血の滲むような夕焼けが、網膜にじりじりと焼き付くようだった。肌にべたべた纏わり付く湿気が不愉快で、額に滲んできた汗を手の甲で拭う。むわりとした気温のせいで、己の呼気すら鬱陶しい。思わず眉間に皺が寄った。
何処からか、踏切の音が聞こえてくる。線路の上を車両が滑る振動を鼓膜が拾った。祖父母の家で聞き慣れた、鈍行電車の緩やかな速度。
なのに、視界に広がっているのは日暮れの色だけで、周囲を見渡せども踏切らしき姿形は見当たらず、加えて具体的に像を結んだものもない。言葉どおり、何もない。
そう、「わたし」以外は。
見えない電車がガタゴトと規則的な音を立てて、少しずつ遠ざかっていく。斜陽はどんどん赤の深みを増し、わたしの呼吸は比例して浅くなっていった。
漠然と嫌な感じが胃を駆け巡っている。逃げ出したいような、蹲って過ぎるのを待ちたいような、見てはいけないような、探さなければならないような。
『まってよお!』
『やーだ!』
突然、紛れて子どものきゃらきゃらとした笑い声が上がり、肩が勝手に跳ねた。ぱたぱたと走り回る軽い足音が続く。
しかし、どれだけ首を回しても、その姿を捉えることはできなかった。顎を伝った汗が気持ち悪い。急に視力が悪化したとか、疲労困憊による幻覚であるとか色々と言い訳を探してみるも、どれも非現実的で頬が引き攣るばかりだ。
『おにいちゃん! まってってばあ!』
『早く早く!』
舌足らずな女児の声、もう一つの笑い声もまだソプラノの域だ。幼い兄妹が鬼ごっこをしているのだろう。元気で何よりだ。わたしは全く元気ではない。早く帰って布団に入って惰眠を貪りたい。一刻も早く。
『約束、おぼえてるか?』
『うん! ひゃくねんご! やくそく!』
兄の投げ掛けに、妹が無邪気に返す。
『ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます!』
鈴の転がるような声なのに、聞いているだけで何故だか背筋が薄ら寒い。姿が見えないから、脳が余計な想像力を働かせているのだ。今、そんなところに容量を割く余裕はないのに、と己に悪態を吐く。
何で余裕ないんだっけ?
『ゆびきった!』
幼子の約束を鼓膜だけで見届けると、何もなかったはずの地面に、音もなくじわじわと地中から浮き出るようにして線路が生えてくるのが目に入った。次いでその周囲に沿ってエノコログサが伸びてきて、何処からか吹いてくる風に緑の穂を揺らしている。
線路は古い鉄の色をしていた。エノコログサの向こうには田植えから暫く経った田圃と、少し古びた住宅街が広がっている。随分と見覚えがあった。
地元の中学校への通学路だ。自転車に乗って爆速で駆け抜けた、あの頃の姿がそのままに目の前にある。
頭上を烏が旋回しているのか、歪な鳴き声が何度も響き渡っている。目の前をシオカラトンボが横切り、何処かの家で秋刀魚が焼かれる香ばしいにおいが鼻腔に触れた。
次いでアスファルトにボールが跳ね返る音が、規則正しく響いていた。何処かでドッジボールに励む子ども達がいるのだろう、賑やかな気配を感じる。
米神を流れた汗をまた手の甲で拭う。
───何かを忘れている。
『もーいーかーい』
幼い兄妹達の遊びは、達磨さんが転んだに移行したらしい。後ろの方で『まあだだよー』女児のきゃらきゃら笑う声がする。
風に煽られて、プリーツスカートの裾が膝裏を掠め、胸元のスカーフがはためいている。
帰りたいなあ、でも、帰れないの知ってるよ。
「は?」
脳裏に流れた言葉の並びは、わたしが意図したものではない。
『もーいーかーい』
三十を数え終えた兄が、問う。
『まあだだよー』
妹の声は少し遠くなった。きちんと隠れられたのだろうか。誰にも見付からないように。
『おねえちゃん、かえれないの?』
急に耳の横に囁きが落とされ、叫び出さなかったのは奇跡である。
振り返ってはいけない。ど、ど、と鼓動を打ち鳴らす心臓が飛び出ないように、からからに乾いた唇を噛み締めて、悠然と視界を飛び回るシオカラトンボを眺めて、嫌な想像ばかりを繰り返す脳を宥める。
わたしはぐらつく足許に気が付いた。真っ赤な太陽光に焼かれた地面は炭の色を纏い、いつの間にか右足で踏み締めている箇所に亀裂が走っている。
不思議に思って足をずらすと、己の意思に反してがくんと膝が折れた。
『おねえちゃん、いっしょにかえる?』
今度は逆側の耳に囁き声が流れ込んでくる。返事なんてできるわけがない。
身体が焦っている。逃げ出したい。一刻も早く。
視界はゆっくり傾いて、こんなに夏の色をした夕焼けの中にいるのに、自分の口から漏れ出た二酸化炭素が白く煙るのが見えた。
途端、背筋を刺すような冷たさを浴び、碌な抵抗もできず、わたしの身体は地面に吸い込まれるように落ちていく。
あ、もう駄目なのか。
投遣りに思って目蓋を落としたところで、後ろから誰かに強く腕を引かれた。もげるかもしれないと錯覚するくらい、骨張った指が二の腕の肉に食い込んで不愉快だ。
兎に角眠たかった。転びかけた身体を自由にする気力もなく、ただ重力に従う。
かえりたい。
『行くな!』
焦燥を滲ませた声音に、「目蓋が開いた」。
「起きたかい? お寝坊さん」
何を言われたのかすぐに理解できず、ただ呆然と正面を見る。上下に揺れる視界に加えて、鼻腔の奥までべたりと主張する鉄のにおいが、余計に頭をくらくらとさせた。
一面の血を浴びたような夕焼けは姿を消し、辺りはぼんやりとした白っぽい灯りがぽつぽつと浮かんでいるだけの宵闇に切り替わっている。
どうやら誰かに俵担ぎにされているらしく、一歩一歩踏み締めるごとに、わたしを担ぎ上げている人物の肩の鋭利な骨が腹に食い込んで呻きそうになる。
「俺が分かるか?」
語尾に滲んだ明るさと聞き慣れた声に、返すべき文言は一つしかない。
「……名乗っていただかないことには、何とも」
「よし、合格だ」
顔は見えないが、兎に角楽しそうな声色である。
抵抗しようにも大事な書類や仕事道具の入った、尚且つ乱さんに借りたトートバッグを手放す訳にはいかず、ただなすがまま社会の波に揉まれるように、抵抗虚しく鶴丸国永(仮)にどんぶらこっこと運ばれる社畜である。
さっきまで足を踏み入れていた本丸の景色は遥か遠くに過ぎ、同僚の倶利伽羅さんの姿はとうに見えなくなっていた。絶望の味を噛み締めることには慣れているが、いよいよ今回ばかりは自分のいのちの終わりが近いと感じられる。
どうしたものか、と働かない脳を左右に振る。ひとまず現状把握に努めるしかあるまい。
「あの、」
彼の肩の骨がこちらの内臓を押し込んでくるのを我慢しながら、義務感の下で口を開く。途端、おいおい、と呆れたような声が鼓膜に触れた。
「危ないからあんまり喋るんじゃない、舌を噛み切りたくはないだろ? まあ、さっきは俺が話し掛けてしまったんだが……」
颯爽と謎の空間を移動する鶴丸国永(仮)に俵担ぎをされているせいで、こちらから彼の表情を窺うことはできない。ただ見えるのは、地面を蹴り付けて進む黒のぽっくり下駄と、男性にしては細い足ばかりである。
ずっと下を向いていると頭に血が上りそうなので、何とか腹筋を使って顔を上げる。彼の骨張った肩が更に肋骨に食い込んで呻き声が出た。
「そう暴れるな、落とすような真似はしないぜ」
彼は憐れな社畜の細やかな抵抗をくすりと笑って、幼子をあやすみたいにわたしの尻をぺんぺんと叩いた。平安じじい、やめたまへ。審神者さんの教育方針が疑われるぞ。
顔を僅かに横に向けて、頭に血が上らないように努めながら、他の部位は脱力しておく。細い腕ながら、非力な社畜を押さえ込むには十分過ぎる程だ。振り落とされることはないだろう。多分。
「そうそう、じっとしてな。今の君にできることは何もないんだし」
確かに、ただの人間が刀剣男士に力勝負で敵うはずはない。実に正しいことを言われて、わたしは従順に口を引き結ぶしかなかった。
暗闇がどこまで続いているのか、皆目検討もつかない。純粋な恐怖が胃に巣食っているのを実感しながらも、逃げる術もない。米神を流れ落ちる冷や汗をどうすることもできず、ただトートバッグの紐を握り締める。
男が喉の奥で笑ったのが聞こえたが、非力な社畜は同僚の呆れ顔でも脳裏に浮かべて現実逃避をするぐらいしかやることがない。
「……流石に飛び込むのに、この姿勢は危ないか」
何やら不穏な呟きだと思った瞬間、「よっ」軽やかな声と共に、わたしの身体は宙に放り投げられていた。物理の教科書に掲載されているような投げ上げ運動だ。最早悲鳴を上げる余裕もない。
何故に人間をお手玉にするのか?
咄嗟にトートバッグを強く握り締めてかたく目を閉じ、内臓の浮遊感による気持ち悪さを堪えて、ただ息を呑む。今リバースしてしまえば自分自身がゲロ塗れである。堪えるしかない。
次に目蓋を押し上げれば、倶利伽羅さんと同じ金色の目が静かにこちらを見下ろしていた。にこやかなのは口許だけで、その冷ややかな黄金色にまた背筋が震える。
まだ死にたくない、と咄嗟に思った。
「仕方ないから前に抱えてやろうな」
一体何が仕方ないのか。命を粗末にしたくないので言われるがまま、彼の肩に手を回す。首に巻き付いている金の鎖が手首を擦り、その冷たさに息を呑めば、彼は喉を鳴らして肩を震わせた。
それでもその目元に温度が宿る様子はないので、安心できる要素は逃避行の最中である。パンプスが脱げなかった奇跡だけを喜んでおく。
薄っぺらくて大きな手がわたしの背を抱き込んで、鉄のにおいが一段と強くなる。彼自身が血に濡れているようには見えないが、着物で隠れている部分に怪我を負っているのかもしれない。平然とした顔をしているが中傷、ひょっとすると重傷の可能性もある。
走っても走っても息が上がらないところは流石だナア。わたしは引き攣る頬を宥めて、血のにおいでむず痒い鼻を指で擦って周囲を目だけで見渡した。
少しだけ冷静になった頭が、先程から続いているぼやぼやとした灯りの正体をきちんと捉え始める。蛍だった。
「こっちの気も知らんで、綺麗なもんだ」
ふ、と吐息を零した彼の表情は窺い知れない。
幼少期、柴犬の散歩をしながら用水路で蛍を捕まえてくれた祖父を思い出す。一升瓶に閉じ込められた蛍の、限られた美しい光をぼんやり眺めていた幼い自分、不思議なことにそのまるい後頭部が見えた。
いやいや、幻覚である。わたしはぎゅっと目蓋を落として、今は不要な景色を塗り潰した。こんな時に見えないはずのものを見るなんてとんでもない。地獄の幕開けじゃあるまいし。
己を嘲笑っていると、顔の近くまで蛍が飛んでくる。図体からして平家蛍だろう。ちかちかと淡く光るそれは、こちらの鼻先まで距離を詰めてから、ふわふわと後方へ流れていった。
「あれが見えるか」
静かに落ちてきた言葉と共に、男の足も緩やかに止まった。
顎をしゃくって見せた彼の視線の先には、薄らと蛍の光を浴びて、僅かに揺れる水面があった。これだけなら幻想的な風景ですねと返すだけで良さそうだが、理想と現実には絶望的な距離があると知っている。
「君、『池に落ちた』だろう? あそこに戻るだけさ」
ほらみろ、何一つ安心できない言葉を聞いてしまった。
覚悟も決まらぬまま、抗議の声を上げることも叶わぬまま、鶴丸国永(仮)が助走を始めてしまう。頬を風が撫でる。容赦なく。
いやいやいや。お待ちになって。
「行くぜ!」
諦めることが得意なわたしでも、流石に辛い。無意味だと分かっていても泣いても良いだろうか。