本丸で聞いた倶利伽羅さんの証言は正しかったのだなあとぼんやり思いながら、わたしを抱えた鶴丸国永(仮)が「池の手前の地面」に向かって飛び込んでいく。地面に身体をぶつける衝撃の代わりにまたしても不愉快な浮遊感を浴び、内臓はもうぐちゃぐちゃである。
 そうしてふたり、仲良く謎空間に到着したのであった。半泣きのわたしが鼻を啜ってみせると、男は快活に笑った。なんて奴だ。ひとの心がない。神さまなので仕方ないかもしれないが。
 本丸の夕闇を過ぎ、蛍の漂う暗闇の空間を走り抜けて辿り着いた先は、爽やかな青で塗り潰した空が広がっている。
 どうやら此処は朝らしい。また時空が歪んでいる。最早驚く元気もない。
 水分を含んだ冷たい空気に、足が少し震える。目の前にはゴロゴロとした大きな岩や石が転がり、川の水が絶えず流れていた。周囲にはツワブキのような艶のある大きな葉の植物や、ゼンマイの新芽が見える。
 池に飛び込んだと思ったら、選ばれたのは渓流でした。
 思考がまともである自覚はない。もう何が起こっても怒らないし受け止める気概を示すので、とりあえず生きて帰りたい。あたたかいご飯とお風呂とお布団をください。強欲ではない。基本的人権の主張である。

「可哀想になあ。首を突っ込まなければ、怯えることもなかったろうに」

 誰が趣味でこんなことに首を突っ込むと言うのか。声を荒げても徒労に終わると知っているので、死んだ魚の目で沈黙する。
 他人ごとを言う男は、わたしの足を地面にそっと下ろしたかと思うと、白い着物の袖から細い縄を取り出した。
 急展開には慣れているが、絞首刑は予想外である。
 嗚呼、色んなもの垂れ流しになるなあ。そのまま川に投げ捨てられてしまえば、環境汚染に一役買ってしまう。新入職員の頃に配属された河川管理課にめちゃくちゃ怒られるな、と得意の現実逃避を披露するも、事態が好転するはずもない。
 逃げられるか? 何処に? どうやって? ぐるりと回る思考は迷子で、結局のところ定型文を吐き出すに終わると知っている。無理だ。

「……仕事ですので」

 捻り出た声は震えなかったが、これが最後の言葉になってしまうのは如何なものか。

「君は死にたがりなのかい?」
「まさか」

 干涸らびた声に、彼は未知の生物でも見るような目をして首を傾げてみせた。社畜は死にたがっている訳ではない。死にたがる人間なんて珍しくもなんともないだろうが、生憎わたしは該当しない。

「まあ歴史上は死んでいるようなものなんですけど。まだ完全に死にたくはないですね」
「正直で結構」

 抵抗する元気は使い果たした。鶴丸国永は返答に満足したのか、初めてひとの良い笑みを口許だけでなく目にも浮かべ、トートバッグを肩に引っ掛けたままのわたしの両腕を順序良く縛り上げる。手付きが慣れすぎていて草も生えない。
 いやしかし、首絞めではないのか。生き長らえたっぽいぞ。やったね。希望に満ち溢れてきたので、わたしは健気に愛想笑いを撒き散らすことにする。死にたくないアピールである。
 鶴丸国永は長く白い睫毛をばさばさと瞬かせて、わたしの額を親指で撫で上げた。冷たい指だった。

「それにしても君、随分簡単に信用してくれるんだなあ」

 ひゅっと喉が鳴った。
 この鶴丸国永が、ね本丸の刀剣男士である証拠などない。当たり前である。
 土壇場の状況下で混乱していて大人しく誘拐されてしまったわたしに、今更逃げ道を作る精神力は残っていないが、今の言葉で冷静さを幾分か取り戻すことに成功する。

「そうそう、疑ってくれている方が安心できる」

 喉の奥でくつくつと笑う男は、怪我をしない力加減の縄で拘束されたわたしの両手首を掴んで、先程の速度からは考えられないくらいゆったりと歩を進め始めた。
 ごろごろとした石の間、少しぬかるんだ地面にパンプスのヒールが柔く沈む。朝の水分で肌がしっとりしてきたのに反して、緊張で乾いた唇を僅かに噛む。
 ね本丸で得た情報とどう照らし合わせれば、と脳味噌をぐるぐるしていると、突然彼が吹き出した。

「すまんすまん、からかいすぎた。大和国本丸識別番号ね四七一三四六五九所属、鶴丸国永だ。全てを信用しろとは言わんが、とりあえず今のところ君を殺す予定はない。ちょっとは安心してくれて良いぜ」

 本当にちょっとしか安心できない。
 破顔した鶴丸国永は、不安と絶望で丸まったわたしの背中を撫で、ひっひっふー等と巫山戯た呼吸法を押し付けてくるので、わたしも漸く引き攣っていた頬を緩めた。
 肩に担がれていた時は、この鶴丸国永は落とし穴を掘らないタイプかなと思っていたが、何のことはない、立派に猫を被っていた訳だ。突然の思い付きで実験を始めてしまう審神者さんと仲良しだったと、山姥切さんも証言していたし。
 ───いや、わたしを冷静にさせることが、今後の展開に必要不可欠だったのだろう。そのための猿芝居だ。わたしが意識を取り戻しても、再び気絶させなかったのだから。

「では、程良く疑いながらお世話になります」
「良いぜ。それじゃあ今後の旅路が無事であるように、付喪神の端くれから加護をやろうな」
「えっ高く付きそうなので遠慮します」

 懸命に首を横に振る。まだ人間を辞める訳にはいかんのだ。
 抵抗虚しく、彼は青ざめたわたしの米神の冷や汗を指で拭い、うりうりと揉みほぐしてくる。ちょっと気持ちいいのがまた狡い。

「そう言うな、悪いようにはしないさ。君の腹の中にいる何かをそのままにしておきたいのなら話は別だが」

 今度は人差し指でわたしの腹を突いた鶴丸国永は、小学生男子のような無邪気な笑顔を貼り付けていた。先程から彼にはセクハラだの何だの言おうがまるで通じないのがよく分かる。
 だが、上手い話には必ず裏があるものだ。真っ向から信頼を寄せるには、まだまだ情報が足りないのである。腹の中の怪異までお見通しとなれば、やはり言葉を鵜呑みにすることはできない。
 怪異は恐らく丸呑みしているくせに、とか言ってはいけない。社畜とのお約束である。

「……対価は何ですか」

 思わず立ち止まってその細い首筋なんかに視線をやるも、やんわりと背中を押されて散歩は再開となった。ごういんぐまいうぇいじじいであった。

「流石は時の政府職員殿、しっかりしているじゃないか」
「茶化さないでください」

 何も考えずに取引しようものなら一瞬であの世行きである。事例集は時に命綱の役割を果たすのだ。
 彼は口笛でも吹きそうなくらいに上機嫌な様子だが、いつまでもご機嫌でいてくれる保証はない。つまりわたしの生命が存続される可能性が消え失せることも視野に入れておかねばならないのである。
 胃薬が恋しい。己の迂闊さを呪う。サードエフェクトで未来予知能力を付けてほしい。
 んー、と縄の端っこを指先で弄りながら、鶴丸国永は対価を考えている。えっ、本当に何も考えていなかったならそのまま口車に乗ったのに。

「そうだなあ……この一件が終わったら、俺を政府に引き抜いてくれ」

 わあ、真剣ゼミで習った奴だあ。

「本丸はどうせ解体処分になるだろうが、俺はまだ刃生に未練たっぷりだ。それで、政府職員は厄介ごとに巻き込まれるものだろう? 骨の折れそうな戦場でこそ、心躍る驚きが待ち受けている!」

 な、良いだろう、とあざとくウインクを投げてくる鶴丸国永だが、発言内容は物騒そのものである。ソウデスネなんて素直に頷けばこちらの寿命がドンドコ縮まり、仕事が増えるだけだ。もうこれ以上残業の要因を増やしたくない。

「……政府所属の鶴丸国永は、半数が解体本丸からの引き抜きなので、もう枠がないと思います」

 渋々返せば、彼は琥珀色の瞳をまあるくした。

「何だ、真面目に考えてくれるんだな!」
「…………」

 冗談ならもっと分かりやすく言っていただきたいものである。
 少しいじけながら、ぽてぽてよろよろと彼に導かれるままに川辺りを歩く。今回の業務が終わったら絶対にスニーカーを買おう。ヒールで冒険するものではない。足の裏へのダメージの蓄積を考えると憂鬱でしかない。
 温泉行きたいよう。遠くからで良いから倶利伽羅さんの着流し姿を拝みたいよう。えんえん。

「さて、君が呑まされたモノを教えてやろう」

 社畜の嘆きを華麗に流した鶴丸国永である。彼は不意にしゃがみ込んだかと思うと、川の中に躊躇うことなく腕を突っ込み始めた。予想外の動作に職員はただ見守ることしかできない。
 暫くして水中から引き上げられたその手には、数珠繋ぎになった細長い袋状の何かがあった。少し白濁した色合いの袋の中には、わたしの手のひらにギリギリ乗るくらいの大きさで、淡い黄色をした卵がぬめぬめと光っている。
 いや無理。そんな得体の知れない卵を呑まされたのか? 絶対腹の中で孵化しているに一票。わたしは死んだ。助けて伽羅えもーん。
 同僚の絶対零度の眼差しでも浴びなければ、正気が戻ってくる気配もない。脳内補完の倶利伽羅さんの長く深い溜め息だけでは少し足りない。

「そう怯えなさんな、孵化して暫くはどうってことないぜ」

 またしてもばちこんとウインクを噛ましてくる鶴丸国永であった。無駄撃ちである。
 孵化して暫くとか言うな、腹の中がぞわぞわして一歩も動けなくなったらどうしてくれる。と、吠えたいが体力の温存が最も重要であるので、大袈裟に逆らう素振りは封印して、干涸らびた声で返事をする。

「何でそう言い切れるんですか」
「こいつは人間の霊力を吸って成長するんだ」

 心当たりはあるんじゃないか、と聞かれて、視線は地面に落っこちた。
 霊力の不足は体調不良に直結する。つまりそういうことである。ね本丸を来訪してからのわたしの体調は、崖を転がり落ちるようなものだった。胃痛は平常なのが大変に悲しいが。

「ま、伽羅坊にかなり助けられているみたいだな」

 今度は胸元を指で押され、衝撃に軽く呻き声を上げた。倶利伽羅さんからお借りしたネックレスのプレート部分をピンポイントで押す技術力よ。
 どういう理屈か分からないが、きちんと役に立っているようだ。大変有り難いことである。

「……鶴丸国永さん、政府職員になりたいなら無闇に人の体を触っちゃいけません。下手すれば処分されますよ」
「ああ、せくはらという奴か。善処する」

 至極どうでも良さそうにとりあえず返事し、彼は川の中にそっと卵達を戻している。怪異の割に扱いが丁寧だ。

「怪異だからこそ丁重にせんとな。ま、こいつ単体では、特別害はない。いつだって厄介な状況にするのは人間の方だ」
「成る程……」

 水に濡れた手をぱっぱと払って木の根っこに腰を預けた鶴丸さんは、手を縛られたまま間抜けに仁王立ちするわたしを見上げ、儚げに笑った。
 儚げ詐欺である。視覚から騙す手段が人間に大変有効であることをよおく知っているのだ。
 こういう顔をわざとする時の鶴丸国永には、悪い予感しかしない。

「しかし怒らないで聞いてほしいんだが、君にこれを呑ませたのは俺なんだよなあ」
「な」

 元凶に自白されて狼狽える。いや、何となくそんな気はしていたのだが、面と向かって言われるとは思わなかった。
 ある条件下で行動が制限される。命令に逆らえずに申し訳ないことをした、と淡々と言ってのけるので、罵るタイミングを逃した。練度上限の刀剣男士でもどうにもならないのなら、ただの人間であるわたしには当然どうすることもできない。漏れ出た吐息は悲しみの一色である。

「これ、何とかならないかなあ……」

 自分の腹に視線を落としながら、思わず本音を零してしまう。原因を作り出した本刃なら、きちんと最後まで面倒を見てほしいものである。
 鶴丸さんは小首を傾げた。

「腹を斬ってほしいのかい?」
「すみません遠慮しますごめんなさい」

 自ら致死率を引き上げるつもりは毛頭ない。腹を斬られたら普通の人間であるわたしは、それだけで速効お陀仏である。
 肩からずり下がってきたトートバッグの持ち手に、鶴丸さんの手が伸びてくる。片手で正しい位置に戻してくださった後、彼は顔に似合わない「よっこいせ」掛け声と共にゆっくりと立ち上がった。休憩は終わりのようだ。

「じゃ、そろそろ案内してやろうか」

 今更、何処へ導かれるというのだろう。連続する悪い予感は、滅法当たるものである。
 子どものように無邪気な目をした鶴丸国永を、心から信用できれば良かったのになあと思う。そんな時期がわたしもありました。

「諸悪の根源」

十二進法の遠景|16

201101
prevnext