深刻な肩凝りで背中がクラッシュ寸前であるが、最早これがデフォルトなので仕方ない。廊下に出てぐっと腕を伸ばすと、日頃と変わらぬ破壊音が肉の内側から響く。同僚のドン引きの眼差しを浴びるが、骨の軋む音を返事の代わりとした。
山姥切さんが戻ってくるまで、元の部屋で一時待機を目論む我々である。適当に動き回って本丸内で別の刀剣男士に斬り捨てられる可能性を考慮した。
作戦名が「がんがん行こうぜ」に設定されてしまえば死ぬのみである。わたしが。
廊下を辿ってセーブ地点の部屋に戻る。ひとまず端末を取り出し、確認の終わった刀剣男士の名前をなぞる。もうひと踏ん張りである。
「残りは五虎退、平野藤四郎、今剣、にっかり青江、石切丸、加州清光、蛍丸、山姥切国広、鶴丸国永、三日月宗近か……」
「おい」
「はい」
五億年振りに倶利伽羅さんから声をかけられたので、わたしは驚いて疲労困憊の背筋に竹製の三十センチ定規を差し入れる羽目になった。
「きちんと刀帳順に確認しろ」
倶利伽羅さんからわざわざ指摘が入れば、実行しない訳にはいかない。端末と見取り図を両手に睨めっこ開始である。
さて、この本丸に顕現されている刀剣男士は三十五。顕現されているのは、三日月宗近、今剣、にっかり青江、鳴狐、一期一振、鯰尾藤四郎、骨喰藤四郎、厚藤四郎、前田藤四郎、秋田藤四郎、乱藤四郎、五虎退、薬研藤四郎、鶯丸、蛍丸、愛染国俊、燭台切光忠、江雪左文字、宗三左文字、小夜左文字、加州清光、大和守安定、歌仙兼定、和泉守兼定、陸奥守吉行、山姥切国広、山伏国広、堀川国広、蜂須賀虎徹、大倶利伽羅、へし切長谷部、獅子王、同田貫正国、次郎太刀、御手杵。
まだこの本丸に顕現されていないのは、小狐丸、石切丸、岩融、平野藤四郎、蜻蛉切、太郎太刀。
え?
「え、平野、石切丸、あれ? ええ?」
「何を見て勘違いした」
切れ味抜群の視線で胃が一撃必殺。額にぶわっと浮く脂汗を拭う前に、言い訳をしておかねばならぬ。
「いや、あれ? 見取り図……あれ?」
「…………」
手にしていた見取り図に浮かんでいる文字列をもう一度なぞるも、平野も石切丸も見当たらない。
沈黙が大変重い。ちくちくと刺激を受ける内臓を無理やりに押さえ込んで言い訳の儀を開始する。掠れた声に攻撃力は全く感じられないが、自分の考えを示すことに意味がある。
「一度折れていたとしても、データには残ります、よね」
「一度も顕現されていないなら残らない」
「刀本体だけを手に入れて、顕現してないとか」
「顕現しない理由は」
「…………」
わたしが沈黙を生み出してどうする。
ああだこうだと屁理屈を考えてみるも、倶利伽羅さんの溜め息の前には全てが無駄であった。どぱどぱと流れ出る冷や汗が気持ち悪い。
端末に打ち込んでおいた刀帳データには、確かに平野と石切丸の名前がある。何度見返しても見取り図にはない。転記ミスしないように、刀帳の名前を指差し確認しながら端末に打ち込んだはずなのだが。
疲労で手が滑ったか、睡眠不足で記憶の改竄が発生したか。わたしの身体に問題がないのであれば、この本丸がおかしいということになる。どちらにしても悲しい結末である。
「そっか……平野と石切丸いないのか……」
「顔が死んでいるぞ」
「知ってますよそりゃ死にますよ」
「元々死んでいたか」
「デッドアンドデッド」
「適当なことを言うな」
暴言の応酬に傷付く暇もない。空を仰ぐも平坦な天井が目に入るだけで、気分転換にもなりやしない。
「……刀帳データのリアルタイム書き換えなんて起こるもんですかね?」
業務中ではあるが、疲労感が半端ではないので畳の上に盛大に転がりたい。大の字で不貞寝したい気持ちを押さえ付けるだけで精一杯だ。無理。思考の冷却を試みる時間が必要である。何なら一ヶ月有休がほしい。望むだけなら自由だ。
倶利伽羅さんは、少し視線を逡巡させた。
「……歴史の歪みの影響を受けるのは、過去の人間だけじゃない」
「あれ、肯定ですか。これから槍でも降るんですかね。死にたくねえ」
「…………」
相変わらず淡々と事実を述べる倶利伽羅さんは超クールである。痛み始めた頭を押さえて、わたしは一度強く目を閉じた。目薬が欲しい。集中しすぎて目がしぱしぱするのである。
「……この本丸の審神者は力が弱っている」
「それで歪みの干渉を受けていると?」
言われてみればそれほど不思議な話でもない。寝たきりで飲み食いもできない状態ならば、備わっている審神者の力はとんとん拍子に落ちていく。即ち、本丸の弱体化に繋がる。
もしや、刀剣男士の殆どが塩対応だったのは、無駄なエネルギーを消費することを避けたかったからか。
「……しかしまあ、塩対応が露骨すぎません? ガラスのハートが粉々ですよ」
「元々慣れているだろう」
「倶利伽羅さんも塩減らしてくださって構いませんよ」
「…………」
「…………」
「…………」
絶対に塩対応を貫き通すという強い意志を感じる。わたしは諦めた。
「とりあえず最後の部屋まで確認します」
「足が震えているぞ」
「武者震いって言ってるじゃないですか~いやもう本当勘弁してください」
もう見取り図もくしゃくしゃにして何処か遠くへ放り投げてしまいたい。まあ到底無理なので、大人しく端末の画面を無駄にスクロールして、確認した刀剣男士達の名前を眺めるなどする。
「ふっ」
「えっ今鼻で笑いましたね! 笑うならこっち向いてお願いします!」
「あんたにそこまでする義理はない」
「うわ……自分の笑いがファンサになることを自覚しておられる……つよ……」
「誰のせいだと思っている」
眉を吊り上げて頑なに視線を他所へ投げ続ける同僚の口からは、呆れたような吐息が零れた。
山姥切さんは思ったより早く戻ってきた。
うーん、この本丸の今剣さんに情報共有するには時間が短すぎる気もするが、もし「想定通りだ」と伝えるだけなら何の問題もないのだろう。擦れ違う一瞬で十分だ。
あざとい天使の山姥切さんを心の底から信頼できれば、わたしの胃痛は夢幻と成り果て、愉快な本丸探検譚として賑やかな報告書を作るに留まるのだが。現実はこんなものだ。
さて、再び無人の部屋の登場である。
「この部屋の持ち主、鶴丸国永ですよね」
手元の見取り図を覗き込むわたしの肩口に、山姥切さんのきらきらとした金糸が重なって見える。やはり距離感がバグっているが、指摘しても自覚症状がないのできっともう手遅れなのだ。この手法で数多の人間を落としてきたのだろう。超怖い。近すぎて何やら良い匂いまでする。大変怖い。
最初に顔を合わせた時には、ここまで近くなかった気がするのだが、一体何が琴線に触れたのだろうか。謎である。
「今はどちらに?」
「…………」
沈黙を噛む山姥切さんの揺れる視線に、忘れたはずの絶望が蘇る。
一般的に鶴丸国永の行動範囲は広大なので、初期刀であっても行方を知らないのは不思議ではないのだが、ここは審神者が寝たきりで出陣もできない本丸である。
「事例集で名を見ない日はない鶴丸国永ですよ?もうそれだけで夢も希望もねえですよ~わはは」
「笑っている場合か」
めちゃくちゃ冷静に同僚のツッコミが入った。大変貴重である。
しかもこの鶴丸国永、初期に顕現された最高練度の刀剣男士というおまけ付きなのだ。出会って早々に斬り付けられる事例も珍しくない。命は惜しいが、抗って勝てる奇跡があるだろうか。わたし単体で挑めば、間違いなく地獄の門が開いてしまう。
味方であれば最強の安心感を得られるが、敵に回られた時の絶望感は半端ではない。光属性と闇属性のどちらの事例も知っているだけに、まずは博打を楽しむ余裕が必要だということが分かった。分かっただけでどうしようもないが。
そう、余裕と言えば。
「今お前にやろう~俺の~余裕~」
「悪い、気は狂っているが仕事はきちんとさせる」
「あ、ああ……」
倶利伽羅さんの北極圏並の視線に凍てつく元気もない。未知の生物を見るような目をした山姥切さんはあまりにも正直過ぎる。一応社畜も傷付くんですよ。
脳裏に浮かぶ黄色の王者、中学三年生の魔王によるミュージカルの思い出をそっと胸に押し込めて、部屋の中枢へと足を動かす。
竦んではいけない。気丈な振る舞いも危ない。こういう場合は自然体を装うのが一番である。わたしは器用ではないので、己をおちょくって気を抜くのが手っ取り早い。
結論、鶴丸国永怖い。
「では、申し訳ありませんが拝見いたします」
姿が見えなくとも一言断っておく。何処で見られているか分からないし、無断で強行突破した訳ではないと示すことが重要なのだ。まあ死んだらおしまいだが。まだ死にたくないな。
机の上には、汚れたお守り、ただひとつ。
白かったであろう飾り紐は、大部分が赤茶色に染まっている。本体の角は擦り切れて破れており、金の地の半分は鉄色で隠れてしまっていた。凄惨な戦場の様子が思い浮かぶようである。
てっきり私物は山のように折り重なっているだろうと想像していただけに拍子抜けするが、確認時間が減って大変助かるので心の中でお礼を述べておく。
しかしミニマリストの鶴丸国永も怖い。現世への未練を端から端までぶった切って、審神者を連れて何処かに消えてしまう事例は、まあ割とある。
「あの、大変失礼ですが鶴丸さんは折れてないですよね?」
「……ああ。そもそも最高練度だ、そう簡単に折れない」
「ですよねえ」
裏を引っくり返して見ても、汚れてしまった布地があるだけで、それ以上の情報は読み取れない。戦場で一度使われたお守りだろうとしか。
仕方なく、それを机にそっと置いた瞬間だった。
「えっ」
破けた布地の中から、白い紙に包まれた中身がわさっと勝手に登場である。最初からクライマックス。思わず同僚を見上げるも、いつもと変わらぬ涼しげな表情で見下ろされるに終わった。
お守りの中身を見てはいけない、と遥か昔に祖母に言われた記憶が頭の隅に引っ掛かっていたが、こうもド派手に出てこられてしまっては見ない訳にもいかない。そういうことにしておく。
恐る恐るかさついた指先を包みに引っ掛ける。
しっとりとした肌触りの和紙だ。そっと開くと、小さな木の板が出てきた。
『黄昏時に迎えに行く』
ど、と心臓が嫌な音を立てる。
美しく細やかな筆跡が、墨を纏って板に染み込んでいる。小さなその板を摘み上げて表裏を確認するが、特にそれ以上変わった様子はない。首を傾げる。
「……何も書いてないのか」
山姥切さんの落胆した声が、鼓膜を静かに揺らした。
息を、止めてはいけない。瞳孔も開いてはいけない。
わたしは努めて、木の板の表と裏をただ交互に見やって、そっと和紙の中に戻す。折り目に沿って再度包み直し、ぼろぼろの布の中へ慎重に差し入れる。
「ご協力、ありがとうございました」
頭を下げて、ゆっくりと立ち上がる。同僚に視線を投げることすら憚られたが、見ないのもわたしにしては不自然である。立ち上がって倶利伽羅さんの顔を見上げる。
ええですから、きょとんとした顔しないでください、心臓に悪いです。
琥珀色の瞳には、警戒の色がない。演技かもしれないが、彼にも見えなかったのか。気を取り直して、見取り図を確認する。SAN値がゴリゴリ削れる音なんて幻聴である。
今、鶴丸国永のことを考えると一定時間の発狂が避けられないので、無理矢理に思考から追い出すことにする。切り替えてこー。おー。
「次の部屋は三日月宗近……この本丸の鍛刀運は一体どうなってるんですか」
「さて、当時の俺は横で見ていただけだが……」
「恐ろしい審神者さんですねえ」
部屋の障子を閉めてへらへら笑う。吐いた息が震えなかった自分を自分で褒めておくことにする。
三日月宗近は、本丸の指標だ。
適正な運営をしている本丸と、処罰対象になり得るような本丸では、彼の纏う空気が全く違う。稀に例外もあるが、刀剣男士の中でも飛び抜けて強く美しい三条の太刀は、人間を思いやるが故に、簡単に自分を犠牲にする。
部屋の奥、眠ったように目蓋を落とした三日月宗近は、身動ぎひとつしない。呼吸しているかどうかすら怪しい、人形のような美しさに息を飲む。
コミュニケーション断絶型か。これも厄介である。
読み取れる情報は少ないが、ない訳ではない。倶利伽羅さんに視線を送ると、嫌そうに逸らされた。護衛はバッチリである。いや本当に。どんなに嫌がっても職務を放棄しないのが、同僚の素晴らしいところである。
さっくり斬り付けられてお陀仏エンドも決して非現実的な話ではない。相手が目を閉じていようが関係ないのだ。特に三日月宗近の居合の速度は、考えるだけ絶望度マシマシである。
机の上には、鮮やかな色彩の山があった。恐らく、この本丸で一番私物が多い。
きっと本来の彼は感情豊かで、この色彩の宝物を抱えてほけほけと笑っているような、穏やかな日常を手にしていたはずなのに。
嘆いても現状は変化しない。わたしは膝を折った。緊張で喉が引き攣れるのは今更である。
「では、申し訳ありませんが拝見いたします」
負けてられっか。