座布団に頭を預けて転がると、視界がぐらぐらと揺れていることに気が付いた。貧血と目眩を足して二で割らない感覚である。こんなに早く悪化するとは思っていなかったので、読みが甘かった己が恥ずかしい。

「寒いか」

 こちらの返事を待たず、倶利伽羅さんが巻き付けている腰布を剥ぎ取って、わたしの腹から足にかけてそっと被せてくれた。
 急にご褒美を賜ってしまい、わたしは静かに狼狽える。やっぱりもうすぐ死ぬのかもしれない。頭はガンガンと割れそうに痛むし、腹は気持ち悪いし、視界も感動による涙で不明瞭だし。

「ありがとうございます……この御恩は必ず……」
「請求書は後から送る」
「有料でしたか……ですよね……」

 鼻腔に違和感がなかったことを盛大に感謝しなければならない。腰布から何やらめっちゃ良いにおいがするのだ。わたしは死んだ。

「職員さん」

 転がったまま静かにちょけていたら、障子の向こうから透き通るような声が流れてくる。乱さんだった。
 起き上がろうとしたわたしの肩を畳に押し付けて、倶利伽羅さんが立ち上がり、乱さんを部屋の中へと招き入れた。
 だから急に優しくしないでください、心臓に大変悪いです。
 優しくされてキレる人間になどなりたくなかったが、尊さが限界を超えると喧嘩腰になることもあると、最近知ったわたしである。

「これ、政府から配付されてる御札。確認して部屋に貼ってくれる?」

 乱さんの小さな手には、仰々しい御札があった。音声遮断の効果があるものだ。
 同僚はそれを受け取って表裏をひらひらと確認し、一度だけわたしに視線を投げてから、障子に貼り付けた。どうやら御札は本物のようだ。
 枕元に座った乱さんの戦装束が目に入り、嫌な予感がシャトルランを始めた。粟田口の軍服を身に纏う乱さんはとても可愛いのに、現実は惨いものである。
 今朝は内番着だったのになあ。出陣できないのに戦装束に着替えておく必要性が出てきたということは、つまりそういうことである。

「ごめんね、ボク達のせいで無理させちゃった」
「いえ、仕事ですのでお気になさらず……」

 同僚に視線を投げると、心の底から嫌そうに溜め息を零し、わたしの背中に手を差し入れてくれる。有り難く礼を述べて上半身を起こす。寝たきりで逃げ遅れる間抜けはごめんである。

「そのままで良い」

 その手に預けていた背を浮かそうとすると、静かな声が降ってきた。加えてふらつかないようにと肩まで支えてくれる始末である。安定感が半端ではない。
 やはり、わたしの死はすぐそこまで迫っているらしい。こんなに福利厚生が整っていて大丈夫か? すぐそこまで地獄の入り口が迫ってきているのでは?

「職員さん、お腹空いてない? もうお昼だし、うどんとかお粥とか作ろうか?」
「いえ、本丸の残り少ない備蓄を消費するのは得策じゃありません。何より今、胃が受け付けるとも思えませんで……」
「そっか、そうだよね」
「お気持ちだけ、ありがとうございます」

 首を横に振って微笑む乱さんは、今朝会った時よりも元気がないように見える。

「……ねえ、『時間』、もう残り少ないよね」

 わたしの肩を掴んでいる倶利伽羅さんの指先に、僅かに力が入った。
 青の大きな瞳はわたしに向けられたまま逸れない。こちらの手を握った乱さんの指先は、氷水に浸したように冷たい。だが、そのことに驚く暇もなく、矢継ぎ早に言葉が紡がれる。

「お話する相手が欲しかったんだ。ね、聞き流してくれて良いから、お願い」

 刀剣男士は付喪神である。妖に寄っている存在ではあるが、神の一種に違いはない。約束する際は必ず条件を設けること。
 事例集で口酸っぱく書かれていた文言が脳裏に浮かぶ。この場合の最適条件は何だ。ぐらぐらと揺れる己の脳が憎い。

「俺が『部屋を出る』と言うまでだ」

 急に隣の倶利伽羅さんの声が鼓膜を刺激したので、思わず目を見開く。乱さんは満足気に頷き、わたしの作業着のポケットを指し示した。そして、わたしの手のひらに何やら指で文字を書き始めた。

『た ん ま つ』

 同僚をちらと見やると、視線で肯定された。言われるがまま自分の端末を取り出すと、同僚が近くにあった文机を引き寄せてくれたので、そのまま使わせてもらうことにする。

「何から話そっかなあ、この本丸の面白エピソードは山のようにあるんだけど」

 無邪気な笑みを浮かべた乱さんだったが、その瞳は至って真面目で、真意が読み解けない。
 細い指が伸びてきて、映像化したキーボードをそろそろと打ち始める。

「職員さん、大倶利伽羅君好きでしょ?」

 反射で頷くと、舌打ちが隣から聞こえてくる。申し訳ないがどうすることもできないので許していただくしかない。
 あと、大倶利伽羅「君」呼び、なかなか良いものである。

「うちの大倶利伽羅君、隠れて野良猫を拾ってきちゃったことがあって」
「えっ是非聞かせてください!」
「おい」

 むふ、としたり顔の乱さん、職員の扱いがあまりにも手馴れていて恐ろしい。同僚の嫌そうな声すら可愛らしく思えてくる。あと推しの話になると頗る悪い体調がどうでも良くなってすごい。

『言葉、制限されてるんだ。間違えたら折れちゃうけどごめんね』

 端末に表示された文字列との温度差で風邪を引きそうだ。
 御札を貼って尚、監視されている故に迂闊な発言が命取りになるということか。幸か不幸か、事例集で何度か見た覚えがある。

『これでも一度乱藤四郎を身代わりに折ってるから、マシな方だよ! 安心してね!』

 一体何処に安心できる要素があったのか。
 監視は、視覚に限った話ではない。強い呪術で行動そのものを制限しているとなると、こちらから色々と聞き出そうとするのは危険である。進行は乱さんにお任せするとして、わたしは適当な小芝居を続行する方が良いだろう。

「やっぱり大倶利伽羅ってどの個体ももふもふした生き物がお好きなんでしょうか」

 同僚の鋭い視線が頬の辺りに突き刺さるが、わたしは鈍感なので気にしない。この疑問は議会に出されても不思議ではない、重要案件なのである。

「うちの大倶利伽羅君はね、現世遠征のお供の時には必ず主さんを連れて猫カフェに行ってたよ」
「えっ慣れ合ってる尊い」
「おい」

 話を切り上げたい一方で、貴重な情報を得る時間を稼ぐのも重要だと分かっている倶利伽羅さんは、天秤を前にただ嫌そうな声を零して天を仰ぐばかりである。
 可哀想で可愛い、罪深いものだ。南無。

『この本丸の刀剣男士が折れたことがないって、嘘言ってごめんね』

 端末に打ち込まれる言葉達は、それはもう飛び切りの闇を纏っているのだが。

「主さんね、結構マメに写真撮る人なんだ。ちょっと見てよ」
『証拠写真混ぜていくね』
「待って待って待って」

 いきなり本題の予感である。慌てて倶利伽羅さんを見上げると、嫌そうな顔のまま別の端末を取り出してくれる。貴重な根拠資料を逃す訳にはいかないのだ。

「あった、これ! 猫ちゃん抱えてて可愛いでしょ?」

 猫を三匹も抱えた大倶利伽羅が、口角を一ピクセル上げている写真である。

「アッ楽園だ……」
「おい」

 やっべえ微笑みの爆弾である。この場合のわたしにとっては本題にも等しい価値を発揮する。社畜は灰になった。大倶利伽羅推しによる笑顔判定は大抵ガバガバであるが、本人が幸せなので放置していただいて問題ない。どーかお気になさらず。
 合掌してこのまま気を失って穏やかな夢でも見ていたいが、現実がそれを許さない。倶利伽羅さんの窶れた声を聞くと可哀想なのだが、視界に入り込んでくる推しの素晴らしい笑顔(当社比)には為す術もないのだ。
 自暴自棄になった同僚、心を閉ざして証拠写真を画面越しに撮影。

『一度負けたんだ』

 主語はない。本丸を指しているのだろう。時間遡行軍の襲撃か。
 思わず唾を飲み込んで乱さんの真ん丸の瞳を見ると、彼は軽やかに片手でタイピングをしながら、端末の写真をスライドさせている。一期一振が見たら失神する光景である。

「これも見てよ!」

 花が綻ぶような笑顔と真逆の、べっとりとした血糊に濡れた、本丸内部の写真であった。

「ここ、猫ちゃんがよく日向ぼっこしてた縁側なんだけど」

 乱さんの指し示す場所は、濁った赤色で覆われている上に、折れた刀が何振りか重なっている。

「ワア……」

 声が引き攣るのを許してほしい。可愛い推しと猫ちゃんの写真の直後に見るものではない。わたしがグッピーならとうの昔に旅立ってしまっているぞ。
 とんでもない爆撃を何とか飲み込み、画像を拡大して目を凝らす。折れているのは、すらりと長い刀身と、短刀だった。
 石切丸と、平野藤四郎だ。
 わたしの刀帳確認は間違っていなかったことが証明されてしまった。いっそ誤りであれば良かったものを。

「これも!」
「アアア」

 もっと酷い現場写真が出てくるかと身構えたら、大倶利伽羅氏の爆裂に良すぎる横顔と猫ちゃんのツーショットを拝んでしまい、ぶっちゃけ調査なんてしている場合ではない。デスクトップの背景に設定するからその写真ください。
 同僚のマリアナ海溝と張り合う深い溜め息を肩に浴び、少しだけ申し訳ない気持ちになる。少しだけ。
 そう言えば、倶利伽羅さんに背中を支えてもらってから、腹部の不快感と頭痛が一気に落ち着いたのだが、これはプラシーボ効果というか、推しの力なのだろうか。後で確認しよう。

「そうそう、主さんね、自分のことはなかなか撮らないからさあ……こないだ『全員で撮った』の」

 目の下の隈が印象深い男性を取り囲む刀剣男士と、あどけない笑みを浮かべた「女の子」が、全員仲良くピースサインをしている。
 うわっ大倶利伽羅氏もさり気なく下の方で手をチョキにしているではないか! この本丸やっぱりとんでもねえな!
 と、叫び出したい己は封印して、務めて冷静に「すごく良く撮れてますね」とだけ返したわたしは社会人としてちゃんと仕事をしているのだと胸を張っても良いだろうか。良いってことにしてほしい。
 さて、何故「全員」の写真に「見知らぬ女の子」が写っているのか。
 乱さんは目蓋を伏せ、わたしは引き攣りそうな頬を宥める。同僚の静かな呼吸音で何とか精神を落ち着けている始末である。
 細い指が、写真の中の女の子を指し示す。話題にして良いのだろうか、と己の口に指を当てると、首が縦に振られた。

「主さんの弟子だよ!」

 可愛いでしょう、と乱さんは声を更に和らげる。透き通るような白い肌、しっかりケアされているストレートの髪、笑窪と八重歯が印象的な十代の女の子である。女優さんみたいだなあ、と思わず零すと、乱さんがふふんと鼻を鳴らした。

「そりゃそうだよ」

 何ですと?
 あどけない笑みを浮かべている女の子だったが、その瞳の意志の強さは写真越しでも全く衰えない。

「ねえ、お化粧が得意なボクって、多分珍しくないよね?」

 まあ、それ程驚きはしないかもしれない。加州清光と乱藤四郎に駄目出しされて傷を負う女審神者は数多存在する。

「他の乱藤四郎よりも上手だと思わない?」

 確かに、成人女性であるこちらの肩身が狭くなるくらいに手際が良かった。睫毛肉挟み器の扱いも手馴れたもので、控えめに言ってもデパコスを売っているお姉さんの腕前に匹敵するのではと思ったくらいである。

「あのね、お互いをお化粧の練習台にしてたんだ」

 丸い青の瞳が瞬いて、こちらを射抜く。山姥切さんと同じ視線の刺し方だ、と思う。迷いのない、信じた道を真っ直ぐ突き抜けようとするような。

「その子は本丸から現世の学校に通ってたんだけどね、審神者適正の通知とモデルのスカウトを同時期に受けちゃって」

審神者適正が出たとなると、半強制で就任せざるを得なかったはずだ。まあ、拒否しても良いのだが、時の政府からの依頼文を読んで、半強制だと理解できる一般人の方が珍しいだろう。十代の女の子なら尚更だ。

「お芝居をする人になるのが夢でね。新しい本丸で審神者をしながら、雑誌のモデルの仕事をして、お芝居の勉強もしながら学校にも通ってたから、四足の草鞋状態かな。サポート体制が手厚くないと到底回らないよね。職員さんならどうする?」

 過労で死ぬと思います、と言うと、まあまあと乱さんに宥められた。十代の女の子の体力と比較する方が間違っているのだ。無難な答えを考えることにする。

「生活基盤が本丸にあるという前提なら、本丸運営の勝手に慣れている刀剣男士……元々お世話になっていた本丸の刀剣男士をサポート陣営に加えるのが、色々と手っ取り早いでしょうね」
「ね。という訳で、一番仲良しだった燭台切光忠が、サポート刃員として抜擢されました!」
「ものすごい安心感」
「そうだよねえ。女の子への気配りが自然にできて、料理も上手、生活能力抜群で、おまけにめちゃくちゃ格好良いもんね」

 写真の中、女の子の横に立っている燭台切光忠は、少し面映ゆい顔をしている。
 一振り目かなあ。

「自分の本丸を持ってからも、よく遊びに来てくれてたなあ。新作のコスメを職場のメイクさんに貰ったーって、自慢してくるんだよ?」

 狡いよねえ、と笑う乱さんの眦には、寂寥の色が混ざっている。

『正式な手続きを踏んでいないから、どこまで政府に把握されているのか分からなかったんだけど、その様子だと感知できてないってことだよね』

 のほほんとぬるま湯に足を浸した途端、冷水を顔面にぶっかけられた心地である。
 刀剣男士の不正譲渡は罰則規定に引っ掛かる。通常、見逃されることはない。

「あとね、審神者のお兄さんがいたんだけど、『なかなか会えない人』だったんだよねえ。山姥切君が文字通り兄の代わりをしてたから、寂しいのは紛れてたのかもしれないけどね」

 乱さんの手が頬に伸びてくる。

「あの子のお化粧にはね、おまじないをかけてあるんだ。守りたくなるように、ね。悪い虫は遠ざけなくちゃ」
『山姥切君、急に近くなってビックリしたでしょ? ボクのおまじない、効果強すぎたみたい。ごめんね』

 おまじない、という響きだけでもうお腹いっぱいである。勘弁してほしい。無理。

「同じ漢字を当てて、『のろい』とも読めますよね」
「やだな職員さん、女の子にそんな物騒なことしないよ!」
『大当たり!』

 全く嬉しくない当たりである。
 今日になって山姥切さんの距離感がバグった原因がきちんと明確になったのは喜ばしいが、己に呪術の類を仕掛けられていたと知って両手を挙げて笑えるだろうか。大変厳しい。
 庇護対象として認識をねじ曲げる化粧なんて流行したらおしまいである。禁術認定が必要となってくるので、この一件が落ち着いたら乱さんには協力をお願いしないといけなくなってしまった。悲しいことである。
 隣の同僚を見やると、大凡わたしと考えは同じだったらしく、倶利伽羅さんは、すいすいと片手でフリック操作をしながら、自分の端末で企画業務課の石切丸総括あてのメール文面を作り始めている。相変わらず仕事の速いひとである。
 ……そうか、そういやこの手があった。

「すみません、ちょっとメール確認しますね」
「上司さんから?」
「はい。無事に通信が繋がったので」

 とか言いながら、端末に文字を打ち込み、乱さんを手招きする。見て良いの、と顔に書いてあるので力強く頷く。
 呪術によって発言が制限されているのなら、他の手段を試すまでである。

『「はい」なら髪を触る、「いいえ」なら手遊びを』

 端末を覗き込んで目を丸くした乱さんは、すぐに金色の毛先を少し摘んだ。順応性が高くて大変に助かる。

『お弟子さんの本丸は襲撃を受けましたか』

 そのまま毛先を指に巻き付ける仕草が加えられる。

『山姥切国広には、別ののろいが掛けられている』

 はい。
 うわ、やっぱりなあ。乱さんの「おまじない」は、わたしを「お弟子さん」に誤認させるものだろう。気になるのは、山姥切さんの「この本丸の刀剣男士に対しての認識」だ。
 コミュニケーションが省エネモードの塩対応ばかりの刀剣男士を目の当たりにしても、山姥切さんは彼らの状態についてわたしに説明しなかった。初期刀であるなら、何らかのフォローがあって然るべきである。
 恐らく山姥切さんは、何らかの方法でこの本丸の刀剣男士達への認識も歪められている。彼の目には、普段と変わらぬ表情の本丸の仲間の姿が見えていたと考えて良いだろう。

『お弟子さんのお兄さんは、この本丸の審神者さんと面識があって、割と近い人』

 これは事例集を読み漁った職員の勘に過ぎないが、最後の演練で対戦した現世のラボの同期のことである。
 乱さんは髪を三つ編みにし始めた。可愛い仕草と裏腹に、こちらは再び胃が痛む。今後は胃薬をピルケースに入れて持ち歩こう。そうしよう。

『この本丸の燭台切光忠は、譲渡後に顕現した二振り目』
「職員さん、すごいねえ」

 はっとして、乱さんは三つ編みを継続しながら「文字を打つのはやーい」と褒めてくれる。思わず声に出してしまったのを自分で何とかする姿勢は、わたしも見習わないといけない。
 もしかして。

『この本丸は、お弟子さんの?』

 思わず乱さんが口を開きかけて、慌てて自分の手で押さえていた。そのまま前髪を指先で流す仕草をして見せる。
 ビンゴ。
 そうなると、今まで確認した刀帳や日誌等の情報は、本来の審神者さんのものと、お弟子さんのものが混合してしまっている可能性が出てくる。精査するにも時間が足りない。
 そもそも、この本丸で出会った刀剣男士達がどちらの本丸に属しているのか、現時点では確証が持てない。
 同僚は自分の端末での作業が終わったのか、わたしの端末に並んだ文章にさくっと目を通して、何度目か分からない溜め息を作業着に落としてくる。
 状況は刻一刻と悪化している。

「……乱藤四郎」

 百億年振りに倶利伽羅さんが喋った。

「なあに?」
『顕現は解くな』

 彼の端末には、簡潔な文字列が並んでいる。乱さんは毛先を指先にくるくる巻き付けて、視線を逸らした。呪術のリスクがありながら、こうして情報提供してくれているのは、文字通り命懸けの所業だろう。折れる前に自分から顕現を解いてしまえば、最悪の状況は免れると考えたのかもしれないが、以外とこれは悪手なのだ。
 端末を見せて満足した倶利伽羅さんは、特にそれ以上言葉を発する様子はない。

「無言の圧力こわーい。ボクお喋りし過ぎちゃった?」
「いえ、とんでもないです。後で写真送ってくださいね、職場の端末の壁紙にするので」
「おっけー」
「…………」

 わたしが本気で言っていることは、乱さんだけでなく倶利伽羅さんにも伝わってしまったが、これは重要な取引なので譲歩する訳にはいかないのである。これくらい許して。

「……そろそろ『部屋を出る』か」

 倶利伽羅さんの合図に、乱さんはしっかりと頷いてから正座していた足を組み直して、わたしの顔をまじまじと見てくる。

「ねえ、そう言えば職員さんの顔色、戻ってきたね」
「え、そうですか?」

 やはり倶利伽羅さんとの接触による体調の改善は、プラシーボ効果ではないのか。乱さんが部屋に入ってきた当初を思うと、身体の違和感は随分とマシである。

「手とか、ずっと握っててもらえば?」
「いや死んでしまいます」

 恐ろしい提案をする乱さんである。そんなことをされたら心不全であの世へ快速急行である。即答したわたしが気に食わなかったのか、乱さんは唇を尖らせた。
 同僚の手が、わたしの作業着の袖を摘まみ上げる。されるがままになっていると、手首を握られて手のひらを上に向けさせられる。手相でも見るのだろうか、と的外れなことを考えていると、倶利伽羅さんがいつも首に提げている梵字の彫られたペンダントが手のひらに落とされた。
 少しぬくもったプレート部分が、生々しい。

「持っていろ」
「ちょ、困ります!」

 恐れ多くて突き返そうにも、ペンダントを握り込んでしまうのすら躊躇われて、わたしは間抜けに手のひらを開いたまま右往左往するしかなかった。乱さんが口許に手を当てて傍で震えている。いやもういっそ笑ってくださって構いませんよ。

「あんたの死亡届を作成する手間と比べた」

 パニックに陥る職員を宥めるべく、きちんと言い訳も用意してくれている倶利伽羅さんである。わたしの扱いが本当に上手になったなあと思う。

「……では今回の対応の間だけお借りします」

 めちゃくちゃ恐れ多いけど。作業着のポケットに入れようとすると、あんた馬鹿か、という声が降ってきて、職員証の首紐に絡まないように注意しながら、首に掛けてくださった挙句、ペンダントはトップスの中に入れ込まれる。

「えっあっ」
「効率が良い方法を選んだ」
「そうですか」

 混乱の極みの中、呆けた返事をしたわたしに、遂に乱さんが吹き出した。

「職員さんも意外に朴念仁なんだね!」

 笑顔で暴言を吐かれた。一マス休み。

十二進法の遠景|12

200502
prevnext