻って胡座でお出迎えなんて造作ないのだ。きっとそうなのだ。へけっ!
 ちょけた思考回路へ己を誘導しなければ気が狂いそうである。もう狂っているとか言ってはいけない。
 内心怖々と八畳の部屋に足を踏み入れる。入った途端に体内の血液が沸騰して破裂するとか、狩猟罠に襲われるとか、物騒な想像はいくらでも溢れ出るが、現実は至って静かなものであった。逆に恐ろしいくらいに。
 畳の上の敷き布には、想像よりも整然と私物が並べられていた。もっと大雑把かと思っていたことなんてない。ないったらない。
 山姥切さんは部屋の入り口に立ったまま、好きに確認してくれ、と淡々と述べる。部屋の主からの抗議はない。廊下から差し込む日光に息を吐くと、倶利伽羅さんがわたしの真横に腰を下ろした。
 太陽光がお空で元気にしている間は大丈夫だ。これは経験則である。

「では、申し訳ございませんが拝見いたします」

 倶利伽羅さんは部屋の備品を、わたしは広げられた私物を確認する。本来であれば倶利伽羅さんには見張りをお願いしたいのだが、時間が限られているので分担するしかなかったのだ。これが死亡フラグに繋がらないことを祈るしかない。
 山姥切さんから受け取った備品リストの紙束を膝元に置く。作業着のポケットから手袋を取り出して装着し、目的の品々を手に取った。ぱっと見た感じ、どれも嫌な空気を纏ったものはない。
 だからこそ検分するのだが。
 押し花の栞の裏に書かれた歪な「おてぎね」は、短刀が書いたものだろうか。大きな湯飲みには、底に御手杵さんの紋が描かれている。二千年代のゲーム機とカセットには、懐かしさに思わずこちらが頬を緩めてしまいそうになった。内番服の予備のジャージには、膝のところに可愛らしいチューリップのアップリケが我が物顔で居座っている。
 御手杵さんは、一言も口を開かない。

「……ご協力、ありがとうございました」

 しっかり頭を下げるも、返答は何もない。恐る恐る顔を上げると、ばちりと音が鳴るように目が合った。視線は揺れない。
 ───彼も、わたしを検分しているのだ。
 同僚が手の甲でわたしの二の腕を一度叩いたおかげで、やっと目を逸らすことができた。慌てて立ち上がる。時間は限られている。飲まれてはいけない。

「失礼いたしました」

 今度はわたし自らの手で障子を閉める。引っかかりもなく随分と滑らかなものである。平常通り痛む胃を押さえて、次の部屋へと進むことにする。




 備品をひとつひとつ確認している間、持ち主の刀剣男士は部屋の奥、わたしの正面に座り、じっとこちらを見つめていた。誰ひとり、無駄な言葉を発することなく、ただじっと。
 一般的に愛想の良い陸奥守吉行や鯰尾藤四郎、堀川国広、獅子王も、表情筋のひとつ動かすことなく、わたしの手が備品を粗末に扱わないか監視している。おかげで緊張度は上がるばかりである。
 何かがおかしい。確かにこれは仕事で、その邪魔にならないように配慮してくれているのは分かる。私物を他人の目に晒すことに抵抗したい気持ちがあるのも頷ける。
 だが、あまりにも徹底的で、個体差で片付けるには違和感が拭えない。
 前田藤四郎のひやりとした眼差し、普段の快活な笑顔を封印した山伏国広、表情を消した秋田藤四郎に和泉守兼定、瞳の翳った一期一振、口角を下げたままの次郎太刀、静かにこちらを見つめる大和守安定、はっきり申し上げて美形の無表情は恐ろしい。
 そうやって静かに座っているだけのところを見ると、まるで精巧な人形の群れのようだった。
 あれだけ親切な山姥切国広や感情豊かな今剣、愛らしい乱藤四郎と接触しただけに、その温度差で風邪を引きそうである。政府職員の信用のなさに今更傷付いても仕方ないし、どうしたって歓迎されないだろうとは分かっていたが、ここまで露骨にしなくたって良いのでは。一応、職員も審神者さまと同じ生き物なんですけど。とは、言えない。そういう職業なのである。
 疑うのは神経を使う。疑われる方とて気分が悪い。倶利伽羅さんは粛々と端末で写真撮影を遂行するばかりで、口頭で助けてくれる訳ではなので、その場の空気の居心地の悪さと言ったらない。まあ、この同僚が空気を読んで滑らかな会話をしてくれたとしたら、それは天変地異の前触れなのだが。
 見落としは許されない。目を凝らし、己の身体の感覚を頼りに情報を手繰り寄せる。地道な方法を選ぶしかないのだ。

「ご協力ありがとうございました。失礼いたします」

 何度目の挨拶になるだろうか、と思って、見取り図に視線を落とす。次は燭台切光忠の部屋だった。目前の障子は他の部屋と何ら変わらないのに、早速妙な違和感が胃の奥を動き回っているので笑えない。
 この本丸、就任早々に太刀レシピをガンガン回して鍛刀していたに違いない。初期に顕現されている刀剣男士は軒並み太刀か打刀である。

「燭台切は主の部屋に全ての私物を持ち込んでしまっているようだが、それでも構わないか?」
「はい、とりあえずお願いします」

 こちらに投げかけられる山姥切さんの眼差しは、いつの間にか幼子を見守るそれに近しい色に変化していた。
 いっそ幼女になれたなら良かったものを。
 叶わぬ妄想に思いを馳せても時間が過ぎるだけである。同僚に冷たい目で見られる前に業務に励まなければならないので、山姥切さんの声掛けの後、燭台切さんの部屋に足を一歩踏み入れることにする。

「っうあ……!?」

 途端、腹の中を何かが急に蠢いて、反射で零れ出た自分の声に驚くと同時、背筋に悪寒が駆け上った。今更引けぬ勢いで両足を部屋に突っ込むと、ぞわぞわと気持ち悪かった腹の中も、ぞくぞくとしていたはずの背中も、何ともなくなった。
 今のは、何だ。
 走り去った違和感に眉間に皺を寄せていると、山姥切さんが不思議そうにまた顔を覗き込んでくる。再三申し上げますが、パーソナルスペースについて少しお勉強していただけないでしょうか。頼むから。社畜は容易く死ぬから。

「おい、あんた」

 山姥切さんの手が伸びてくる。先程の衝撃が残っていて、反応が一瞬遅れた。

「……部屋の奥まで見て良いか」

 ここに来てやっと倶利伽羅さんが声を出した。山姥切さんはわたしの頬に触れながら相槌を打った。えっ何ぞやこの手は。混乱するわたしを置き去りに、視界を赤い腰布が過ぎていく。

「顔色、さっきよりもかなり悪いな。何か病でも患っているのか」
「いえ、ただの過労だと思いますんで、あの」

 言っていて悲しい。
 目尻を撫でてくる指先はかさついている。一体何の戯れだと言うのだろうか。今日になってから物理的な距離が急激に縮まっていて恐ろしい。

「一度戻るか?」
「いやあ、時間も限られてますんで……」

 山姥切さんの手のひらの付け根が、わたしの口の端に触れていて申し訳ない。いや、勝手に触ってきたのは向こうなのだが。やんわり手首を押し返すが、無駄に終わった。何故唐突に頑固になるのか。国広兄弟は筋肉命のようなところがあるので、しがない政府職員のような手弱女では抵抗など蟻の力に等しいのである。
 いや嘘です。手弱女じゃないです。一度言ってみたかっただけです。ただ単に非力なだけです。許して。
 眉尻を下げて心配そうな顔をする山姥切さんは柴犬のような愛らしさを解き放っており、大変危険である。わたしは命を大事にしたいのだ、と目で訴えるも、倶利伽羅さんのように通じる訳ではない。
 では、何を検分されているのか?
 じわじわと違和感が胃の中に溜まっていく。これが危険信号になり得るのかどうか、まだ判断材料は揃っていない。もう少し泳いで見せなければならないだろう。
 しがない職員の思考がだだ漏れになっていないことを祈るばかりである。

「それに、残り十部屋もないですし、ちゃっちゃと確認すれば大丈夫です多分」
「信用していいのか」
「どうぞどうぞ」

 実際のところは大丈夫ではない気がしてならないが、怯えていては仕事が出来ない。眉間の皺を消せない山姥切さんの視線を適当な返事で掻い潜り、改めて部屋を見渡してみる。
 荷物を全て持ち出してしまったと言っていたのは本当らしく、座布団ひとつ見当たらない殺風景な有様は、どちらかと言えば大倶利伽羅の部屋だと言われた方がしっくりくる。

「……次の部屋へ」

 淡々と零された同僚の声で、山姥切さんの手はやっと頬から遠ざかった。まあ、当たり前のように作業着の袖口に指先を引っ掛けて引っ張られたので、もう何も言うまい。縺れる足を叱咤して犬は従順に部屋を出た。




 次の部屋は、大倶利伽羅だった。
 障子は既に開いていた。馴れ合わない方針に逆らっているが大丈夫なのだろうかと部屋の中を覗くと、隅で片足を立てて座り、目蓋を落としている。畳の上に優雅に広がった赤い腰布についつい目を向けてしまい、同僚に吐息だけで叱咤された。いつものことなので許していただきたい。
 大倶利伽羅なら何でも良いのか、と言われそうだがその通りである。同僚の尊さは頭何個か分飛び抜けているが、大倶利伽羅という刀剣男士そのものが尊いのである。わたしは何を言っているのだろう。
 山姥切さんは少し用事があると言って一時退散してしまった。唐突に見捨てられてしまった可哀想な社畜は、すぐ戻る、とまるでフラグのような言葉を残した布頭巾の天使が待ち遠しい。わたしの命の安全を保証してほしいだけである。いやまあ、最終的には同僚に何とかしてもらうのだが。
 さて、部屋の主は眠っている訳ではなさそうだが、わたしが机の傍に近寄っても、不思議と視線を寄越さない。警戒している感じもない。いや、わたしのような貧弱な職員に警戒心を持つだけ無駄だという事実が体現されているだけかもしれない。強気に生きよう。

「あの、確認させていただいても」

 意気込んでみても、己の口から零れるのは強気のつの字もない。知ってた。相手が人間であれば、もっと高圧的な態度で挑んでみることもできるだろうが、刀剣男士に対して無謀な行いをする勇気が出ない。わたしには無理である。誰が進んで膾切りにされたいと思うのか。

「……好きにしろ」

 へ、返答があった。
 物品確認を始めてもう終盤というところで、やっとである。しかもあの馴れ合わないが代名詞の大倶利伽羅である。こんな奇跡が容易く再現されて良いものだろうか。

「…………」

 隣で同僚の倶利伽羅さんが渋い顔をしているが、言及しようものならさっさと確認しろと言われるに違いないので、小さな机の上にぽつんと置いてあるものに、手袋越しにそっと触れる。
 淡い色合いの髪紐、ただひとつ。
 丁寧に縒られた組紐で、若い女の子が好みそうな、薄付きだが綺麗な色をしている。いやこれは、流石に大倶利伽羅が使うものではないだろう。

「備品以外の私物はそれだけだ」

 補足説明まであった。なんて丁寧な大倶利伽羅だろう。いや、元々彼の所作は落ち着いているし、言葉遣いも荒くはないのだ。残りは口数と表情筋の問題である。

「あの」
「ああ、違うな、もうひとつある。美味い店のリスト」
「は?」
「山姥切に渡してしまったから、あいつの部屋にあるんじゃないか」

 こちらの戸惑いを斬り捨てて、大倶利伽羅は静かに言葉を繋ぐ。グルメだというのは本当らしい。倶利伽羅さんを見やると、予想通り苦々しい溜め息を吐いていた。

「……あの、少しお聞きしても構いませんか」
「何だ」

 きちんと返答の言葉を紡ぐ彼に驚いて顔を見ると、さっきまで閉じられていた目蓋は押し上げられて、琥珀色が真っ直ぐにこちらを見返す。
 やっべわたし見つめ合うと素直にお喋りできねえんですわ。視線が逸れないので内蔵にクリティカルヒット。バスターカード三枚。こちらは回復呪文を唱えるためのポイントが溜まっていないので、火傷を負ったまま口を開くしか道がない。

「この髪紐、贈り物ですか?」
「ああ。渡す機会がないままだったが」
「それは……」
「あんたが気にするようなことじゃない」

 気遣いの言葉まで飛び出してきた。同僚の倶利伽羅さんは額に手を当てて俯いている。同位体が慣れ合っているのを見るのも辛いのか。
 不思議なくらいに凪いだ瞳だった。同僚のそれよりも人肌に近い温度の色だなあと思っていると、大倶利伽羅は立ち上がった。赤い腰布がふわふわ揺れるので視線が自動誘導され、隣の同僚からは何度目か分からない溜め息を頂戴した。
 部屋の主が立ち上がったのに、職員が座ったままでは失礼かと思い、物理的に重い腰を上げた。わたし、今回の業務が終わったら、マッサージ屋に行くんだ。

「随分と引き寄せやすいんだな」

 泰然とした声が落ちてきた。わたしの体質のことだろう。否定する要素がないので肯定を選択。

「生まれつきでして」
「そうか」

 気付けば、目の前に大倶利伽羅の顔がある。
 ぎょっとして飛び上がりそうになるわたしの顎を掴んで、緩やかに瞬きをしている。顔が良い。いやそうじゃない。何でこの大倶利伽羅もこんなに距離が近いんだろうか。この本丸の刀剣男士は近いか遠いかしかコマンドが選べないのか。

「左足首」

 大倶利伽羅の零した声を合図に、ばっと音がしそうな勢いで同僚が鞘から己を抜いた。視線はわたしの左の足首に固定されていたが、数秒後、眉間にぐっと皺を寄せて納刀し、そっぽを向いてしまった。

「ちっ」
「素直じゃないな」
「無駄口を叩くな」

 大倶利伽羅同士の掛け合いは鋭く短い。流石は刃物、と感心している場合じゃないのは、同僚の睨み付けるような視線が返ってきたからだった。ぴりぴりとした熱の乗った瞳は、同個体と言えど明確に違う。

「えっ何ですか」
「あんた、分かっていなかったのか」

 部屋の主は、今度はわたしの右肩に視線を向けた。見慣れた作業着しかないが、と首を傾げると、黒の革に包まれた手が伸びてきて、長い人差し指が肩を緩やかになぞって、払った。
 何を?

「人間にしてみれば目は良い方なんだろうが、この程度は流石に見えんようだな」
「…………」
「傍にいるならきちんと斬ってやれ」
「…………」

 沈黙を守る同僚の眉間に深く刻まれた皺を眺めていると、この本丸の大倶利伽羅は呆れたように溜め息を吐いた。溜め息は恐らくどの個体もほぼ同じらしく、そこだけ切り取ると同僚との差異が小さくて、少しだけ混乱する。

「あの、それ多分業務外です」

 同僚から大倶利伽羅に視線を戻すと、蜂蜜色の瞳を丸くしてこちらを凝視してくるので狼狽える。大倶利伽羅、驚くこともあるんだなと呑気に構えていたら、倶利伽羅さんの手が伸びてきて、わたしの背中をぱっぱと払った。こちらが驚いた。

「いや、あの……無理して守っていただくのは心苦しいのですが……」

 同僚の手は音もなく離れ、吐く二酸化炭素は苦々しく、わたしはようやく答えを間違えたことを理解した。

十二進法の遠景|09

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